この「日本帝皇年代記」中では「寺院」の創建についてはその「主体」が書かれています。その中に「鎮西」が創建したと受け取ることのできる記事があります。
(以下「日本帝皇年代記」の「寺院」の創建記事の例)
「丁未(勝照)三 太子十五歳七月誅守屋(物部)、然後建四天王寺…」(これは「太子」)
「癸亥(願轉)三 十一月 太子建立蜂崗寺、今廣隆寺也」(これも「太子」)
「丙寅(光元)二 七月 太子着袈裟坐獅子坐、講勝鬘経講已(己?)天両花大三尺也、帝大喜則其地建伽藍、今橘寺是也…」(これは「帝」)
「丁卯(光元)三 太子遣妹子於隋朝衡山、召先身之道具等、建法隆寺」(これは「太子」)
「丁丑(定居)七 太子入定、見来世皇運奏時、建立大安寺…」(これは微妙ですが「遺言」したのは「太子」です)
「丁巳(白雉)六 七月始盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修維摩會、々々々自此時始也」(これは「鎌子」)
「戊辰(白鳳)八 行基并誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(これは「福寺」と「百済寺」双方とも「行基」によるか)
「庚午(白鳳)十 鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」(これが問題の部分で当方の解釈では「鎮西」が「観音寺」と「禅林寺」を建立したと解釈します)
「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永元年 一行阿闍利誕生、建立薬師寺、元正天皇誕生」(これは微妙ですが「無主語」の場合は「帝」と考えられる)
「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建観世音寺、十月不比等修維摩會、屈浄達法師」(ここには「詔」という語が使用されていますから「帝」と思われ、これは『続日本紀』の「元明の詔」につながると思われます)
(以下「観世音寺」建設進捗を促す「元明」の「詔」)
「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
さらに以下に「日本帝皇年代記」の記事を続けます。
「庚戌(和銅)三 不比等興福寺建立、丈六釈迦像大織冠誅入鹿時所誓刻像也、…」(これは「不比等」)
「庚申(養老)四 九月日向・大隅二国叛、祈ウ(宇)佐而後平魁、々平之後量放生會於諸州八幡、於(放)生會始於此、徳道上人建立長谷寺」(これは「徳道上人」)
「癸亥(養老)七 於興福寺建施薬・悲田二院」(これも「無主語」ですから「帝」つまり「元正女帝」と思われますが「皇太子」としての「聖武」かも知れません)
「戊辰(神亀)五 禅無畏三蔵来朝、大知(和)国久米建塔、但未詳、…」(これは「禅無畏」と思われるが「未詳」とするだけあって、「久米寺」そのものについての記事がそれ以前にないなど不審があります)
「甲戌(天平聖暦)六 正月光明皇后於興福寺建西金堂安丈六釈迦像」(これは「光明皇后」)
「丁丑(天平聖暦)九 建八坂塔、…」(無主語であり「帝」(聖武帝)か)
「己亥(天平宝字)三 普光寺慈雲誕生、姓長氏、平安城人也、八月鑑真和尚建立招提寺」(これは「鑑真和尚」)
まだありますが、基本的には上のパターンで尽きていると思われ、「主語」がないケースが「薬師寺」以降多くなりますが、そのような場合は創建主体は「帝」と解釈すべきと思われるのに対して、「建」あるいは「寺院名」の前に何か書いてある場合は、複数の例から帰納してそこに「創建者」が書いてあると考えるべきであり、「観音寺」(と「禅林寺」)の場合は「鎮西」とありますから、「大宰」ないしは「大宰府」がその主体であったと判断するべきではないでしょうか。
そもそもこれは「帝皇」の「年代記」ですから、基本的に「帝皇」に関する事を書くというコンセプトと思われます。そう考えると、「帝皇」の事跡であった場合は特に断ることがないということとなります。(無主語となる)ただし、「帝皇」の行動や事跡「以外」のことについては、その「主体」が誰なのかを明記する必要がある(あった)ということとなるでしょう。(このようなことは「好太王碑文」とも共通するものではないかと思われます。)
この「帝皇年代記」の記述は、各代の「帝皇」の名と即位あるいは死去年次等の記事を冒頭にまとめて書き、以下に彼の治世の年次事に編年体で記事を書くというスタイルです。つまりこの「年代記」中では主語のない事跡・行動は全てその「代」の冒頭に書かれた「帝皇」のなせる業と見るべきであることが推定できます。
以下にそのような例を挙げてみます。
「甲申(仁王)二 四月百済国沙門觀勒任僧正、朝廷初置僧正検校僧尼」
(この代の冒頭記事)
「推古天皇 欽明中女、敏達皇后、卅七歳受禅、治三十六年、仁王六年/三月七日崩、七十三歳、諱額田部、小墾田宮住」
ここでは「觀勒」が「僧正」に任じられていますが、それが誰によるものか書かれていません。しかし、それはその直後に「朝廷」とあることから、「帝皇」に関する事と判明しますが、それは「冒頭」記事から「推古」であることとなります。(事実かどうかではなく、そのような記述体系をとっているということです)
「乙酉(仁王)三 高麗国惠灌来朝、是三論之學者也、夏惠灌任僧正/冬福亮任僧正」
ここも同様に「惠灌」と「福亮」を「僧正」に任じていますが、これも「王権」が関わっていることは明白であり、これも「推古」を指すと思われます。
「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會并最勝講始之」
ここでは「白雉」が「上」(奉られた)とされていますが当然「王権」(帝皇)に対してであり、他に対してではありません。また「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が共に始めて行なわれたとされていますが、ここにも「主体」が書かれておらず、これは「帝皇」に関する事と考えられますが、私見(拙論『「元興寺」と「法隆寺」(一)(二)』)では「元興寺」そのものが「勅願寺」と考えられますので、その意味では整合しています。
