古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「十七条憲法」と「不改常典」(一)

2016年04月22日 | 古代史

 「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。またそれは(「憲法」という用語でも分かるように)「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはならないものでした。 
 また、これは「倭国」で(というより「我が国」で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれていますが、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったものです。 
 つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に「直線的に」つながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさに「ふさわしい」ものと考えられるのです。
 またこの「十七条憲法」の内容は、「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項で占められており、「統治の根本」を記したものです。その意味ではまさに「食国法」というべきものでしょう。また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それは当然ともいうべきものであるとも思われます。

 ところで、『日本書紀』によると「十七条憲法」の制定は「推古十二年」(六〇四年)のこととされています。

「推古十二年(六〇四年)夏四月丙寅朔戊辰条」「皇太子親肇作憲法十七條。…」(推古紀)

  以前すでに触れましたが、『推古紀』の「裴世清」来倭記事についてはすでに実際の年次より二十年程度の年次移動があると考えられるわけであり(過去側へ移動するべきもの)、この記事についても同様に年次移動されている可能性が高く、実際には『隋初』(開皇年間の前半)のことではなかったかと考えられます。つまり実際には『隋書俀国伝』に云う「阿毎多利思北孤」に相当する人物によって造られまた施行されたものと考えられ、ここではそれが「聖徳太子」という人物に投影されていると推定できるわけです。
 その彼(阿毎多利思北孤)に対するその後の「倭国王権」の「傾倒」は今考えるよりもはるかに強かったものではなかったでしょうか。それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないかと思われます。そう考えると、その彼が作り上げた「憲法」を変えるというようなことは、彼の直系の後継者達は考えもしなかったろうとも思われます。
 つまり、「阿毎多利思北孤」以降の倭国王は「即位の儀式」の一環で「十七条憲法」を遵守することを誓い、表明することを行っていたのではないでしょうか。この『続日本紀』の記事はそれを表しているものと考えられます。 
 これは場所も状況も違いますが、現代「米国」における「大統領就任式」の際に行われる「誓いの儀式」を彷彿とさせるものです。
 その 「合衆国憲法」は「合衆国」における最高法規でありまた「大統領」として「遵守」し「行うべき」根本法規でもあります。「新大統領」はその「遵守」を「誓う」事で、「新大統領」として「承認」されるわけです。ここにおける「合衆国憲法」というものが、単なる「大統領継承法」でないことは明らかです。
 また、現代の「日本」においても「内閣」は「最高法規」である「憲法」を遵守することを義務として負っているのです。
 この当時の「倭国」においても事情としては全く同じであったのではないでしょうか。つまり新しく「倭国王」となった際には「阿毎多利思北孤」が造った国家統治の「根本法規」である「十七条憲法」を遵守することを誓うことで「即位」が成立していたものと推察するわけです。

 また、このように「即位」の段階で「不改常典」という形で「憲法」が顔を出すのはその「第一条」で「以和爲貴。無忤爲宗。」と書かれていることと関係していると考えられます。つまり「無忤」(逆らわない)という言葉は、「皇位継承」の際にこそ重要な意味を持っていたからであると思われ、「和」という言葉は「日嗣ぎ」を「話し合い」で決めると言うことが強く求められていたことを示しているのではないでしょうか。
 (この点に関しては、「石井公成氏」の『「憲法十七条」が想定している争乱』印度学仏教学研究第四十一巻第一号平成四年十二月でも同様の指摘、つまり「十七条憲法」の存在意義が特に皇位継承の際に有効であると考えられるという点について言及されています。)

(続く)

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