古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『古田史学会報』一四八号をみて

2018年10月16日 | 古代史

『古田史学会報』一四八号が発行され、そこに「谷本茂氏」の『「那須国造碑」からみた『日本書紀』の紀年の信憑性」と題する論が巻頭掲載されています。
前回の記事はこの論の存在を前提としたものでしたが、さらに以下の点を指摘しておきます。

 この谷本氏の論をみると各種の資料状況から「干支が現行歴とは一年ずれた暦が存在したことは確実です。」としていますが、そのうち『定恵伝』については「遣唐使」団の一員として派遣された年次が「白鳳五年甲寅」と書かれており、これは「白雉」と「白鳳」の取り違えとしても『書紀』では派遣されたのは「白雉四年」の遣唐使団であり、そもそも「年次」が『書紀』とは異なるものですから、「干支」が「一年ずれている」という内容とはやや異なる事象と思われます。

 また『斉明紀』の「伊吉博徳」の記録によれば「同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以『己未年』七月三日發自難波三津之浦。」と書かれていますが、彼が出発したのは明らかに「六五九年」の「七月」であり、この年を「己未」と表現していますが、この干支は別にずれてはいません。
 彼を含む遣唐使団は明らかに「唐皇帝」の主宰する「朔旦冬至」の会に出席するためであったと思われますから(月の大小の相違は確認されるものの)間違いなく「六五九年」の出来事であり、その歳次の干支を「正確に」「己未」と表現していますから、特異な暦が使用されていたようには見えません。

 また「那須直韋提碑」の「那須国造追大壹」という表現を「六九〇年記事」につなげようとしているようですが、「叙位」は当時存在していたと思われる「浄御原朝廷の制」にあった(と考えられる)「考仕令」によって「毎年」秋から春にかけて各官人について評定されていたものであり、特定の年だけに行うものではなかったものです。
 該当する官人に対し前年の秋以降、翌年春までに勤務態度等が総合的に評定された結果、新たに位階を授けることが四月に行われていたものであり(これは基本となる「隋・唐の律令においても同様でした)、「韋提」の場合もその際に「評督」という地位を授けられたとみるべきと思われ、特にそれが「六九〇年」との錯誤というわけではないと思われます。(ちなみに「評督」を授けられた際の位階については何も書かれていないようですが、多分位階は微増でしかなかったものと思われるものの、彼と彼らの子供達にとっては「評督」が授けられたということがなにより重要であったものであったと思われ、そのため碑文では言及がないものと推測します)
 氏の指摘する「六九〇年記事」は「評定」の積算年数を定めたものと思われ、「位階」の上昇にいわば「歯止め」をかけたものではなかったでしょうか。

 また「服部氏」の論(『「浄御原令」を考える』)では「浄御原朝廷の制」つまり「浄御原律令」というものの実在性を指摘していますが、その始源が「天武朝」ではなく「七世紀半ば」の「白村江の戦い」以前の時期であるという指摘は首肯できるものです。さらに「隋」と「唐」との関係から「浄御原朝廷」というものが「八世紀新日本王権」とは異なる王権であるとみるべきという指摘も同様です。
 私見では「大宝律令」に影響を与えたものは巷間言われるような「永徽令」ではなく、それ以前の「貞観律令」あるいはその「貞観律令」が実質内容を引き継いだ「武徳律令」であると考えており、それについては( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0e7725d957418c004b28a68175bb88f9 )で触れていますが、「釈奠」の際に祭祀を行う対象の変遷から「大宝律令」以前の「浄御原朝廷の制」というものの淵源が「隋」の「開皇律令」にあったものではないかと推論しています。

 ところで「開皇」は隋代の年号であり「開皇律令」というものは「年号+律令」という形となっています。これは後の「武徳律令」などでも踏襲されていますが、それを考えると「浄御原朝廷」とか「浄御原朝廷の制」というような用法は異例です。本来は「年号+律令」という形であったものを「年号」を表記するのを忌避するために「朝庭名」だけの表記としたとみられます。「年号」がついていると「いつ」制定されたかが明確となってしまいますし、「倭国年号」を極力表記したくないという意図も働いたものと思われ、そのためもあって「浄御原朝庭」というような表記となっていると思われます。しかし実態としてはやはり「年号+律令」という命名ではなかったかと思われ、それが制定されたのが「七世紀半ば」とすると考えられるのは「白雉」か「常色」であると思われます。しかし『書紀』で「孝徳」が発したとされる「詔勅」の類はほとんど「白雉」以前のものですから、可能性としては「常色」年間に律令が定められたものではなかったでしょうか。つまり「常色律令」というものが存在していたものではなかったと考えられるわけです。
(これは正木氏の主張である「常色の改革」の一環とも見る事ができそうです)
 それが「浄御原」という名がかぶせられて呼称されているのは、その時点の「宮」つまり「首都」は「浄御原宮」であったからであり、その時点で施行された「律令」は「浄御原朝廷の制」として認識されていたと言うことも考えられるところです。
 「浄御原宮」が七世紀半ばには存在していたとみられるのは以前に( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/1a02ca60f33fb9d2c9359c1d6893e52d )でも考察しましたが、「壬申の乱」以前に「浄御原宮」ができていたとみるのが相当であり、その場合「天智」の時代以前となるのは必定であり、その意味でも始源として「七世紀半ば」が想定可能と思われる訳です。


