「天命」については「初代皇帝」にかぎられ、しかも「禅譲」された場合は該当しない可能性が高いと思量されます。
たとえば(後代の例ですが)「北宋」が「金」に「華北」を奪われた後建国された「南宋」の皇帝に奉られた「詩文」に以下のようなものが見出せます。
(宋史/志第九十二/樂十四 樂章八/冊立皇后/嘉定十五年皇帝受「恭膺天命之寶」三首より)
「恭膺天命之曲,太蔟宮 我祖受命,恭膺于天。爰作玉寶,載祗載虔。申錫無疆,神聖有傳。昭茲興運,於萬斯年。」
「南宋」を建国した人物は「北宋」が滅亡した際の「皇帝」の弟であり、彼が「江南」の地に改めて「南宋」を建国したものですが、この場合明らかに「禅譲」ではないわけですから、「寶命」が使用されていないのは当然ともいえます。その彼について「我祖」と書かれ、また「皇帝受恭膺天命」と書かれているのは、まさに「天」以外には彼を皇帝にすべしとした「権威」「権力」「王朝」がなかったことを示しますから、まさに「受命」があったとするしかないわけです。
彼の「皇帝即位」は当然のことながら、はなはだ「異例」のことであり、「北宋」が亡ぼされるというような状況がなかったら、彼が即位するというようなことにはならなかったはずですから、周囲からみて彼に対し「受命」があったと見るのはある意味当然でもあり、そのような人物に対しては「天命」が使用され、「寶命」は使用されていないわけです。
この例外とも言えるのは「隋の文帝」です。彼は「禅譲」により「隋王朝」を創始したわけですが、彼はほとんどの場合「天命」を使用し、「寶命」はごく少数です。彼が前例を覆して「天命」を多く使用している理由は、彼が「仏教」に深く帰依していたことと関係があると思われます。
彼は「即位」して直ぐに「仏教」を保護・回復したわけですが、その彼について「三十三天」から守護を受けたために「天子」と称したという記事があり、このことと「天命」自称は関係しているのではないかと思われます。
(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 ?代三寶紀/卷十二譯經大隨)
「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視瘖語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在胎中諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己德分與是王。以天護故稱為天子。…」
このように「隋」の「文帝」の場合は、「仏の保護者」としての意識を全面に出したことから、「天子」を名乗ったものと思われ、それはこの「天」が「三十三天」の「天」であると見られることを意味するものです。このため「天命」という用語が使用しやすかったとも言えるでしょう。さらに、彼は「前朝」から「王権」を「禅譲」されたものの、「廃仏毀釈」を全面的に改めるという一種「大改革」を行ったものであり、このことは「前朝」からの「継承」という意識を捨てていた部分があったものと受け取られることなります。そのため「天命」という用語を使用しやすい立場(心境)にあったともいえるでしょう。
このように「文帝」は「天命」という使用例が多いのは確かではあるものの、「隋書」中に現れる「寶命」は(二例確認できます)、そのいずれも「文帝」に関係して使用されているのもまた事実であり、「煬帝」との関係は確認できません。一つは「文帝」自身の言葉として表れる「考元矩」(皇太子婦人の父)に対するものであり、一つは「煬帝」の治世下で「薛道衡」という人物が先帝である「文帝」の治世を賞賛する「頌」を上表するという場面で現れ、これに「煬帝」が不快の念を示すというものです。つまりいずれも「文帝」に関連して使用されているものであり、「煬帝」との関係は確認できません。このことから「寶命」という用語と「文帝」とが特に関係が薄いというような判断はできないと思われ、「倭国」への国書で「寶命」が使用されていても取り立てて「不審」とは言えないと思われます。
ただし、「文帝」の「高麗」への国書では「天命」が使用されています。
(隋書/列傳第四十六/東夷/高麗)
「… 開皇初,頻有使入朝。及平陳之後,湯大懼,治兵積穀,為守拒之策。十七年,上賜湯璽書曰 朕受天命,愛育率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。王?遣使人,?常朝貢,雖稱藩附,誠節未盡。王既人臣,須同朕德,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。諸藩頓顙,為我臣妾,忿善人之慕義,何毒害之情深乎。太府工人,其數不少,王必須之,自可聞奏。昔年潛行財貨,利動小人,私將弩手逃竄下國。豈非修理兵器,意欲不臧,恐有外聞,故為盜竊?時命使者,撫慰王藩,本欲問彼人情,教彼政術。王乃坐之空館,嚴加防守,使其閉目塞耳,永無聞見。有何陰惡,弗欲人知,禁制官司,畏其訪察。又數遣馬騎,殺害邊人,屢騁姦謀,動作邪?,心在不賓。…」
この「書」は「開皇十七年」という時点での「高麗」に対する「詰問」が書かれており、それはそれまでの関係の見直し(再構築)を視野に入れていることがわかります。このような場合には「天命」が使用され、しかもそこには「恭」「欽」などの「謙譲」の語が全く使用されていません。「居丈高」ともいえる語調となっています。
ここでは明らかに「天命」を受けたことを背景に「武力」を前面に出して「威圧」ともいえる態度に出ており、それは以前からの「中国北朝」と「高麗」の関係の「刷新」を前提としていると考えられるものですが、それに対して、「推古紀」の国書が「文帝」からのものであるとすると、「倭国」に対しては「寶命」が使用され、しかもその内容は友好的な言辞に終始しており、対照的な内容となっていることがわかります。
「文帝」にとって「寶命」という用語はまさに「前朝」などからの継承を意識した言葉と思われ、「倭国」と「歴代中国王朝」の関係を今後も同様に継続するという意義で使用されていると推測できるものであり、それが「高麗」に対する「天命」使用との「差」になっているのではないでしょうか。
以上のことから、「寶命」という語義からこの「国書」は「初代皇帝」からのものであるとは断定できなくなったと思われるわけですが、では「唐」表記についてはどうでしょうか。(続く)