古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「此後遂絶」以降(二)

2015年05月22日 | 古代史

 「佛祖統紀」という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

(『大正新脩大藏經』/第四十九卷 史傳部一/二〇三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを「仏祖統紀」の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあります。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と「新唐書」記事とが同じ事実を記したものとは思われないからです。
 すでにみたように「新唐書」では「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」(新唐書

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ロビンフッド」のように瓠を載せて(多分頭に)数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べると実は全く異なる事が解ります。
 「新唐書」の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、食い違っています。

「(斉明)五年(六五九年)秋十月卅日。」「天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。『今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。』天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。…」(「斉明紀」「伊吉博徳書」より)

 この「蝦夷」については上の記事の直前に「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし「新唐書」では「蝦蛦亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦蛦」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。(この海島を日本列島のことと理解する考え方もあるようですが、この文章の「亦」とは「日本」と同様彼らも「海中」の島に住んでいる、という意味で書かれていると理解すべきでしょう。)
 たとえばこの「海島」が「佐渡」であるとするような解釈をしない限りは この「海島」が「北海道」を指すという可能性は高いものと思料します。
 『書紀』の神代巻を見ても国生み神話の中に「佐渡」が登場しており、このことから「佐渡」は早くから「倭人」の居住する地域であったか、あるいはここに「蝦夷」がいたとしても相当早期に帰順した地域であると思われ、この「七世紀」と云う時代にまだ「蝦夷」の範疇に入れられていたとは考えられません(そもそも「佐渡」は「陸奥」ではありませんし)。そうであれば他に「島」に住む「蝦夷」という形容の可能性があるものは「北海道」しかないのではないでしょうか。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、「新唐書」の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。
 またこの「伊吉博徳書」や同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると「新唐書」の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期にはやはり前後二つの時期があったこととなるでしょう。

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「此後遂絶」以降(一)

2015年05月22日 | 古代史

  「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたことを推定させるものであり、「唐王権」からそのような化外諸国に招請があったことが推定出来ます。遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。
 そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとして不思議とはいえないこととなるでしょう。

 ところで 伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間である「章」の期間を示すものです。
 「式年遷宮」の当初においては「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。なぜなら「章」は「朔旦冬至」で始まるものであり、「章」の期間を意識して「朔旦冬至」を意識しなかったとは考えにくいからです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものです。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

① 持統四年(六九〇)/② 和銅二年(七〇九) 十九年/③ 天平元年(七二九) 二十年/④ 天平十九年(七四七) 十八年/⑤ 天平神護二年(七六六) 十九年/⑥ 延暦四年(七八五) 十九年/⑦ 弘仁元年(八一〇) 二十五年/⑧ 天長六年(八二九) 十九年/⑨ 嘉祥二年(八四九) 二十年/⑩ 貞観十年(八六八) 十九年/⑪ 仁和二年(八八六) 十八年/⑫ 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「朔旦冬至」と関係しているというのは諸氏によって指摘されており、「十九年」という「エネルギーサイクル」の起点が「朔旦冬至」であり、この「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。その意味からも最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているのです。

 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。
 その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものでした。
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては「旧唐書」「新唐書」とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただし「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)
 ただし「資治通鑑」によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(『資治通鑑』貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変(暦の修正)を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより重要なものとして意味づける意識が見受けられるものです。これはこのときにも「冬至之會」が(しかも大々的に)行われた可能性を示唆するものです。

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「南宮」と難波宮

2015年05月14日 | 古代史

 「二中歴」の「人代歴」の「文武」の項には興味あることが書かれています。

「文武治十一 天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」

 ここでは「南宮」という表現がされていますが、その解釈としては「皇太子」を意味するというものもあります。しかし「皇太子」は一般に「東宮」であり、これは「隋・唐」以降「皇太子」の宮が「都城区画」の東側に築かれていたことからの呼称です。それに対し「南宮」は「漢」以降「魏晋」など後継王朝において「南北二宮」ある場合の「南側」を指すものであり、後代には「北宮」が「後宮」となり「南宮」が「紫宸殿」となったものです。

