「怒り心頭に発する」という言い方があります。現代ではこれを「怒り心頭に『達する』」というように誤用されることがしばしばのようです。そしてたいていの場合は「これは間違いですから気をつけましょうね」的な解説がされています。この誤用が「なぜ」発生するかについて、解説した文章にはお目にかかったことがありません。
人間というのは、ただ「間違い」だ、と言われたところでそうそう簡単に改まるはずがないと思われます。「間違い」を何とか減らそうとするならばその「間違い」が発生する「メカニズム」に焦点を当てなければならないでしょう。
上の例の誤用の元となっているものは、「に」という助詞であると考えられます。「怒り心頭『に』」の「に」です。この「に」という助詞は現代ではほぼ「目的地」「到達地」しかあらわさない助詞であり、他の意味ではほとんど使用されないのです。たとえば「学校『に』行く」「彼女『に』会った」などです。英語的に表現すると「to」か「at」に該当するでしょうか。この「に」が使用されているため、この「目的地をあらわす」助詞に連結しやすい単語(動詞)が選ばれ、発音も似ているので誤用されてしまい、「発する」ことなく「達する」こととなってしまうのだと考えられます。
と、ここまで考えたときにあることに気がつきました。それはこの慣用句を創出した(あるいは訳した)人物についてです。この人物にとって「に」という助詞は「紛らわしくなかった」のでしょう。もし「紛らわしかった」ならば、たとえば「に」ではなく「より」とか「から」などという助詞を使用したことと推察されます。つまり、彼にとっては「に」には「from」の意味しかなく、「to」や「at」の意味がなかったものなのではないでしょうか。このような人物は一体どこのどなたでしょうか。
これについては「室町時代」の有名なことわざが頭に浮かびます。それは「京へ筑紫に坂東さ」という言葉です。「室町時代」にポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが書いた『大日本文典』という「宣教師」向けの辞典に出てくるものですが、この言葉の意味は「目的地」をあらわす助詞として、「京」では「へ」を使うが「筑紫」では「に」を使い、「坂東」(関東)では「さ」を使用する、というものです。ところがこれより百年あまり以前に書かれた『実隆公紀』(西三条実隆による日記)には「筑紫と「京」が入れ替わって書かれており、「京ニ筑紫ヘ板東サ」となっています。
『実隆公記』の「明応五年(一四九六年)正月九日」の条に「宗祇(これは有名な連歌師)談」として「京〈ニ〉、ツクシ〈ヘ〉、板東〈サ〉/京〈ニハ〉イツクニユク〈ナト云〉、筑紫〈ニハ〉イツクヘユクナト云、板東〈ニハ〉イツクサユクト云、…」(ただし「〈」、「〉」は小文字で書き表す意です)
「宗祇」は各地を旅して回っていたようですから、各地の言葉の違いが印象に強く残ったものでしょう。「宗祇」も「三条西実隆」も京の人ですから、その彼が(彼等が)「京では…」として書いているこの記述はおよそ信用できるのではないかと思われます。このような慣用的使用法が彼らにとってなじみのないものであったなら、そのような一文があってしかるべきですが、「三条西実隆」はここでは特に異を唱えていません。
またこの「実隆」や「宗祇」の時代から「百年ほど」経過すると「京」と「筑紫」で使用法が逆転するというのも考えにくいものであり、これは『実隆公紀』に書かれた記述の方が正しいのではないかと考えられるものです。
『実隆公記』による「宗祇」の言葉を「助詞」の使用原則としてこの「怒り心頭に発する」という「慣用句」に適用すると、『大日本文典』から推定した結論とは逆に、この言葉の創作者あるいは訳者は「筑紫」の人物という可能性が出てきます。つまり、「目的地」あるいは「到達地」に使用されるべき「に」をここに使用して誤解を生まない、と考えるのは「京」以外の地域であり、また「坂東」のはずもないと考えられるからです。
ところで「に」と「へ」という「助詞」の違いについては各種研究がありますが、「に」が広範に使用され、その意味も広いのに対して「へ」の方は「限定的」であることが知られています。
たとえば「に」には上に述べた「到達地」「目的地」の他多くの意味があることが知られていますが、「へ」については「目的地」そのものではなくそこへの「方向」を示す意味があるとされ、また同時に「公的」な場における発言などある意味「堅苦しさ」が必要な場合に使用されるようです。
これらは現代の用法であり、中世あるいはそれ以前はどうであったかやや不明ですが、「万葉集」などでは「に」の例が多く見られ「へ」は少ないとされます。
その『万葉集』の中でも「に」は「目的地」の意味で使用されているのがほとんどであり、「出発地」の意で使用されているのは非常に少ないといえます。なぜなら当時「出発地」を表す助詞としては「従」(ゆ)があったからです。
そう考えると、この「怒り心頭に」という言い方はかなり古いと考えられるものの、「万葉」の時代までは遡るものではなく、中世以降あるいは近代のものであるという可能性もあるでしょう。
現在「標準語」として機能しているのは「東京語」ですが、それは上に見る「板東」の言葉とも当然違うと共に「江戸時代」に存在していた「江戸語」ともまた違うものです。
それは明らかに「明治維新」による「薩長土肥」という「官軍」によるものであり、「漢音」中心とした「法律」などの官式用語として「筑紫」方言が使用され、公的な場で使用されたと見られることと関係しているでしょう。明治以来、「に」が表していた「目的地」「到達地」を表す意味は公的には「へ」に取って代わられたものですが、大多数を占める江戸市民はその影響を僅かしか受けなかったと見られ、非公式な場ではそれまでの「江戸語」が生き残り、それが「に」の多様性として生き残っているのではないでしょうか。
