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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

怒りは心頭に「発する」のか「達する」のか

2015年08月24日 | 言語・文法など
 「怒り心頭に発する」という言い方があります。現代ではこれを「怒り心頭に『達する』」というように誤用されることがしばしばのようです。そしてたいていの場合は「これは間違いですから気をつけましょうね」的な解説がされています。この誤用が「なぜ」発生するかについて、解説した文章にはお目にかかったことがありません。
 人間というのは、ただ「間違い」だ、と言われたところでそうそう簡単に改まるはずがないと思われます。「間違い」を何とか減らそうとするならばその「間違い」が発生する「メカニズム」に焦点を当てなければならないでしょう。

 上の例の誤用の元となっているものは、「に」という助詞であると考えられます。「怒り心頭『に』」の「に」です。この「に」という助詞は現代ではほぼ「目的地」「到達地」しかあらわさない助詞であり、他の意味ではほとんど使用されないのです。たとえば「学校『に』行く」「彼女『に』会った」などです。英語的に表現すると「to」か「at」に該当するでしょうか。この「に」が使用されているため、この「目的地をあらわす」助詞に連結しやすい単語(動詞)が選ばれ、発音も似ているので誤用されてしまい、「発する」ことなく「達する」こととなってしまうのだと考えられます。

 と、ここまで考えたときにあることに気がつきました。それはこの慣用句を創出した(あるいは訳した)人物についてです。この人物にとって「に」という助詞は「紛らわしくなかった」のでしょう。もし「紛らわしかった」ならば、たとえば「に」ではなく「より」とか「から」などという助詞を使用したことと推察されます。つまり、彼にとっては「に」には「from」の意味しかなく、「to」や「at」の意味がなかったものなのではないでしょうか。このような人物は一体どこのどなたでしょうか。

 これについては「室町時代」の有名なことわざが頭に浮かびます。それは「京へ筑紫に坂東さ」という言葉です。「室町時代」にポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが書いた『大日本文典』という「宣教師」向けの辞典に出てくるものですが、この言葉の意味は「目的地」をあらわす助詞として、「京」では「へ」を使うが「筑紫」では「に」を使い、「坂東」(関東)では「さ」を使用する、というものです。ところがこれより百年あまり以前に書かれた『実隆公紀』(西三条実隆による日記)には「筑紫と「京」が入れ替わって書かれており、「京ニ筑紫ヘ板東サ」となっています。
 
 『実隆公記』の「明応五年(一四九六年)正月九日」の条に「宗祇(これは有名な連歌師)談」として「京〈ニ〉、ツクシ〈ヘ〉、板東〈サ〉/京〈ニハ〉イツクニユク〈ナト云〉、筑紫〈ニハ〉イツクヘユクナト云、板東〈ニハ〉イツクサユクト云、…」(ただし「〈」、「〉」は小文字で書き表す意です)

 「宗祇」は各地を旅して回っていたようですから、各地の言葉の違いが印象に強く残ったものでしょう。「宗祇」も「三条西実隆」も京の人ですから、その彼が(彼等が)「京では…」として書いているこの記述はおよそ信用できるのではないかと思われます。このような慣用的使用法が彼らにとってなじみのないものであったなら、そのような一文があってしかるべきですが、「三条西実隆」はここでは特に異を唱えていません。
 またこの「実隆」や「宗祇」の時代から「百年ほど」経過すると「京」と「筑紫」で使用法が逆転するというのも考えにくいものであり、これは『実隆公紀』に書かれた記述の方が正しいのではないかと考えられるものです。
  『実隆公記』による「宗祇」の言葉を「助詞」の使用原則としてこの「怒り心頭に発する」という「慣用句」に適用すると、『大日本文典』から推定した結論とは逆に、この言葉の創作者あるいは訳者は「筑紫」の人物という可能性が出てきます。つまり、「目的地」あるいは「到達地」に使用されるべき「に」をここに使用して誤解を生まない、と考えるのは「京」以外の地域であり、また「坂東」のはずもないと考えられるからです。

 ところで「に」と「へ」という「助詞」の違いについては各種研究がありますが、「に」が広範に使用され、その意味も広いのに対して「へ」の方は「限定的」であることが知られています。
 たとえば「に」には上に述べた「到達地」「目的地」の他多くの意味があることが知られていますが、「へ」については「目的地」そのものではなくそこへの「方向」を示す意味があるとされ、また同時に「公的」な場における発言などある意味「堅苦しさ」が必要な場合に使用されるようです。
 これらは現代の用法であり、中世あるいはそれ以前はどうであったかやや不明ですが、「万葉集」などでは「に」の例が多く見られ「へ」は少ないとされます。
 その『万葉集』の中でも「に」は「目的地」の意味で使用されているのがほとんどであり、「出発地」の意で使用されているのは非常に少ないといえます。なぜなら当時「出発地」を表す助詞としては「従」(ゆ)があったからです。
 そう考えると、この「怒り心頭に」という言い方はかなり古いと考えられるものの、「万葉」の時代までは遡るものではなく、中世以降あるいは近代のものであるという可能性もあるでしょう。