(『晉書』/載記第二/劉聰 子粲 陳元達)
「…署其衞尉呼延晏為使侍節前鋒大都督前軍大將軍,配禁兵二萬七千,自宜陽入洛川,命王彌劉曜及鎮軍石勒進師會之。晏比及河南,王師前後十二敗,死者三萬餘人。彌等未至,晏留輜重于張方故壘,遂寇洛陽,攻陷平昌門,焚東陽、宣陽諸門及諸府寺。懷帝遣河南尹劉默距之,王師敗于社門。晏以外繼不至,出自東陽門,掠王公已下子女二百餘人而去。時帝將濟河東遁,具船于洛水,晏盡焚之,還于張方故壘。王彌劉曜至,復與晏會圍洛陽。時城?饑甚,人皆相食,百官分散,莫有固志。宣陽門陷,彌、晏入于南宮,升太極前殿,縱兵大掠,悉收宮人珍寶。曜於是害諸王公及百官已下三萬餘人,於洛水北築為京觀。遷帝及惠帝羊后傳國六璽于平陽。聰大赦,改年嘉平,以帝為特進左光祿大夫平阿公。…」
 
 この「西晋」の滅亡時点を描いた記事では、「宣陽門陷,彌、晏入于南宮,升太極前殿。縱兵大掠,悉收宮人珍寶。」という表現がされており、「宣陽門」から入ると「南宮」があり、そこに「太極前殿」があったこととなります。さらにそこには多くの「宮人」がおり、「珍宝」があったということにもなるでしょう。
 この「太極前殿」の別名を「紫宸殿」といい、「北宮」が「後宮」となって以降は「正殿」の地位を獲得したものです。
 「持統南宮」という表現からは「持統」が「北宮」つまり「後宮」におり、その時点で「南宮」つまり「紫宸殿」に「文武」がいたという表現と考えられます。
 その宮殿とはどこのことでしょうか。「藤原宮」なのでしょうか。 

 「藤原京」の発掘により、その下層から「街区」が発見され、既にそこに「条坊」が形成されていたことが明らかになっています。つまり、「藤原京」の「条坊」が形成される「以前」に「別」の「条坊」(街区)があったものであり、「藤原京」はその「条坊」やそれに伴う「溝」などを破壊し、埋め戻して造られていることが明らかとなっているのです。
 この「下層条坊」と同じレベルからは「藤原京」を南北に貫く大溝が確認されており、そこからは「壬午年」(これは「六八二年」と推定されています)という干支が書かれた木簡が出土しています。
 これらのことから「藤原京」の当初建設時期というものもかなり前倒しで考えるほかないこととなるでしょう。(さらに、下層条坊にも「二期」存在することが近年確認され、「前期」のものは「天武朝初年」つまり「六七二年付近」まで遡上するという見解も出ているようです)
 これら「下層条坊」については、余り大きな問題と捉えていない向きも多いようであり、「飛鳥京」の拡大領域とするものや、官人達の住居としての領域というような捉え方以上のものではないようですが、「条坊」というものが「京師」つまり「」と不可分のものであるとされていることを考えると、「藤原京」が造られる以前に既にここに「京」(京師)があったという帰結にならざるを得ないのではないでしょうか。
 つまり「第一次藤原京」と言えるものが先行して存在し、その後それを破棄して「第二次藤原京」が形成されたと考えることができると思われるのです。そう考えた場合は今度は「藤原京」の完成時期とのズレが問題となるでしょう。
 つまり、「藤原京」は『書紀』によると「六九五年」に完成したとされ、又「二中歴」ではこの「六九五年」を「大化」改元の年としており、それは「宮殿」の完成を意味するものという捉え方が多元史論者の間に多くあるようです。しかし、遺跡から発掘されたいくつかの事実は、それらとは整合していないと考えられるものが確認されています。

