古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『日本書紀』と『日本紀』(続き)4

2015年08月18日 | 古代史
 「鎌倉時代」の僧である「凝然」が書いた『三国仏法傳通縁起』という書物に「道光」という僧についての事績が書かれています。

「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?来所以然者。…」(『三国仏法傳通縁起(下巻)』)

 この記述によると「道光」が「遣唐使」として入唐したのは「天武天皇」の時代のこととされているようであり、一見何の問題もなさそうですが、二つの点で疑問があります。ひとつはこの「道光」という人物が「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が『書紀』にあることです。

「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 『定惠 定惠内大臣之長子也』 安達 安達中臣渠?連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 冰連老人 老人真玉之子 或本以學問僧知弁 義 學生阪合部連磐積而焉并一百二十一人 ?乘一船 以室原首御田為送使 又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人 ?乘一船 以土師連八手為送使。」(『孝徳紀』)

 これによれば彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことと思われ、「天武」の時代ではなかったという可能性が高いと思料されます。しかもその帰国も『三国仏法傳通縁起』の中では「而其帰朝。定慧和尚同時。」と書かれており、「定慧(定惠)」と同時に帰国したとされますが、その「定慧」(定惠)の帰国は『孝徳紀』に引用された「伊吉博徳」の言葉によれば「定惠以乙丑年付劉高等舩歸」とされており、この「乙丑年」は「六六五年」と見られ(※)、それと同時に「道光」も帰国したと見ると大きな食い違いと言えます。(ただし「伊吉博徳」の言葉の中に「道光」の消息が触れられていないのは不明であり、不審といえば不審です。)
 つまり「道光」は「七世紀半ば」に「唐」へと派遣され、「白村江の戦い」が終わった後に帰国したということとなります。しかし『三国仏法伝通縁起』では「戊寅年」に帰国したとされており、整合していません。
 ふたつめの疑問は『三国仏法傳通縁起』に記された滞在年数の短さです。「天武」の初年以降「天武七年」までとするなら当然滞在期間は「七年以内」であったこととなります。しかし、これは「仏教」の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。さらにいえば、通常「遣唐學生」などは「次回」の「遣唐使船」での帰国が原則であり、帰国したとする「六七八年」やその「前年」には「遣唐使」が派遣されていないことと矛盾します。(そもそも「派遣」の記録さえも日本側にも唐側にも存在していません。)
 しかし『書紀』が記すように「白村江の戦い」の後「唐使」の船に便乗したとするならそれほど不審でありませんし、状況も実際的で曖昧ではありません。
 このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、そのため「道光入唐。未詳何年。」としているわけです。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような派遣の記録は『書紀』と整合しないことを知っていたものと思われます。
 『三国仏法傳通縁起』によれば、「道光」が帰国後著した「一巻書」として「依四分律鈔撰録文」という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされています。このことから(「凝然」も含め)一般にこの「浄御原天皇」を「天武天皇」のこととする訳ですが、それでは上に見た『書紀』の記述と整合しないこととなってしまいます。しかしここに「浄御原天皇」とあるのは重要な情報であり、これをむげに「間違い」とすることはできないでしょう。 
 つまり、これらのことは『三国仏法傳通縁起』が云う「浄御原天皇」というのが「天武」ではないことを如実に示すものと思われ、実際には「七世紀半ば」の「倭国王」が「浄御原天皇」と呼称されていたと云うことを示すと思われます。そう考えると『古事記序文』に「太安万侶」が書いた「飛鳥清原大宮」というものも、「七世紀半ば」のものと考える余地があることとなるでしょう。

(※)『天智紀』は「唐」との関係の記事に一年のずれがあると見られ、この「劉徳」の来倭は実際にはこの前年の「六六四年」ではなかったかと思われます。
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『日本書紀』と『日本紀』(続き)3

