「孝徳」と「文武」には共通点があるわけですが、またこの両者にはパートナーとも言える人物がおり、それが共に「藤原氏」である点も確認できます。
「文武天皇」は「藤原不比等」をパートナーとしましたが、「孝徳天皇」はその父である「鎌足」をパートナーとした模様です。
『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」(鎌子)に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。
「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」
このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。その後「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰臣」として諸官の上にある、としたのです。
「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(『孝徳即位前紀』)
『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことを挙げ、その上で「不比等」に「食封を賜った」と書かれています。
「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」
そもそも、ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状婆。…」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。この「難波朝」というのが「孝徳」の朝廷を指すと思われるわけであり、その意味で「孝徳」と「鎌足」の関係は「文武」と「不比等」の関係に重なると言えるでしょう。
以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「書紀音韻論」で有名な森博達氏の分析が正しければ、「持統」の時代に『書紀』が一部作られていたこととなり、そうであれば「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果でしかないのではないでしょうか。
「大伴」や「物部」の系譜を見ても「孝徳」に仕えたという記載が確認され、「孝徳」という人物が「七世紀半ば」の人物として「リアル」であるのは確かです。
これらのことからも、冒頭に書いたように当初の『日本紀』は「七世紀前半」までであったと見られ、それに続くべき本来の『続日本紀』は『文武紀』(=『孝徳紀』)から始まっていたものと考えられるわけですが、そうであればその『日本紀』は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の治世までであった可能性が強く、九州年号の「命長」の末年である「六四七年」までが対象であったという可能性が高いと思料されます。
上に推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。
「文武天皇」は「藤原不比等」をパートナーとしましたが、「孝徳天皇」はその父である「鎌足」をパートナーとした模様です。
『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」(鎌子)に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。
「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」
このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。その後「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰臣」として諸官の上にある、としたのです。
「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(『孝徳即位前紀』)
『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことを挙げ、その上で「不比等」に「食封を賜った」と書かれています。
「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」
そもそも、ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状婆。…」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。この「難波朝」というのが「孝徳」の朝廷を指すと思われるわけであり、その意味で「孝徳」と「鎌足」の関係は「文武」と「不比等」の関係に重なると言えるでしょう。
以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「書紀音韻論」で有名な森博達氏の分析が正しければ、「持統」の時代に『書紀』が一部作られていたこととなり、そうであれば「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果でしかないのではないでしょうか。
「大伴」や「物部」の系譜を見ても「孝徳」に仕えたという記載が確認され、「孝徳」という人物が「七世紀半ば」の人物として「リアル」であるのは確かです。
これらのことからも、冒頭に書いたように当初の『日本紀』は「七世紀前半」までであったと見られ、それに続くべき本来の『続日本紀』は『文武紀』(=『孝徳紀』)から始まっていたものと考えられるわけですが、そうであればその『日本紀』は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の治世までであった可能性が強く、九州年号の「命長」の末年である「六四七年」までが対象であったという可能性が高いと思料されます。
上に推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。