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3 コメント

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Unknown (服部静尚)
2018-10-22 09:05:11
私の愚稿に触れていただきありがとうございます。
仰るように年号+律令と言う呼称が普通です。しかし、律令では無いですが例えば明治憲法は施行時期には大日本帝国憲法であって、後の時代に振り返って明治と言う年号を付けて、現行憲法と区別するのと同様と考えました。
倭国律令もしくは日本国律令とかそんな感じが元々の呼称だったのではないでしょうか。
そうであれば、はじめて浄御原律令と呼んだのはいつの時代の誰かと言う問題になります。
これを大宝律令の制定の時期に近畿天皇家側がそう呼んだと考えました。
九州年号は原則使わないのが日本書紀・続日本紀の立場なので、このような呼び名になったのではないでしょうか。
いきなり浄御原律令とは言わず、浄御原朝庭の(律令)との表現になっているのも、呼称に迷いがあるように見えます。
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コメントに対して (James Mac)
2018-10-27 01:01:03
服部様

コメントありがとうございます。
律令の呼称についてですが、「倭国律令」あるいは「日本国律令」という呼称もありうるかも知れませんが、これはこの「浄御原律令」が「倭国」において初めての律令であった場合には相当すると思いますが、(私見では)「阿毎多利思北孤」付近で「律令」が成立していたという可能性を考えていますので、やはりそれらと区別する別の呼称があったとみます。「磐井律令」も律令の先例として可能性としてはあると思いますから、その意味でも律令の呼称としては「年号」を前置するという方法が採用されていて当然と思います。(「大宝律令」も「養老律令」もその例に漏れないわけです)
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貴ブログの執筆姿勢について (谷本茂)
2018-12-07 21:19:39
山田春廣氏のブログにより貴殿(James Mac さま)のブログを知りました。批評対象となっている会誌稿の著者:谷本茂です。

基本的に他人のブログの場で歴史研究の詳細を記述することはしておりませんので、予め御了承ください。

貴殿が山田氏のブログの場で書かれたコメントについて、反論を12月度の古田史学の会・関西例会で発表予定です。後日その発表資料を送付致したく存じますので、貴殿のメール・アドレスを個人的にshigerut☆★hi-net.zaq.ne.jp へお知らせ戴ければ幸いです。(☆★を@に替えてください)

それから、貴殿のコメントの一部分に対する小生のコメントは山田氏のブログ宛に送信しましたので、そちらもご参照くだされば有り難いです。

貴殿の“ブログ記事の中身が「評論」の類であったとしても署名つまり「実名」でなければならないとは思いません。これはスタンスの違いでもあると思います。”という御意見は、小生にとって看過できないものです。実名の論考が匿名のブログにより批評される場合のアンバランス(立場の不公平さ)をもう一度考えてみて下さい。「スタンスの問題」で済まされる様な軽い問題でしょうか?貴殿の書いたものが匿名の筆者によって批評され、それがネットで公開されていることも知らされず(匿名筆者が親切にもURLを知らせてくることは通常想定できません)、貴殿の御意見や反論を発表する機会も無いままに、批評された事実も知らないままに他の人にはその批評が知れ渡るという状況を考えてみて下さい。それでも構わないというのは貴殿の勝手ですが、そうした(書く者と批評される者との)立場の不公平さを容認する姿勢が小生にはとても気になります。

なお、プロフィール欄の猫の写真や「実はバルカン星人だといううわさも・・・」の記述から、実は表示が本名である、と推量しろというのは、ちょっと無理ではないでしょか?(それとも、小生の様な指摘がある場合を想定しての「匿名ブログではなく、実名である」という逃げ道を作っていたということなのでしょうか?うがった見方で申し訳ありませんが、そう推測されても仕方のない記述様態ではないのでしょうか?)

ネット社会に溢れている無責任な匿名投稿者とは貴殿は明らかに異なると思いますので、敢えて、この場にコメントを書き入れさせて戴きました。(以上)
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