古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「孝徳」と「文武」の類似(三)

2015年08月23日 | 古代史
 「孝徳」と「文武」には共通点があるわけですが、またこの両者にはパートナーとも言える人物がおり、それが共に「藤原氏」である点も確認できます。
 「文武天皇」は「藤原不比等」をパートナーとしましたが、「孝徳天皇」はその父である「鎌足」をパートナーとした模様です。
 『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」(鎌子)に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。

「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」

 このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。その後「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰臣」として諸官の上にある、としたのです。

「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(『孝徳即位前紀』)

 『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことを挙げ、その上で「不比等」に「食封を賜った」と書かれています。

「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」

 そもそも、ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状婆。…」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。この「難波朝」というのが「孝徳」の朝廷を指すと思われるわけであり、その意味で「孝徳」と「鎌足」の関係は「文武」と「不比等」の関係に重なると言えるでしょう。

 以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「書紀音韻論」で有名な森博達氏の分析が正しければ、「持統」の時代に『書紀』が一部作られていたこととなり、そうであれば「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果でしかないのではないでしょうか。
 「大伴」や「物部」の系譜を見ても「孝徳」に仕えたという記載が確認され、「孝徳」という人物が「七世紀半ば」の人物として「リアル」であるのは確かです。

 これらのことからも、冒頭に書いたように当初の『日本紀』は「七世紀前半」までであったと見られ、それに続くべき本来の『続日本紀』は『文武紀』(=『孝徳紀』)から始まっていたものと考えられるわけですが、そうであればその『日本紀』は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の治世までであった可能性が強く、九州年号の「命長」の末年である「六四七年」までが対象であったという可能性が高いと思料されます。

 上に推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。
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「孝徳」と「文武」の類似(二)

2015年08月23日 | 古代史
 「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされているからです。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それが理由で「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」自身が「日嗣」の座にあったこと(「天皇」であったこと)を示唆するものと思われます。

 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物でないことは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し新天皇が即位した時点における前皇后への尊称とされますから、この「皇太后」呼称は、「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「皇位」にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣ぎ」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。「懐風藻」の作者にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、そのような『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。
 本来「直系」云々は「即位」の際の継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)

 これが「高市皇子」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市皇子」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そして、この主張に異を唱えようとした「弓削皇子」を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。(「兄弟相承」という伝統ある形に戻そうというもくろみであったかも知れません)
 この「葛野王」の意見は多分に「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であるのが基本となっていることを念頭に置いたものと理解できるでしょう。
 『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」が次のように反論します。

「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶孼之窺窬,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)

 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったというわけです。これは「葛野王」が主張しているものと同じ意味、内容と思われます。
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「孝徳」と「文武」の類似(一)

2015年08月23日 | 古代史
 既に見たように『続日本紀』の編纂の上表文から考えて、「飛鳥浄御原宮」とは「七世紀半ば」の「倭国王」の時代を指すものと見ることができるものであり、当初の『日本紀』はその「前」つまり「七世紀前半」までしか書かれていなかったと見られることとなります。さらにそれに接続されるべき『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定できるものであり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったものです。
 これについては一般に(多元史観論者の中でも)これを「文武」が実在であり、「孝徳」が「造られたもの」という理解がされているようです。それは『孝徳紀』が「宣命体」の文章や「大宝律令」を背景とした記述などが推定され、そのことから「八世紀」の事実を反映したものという理解からのようです。しかし、それは「予断」「偏見」の類ではないでしょうか。つまり、その様なもの(「律令」的制度や文言あるいは「宣命体」の詔等)が「七世紀半ば」に「あったはずがない」といういわば固定観念に縛られている結果と思えます。というより「現行」の『続日本紀』を盲信しているものといったら言葉が過ぎるでしょうか。
 しかし、逆に考えれば、その差はいわば「たかが」数十年程度であり、それはそれほど「絶対視」出来るものであるかと考えると、そうではない見方があっても当然ともいえます。

 ところで『書紀』と『続日本紀』を見比べてみると、問題の「孝徳」と「文武」には多くの「共通点」あるいは「類似点」があるように思えます。以下にいくつか挙げてみます。
 たとえば、共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いている点です。
 「孝徳天皇」の場合は「皇極天皇」から、「文武天皇」は「持統天皇」からのいずれも「譲位」であり、またいずれも女帝です。また、「孝徳」の死後「斉明天皇」、「文武」の死後は「元明天皇」が跡を継いでいますがこれもまた女帝です。

 また両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。「孝徳」が「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「大化改元」は同じ月(十九日)に行われています。また「文武」は以下の資料にみられるように、「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年の初めから「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっています。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定することになりかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえます。
  
 さらに、共に「皇子」時点の名称は「軽」です。「孝徳天皇」は即位前「軽」皇子でしたが「文武天皇」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。

 また、共に予定された「皇太子」ではなく、また「即位」でもありませんでした。「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極天皇」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。元々「大兄」が「太子」つまり「後継者」を指す用語であったと見られることから考えると「孝徳」の継承順位はかなり低かったことが推定できます。これに対し「文武天皇」は「草壁皇子」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁皇子」は「皇太子」でしたが、他に「高市皇子」「川嶋皇子」「舎人皇子」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁皇子」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)
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