「年代記」によればこの齋會の主体は「孝徳」であることとなります。(ちなみにこの「帝皇年代記」の中では「元興寺」だけが唯一創建記事が見あたりません。「いつの間にか」存在しています。)
「丁巳(白雉)六 七月始設盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修/維摩會、々々々自此時始也」
例えばこの記事では「盂蘭盆会」では「主語」がありませんが「維摩会」の方は「内臣鎌子」の事跡として書かれています。つまり「盂蘭盆会」の主体と「維摩会」の主体が異なることが提示されている訳です。「主語」のない「盂蘭盆会」が「帝皇」の事跡であるということになるでしょう。これは「斉明」の事跡と考えられていたこととなります。『書紀』でも「斉明」が「盂蘭盆会」を行なったという記事があります。
「(斉明)三年(六五七年)秋七月丁亥朔辛丑条」「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮會。暮饗覩貨邏人。或本云。堕羅人。」
他にも「斉明五年」にもほぼ同様の記事があります。
(斉明)五年(六五九年)秋七月朔丙子朔庚寅条」「詔群臣。於京内諸寺勸講盂蘭盆經。使報七世父母。」
このように「無主語」の例は他にもありますが、これらからは「無主語」の場合「帝皇」の事跡を指すという原則があると推測できることとなります。
それに関連して、重要なものが以下の記事です。
「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建觀世音寺/十月不比等修維摩會、屈浄達法師」
この記事によれば「詔」により「大宰府」に「観世音寺」を建てさせています。これは「一見」「鎮西建立観音寺」と似たような表現と思われそうですが、「帝皇」(「元明」)が建てた訳ではなく、「大宰府」に対して「建てるように」という「詔」を出したというわけであり、「大宰府」を使役しているのが注目されます。
それに対し「薬師寺」創建記事では「無主語」となっています。
「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永元年 一行阿闍利誕生/建立薬師寺、元正天皇誕生」
このように「薬師寺」の場合は「無主語」であり「帝皇」(この場合「天武」)が「主体」として直接権力を行使していると見られますが、この「観世音寺」の例では「大宰府」を介してという形となっています。しかし、「鎮西建立観音寺」にはそのような「使役」と思われる「語」がありません。そうすると「帝皇」が「鎮西」をして作らしめたという解釈はできないこととなります。
結局、「鎮西」が自分の意志として「観音寺」を建立したということを示すとしか考えられないこととなるでしょう。
この「己酉条」記事は『続日本紀』の以下の記事と連動していると考えられます。
「(七〇九年)二年二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
この中では「筑紫觀世音寺」が「天智」の「誓願」であるとされ、年月が経ったにも関わらず完成していないとされます。そのため、工事を急がせるように指示しているわけです。
しかし『書紀』にはそこに書かれたような「誓願」等の記事がありません。そもそも「観世音寺」という寺名は『続日本紀』で始めて現れるものです。このことは創建に「元明」の王権(新日本国王権)が関わっていないということを示唆するものであると思われますが、それはこの「帝皇年代記」の記述としての「鎮西建立観音寺」という表記と整合していると考えられるものです。
「鎮西」という用語や「観音寺」という用語等はかなり後代のものということは確かですが、そこに示された「事実関係」あるいは「思想」というものはもっと本来の時代に即したものであったと考えることができるのではないでしょうか。
ここで書かれている各「帝皇」については「近畿王権」の「天皇記」そのものと思われますが、「年号」はいわゆる「九州年号」であり、「近畿王権」とは関係を持っていません。それはその「改元」のタイミングに何の根拠もないことから判ります。これは明らかに「近畿王権」とは全く別途に「制定」され、「改元」されています。そのような年号が「近畿王権」の「帝皇年代記」に「基準年」として使用されているのは、それが「近畿王権」の領域内や「近畿王権内」においても使用され、それに基づいて各種の記録が為されていたということの反映であると思われます。
その意味では「近畿王権」を含む複数の「王権」をも統合的に支配する上部組織とでもいうべき「統一王権」の存在を前提にしなければ、ここでこれらの「年号」が使用されている意味について説明がつきません。
上に見たように「庚午」(六七〇年)という年次の記録では「使役」されることなく、自主的に「観音寺」を創建した「鎮西」が、「己酉(和銅)二年」という段階では「元明」の王権から(これは「近畿王権」と考えられる)「大宰府」として「使役」されるというように変化しています。しかも途中で「観音寺」の建設が停止されていたようにも受け取れる記事であり、これらから判断して、「六七〇年」以降に「鎮西」に何か変化が起こり、「近畿王権」の「王」である「元明」から、使役されるような関係に変化したことが窺えることとなるでしょう。
このことから、これらの年号は「元明」以前の「統一王権」の産物であり、それは「自主的」に「観音寺」を創建することができた(近畿王権の支配下になかった)「鎮西」という存在に直結しているということができるでしょう。つまりこれらの年号群について「九州年号」という名称が妥当であることがこのことからも証明できると思われます。