以上によれば、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。その差は何なのでしょうか。「私見」によれば、重要と思われることは「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものと思われるわけです。黙って外から眺めているだけでは「戸数」は判明しないのです。それに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。無理すれば数えれば分かるものとも言えます。
これを「倭人伝」に当てはめて考えてみると、「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、それは「魏使」が通過した際この両国については「戸籍資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「秘匿」した(教えてくれなかった)というような事情があったものではないでしょうか。
彼ら「魏使」達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
(「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)
つまり「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったということも考えられます。
この「倭人伝」の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した「帯方太守」の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測するというだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭国女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなるでしょう。
このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは「倭人伝」中の以下の文章からも推定できます。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けた事を示すものでしょう。
このように各国に「複数」の「官」が派遣され、しかもそれら各国にはほとんど「王」がいないとされ、また「戸籍」が整備されている点などを見ても、この時点の「倭国王権」がかなり強力な「中央集権的」存在であることが理解できます。このような機構は他の『東夷伝』には全く書かれておらず、「倭人伝」にしか見られないものです。つまり、「中国」以外では「例外的」に「倭国」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものであり、それを「魏」の王権でも重視していたものであり、「親魏倭王」という称号を与えたのはそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」を示すものであり、少なからず「畏敬」の念も含んでいたこととなるでしょう。
このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
いずれにしろ「倭国」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。