 「藤原京」完成時期に関する疑問のひとつは「遺跡」から発見された「木簡」の解読からです。それによれば「七〇〇年」を越える時期の木簡が「回廊」(「築地塀」)の基礎部分から発見されており、この事は「回廊」の完成がそれを下る時期になると言う事を示すものですが、それと「見合う」と思われるのが『続日本紀』の記事です。その「七〇四年」の記事によれば「宮域」とされた場所には多数の「烟」(戸)があったことが記されています。

「慶雲元年(七〇四年)十一月…
壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。」

 この記事は、この地域、場所においてそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、「七〇四年」という段階で「やっと」「宮地」が定められ、そのためにそこに居住していた人々を立ち退かせたことが記されているのです。このことは『書紀』に示す「藤原京」建設に関する工程の「信憑性」を疑わせるのに十分であると思われます。

 また上の記事と関係していると考えられるのが「宮域」の外部(左京七条一坊付近)から「中務省」に関連する木簡が大量に出土していることです。この付近に「中務省」が存在していたことを想定させますが、「中務省」の本来の職務が天皇に直結するものであり、天皇の言葉を詔書や詔勅の原案となる文書として作成するというのが本職の役所であることを考えると、宮域内にその仕事場がないとすると「不審」極まるものです。しかもそれらは「大宝二年」(七〇二年)付近のものばかりなのです。このことはこの「大宝二年」という段階ではまだ宮域(宮殿)が整備されていなかった事を推定させるものであり、上の『続日本紀』の記事を裏付けるようです。

 同様に「不審」と考えられるのが「瓦」の製造時期とその「瓦窯」の存在していた場所です。
 「藤原京」に使用されている「瓦」についてはその分類などの研究が行われていますが、それによれば「初期」の段階では「奈良盆地外」に「瓦窯」があり(香川県など)、ある程度長距離を運搬していたものが、途中から「瓦窯」が近い場所である「奈良盆地内」に造られるようになり、そこから大量に製造されるようになっていったものとされています。しかし、常識的に考えて、「瓦」は「重量物」ですから、長距離運搬は本来避けるべきものと思われ、「初期」の段階で「藤原京」の近く(奈良盆地内)に瓦窯を造らなかった意味が不明です。
 また其の「笵」(型)についても当初は各瓦窯で別々の「笵」であったものが「奈良盆地内」に展開された各瓦窯では「同笵」となると云う特徴があるとされます。このように「瓦」に関してはその時期と製造体制が大きく「二期」に分かれると考えられています。
 また「奈良盆地外」で製造された「初期」のタイプの瓦はもっぱら「回廊」に葺かれたと見られるのに対して、「奈良盆地内」の瓦窯で造られた瓦は「大極殿」など主要建物に葺かれたと見られています。つまり「回廊」が先に完成し、その後「宮殿本体」が建てられたと見られるのです。
  つまり「藤原宮」では「紫宸殿」は「持統」が存命中には完成しなかったものと思われ、(宮域が確定したのが「七〇五年」付近と思われる)それまでは木造の仮殿はあったと思われるものの「南北」そろってはいなかったとも見られます。そう考えると、『日本帝皇年代記』に「平城京」の前の「宮」は「難波宮」であったという記事の信憑性が高くなると思われます。 

  庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉(「日本帝皇年代記」(上)より)
 