このため、「怒り心頭に発す」という言葉についても「に」を「目的地を表す助詞」として認識するのが一般化したものと思われ、「達する」方へ誤用が多数を占めると言う現象が起きているものと推察します。
人間というのは、ただ「間違い」だ、と言われたところでそうそう簡単に改まるはずがないと思われます。「間違い」を何とか減らそうとするならばその「間違い」が発生する「メカニズム」に焦点を当てなければならないでしょう。
上の例の誤用の元となっているものは、「に」という助詞であると考えられます。「怒り心頭『に』」の「に」です。この「に」という助詞は現代ではほぼ「目的地」「到達地」しかあらわさない助詞であり、他の意味ではほとんど使用されないのです。たとえば「学校『に』行く」「彼女『に』会った」などです。英語的に表現すると「to」か「at」に該当するでしょうか。この「に」が使用されているため、この「目的地をあらわす」助詞に連結しやすい単語(動詞)が選ばれ、発音も似ているので誤用されてしまい、「発する」ことなく「達する」こととなってしまうのだと考えられます。
と、ここまで考えたときにあることに気がつきました。それはこの慣用句を創出した(あるいは訳した)人物についてです。この人物にとって「に」という助詞は「紛らわしくなかった」のでしょう。もし「紛らわしかった」ならば、たとえば「に」ではなく「より」とか「から」などという助詞を使用したことと推察されます。つまり、彼にとっては「に」には「from」の意味しかなく、「to」や「at」の意味がなかったものなのではないでしょうか。このような人物は一体どこのどなたでしょうか。
これについては「室町時代」の有名なことわざが頭に浮かびます。それは「京へ筑紫に坂東さ」という言葉です。「室町時代」にポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが書いた『大日本文典』という「宣教師」向けの辞典に出てくるものですが、この言葉の意味は「目的地」をあらわす助詞として、「京」では「へ」を使うが「筑紫」では「に」を使い、「坂東」(関東)では「さ」を使用する、というものです。ところがこれより百年あまり以前に書かれた『実隆公紀』(西三条実隆による日記)には「筑紫と「京」が入れ替わって書かれており、「京ニ筑紫ヘ板東サ」となっています。
『実隆公記』の「明応五年(一四九六年)正月九日」の条に「宗祇(これは有名な連歌師)談」として「京〈ニ〉、ツクシ〈ヘ〉、板東〈サ〉/京〈ニハ〉イツクニユク〈ナト云〉、筑紫〈ニハ〉イツクヘユクナト云、板東〈ニハ〉イツクサユクト云、…」(ただし「〈」、「〉」は小文字で書き表す意です)
「宗祇」は各地を旅して回っていたようですから、各地の言葉の違いが印象に強く残ったものでしょう。「宗祇」も「三条西実隆」も京の人ですから、その彼が(彼等が)「京では…」として書いているこの記述はおよそ信用できるのではないかと思われます。このような慣用的使用法が彼らにとってなじみのないものであったなら、そのような一文があってしかるべきですが、「三条西実隆」はここでは特に異を唱えていません。
またこの「実隆」や「宗祇」の時代から「百年ほど」経過すると「京」と「筑紫」で使用法が逆転するというのも考えにくいものであり、これは『実隆公紀』に書かれた記述の方が正しいのではないかと考えられるものです。
『実隆公記』による「宗祇」の言葉を「助詞」の使用原則としてこの「怒り心頭に発する」という「慣用句」に適用すると、『大日本文典』から推定した結論とは逆に、この言葉の創作者あるいは訳者は「筑紫」の人物という可能性が出てきます。つまり、「目的地」あるいは「到達地」に使用されるべき「に」をここに使用して誤解を生まない、と考えるのは「京」以外の地域であり、また「坂東」のはずもないと考えられるからです。
ところで「に」と「へ」という「助詞」の違いについては各種研究がありますが、「に」が広範に使用され、その意味も広いのに対して「へ」の方は「限定的」であることが知られています。
たとえば「に」には上に述べた「到達地」「目的地」の他多くの意味があることが知られていますが、「へ」については「目的地」そのものではなくそこへの「方向」を示す意味があるとされ、また同時に「公的」な場における発言などある意味「堅苦しさ」が必要な場合に使用されるようです。
これらは現代の用法であり、中世あるいはそれ以前はどうであったかやや不明ですが、「万葉集」などでは「に」の例が多く見られ「へ」は少ないとされます。
その『万葉集』の中でも「に」は「目的地」の意味で使用されているのがほとんどであり、「出発地」の意で使用されているのは非常に少ないといえます。なぜなら当時「出発地」を表す助詞としては「従」(ゆ)があったからです。
そう考えると、この「怒り心頭に」という言い方はかなり古いと考えられるものの、「万葉」の時代までは遡るものではなく、中世以降あるいは近代のものであるという可能性もあるでしょう。
現在「標準語」として機能しているのは「東京語」ですが、それは上に見る「板東」の言葉とも当然違うと共に「江戸時代」に存在していた「江戸語」ともまた違うものです。
それは明らかに「明治維新」による「薩長土肥」という「官軍」によるものであり、「漢音」中心とした「法律」などの官式用語として「筑紫」方言が使用され、公的な場で使用されたと見られることと関係しているでしょう。明治以来、「に」が表していた「目的地」「到達地」を表す意味は公的には「へ」に取って代わられたものですが、大多数を占める江戸市民はその影響を僅かしか受けなかったと見られ、非公式な場ではそれまでの「江戸語」が生き残り、それが「に」の多様性として生き残っているのではないでしょうか。
このため、「怒り心頭に発す」という言葉についても「に」を「目的地を表す助詞」として認識するのが一般化したものと思われ、「達する」方へ誤用が多数を占めると言う現象が起きているものと推察します。