 現在「標準語」として機能しているのは「東京語」ですが、それは上に見る「板東」の言葉とも当然違うと共に「江戸時代」に存在していた「江戸語」ともまた違うものです。
 それは明らかに「明治維新」による「薩長土肥」という「官軍」によるものであり、「漢音」中心とした「法律」などの官式用語として「筑紫」方言が使用され、公的な場で使用されたと見られることと関係しているでしょう。明治以来、「に」が表していた「目的地」「到達地」を表す意味は公的には「へ」に取って代わられたものですが、大多数を占める江戸市民はその影響を僅かしか受けなかったと見られ、非公式な場ではそれまでの「江戸語」が生き残り、それが「に」の多様性として生き残っているのではないでしょうか。
 このため、「怒り心頭に発す」という言葉についても「に」を「目的地を表す助詞」として認識するのが一般化したものと思われ、「達する」方へ誤用が多数を占めると言う現象が起きているものと推察します。
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古代の「成人」

2015年08月24日 | 社会・制度
 このたび18歳以上の男女に選挙権が認められるようになりました。高校三年生の一部はそれに該当します。それがいいことなのかどうかは簡単には言えませんが、成人の規定については変化しないということですから、社会全体にとって大きい影響があるとは見られないでしょう。

 ところで、日本では古代から(少なくとも律令制が施行されていた「奈良時代」)成人は満20歳以上とされていましたが、「(幼)小」は「15歳未満」とされ、「15歳」(数えの16歳)になると「大人」の扱いとなりました。(中丁と称したもの)

「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾」(『養老令』(戸令))

 たとえば「立太子」つまり「後継者」として選ばれるためには「15歳以上」であることが必要でした。「聖徳太子」も「日本武尊」も「中大兄皇子」も「16歳」(数え年)での活躍が資料に残されています。

「…是時廐戸皇子束髮於額。古俗年少兒年十五六間。束髮於額。十七八間。分爲角子。今亦爲之。…」(推古紀)
「…冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令?熊襲、時年十六。…」(景行紀)
「(六四一年)十三年冬十月己丑朔…丙午。殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子年十六而誄之」(舒明紀)

 また「推古天皇」は「十八歳」になって「結婚」しています。(これも数え年)

「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。」(推古即位前紀)

 これは「満17歳」以上になったという条件を満たしたことがその前提と思われますが、この年齢基準はその後も残っていたものと思われ、「元服」や「裳着」という習慣として残ったものです。旧民法規定の婚姻可能な年令の下限規定としても「男15歳女17歳」というものがあり、それもこの古代の制度が慣習化したものを規定としたものと思われます。

 また「倭国王」(天皇)として即位するには「成人」であることもまた必要でした。「幼少」でない場合、つまり「立太子」していた場合は「皇后」が「成人」までの期間「称制」したものです。(立太子もしていないような場合は『懐風藻』にみられるように群卿諸皇子などの合議によりどうするか決めていたもの)
さらに「初叙」の年齢は25歳とされていたものであり、この年齢に達しなければ「官庁」に出仕することができませんでした。

 ところで、20歳以上には「租庸調」や「兵役」の義務がありましたが、20歳以下にはそれはありませんでした。「班田」は幼小であってもであっても与えられましたが、「租」の負担義務は「成人」だけが負っていました。
 このような制度は元々原初的なものであり、律令制度施行以前において15歳という年齢が(男子としては)大人になるための境界条件として存在していたものと思われますが、律令制が施行された段階で、それが取り込まれ、「中丁」というものに形を変えて現われたものと推量します。(「隋・唐」の律令の影響と思われます)
 この段階以降「15歳以上20歳以下」の人間については「大人の権利」はありながら、「大人の義務」はないという状態となったものです。

 このような一種のモラトリウム期間が設けられたことにより、それが人間的成長を促し、「成人」になる準備期間として存在していたと考えられます。つまり、15歳になると、大人としての「権利」は認められ、それを行使するうちに自然と「責任感」がわき起こるという中で「制度」として「義務」が負荷されるという流れとなっているわけです。
 現状のように20歳までは大人としての「義務」も「権利」もなく、20歳になったところで「権利」と「義務」が同時に与えられるというのは「準備期間」がなく、戸惑いがあって当然とも思います。古代のシステムはその意味である意味合理的ではないでしょうか。
 その意味では「権利」と「義務」が表裏一体という考え方そのものが本当に正しいのかが問われているとも言えます。このような考え方は「市民意識」の成立と関係があり、西欧において「市民」としての「義務」と「権利」が確立していなかった時代に、「市民革命」を行う中で理論化され、構築されたものとも思えますが、それは「完成」された人間に対する「権利」と「義務」でした。
 そもそも西欧では「子供」に対してそれが完成されていないという意味で「人間」として扱うという観念が薄かったといわれ、宣教師などが日本を訪れ、子供に「自由」と「権利」が(もちろん完全ではないものの)あることに驚いていたという話もある位ですから、その意味で「子供」に対して人間性あるいは人権というものを承認していたと思われる日本の習慣や制度の方が合理的であったともいえます。

 まず「権利」が先に取得・行使される中でその後「義務」が背負わされるという流れは、人間の成長と社会規範とをかみ合わせるという意味でも考慮すべきものとも思えます。その意味では「日本」の古代からの習慣に目をやり、それを踏まえて考えて見るというのも必要なことかもしれません。
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