「二中歴」の年代歴の「細注」については、今見たように「仏教」の伝来とされる時期と齟齬する記述があるわけですが、これを「修正」するための方法論としては、「推古紀」などと同様「一二〇年」(干支二巡)「過去」へずらすというものも考えられるところです。たとえば「古賀氏」はその論(※)の中で、「大江匡房」が書いた『筥埼宮記』の解析から「応神朝」に「漢字」が導入され、その結果「政治」を行う際にそれまでの「結縄刻木」が止められたと理解され、それは「三国史記」の「百済」「阿花王」の時代と同じ五世紀の初め(四〇五年か)と推定されました。しかし、それは新たな「矛盾」を引き起こすものでもあると思われます。
このような仮定がもし正しいとすると、「二中歴」の「年代歴」との齟齬はますます大きくなってしまいますから、必然的に「二中歴」も「百二十年」遡上せざるを得なくなると思われますが、その場合「僧聴」という年号は、その「元年」が「四一六年」となり、これは「仏教伝来」以前の時期に「僧聴」という年号が使用されたこととなってしまいます。
さらに「継体」の項に記された「年号」の使用開始というものも「一二〇年」遡ることとなった場合、その年次として「三九七年」になってしまい、「四一八年」と考えられる「仏教伝来」よりも早くなると同時に、最初の「南朝遣使」と考えられる「四一三年」よりも(もちろん「元嘉暦」の伝来よりも)早いこととなってしまいます。
それは『隋書俀国伝』の主張と食い違うこととなるでしょう。『隋書』ではあくまでも「百済」からの「仏法」伝来以降の文字(日本語)成立であり、それ以前は「結縄刻木」であったとするわけですから、「仏教伝来以前」に「太陰暦」があったとすると「結縄刻木」の存在と少なからず矛盾するわけです。なぜなら「年号」と「暦」は一体不可分のものであり、また暦(太陰暦)と「結縄刻木」は逆に相容れないものであると思われるからです。しかし「二中歴」によれば「年始」以降三十九年間は「無号不記干支」とされていて「その後」「年号」と「干支」が使用されるようになります。この記述からも「結縄刻木」の以前に「太陰暦」が伝来していたとは考えられないと思われることとなるでしょう。しかし「二中歴」の記事(細注)を一二〇年遡上させるという方法論は、それが「矛盾」として現れてしまうということとなります。
また、「結縄刻木」を止めて、「文字」の使用開始となったとされる年次が「明要元年」「五四一年」であったものが「四二一年」となると「仏教伝来」からわずか「三年後」のこととなります。このことは「仏教受容」から「文字」成立まで余りにも早すぎるのではないかと考えられ、蓋然性が低いように感じられます。
私見ではこの「文字」は「日本語」を表すべきものと見ていますから、当然国内においてある程度「漢字」文化が行き渡るといういわば準備期間にあたるものが必要であり、それを使用する多くの人間により共有される環境が成立して始めてコミュニケーションツールとして機能すると思われるわけですが、そのような環境が構築されるためにはそれなりに時間がかかって当然と思われ、そう考えると「三年」は短すぎると思われるのです。(ただし「一二〇年」は長過ぎると思われますが)
「漢字」がその国の言語を表すツールとして成立するには「漢字」に対して「なじむ」期間が必要であり、「漢文」を使いこなして、その意味、由来、「音」など知り尽くした後に、これを「日本語」へ転用できないか考えて考案されたという過程が想定され、その成立は「仏教」伝来後「六十年」ほど経過した「六世紀後半」だったと仮定する方がよほど整合性が高いと思料されます。逆に言うと「漢語」こそ導入後すぐに「公文書」には使用されるようになったものと思われますが、(それは「南朝」へ「国書」を提出しているらしいことで推察できるものと思われます)それでは「俗」(一般民衆)には届く(理解される)はずがなく、その間は「結縄刻木」を続けるしかなかった(それが三十九年間)であったと理解するのが正しいと思われるわけです。
そう考えると、「二中歴」の「年代歴」に書かれている「細注」はそのままでよいはずがないと同時に「百二十年」(干支二巡)のズレは多すぎてかえって不審となると思われ、「干支一巡」程度の遡上年数を措定すると最も整合するようです。
また『書紀』同様『古事記』にも「百済」から「漢籍」が「阿直岐氏」や「王仁氏」(和邇吉師)により「応神朝」にもたらされたという記事がありますが、そこでは「漢籍」として「論語」と並び「千字文」が貢進されたと書かれています。
「(応神記)…亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋 牝馬壹疋 付阿知吉師以貢上【此阿知吉師者阿直史等之祖】 亦貢上横刀及大鏡 又科賜百濟國 若有賢人者貢上 故受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進【此和邇吉師者 文首等祖】」
しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代に作られたものであり、「応神」の時代とされている「四世紀末」から「五世紀初め」とは時代が全く合いません。この点からこの記事には(「記紀」とも)信憑性が疑われるわけですが、この「千字文」記事についてのみ「潤色」が行われていると考えるより、記事全体として「年次」あるいは「時代」を変えて記述されていると考える方が合理的と思われます。つまり「論語」や「千字文」は「百済」から伝来していたことは確かでしょうけれど、ただそれが「五世紀初め」という時期ではなかったと言う事ではないでしょうか。(当然その場合は「六世紀初め以降」の伝来ということとなるわけですが、具体的には「六世紀後半」が最も考えられる時期と思われます。)
このことからも「五世紀初め」という早い時期に「漢字」の国内使用が始まったとか「結縄刻木」が止められたとは考えられないこととなり、先に述べたように「仏教」伝来から「ある程度」時間が経過した後に「日本語としての文字」が成立することとなったと考えることによって正当な理解が得られると思われます。
(※)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か -「仏教伝来」戊午年伝承の研究」『古代に真実を求めて』第1集一九九六年