2015年08月18日 | 古代史
 すでにみた『日本後紀』(逸文)の中に書かれている「藤原継縄」の「桓武天皇」に対する「上表文」の中に以下の表現があります。

「襲山肇基以降浄原御寓之前、神代草昧之功往帝庇民之略」

 この文章は『続日本紀』の前に存在していた「前日本紀」の書かれている範囲としての表現です。そして、これに続く『続日本紀』の「範囲」としては「文武」から以降が書かれているという意味の文章となっていて、このことから「浄原御寓」が「文武」の治世を指す表現と推察されることを述べたわけですが、ここに書かれた「襲山肇基」と「神代草昧之功」、「清原御寓之前」と「往帝庇民之略」という対句表現に注目です。
 この「襲山肇基」というのが「天孫降臨」つまり「ニニギの尊」が「そやま」に天下った故事を指すものであると考えられるわけですから、当然「浄原御寓之前」というのが「持統」の代の事績を表現することとなるものと思われるわけですが、そこには「往帝」とあり、また「庇民」とあります。
 この「庇民」とは「庇」が「かばう」「守る」という意義があることから「民を守護する」という、「為政者」の行なうべき最高のこととされ、『礼記』にも「庇民之大」とも称される先例がある用語です。このような用語が使用される条件を「持統」は備えているのでしょうか。
 「持統」は「伊勢行幸」の際に「農時」の妨げになるという「大神朝臣高市麿」の諫言を振り切って行幸を決行した過去があります。この行為が「農民」にとって大きな負担であったことは間違いなくそれは「庇民」の語の持つ意義と全く反していることとなるでしょう。そのような表現は「持統」にはそぐわないものであり、ふさわしいとはいえないと思われます。その意味では「浄原御寓之前」とされる人物が「持統」であるかは疑問とするところです。

 ところで『古事記序文』に「飛鳥清原大宮」という表現が出てきます。
 以下に「太安万侶」が記したという『古事記』の「序文」の一部を記します。

「…曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位…」

 ここでこの『序文』の主人公は(これは一般に「天武」とされるわけですが)「壬申の乱」とおぼしき戦いの後「清原大宮 昇即天位」というわけです。ここでいう「飛鳥清原大宮」とは、いわゆる「飛鳥浄御原宮」を指すと考えられ、『書紀』では「壬申の乱」の直後の記事に出てくるのが初出です。

「天武天皇元年(六七二年)是歳。營宮室於崗本宮南。即冬遷以居。焉是謂『飛鳥淨御原宮』。」

さらにこの「宮」で「年が明けた冬二月」に「飛鳥淨御原宮」で即位したように書かれています。

「天武天皇二年(六七三)二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於『飛鳥浄御原宮』。…」

 しかし、このような「宮殿」を「壬申の乱」の終結後に造営するのはかなり困難なのではないでしょうか。
 この「飛鳥浄御原宮」は単なる「仮宮」ではないと考えられ、「序文」の中でも「清原『大宮』」という表現がされているように、かなり「大規模」なものであったと思料されます。しかし、下に見るように実際には短期間で造営が完了しているように見えます。
 『書紀』によれば「壬申の乱」の終結が「八月」の末であり、「九月」に入ってから「帰途」に着いています。

「八月庚申朔甲申(二十五日)。命高市皇子宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑。仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日。左大臣蘇我臣赤兄。大納言巨勢臣比等及子孫并中臣連金之子。蘇我臣果安之子悉配流。以餘悉赦之。先是。尾張國司守少子部連鋤鈎匿山自死之。天皇曰。鋤鈎有功者也。無罪何自死。其有隱謀歟。
丙戌(二十八日)。恩勅諸有功勳者而顯寵賞。
九月己丑朔丙申(八日)。車駕還宿伊勢桑名。」

 当然この時点から造営を始めたと理解するしかないわけですが、「即冬遷以居」とされていますから、「年内」に「遷居」したこととなりますが、このような短期間で大規模な「宮」を完成するなどということが可能であったとは思われません。しかもその工事期間は「冬季」を含んでいますから、進捗がはかばかしくなかった可能性も考えられ、ますます「年内」の完成と「遷居」が事実であったとは考えにくいものです。このことは「壬申の乱」の以前から「飛鳥浄御原宮」が存在していたのではないかということを推定させるものです。
 「天武」の前代の「天智」は「近江」に「宮」を築いていたものであり、「飛鳥浄御原宮」というものが「天智」の「主たる統治場所」でなかったことは確かですし、「近江遷都」した以降に築かれたと言う事も考えられませんから、必然的に「近江遷都」以前から「飛鳥浄御原宮」は存在していたこととなります。つまり、「斉明」の代以前からの存在と見られることとなります。そうであれば「序文」中の「飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世」というものは「天智」の「前の時代」を指す言葉と考えることが可能となり、実年代としては「六六〇年」以前を指すと考えられることとなります。
 つまり『古事記序文』の主人公は一般に考える「天武」ではないこととなるでしょう。そう考えれば「往帝」や「庇民」という表現をされている「浄原御寓之前」という人物についても「持統」でも「天武」でもないという可能性を示唆するものです。それを示唆するのが「道光律師」に関する記事です。
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『日本書紀』と『日本紀』(続き)2