 この記事は「現行書紀」にある「六八六年」(朱鳥元年)のこととして書かれている「難波宮殿」の「焼亡記事」と明らかに「矛盾」するものです。
 考古学的には「前期難波宮」が「火災」にあったのは間違いないと考えられますが、それが「六八六年」のことであったのかどうかは「不明」であり、実際の火災の年次は異なっていたという可能性も考えなければなりません。そのことと「藤原宮」の完成が非常に遅かったらしいということは深く関連していると思われます。
 上にみたように「藤原京」発掘から出土した「木簡」についての解析から「宮殿完成」は「七〇四年」以降であると言う事が確認されています。更に「平城京」の遺跡から「藤原京」から運び去られた材料が大量に発見されており、平城京の建設の過程で藤原京は解体されたこととなります。しかし、「平城京」の完成が「七一〇年」であるとすると「藤原京」時代は圧倒的に短期間であることとなり、「本当に」「宮殿として使用されたのか、重大な疑問が出てくるでしょう。
 もし「藤原京」が「未完成」のまま「解体」され、その施設資材が「平城京」建設に転用されたとすると、「宮殿」は使用されなかったこととなりますが、ではその時点付近で「宮」(京)として使用されていたのはどこであったのかということになります。
 「飛鳥宮」では「首都機能」が貧弱であり、ここでは官僚達が公的業務をこなすことは出来なかったものと思われますから、集約的に官僚統治機構が備わっていたのはこの当時「難波京」しかなかったと思われ、そうすると「火災」にさえ遇わなければ、「難波京」はそのまま存続していたものと考えられるものであり、「火災記事」そのものに疑問が生じることとなります。つまりこの「平城京」完成時点での「首都」機能は「難波京」にあったということとなるものと思われ、それを示すのが「年代記」の記事であると言う事となるのではないでしょうか。
 そうであれば「文武」がいたと思われる「南宮」も「難波宮」にあったこととなります。
 
 「難波宮」の遺跡から復元されたレイアウトからは「太極前殿」とおぼしきものが確認されており、これが「紫宸殿」に相当すると考えられます。「白雉改元」記事にも「紫門」という表現があり、これは「紫宸殿」の正面の「門」をいうと思われ、「宣陽門」に相当するものであったと見られるでしょう。

「白雉元年…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於『紫門』外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至『中庭』。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進『殿前』。時左右大臣就執輿前頭。伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於『御座之前』。天皇即召皇太子共執而觀。…」

 これは「白雉」を観閲する儀式の際に出てくるものであり、「紫門」は「紫宸殿」からまっすぐに伸びる路が宮城の外部に出る門を指したものと思われます。さらにそこから入って「中庭」を進むと「天皇」と「皇太子」のいる「殿」の前に来るわけですから、この「殿」は間違いなく「紫宸殿」となります。ここは「遺跡」から確認される配置と照らし合わせると「前殿」の位置にある建物であり、ここが「南宮」と呼称されていたと推定されるものです。

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「帝皇年代記」の「鎮西」という用語について

2015年05月14日 | 古代史

 この「日本帝皇年代記」中では「寺院」の創建についてはその「主体」が書かれています。その中に「鎮西」が創建したと受け取ることのできる記事があります。 
 (以下「日本帝皇年代記」の「寺院」の創建記事の例)

「丁未(勝照)三 太子十五歳七月誅守屋(物部)、然後建四天王寺…」(これは「太子」)
「癸亥(願轉)三 十一月 太子建立蜂崗寺、今廣隆寺也」(これも「太子」)
「丙寅(光元)二 七月 太子着袈裟坐獅子坐、講勝鬘経講已(己?)天両花大三尺也、帝大喜則其地建伽藍、今橘寺是也…」(これは「帝」)
「丁卯(光元)三 太子遣妹子於隋朝衡山、召先身之道具等、建法隆寺」(これは「太子」)
「丁丑(定居)七 太子入定、見来世皇運奏時、建立大安寺…」(これは微妙ですが「遺言」したのは「太子」です)
「丁巳(白雉)六 七月始盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修維摩會、々々々自此時始也」(これは「鎌子」)
「戊辰(白鳳)八 行基并誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(これは「福寺」と「百済寺」双方とも「行基」によるか)
「庚午(白鳳)十 鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」(これが問題の部分で当方の解釈では「鎮西」が「観音寺」と「禅林寺」を建立したと解釈します)
「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永元年 一行阿闍利誕生、建立薬師寺、元正天皇誕生」(これは微妙ですが「無主語」の場合は「帝」と考えられる)
「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建観世音寺、十月不比等修維摩會、屈浄達法師」(ここには「詔」という語が使用されていますから「帝」と思われ、これは『続日本紀』の「元明の詔」につながると思われます)

