「五十戸制」が「里制」に変更されたと推定される「庚寅年」というのは、倭国王権が大きな改革を行なった年であると考えられ、「筑紫」からの「遷都」を行ない、それに伴って「畿内」の再定義が行なわれ、「近畿」周辺を改めて「畿内」としたと推定されます。(この場合の「京師」は「下層条坊」としての「藤原京」かと推定されます)
この時点で、旧「畿内」である「筑紫周辺」にも「評制」が適用されることとなったものと考えられます。それは「筑紫周辺」で「評」が書かれた木簡等が確認される年次が全て「庚寅年」以降のものであることからも推定できるものです。
そもそも「七〇一年」以前の段階で既に「列島」の盟主の座は「倭国」から「日本」へと交替していたと見られ、それは「国号」の変更という形で現れたと見られますが、その際に「倭国」という呼称は元々の「倭国王権」の「当初の」支配領域に限定された使用法となったという可能性があると思われます。
中国の例からも元々の支配領域(封国)の名称を後に「国号」にしていたものであり(「唐」も「隋」も「封国」の名称を国号にしていたものです)、当時の日本においても同様ではなかったかと考えられ、「倭国」とは「筑紫」の一地方の名称であったものと推量します。(またその「読み」は当時の「都」の場所の呼称を充てていたと思われ、「ちくし」であったと思われます)
それが「日本国」へ「列島」の代表王権が移り変わった際に、元の「封国名」に戻されたという経緯が考えられ、「国名」が「日本国」となって以降、「倭国」は「筑紫」の一地方名にいわば「格下げ」となったものではないかと考えられます。つまりこの時点では「倭国」と「日本国」が並立していたのではないかと推察する訳です。
そのように考えた場合は、この「木簡」に書かれた「倭国」というのは「評制」が施行されているということから考えても、「諸国」という扱いとなった「筑紫」周辺の「旧畿内」地域を指すと思われ、「近畿」のものではないと推定されることとなるでしょう。つまり「畿外諸国」という扱いとなった「筑紫」の一地域に対して「調」が義務として課せられ、それを輸送したときの「荷札」としての木簡であったという可能性が強いのではないでしょうか。
その意味ではこの木簡の「冒頭」に書かれた「■妻」とは「上妻」ないし「下妻」という「八女」付近を指す地方名であるという推測が出来るように思われます。
また「書紀」には「添郡」は「添上郡・添下郡」というように上下に分割された形でしか出てきません。以下の例が「添」郡の最古のものであり、その段階で既に「上郡」と表記されています。
『日本書紀』巻十九欽明天皇元年(五四〇)二月
「二月。百濟人己知部投化。置倭國添上郡山村。今山村己知部之先也。」
このように「欽明紀」という段階で既に上下に分割されていることとなります。(その後も統合などがされていないようであり『続日本紀』にもかなりの数の「添上・下郡」記事が出てきます。)
しかし、木簡では「所布評」というように「上・下」には分割されていません。上に見たように「国-評-里」という書き方はかなり新しい形式と考えられ、少なくとも「五十戸」が「里」と全面的に書き改められるようになった「庚寅年」以降であると考えられます。
つまりこの木簡が書かれた時代としては一般的には「六九〇年」以降「七〇一年」までのおよそ十年間の中のことと絞られることとなりますが、その中では「上・下」には分割されていないわけですから、『書紀』『続日本紀』の示す史料上の事実と「実体」(木簡)とが整合していないこととなります。
『書紀』等に「添郡」としての「単体記事」がないということは、この二つをイコールで結ぶ事はできないということを示すのではないでしょうか。
しかし、たとえば、「倭国」には「添山」があるとされます。(以下の記事)それは「天孫降臨」が行なわれた山の名として出てくるものであり、まさに『倭国』の中心とも言える場所です。
「一書曰。天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子栲幡千千姫萬幡姫命。…是時高皇産靈尊乃用眞床覆衾 皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊。而排披天八重雲以奉降之。故稱此神曰天國饒石彦火瓊瓊杵尊。干時降到之處者。呼曰日向襲之高千穗『添山』峯矣。及其遊行之時也云々。…『添山』此云曾褒里能耶麻。…」(『日本書紀』巻二神代下第九段一書第六)
古田氏によって「天孫降臨」の地が「筑紫」であることが明らかにされていますから、「添山」は「筑紫」にあったこととなり、それは「倭国」に「添」(そほり)という地名等が遺存していても不思議ではないことを意味するものでもあります。
また「倭名抄」によれば「大和国」の「添郡」には(「上・下」とも)「大野」という「里」(郷)は存在していないのに対して、「筑前」や「豊前」には「大野」という地名が当時存在していました。
「筑前國御笠郡大野郷」
「豊前国築城(ついき)郡大野郷」
木簡に見る「大野里」がこれらの地域であるという可能性も考えられるでしょう。また、これらのことは「添下郡」の「大野郷」という場所が古い時代のものではなく比較的「新しい」という事を表すものともいえると思われます。