2015年08月18日 | 古代史
 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。…修國史之墜業。補帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…」(『日本後紀』巻三逸文)

 この『逸文』の中には「先典」という言い方が出てきます。これは前述の『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原御寓之前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。
 そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。
 『国史大系』本の『日本後紀』(逸文)の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それではそれに続くはずの『持統紀』が『書紀』にも『続日本紀』にも存在しないこととなってしまいます。さらに「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまうでしょう。『書紀』では「天武」は「壬申の乱」の後「浄御原宮」で即位したとされているからです。

「(六七三年)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。」(『天武紀』)

 つまり「天武」も「浄原御寓」と呼称されて当然といえるわけであり、「浄原御寓『之前』」を「天武」とするわけにはいかないと思われ、この解釈には通釈としても問題があることは間違いないと思われます。
 現代ではこの部分については「清原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔に「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」(『続日本紀』(元明紀))

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」(『続日本紀』(聖武紀))

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。「浄原」や「清原」なら「藤原」との錯乱もありそうですが「浄御原」となるとそう簡単にはいかず、「藤原」との錯乱とは安易には言えなくなります。つまり、単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われることとなるでしょう。
 つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。
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『日本書紀』と『日本紀』(続き)

2015年08月16日 | 古代史
 『日本書紀』とは別に『日本紀』があったとみられるわけですが、以下はそれに関連するものです。
 以前添田馨氏の論(※1)について触れたことがありますが、彼の考察の中心をなす主張は『続日本紀』編纂の際に「貨幣」鋳造の功績を「新日本王権」のものとするため、関連記事の年次を移動したというものであり、具体的には「同じ日付干支」を持つ日付へと移動したとされています。
 彼の文によれば『筆者の考えでは、『続日本紀』の編纂者は過去に発生した一連の出来事を、それと同じ日付干支の配列を持つ『続日本紀』内の収録年次にひとつひとつ貼り付けていったのであろう。』とされていますが、「年次移動」があるという点についてはその通りと思われ、その点を指摘した論が少ない中では大変貴重です。また、同様の主張は正木裕氏の「三四年遡上」論(※2)にも現われ、それによれば「年次移動」の際の移動先の日付は元々の「干支」を温存する形で選択されたとしています。これらの主張は「貨幣関連」などの元々の記録には「日付」に「干支」が併記された形で残っていたということを前提としていますが、それは一見疑問とするところです。それは『書紀』の範囲である「七世紀代」には「干支」が併記されない形の「暦」が使用されていたのではないかという疑いがあるからです。それを端的に示すのが「文武」の即位日付です。
 「文武」の即位は『書紀』と『続日本紀』では日付干支が異なります。

「(六九七年)八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」『持統紀』
「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。」『文武紀』

 このように『書紀』では「八月乙丑朔」ですが『続日本紀』では「八月甲子」と書かれています。この差は使用した暦の違いとされ、『書紀』は「元嘉暦」、『続日本紀』は「儀鳳暦」によったためとされますが、そもそも「禅譲」が行われ即位した日付が、この段階の宮廷記録では「八月一日」とだけ記録または記憶されていたこととなるものと思われ、「日付」に干支を伴った記録ではなかったこととなるでしょう。その記録に『書紀』や『続日本紀』編纂時点で「干支」を「当てはめた」ということとなるものと思われますが、そのような解釈が不自然ではないのは『斉明紀』に出てくる『伊吉博徳書』でも「日付」に「干支」が使用されておらず、単に数字だけが使用されていることでも窺えます。

「…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…」『斉明紀』

 しかもその「暦」は閏月とその前月の「大小」を間違えています。上を見ると「潤十月」に「卅(三十)日」があるように書かれていますが、実際にはこの「潤十月」は「小の月」であり、二十九日までしかありませんでした。(ただし「元嘉暦」(×)→「戊寅元暦」の誤り)
 この「暦」では冬至と十一月朔日の干支が一致していることは承知しているものの、「潤十月」を「大の月」としてしまい、その前月の十月を「小の月」としていたらしいと思われます。しかし、実際はその逆であり、十月が「大の月」、「潤十月」は「小の月」であったものです。
「伊吉博徳」が個人で暦を造っていたはずがないと思われますから、これは時の王権から頒布された暦が「間違っている」ということとなるでしょう。
そして、そのような間違いのあるものが「唐」から頒布されるはずがなく、これは「倭国」の王権内部で独自に作成された暦であり、そのため誤差あるいは誤解があったとみられることとなります。そしてその暦では日付表記に「干支」が使用されていないということとなるでしょう。
 このことは「倭王権」が「暦」を作成した際の「計算」に「誤解」があると共に、その計算に「干支」が使用されていなかった可能性が高いと思われます。そう考えてみてみると、「金石文」(墓碑など)や「木簡」などで「日付」に「干支」が(数字と共に)併用されている例がほぼ皆無であることに気がつきます。例えば「山上碑」でも数字日付が使用されています。