(以下「観世音寺」建設進捗を促す「元明」の「詔」)

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 さらに以下に「日本帝皇年代記」の記事を続けます。

「庚戌(和銅)三 不比等興福寺建立、丈六釈迦像大織冠誅入鹿時所誓刻像也、…」(これは「不比等」)
「庚申(養老)四 九月日向・大隅二国叛、祈ウ(宇)佐而後平魁、々平之後量放生會於諸州八幡、於(放)生會始於此、徳道上人建立長谷寺」(これは「徳道上人」)
「癸亥(養老)七 於興福寺建施薬・悲田二院」(これも「無主語」ですから「帝」つまり「元正女帝」と思われますが「皇太子」としての「聖武」かも知れません)
「戊辰(神亀)五 禅無畏三蔵来朝、大知(和)国久米建塔、但未詳、…」(これは「禅無畏」と思われるが「未詳」とするだけあって、「久米寺」そのものについての記事がそれ以前にないなど不審があります)
「甲戌(天平聖暦)六 正月光明皇后於興福寺建西金堂安丈六釈迦像」(これは「光明皇后」)
「丁丑(天平聖暦)九 建八坂塔、…」(無主語であり「帝」(聖武帝)か)
「己亥(天平宝字)三 普光寺慈雲誕生、姓長氏、平安城人也、八月鑑真和尚建立招提寺」(これは「鑑真和尚」)

 まだありますが、基本的には上のパターンで尽きていると思われ、「主語」がないケースが「薬師寺」以降多くなりますが、そのような場合は創建主体は「帝」と解釈すべきと思われるのに対して、「建」あるいは「寺院名」の前に何か書いてある場合は、複数の例から帰納してそこに「創建者」が書いてあると考えるべきであり、「観音寺」(と「禅林寺」)の場合は「鎮西」とありますから、「大宰」ないしは「大宰府」がその主体であったと判断するべきではないでしょうか。

 そもそもこれは「帝皇」の「年代記」ですから、基本的に「帝皇」に関する事を書くというコンセプトと思われます。そう考えると、「帝皇」の事跡であった場合は特に断ることがないということとなります。(無主語となる)ただし、「帝皇」の行動や事跡「以外」のことについては、その「主体」が誰なのかを明記する必要がある(あった)ということとなるでしょう。(このようなことは「好太王碑文」とも共通するものではないかと思われます。)
 この「帝皇年代記」の記述は、各代の「帝皇」の名と即位あるいは死去年次等の記事を冒頭にまとめて書き、以下に彼の治世の年次事に編年体で記事を書くというスタイルです。つまりこの「年代記」中では主語のない事跡・行動は全てその「代」の冒頭に書かれた「帝皇」のなせる業と見るべきであることが推定できます。 
 以下にそのような例を挙げてみます。

「甲申(仁王)二 四月百済国沙門觀勒任僧正、朝廷初置僧正検校僧尼」

(この代の冒頭記事)
「推古天皇 欽明中女、敏達皇后、卅七歳受禅、治三十六年、仁王六年/三月七日崩、七十三歳、諱額田部、小墾田宮住」

 ここでは「觀勒」が「僧正」に任じられていますが、それが誰によるものか書かれていません。しかし、それはその直後に「朝廷」とあることから、「帝皇」に関する事と判明しますが、それは「冒頭」記事から「推古」であることとなります。(事実かどうかではなく、そのような記述体系をとっているということです)

