古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(4)

2014年04月04日 | 古代史

「書紀」の地の文には「隋」という国名は一切現れません。書かれているのは「大唐」、ないしは「唐」です。また「唐使」であり「唐客」であり「唐帝」です。「隋代」であるはずの年次記事についても全て「唐」と書かれています。このような「書紀」の記述に対して「古田氏」はそれが実際の「唐」の時代のことであり、「遣唐使」であり「唐使」であるからそこに「唐」「大唐」とあるのだと論証されています。そこでの主張はまことに明解ではあるものの、他の理解も成立する余地がないとはいえないと思われます。それは「書紀」編者が「隋」という表記を「忌避」していたのではないかと考えられる事です。
 「古田氏」も触れているように「隋」という国名及び「煬帝」という人名はただ一度だけ「高麗」から使者が来て「隋」を打ち負かしたと述べる部分だけに現れます。

「(六一八年)廿六年秋八月癸酉朔条」「高麗遣使貢方物。因以言。隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公。普通二人。及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。」

 これによれば「隋」と「煬帝」は「高麗」を攻めたものの逆に「破られた」とされており、ここでは「隋」と「煬帝」は「立場」を失わさせられています。このような場面にしか「隋」「煬帝」が出てこないと言うことは、「書紀」は「隋」「煬帝」に対し「良い印象」を抱いていないからであることは間違いありませんが、それは「唐」との関係を主たるものとする立場からのものであったと思われます。
 「隋」に対しては「友好的」な取扱いとはせず、「貶める」あるいは「なかったこととする」という編集方針であったものと思われるのです。つまり「隋」と「倭国」に存在していた「関係」は基本的には「伏せる」という編集方針であったものではないでしょうか。
 それは「書紀」編集時点における「唐」との関係から来る「追従」であったともいえるかもしれません。つまり「唐」の持つ大義名分を「過去」に延長した結果、「隋」という国名が「地の文」として現れる事がなくなったとも言えるでしょう。それは「唐」に「おもねった」結果であるともいえます。
 「隋」は「唐」からは嫌われていましたし、その「隋」と友好関係を持とうとしたあるいは持った過去があることをできれば隠したいという思惑があったと考えられるのです。
 これを「書紀」編集時点においての国名表記とする向きもあるようですが、「隋代」以前には使用されていないことから、あくまでも「隋」を「消去」するためのものであると思われます。それはこの「書紀」が「唐」の「目に触れる」という機会があった可能性があるからです。
 「書紀」は「唐」の「目」を意識して書かれているというのは有名な話であり、だからこそ(「古田氏」の説とは逆に)「事実」を曲げてまで隠そうとしたのではないでしょうか。意味内容が悪かったこと(戦いに負けたなど)は「隋」のこととして書き、それ以外(良いことや問題ないこと)は「唐」のこととして表記するという編集方針であったものではないかと推察されるのです。
 そう考えると一概にこれが「唐」の時代のことであったからという理解だけが成立可能とはいえないと思われます。(続く)

コメント    この記事についてブログを書く
« 遣隋使と遣唐使(3) | トップ | 遣隋使と遣唐使(5) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事