「辛巳歳集月三日記…」

 また「金井沢碑」でも「干支」が日付に使用されていません。

「…神亀三年丙寅二月廿九日」

 さらに「多胡碑」では「干支」が日付に使用されていますが、これはかなり後代のものであってしかもこの碑文は大部分が公式文書の丸写しと思われますから「干支」があるのは当然といえます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

また「七世紀代」の木簡を見ても「日付」に「干支」が併記されている例が見あたりません。(以下の例など多数)

「乙丑年(これは六六五年か)十二月十日酒□〔人ヵ〕・「他田舎人」古麻呂」(長野県更埴市雨宮 屋代遺跡群)

ただし、八世紀初頭の郡符木簡でも干支は日付に使用されていませんし、「大宝元年木簡」にも「日付」は数字だけで「干支」は書かれていません。というより木簡データベース(奈文研作成のもの)を検索しても「数字日付」に「干支」を併記した例がほとんど見られないのです。
 これらのことから「公式文書」には「数字」と「干支」を併記することが決まっていたとしても、一般にはほとんど日付は「数字」だけで表記されていたらしいことが推定されますが、それは「王権」から「頒布」された「暦」にそもそも「干支」が書かれていなかったという可能性を示唆します。

 ところで、「日付干支」の使用例は以下のものが確認できます。たとえば、「那須直韋提」の碑文です。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年(七〇〇年)正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰/惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照/一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曾/子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子/不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助/坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 ここには「歳次庚子年正月二/壬子」というように「数字日付」の他に「干支」が書かれています。
さらに「伊那公高見」の墓誌にも「干支」が日付として現われます。

「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年卌(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」

 これを見ると「慶雲四歳(七〇七年)在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年卌(四十)六」「■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」とあり、前半では日付は干支で示されていませんが、埋葬段階では「干支」が書かれています。もっとも、この「墓誌」は「埋葬」された年を「其の年」と表現しているなど、「埋葬」された年の内に「墓誌」が書かれたわけではないことが示唆されます。つまり、「墓碑」などある程度長期にわたって残るものには「干支」を使用する例が「七〇〇年」以降は出てきているとはいえるものの、「木簡」や「七世紀代」においては「日付」に「干支」が併記された例が見あたらず、「倭王権」の作成した「暦」には「干支」が書かれていなかったことが強く示唆されます。そしてそれが書かれ始めるのは「儀鳳暦」の導入と関係があるものと思われ、この「暦」の導入以降「干支」が併記されるようになったものではないでしょうか。

 以上のことは「貨幣」関連記事の年次を移動したり、「三四年遡上」において年次移動を行うという潤色に際して「日付干支」が温存されたという考え方が一見成立しないように見えるわけです。たとえば、上に推察したように記録が「数字日付」だけであったという可能性を考えると、計算によって「干支」を算出し、同じ「干支」の別の日に貼り付けるという作業を行ったと推定するしかなくなるわけですが、そのようなことを行う動機が不審となってしまいます。このように一見「不審」といえるわけですが、この推定は「宮廷内記録」から現行『書紀』を作ったとする考え方から発生する齟齬であると思われます。

 そもそも『書紀』や『続日本紀』のように「日付」を「干支」で表わすのは「中国史書」がそうであり、『書紀』などが「参考」にしたと思われる『後漢書』『隋書』などは日付は全て「干支」で表わしています。この形式を採用したがために「日付」と共に「干支」が必要となったものと思われるわけですが、それを最初に採用したのは現行『書紀』ではないと思われ、それに先行する『日本紀』であると思われるわけです。
 もし「早い段階」で『書紀』の初期型である『日本紀』が書かれていたとすると、その段階ですでに「干支」へと換算した日付表記となっていたという可能性があるでしょう。この段階では「計算」により「干支」を算出したと思われるわけです。(この段階では当然年次移動はありません)それを元に後に「年次移動」という潤色を加え現行の『書紀』が成立したとすると、その際に元となった『日本紀』の「干支」を温存するということは充分あり得ることと思われるわけです。なぜなら『日本紀』はかなりの数敷衍されていたものと思われますから、それと齟齬する「日付干支」の違いは避けるべきと考えられたことでしょう。(「年次」の違いは「年号」を省いて「干支」だけにすれば見分けがつかないと考えたものではないでしょうか。)