「乙酉(仁王)三 高麗国惠灌来朝、是三論之學者也、夏惠灌任僧正/冬福亮任僧正」

 ここも同様に「惠灌」と「福亮」を「僧正」に任じていますが、これも「王権」が関わっていることは明白であり、これも「推古」を指すと思われます。

「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會并最勝講始之」

 ここでは「白雉」が「上」(奉られた)とされていますが当然「王権」(帝皇)に対してであり、他に対してではありません。また「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が共に始めて行なわれたとされていますが、ここにも「主体」が書かれておらず、これは「帝皇」に関する事と考えられますが、私見(拙論『「元興寺」と「法隆寺」(一)(二)』)では「元興寺」そのものが「勅願寺」と考えられますので、その意味では整合しています。
 「年代記」によればこの齋會の主体は「孝徳」であることとなります。(ちなみにこの「帝皇年代記」の中では「元興寺」だけが唯一創建記事が見あたりません。「いつの間にか」存在しています。)

「丁巳(白雉)六 七月始設盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修/維摩會、々々々自此時始也」

 例えばこの記事では「盂蘭盆会」では「主語」がありませんが「維摩会」の方は「内臣鎌子」の事跡として書かれています。つまり「盂蘭盆会」の主体と「維摩会」の主体が異なることが提示されている訳です。「主語」のない「盂蘭盆会」が「帝皇」の事跡であるということになるでしょう。これは「斉明」の事跡と考えられていたこととなります。『書紀』でも「斉明」が「盂蘭盆会」を行なったという記事があります。

「(斉明)三年(六五七年)秋七月丁亥朔辛丑条」「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮會。暮饗覩貨邏人。或本云。堕羅人。」

他にも「斉明五年」にもほぼ同様の記事があります。

(斉明)五年(六五九年)秋七月朔丙子朔庚寅条」「詔群臣。於京内諸寺勸講盂蘭盆經。使報七世父母。」

 このように「無主語」の例は他にもありますが、これらからは「無主語」の場合「帝皇」の事跡を指すという原則があると推測できることとなります。
 それに関連して、重要なものが以下の記事です。

「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建觀世音寺/十月不比等修維摩會、屈浄達法師」

 この記事によれば「詔」により「大宰府」に「観世音寺」を建てさせています。これは「一見」「鎮西建立観音寺」と似たような表現と思われそうですが、「帝皇」(「元明」)が建てた訳ではなく、「大宰府」に対して「建てるように」という「詔」を出したというわけであり、「大宰府」を使役しているのが注目されます。
 それに対し「薬師寺」創建記事では「無主語」となっています。

「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永元年 一行阿闍利誕生/建立薬師寺、元正天皇誕生」 

 このように「薬師寺」の場合は「無主語」であり「帝皇」(この場合「天武」)が「主体」として直接権力を行使していると見られますが、この「観世音寺」の例では「大宰府」を介してという形となっています。しかし、「鎮西建立観音寺」にはそのような「使役」と思われる「語」がありません。そうすると「帝皇」が「鎮西」をして作らしめたという解釈はできないこととなります。
 結局、「鎮西」が自分の意志として「観音寺」を建立したということを示すとしか考えられないこととなるでしょう。
 この「己酉条」記事は『続日本紀』の以下の記事と連動していると考えられます。

「(七〇九年)二年二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 この中では「筑紫觀世音寺」が「天智」の「誓願」であるとされ、年月が経ったにも関わらず完成していないとされます。そのため、工事を急がせるように指示しているわけです。
 しかし『書紀』にはそこに書かれたような「誓願」等の記事がありません。そもそも「観世音寺」という寺名は『続日本紀』で始めて現れるものです。このことは創建に「元明」の王権(新日本国王権)が関わっていないということを示唆するものであると思われますが、それはこの「帝皇年代記」の記述としての「鎮西建立観音寺」という表記と整合していると考えられるものです。

