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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「小野毛人」の墓誌について(三)

2014年11月19日 | 古代史

 「春日皇子」の異母兄であり「敏達」の「太子」とされる「彦人大兄」については、『書紀』の「大化二年」に出された「皇太子使使奏請の条」では彼の「御名部」について述べられています。そこには「原注」と思しきものがあり、「皇祖大兄」とは「(押坂)彦人大兄」のこととされています。

「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。』及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」

 つまり「御名部」とはこの場合「押坂彦人大兄」の名前を取り込んだ「部」(職掌集団)を言うこととなりますから、ここでは「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)を意味するものであり、これは通常「刑部(おさかべ)」と漢語表記されて、「警察」「検察」「裁判」のような職掌を行なう人達を意味していたものと考えられます。
 ただし、この「刑部」については「警察・検察」に関係のない職掌であるとする意見もあります。(※1)それは「刑」に「入墨」という意味があることから、彼ら自身が「入れ墨」をしていたものであり、それが「名前」となっているとするのです。そして「刑部」の本来の職掌は「武器」(利器)の維持管理や製造などを行うものとするわけですが(「忍壁皇子」が「石上神宮」で神宝を磨いているのがそれを象徴しているとする)、「部」の名称は基本的に「職掌」を表すものであり、その「部」の「見かけ」に由来するものは他に見られません。
 「刑」には「入墨」の意があるのですから、彼らの職掌は「罪人」などに「入墨」を施すという役割であったことが推定され、「警察・検察」機構の末端に位置する下級官吏であると考えるのがやはり妥当と思われます。
 また「忍壁」という地に刑官が居た為に「刑部」を「オサカベ」という様に訓じたという説もあるようですが、これは話が逆であり、地名由来としてはそこに「刑官」がおり、その呼称が「オサカベ」であったため「忍壁」あるいは「刑部」という地名となったと考える方が普通でしょう。(その職掌の性格から「オサカベ」と呼ばれる地以外に「刑部」がいなかったとは考えられないからです。)
 従来「押坂(忍坂)部」という「部」については、「允恭天皇」の皇后であった「忍坂大中姫命」と関連して考えられているようですが(彼女の名前にちなんで「刑部」が造られたとする記事がある)、そうではないことはこの「皇太子への下問の詔」で明らかであると思われます。
 一般に「御名部」というのは天皇や皇后あるいは皇子などの「功業」を後世に伝えるために特定の「部民」に彼らに関する名前をつけたものであるとされ(※2)、この「刑部」が「警察・検察」という治安維持に関する組織の末端に位置するとした場合、そのような職掌に「押坂彦人大兄」の名前が付けられるというのは、そのような職掌が「押坂彦人大兄」の主な業績(功業)につながっていることを示すものです。
 そもそも「部民」とは元々「」を拡大・拡張したものであり、多くの「部民」が「」の印である「入墨」(黥面)をしていたようです。
前に触れたように「黥面」は「犯罪者」に対して行われるものであり、「没」された証としての「」の表象でした。これはもともと「海人族」の風俗でしたが、「海人族」の没落に伴い「中国風」に「犯罪者」に対して行われるものとなったとみられます。
 「履中紀」には「墨之江中津彦」の反乱に同調した「阿曇連」に対して「墨刑」を施したという記事があります。

「(履中)元年夏四月辛巳朔丁酉条」「召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。亦免從濱子野嶋海人等之罪。於倭蒋代屯倉。」

 ここでは「兔死科墨」とされていますから、「死刑」と共に「墨刑」というものが当時存在していたことが判ります。つまり「刑罰」の一種として「墨刑」が存在していたと考えられるわけです。
 また、「」とは元々「犯罪人」であり、その罪の軽重によっては「没」されて「」となる場合があり、その場合は「」の印として「入墨」をするというのが慣習ないしは規則としてあったことを示していると思われます。
 さらに「刑罰」と「部民」に関連する例が「安閑紀」にあります。

「(安閑)元年(五三四年)閏十二月己卯朔壬午条」「…於是,大河内直味張,恐畏求悔,伏地汗流.啓大連曰:「愚蒙百姓,罪當萬死.伏願,毎郡以钁丁,春時五百丁,秋時五百丁,奉獻天皇,子孫不絶.籍此祈生,永為鑑戒.」別以狹井田六町,賂大伴大連.蓋三島竹村屯倉者,以河内縣部曲為田部之元,於是乎起.」

 この末尾の部分では「大河内味張」への措置に関連して、「竹村屯倉」の「田部」に「河内縣」の「部曲」を充てるのはこれが始まりかと推測しており、それは「味張」に対して「籍此祈生,永為鑑戒」とされていますから、「永く鑑戒」とする(つまり子孫にそれを反映させる)としているわけです。その具体的な方法が子孫を「部曲」とするということであり、この「部曲」は「豪族」の私有民としての「部民」ですから、「味張」の犯した犯罪に応じ、彼の子孫に対して「部民」とすることが決められたものと思料されます。
 この場合「黥面」が行われたかは不明ですが、「履中紀」の記事からは「死罪」に代えて「墨刑」が行われていますから、これに準じて考えると、「墨刑」が「味張」とその「宗族」に対して行われ、「没」されて「部民」となるべきこととされたらしいことが窺えます。
 これらのことは「刑部」が「入れ墨」を入れる係であると同時に、自分たちも入れ墨をしていたという可能性があることを示しますが、上で述べたようにそれは「部民一般」に共通することである可能性が強く、「刑部」だけに限らないとすると、その「名称」の由来は「入墨」を入れる、という職掌に関連したものと考えざるを得ないものでしょう。


(※1)前之園亮一「刑部と王賜銘鉄剣と隅田八幡人物画像鏡」『東アジアの古代文化』一三七号二〇〇九年
(※2)和田英松『新訂官職要解』二〇〇四年

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