(※1)添田馨『「和同開珎」再考 ─上古貨幣を支えた社会経済思想』(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報 2012-2013)
(※2)正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について」『古田史学会報』77号 2006年12月8日他の一連の研究
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『日本書紀』と『日本紀』

2015年08月16日 | 古代史
 現行『書紀』(『日本書紀』)の次の歴史書は『続日本紀』とされていますが、これは文字通り『日本紀』に「続」ける、という意味と考えられ、『続日本紀』の前の歴史書が『日本書紀』ではなく、『日本紀』という史書名であったことが読み取れます。つまり、『続日本紀』という史書が書かれた段階では『日本紀』が存在しており、だからこそ、その『日本紀』に続ける意味で「続」『日本紀』という史書名となったものと思われるわけです。(六国史は全体して『日本書紀』との書名の関連が薄いと思われます)
 『続日本紀』は「淳仁天皇」(淡路廃帝)の時代から編纂が開始され、「光仁天皇」の時代も継続し、最終的に編纂が終了したのは「七九七年」「桓武天皇」の時と言われています。このことは完成年次である「七九七年」の時点で『日本紀』が存在していたことを示すものとも考えられます。
 その後『日本後紀』卷五によれば「七九七年(延暦十六年)二月己巳(十三日)」に「嵯峨天皇」により以下の「詔」が出されています。

「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」「是日。詔曰。天皇詔旨良麻止勅久。菅野眞道朝臣等三人。『前日本紀』與利以來未修繼在留久年乃御世御世乃行事乎勘搜修成弖。續日本紀・卷進留勞。勤美譽美奈毛所念行須。故是以。冠位擧賜治賜波久止勅御命乎聞食止宣。從四位下菅野朝臣眞道授正四位下。從五位上秋篠朝臣安人正五位上。外從五位下中科宿禰巨都雄從五位下。」

 そこでは『続日本紀』の「前史」が『日本紀』であることが「明示」されています。天皇の詔自体に使用されている用語ですから、これを安易に「略語」的使用と考えることはできず、『日本紀』が「正式名称」であるという可能性が高いものと考えられます。
 また、『続日本紀』には、『日本紀』の編纂についての記事があります。

「(養老)四年(七二〇年)五月癸酉…
先是一品舎人親王奉勅修『日本紀』 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

 この記事によっても、編纂されたのは『日本紀』であって『日本書紀』ではないことがわかります。
 この考え方は『万葉集』にも明証があります。『万葉集』の左注には『日本紀』からとして引用されているものがあります。
 例を挙げますと、『万葉集』の巻一の四十四番歌の「左注」があります。

「右、『日本紀』に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戌辰、浄廣肆広瀬王等を以ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰さく、農作の前に、車駕未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(あはめ)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児の仮宮に御すといえり。」

 これを同じ事件を記した『書紀』で見てみると以下のように書かれています。

「(持統)六年三月丙寅の朔戊辰に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張等を以て、留守官とす。是に、中納言大三輪朝臣高市麻呂、其の冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫めて曰く、農作の節、車駕、未だ以て動きたまふべからず」とまうす。辛未に、天皇諫に従ひたまはず、遂に伊勢に幸す。」

 ここで引用されている『日本紀』という史書には「朱鳥六年」までの記事が存在しており、これは現行『日本書紀』には存在しないものです。つまり、現行『日本書紀』とは違う『日本紀』という史書が存在していたということとなるでしょう。
 また『延喜式』には「凡践祚大甞祭『日本紀』云『安万乃日嗣』為大祀。」と書かれており、ここでも『日本紀』と書かれ、しかもそこでは「大嘗祭」のことを「安万乃日嗣」と称したというのですが、現行『日本書紀』には、どこにもそのような記述がありません。僅かに『続日本紀』中の「宣命」の中で「天津日嗣」という言葉が出て来ますが、いずれにしても『延喜式』の主張するところとは異なっています。
 また『本朝書籍目録』という十三世紀に編纂された、当時「確認」可能であった(と思われる)書籍全てを網羅したデータベースともいえるものにおいても「日本紀 三十巻 舎人親王撰 従神武至持統四十一代」とあり、まだその時点で『日本紀』が存在しているらしく、『日本書紀』ではないことが「注意」されます。 
 いずれにしても現行の『日本書紀』とは違うものが当時『日本紀』として存在し、認識されていたことを示すものと思われます。