 「鎮西」という用語や「観音寺」という用語等はかなり後代のものということは確かですが、そこに示された「事実関係」あるいは「思想」というものはもっと本来の時代に即したものであったと考えることができるのではないでしょうか。
 ここで書かれている各「帝皇」については「近畿王権」の「天皇記」そのものと思われますが、「年号」はいわゆる「九州年号」であり、「近畿王権」とは関係を持っていません。それはその「改元」のタイミングに何の根拠もないことから判ります。これは明らかに「近畿王権」とは全く別途に「制定」され、「改元」されています。そのような年号が「近畿王権」の「帝皇年代記」に「基準年」として使用されているのは、それが「近畿王権」の領域内や「近畿王権内」においても使用され、それに基づいて各種の記録が為されていたということの反映であると思われます。
 その意味では「近畿王権」を含む複数の「王権」をも統合的に支配する上部組織とでもいうべき「統一王権」の存在を前提にしなければ、ここでこれらの「年号」が使用されている意味について説明がつきません。
 上に見たように「庚午」(六七〇年)という年次の記録では「使役」されることなく、自主的に「観音寺」を創建した「鎮西」が、「己酉(和銅)二年」という段階では「元明」の王権から(これは「近畿王権」と考えられる)「大宰府」として「使役」されるというように変化しています。しかも途中で「観音寺」の建設が停止されていたようにも受け取れる記事であり、これらから判断して、「六七〇年」以降に「鎮西」に何か変化が起こり、「近畿王権」の「王」である「元明」から、使役されるような関係に変化したことが窺えることとなるでしょう。
 このことから、これらの年号は「元明」以前の「統一王権」の産物であり、それは「自主的」に「観音寺」を創建することができた(近畿王権の支配下になかった)「鎮西」という存在に直結しているということができるでしょう。つまりこれらの年号群について「九州年号」という名称が妥当であることがこのことからも証明できると思われます。

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「日本帝皇年代記」について

2015年05月14日 | 古代史

 二〇〇四年と二〇〇五年に相次いで発表された「『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介」(「山口隼正」長崎大学教育学部社会科学論叢)という研究報告があります。
 「入来院家」というのは「鹿児島県」の旧家であり、「鎌倉時代」にこの地に「地頭」として移り住み、その後「当地」で地位を高めた存在となっていったわけですが、「入来院文書」というものを残したものです。それらは現在「東京大学史料編纂所」にて所蔵されています。
 しかし、この「史料」には「欠番」があり、「史料編纂所」で改めて「入来院家」にて捜索したところかなりの部分が残されていることが確認され、その中に「日本帝皇年代記」という史料があったものです。

 この「日本帝皇年代記」は「新旧」各種の資料を校合していると思われています。たとえば、「年代記」の中の「白鳳十年」(庚午)の項に「鎮西建立観音寺」とあって、「観世音寺」の「創建年」が「六七〇年」であると言う事が述べられていますが、(これは「古賀氏」などにより明らかにされつつあった「観世音寺」の創建時期について、更に「補強」されたこととなると思われます。)ここでは「観音寺」というように「本来」の「観世音寺」という名称ではなく、「唐」の「太宗」の諱「李世民」の「世」が避けられています。それに対して、同じ「年代記」中の「和銅二年」の条には「詔筑紫大宰府観世音寺…」とあり、ここでは「世」が避けられていません。これは当然、避けられていない方が「古い史料」(少なくとも「唐」と正式に国交が開かれた時代以前)から採ったもので、避けられている方が「新しい史料」(「唐」以降)から採ったものと判断されます。(「記事の時系列」とは逆になるわけです)
 また、それら校合した資料の中に現行『日本書紀』は入っていないのではないかと疑われる部分がいくつかあります。それは例えば「壬申の乱」に関係した記述の部分です。
 「天武天皇」の部分の「白鳳十二年」(壬申)の欄外上部には以下のようにあります。

「或記云、天智七年東宮出家居士乃山之時、大友皇子襲之、春宮啓伊勢国拝、大神宮発美濃・尾張之兵上洛、大友皇子発兵而於近江之国御楽之皇子遂被誅畢、その後東宮還大和州即位云云」

