かなり以前ですが、「古田史学の会」のホームページに掲載された「古賀氏」のブログに、 「藤原京」遺跡から発見された木簡として「倭国」という文字が書かれたものがあることについて書かれていたものがありました。(以下全ての木簡史料は「奈文研木簡データベース」によります)
今回はそれに関連したことを書きます。
「■妻倭国所布評大野里」(藤原宮跡北辺地区より出土)
これがその問題の「木簡」です。ここに書かれている地域については「大和国添下郡大野郷」であろうと比定されているようです。(「奈文研」の解釈による)
また、ここに書かれた木簡には「国」「評」「里」が揃っていますから、「評木簡」の中でも後期のものであると考えられます。「七〇一年」以降には「評」は「郡」に変更となったものとされていますし、また「六九〇年」以前には「里」は「五十戸」と書かれていたらしいことが推察されているためです。
このことから「七〇一年以前」に「近畿」に「倭国」があったこととなると云うような解釈も考えられることとなったわけです。
ところで、この木簡が発見された同じ場所(藤原宮跡北辺地区)からは他にも三十三例の木簡出土が確認できますが、いずれも「荷札木簡」とされています。つまり、遠方の国から運ばれて来た物資につけられた「荷札」としての機能があったものです。それらは「隠岐国」「尾張国」「下毛野国」「吉備中国」「三川国」「周防国」ないしは「大隅国」「遠江国」「丹波国」「播磨国」「若狭国」などであり、いわゆる「畿外」からのものです。(国名等が明記されておらず不明なものもありますがそれも「隠岐国」ではないかと推定されています)
また、これらの木簡が同一の地域から出土したと言う事は、それらの木簡が「同種」のものであり、また「同時期」に廃棄されたものということが考えられます。
そう考えると「畿外」からの「荷札木簡」と「畿内」からのものが同居しているという不自然さがあるようにも思われます。
ただし、他の木簡を見てみると、「軍布」(ワカメ)、「伊加」(イカ)、「大贄」(内容不明)などのいわゆる「調」を輸送したものと推定されます。このことはこの「藤原宮跡北辺」から出土した木簡群全体が「調」に付されたものという理解が可能と思われますが、後の「養老令」などでは「畿内」に対しても、「低減」(半減)などの措置はあったものの、基本的には「調」が全く免除されていたわけではありませんから、この廃棄された荷札木簡の中に「畿内」からの「調」に付されていた木簡があったとしても不思議ではないこととなります。ただし、この「倭国木簡」が「畿内」からの「調」に関連するのかそれとも「畿外木簡」なのかというのは微妙な問題です。
ここで考え方としては二つあると思われます。一つはこの木簡が書かれた時期(六九〇年以降)は「近畿」に「倭国」があったとするものであり、それは即座に「畿内」も「近畿」にあったことを意味するものでもあります。つまり、ここで見られる「『調』木簡」はその「近畿」の「倭国」に設定された「畿内」からの「調」であるとするものです。
それに対し別の考え方はこの時期には「近畿」に「畿内」があったという点は共通していますが、「倭国」は「筑紫」のままであったとするものです。そしてこの「『調』木簡」は「畿外」からとしての「倭国」からのものであったとするものです。この場合「畿内」には「日本国」があったと考える訳であり、「倭国」はこの時期「筑紫」の一地方名として矮小化されていたとするわけです。このように考えても「倭国」から「調」に関連していると考えられる木簡が発見されても不思議ではないこととなるでしょう。これによれば他の「遠隔地」からの木簡と一緒に出土としている理由も納得のいくものとなります。
ところで、私見によれば「評制」は「諸国」に適用されていたものであり、「倭国王権」の直轄地である「筑紫」の周辺(これが元の「畿内」と思われる)には施行されていなかったものと見られます。
「筑紫」は「都督」が「倭国王」に代わって「直轄」していたと考えられ、そうであれば「評制」は施行されていなかったと考えるよりないと思われます。また、それは即座に「筑紫」には「評督」がいなかったであろう事を示します。「評制」がないとすると「評督」が存在しないのは当然です。そう考えるとここで「倭国」に「評制」が施行されているということが、この「倭国」の位置を示していると思われます。つまり「倭国」の地域が「諸国」の一つであり「畿外」であるということを表すものではないでしょうか。