 また「八一二年」(弘仁三年)と「八一三年」(弘仁四年)に行われた宮中の諸官人に対する講義でも『日本紀』が講義されています。

「六月戊子。(中略)是日。始令參議從四位下紀朝臣廣濱。陰陽頭正五位下阿倍朝臣真勝等十餘人讀『日本紀』。散位從五位下多朝臣人長執講。」「日本後紀」弘仁三年(八一二)六月戊子(丁亥朔二)条

 また、この時『日本紀』を講義した「多朝臣人長」が著した「弘仁私記序」の中にも同じ内容が書かれています。

「今然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日 天智天皇之後 柏原天王之王子也。愍舊?將滅 『本紀』合訛。詔刑部少輔從五位下多朝臣人長 祖禰見上。使講『日本紀』。」「弘仁私記序」

 また「卜部兼方」の著とされる『釈日本紀』という書もそのタイトルに『日本紀』とあり、これは彼の父である「兼文」が「宮中」で講釈した内容に「奈良時代以降」の注釈書などを多く引用した「書紀注釈書」の集大成とされることからも、参照した「奈良時代以降」には『日本紀』と称するものしかなかった可能性が高いものと推量します。

 さらにいえば「紫式部」は「日本紀の局」と時の天皇から称されたとされますし、物語に中にも『日本紀』という呼称が現れますが(蛍の巻)、実際には内容を見ると『続日本後紀』や『聖徳太子伝暦』に材をとった部分があるなどの事実が確認されるものの『書紀』との関連は薄いと思われている点が齟齬しています。
 しかし前述した『弘仁私記序』の中には以下の文章があります。

「如此之書觸類而夥 夥多也。?駮舊? 眩曜人看。?駮差雜貌。或以馬為牛 或以羊為犬。輙假有識之號 以為述者之名。謂借古人及當代人之名。即知官書之外多穿鑿之人。是以官禁而令焚人惡而不愛。今猶遺漏遍在民間多偽少真無由刊謬。是則不讀舊記『日本書紀』古事記諸民等之類。無置師資之所致也。翻士為師弟子為資。」

 ここには『日本書紀』と明確に書かれています。つまり『弘仁私記序』の中には『日本紀』と『日本書紀』が同居しているわけであり、そこに「庚申天皇生年」とあるので、この「庚申」の年が「弘仁十年」(八一九年)であることが判明し、その時点では『日本書紀』がすでに存在しているとみられることとなります。
 また、この「多人長」の「弘仁私記序」には「延暦年中」(八世紀の終わりごろ)のこととして、「図書寮」や民間にある『書紀』を調べたところ本体三十巻と「帝王系図」一巻のほかに、更に別の「帝王系図」があるのが発見され、その中では「新羅や高句麗の人間が天皇になったり、民間人が天皇になったりしたことがある」などと書かれていたので、「禁書」とみなされ、「焚書」(焼く)とするよう下命が出されたが、いまだに残っているようだ、と書かれています。

「更有帝王系圖。天孫之後悉為帝王。而此書云或到新羅高麗為國王 或在民間為帝王者。■茲延暦年中下符諸國令焚之。而今猶在民間也」

 そして、このようなものには誤りが多く、正しいことが少ないとされ、それを是正するために「再編纂」が行われたのだ、というのです。
 このように「桓武天皇」のころには『日本紀』にはいくつか「異系統本」が存在していたものと思われ、「桓武天皇」やその後の「嵯峨天皇」などがこれを忌み嫌って「焚書」にしたもののようです。また、同じような理由により、改めて「準正」といえる史書を作ろうとしたのでしょう。(「百済」出身者を母に持つ「桓武」達にしてみれば、「新羅」「高麗」の人間が「帝皇」になったなどと書かれている点が最も忌み嫌うべきものであったと思われ、それらを排する立場で書き直されたものと考えられることとなります。)
 そうしてできあがったものが今現存している『日本書紀』であると思われ、それは『日本紀』を相当程度潤色して成立したものと思われますが、ではその時点で『日本紀』が失われたかというそうではなく、その後も生き残り続けたものと理解できます。それが『本朝書籍目録』などに記載されたとみられるわけです。
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