 この記事は「壬申の乱」の描写であると考えられますが、その依拠した資料について『書紀』ではなく「或記」という表記になっており、明らかに『書紀』が念頭に入っていない(あるいは見ていない)ことが知られます。内容も『書紀』と異なり、「出家」して「山」にいたところを「大友皇子」に「襲われ」、「伊勢神宮」に知らせたところ、「伊勢神宮」(大神宮)が「尾張」「美濃」の軍勢を派遣したとされています。「大友皇子」も「近江」の「御楽」(これは「紫香楽」か)で最後を迎えるとされています。
 また、その直前の「白鳳十一年」(辛未)にも以下のような書き方がされています。

「白鳳十一年」(辛未)「役行者上金峰山、…天智之皇子出家入吉野宮、此義未審」

 末尾に「此義未審」つまり、「詳細不明」と書かれているわけですが、さらにこの「壬申の乱」について古代において異説があり、伝承に混乱があったことも「年代記」中の以下の二つの記事から判明します。

「白鳳十九年」(乙卯)の条「或云此年大友皇子起叛逆」
「朱雀元年」(甲申)の条「依信濃国上赤雀為瑞、去年十一月受禅、不受出家居吉野山、大友皇子事也…」

 上の二つの資料は相互に全く食い違っており、しかもその二つとも「白鳳」の欄外の記述とも異なっています。このように、「壬申の乱」が「壬申」ではない年次に起きたものという複数の「説」或いは「伝承」があったことを示すものです。
 つまり、この『日本帝皇年代記』では「壬申の乱」そのものが不確定な書き方となっているわけです。しかし「壬申の乱」は現行の『日本書紀』では「内容」が最も詳しく、最も行数を割いて書かれており、これらのような「不確定」さはありません。これを「未審」という一語で済ますことは出来るはずがないのです。
 「帝皇」の「年代記」を書こうとする人物が『書紀』を見ないとか知らないとか、或いは知っていても「或記」というような表記、表現を『書紀』に対して使用するというようなことは全く考えられるものではなく、この「年代記」の中で『書紀』の存在が希薄であるのは、この記事の原資料となったものが『現行書紀』が編纂される「以前」のものであるという推測が可能でしょう。
 また、「命長六年」(乙巳)「或本大化元年、六月帝即位…」とあるものの、ここでは「蘇我」を打倒した「大化改新」についての記事が一切ありません。「壬申の乱」もそうですが、「大化の改新」も「八世紀」新日本国にとっては重要且つ画期的な出来事であったはずであり、これらのことが明確・詳細に記されていないということを考えると、この「年代記」が参照した「原資料」(「現行」の『日本書紀』の以前の「記録」、『日本紀』や『日本紀』の更にまた「原資料」となったもの)には、「大化の改新」もなければ、「壬申の乱」もなかった、と考えざるを得ません。

 また、この「年代記」の「原資料」が『書紀』はもとより『続日本紀』をも参照していないらしいことは以下の記事からもいえます。
 『続日本紀』によれば「大宝律令」の撰定とその公布に関しては「大宝元年」のこととされているわけですが、「年代記」中では「大化三年」(丁酉)の条に記載されています。

「大化三年」(丁酉)の条「八月一日帝即位、定律令、参議始随官位定衣服云々」

 この「条」では「文武即位」の際に「律令」が公布されたとされているわけです。
 ところで、「木簡」の解析などから「評制」から「郡制」への移行が「完璧」であることが知られており、全国一斉に「郡制」に移行したことがわかります。これは「前もって」準備があって然るべき事実であると考えられていたわけですが、「律令」の公布そのものが『続日本紀』に示す年次より以前であるとすると、非常に納得のいく話であると考えられます。
 「律令」が公布され、それに基づき「行政制度」が変更され、実施(施行)されるというのは順序として整合的であり、実態として「文武」即位時点で「公布」され、周知期間後に「施行」されたという事であったと見るべきでしょう。

 このように現行の『書紀』『続日本紀』の編纂過程にはかなりの紆余曲折があったことが推測できるわけです。この「日本帝皇年代記」はそれを推測させてくれる資料であるわけです。

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