古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「春耕秋収」と「一年」

2015年08月03日 | 古代史
 ところで『倭人伝』に引用された『魏略』にはいわゆる「二倍年暦」の表現と思われる、「春耕秋収」を「計」って「年紀」とするというものがあるのはご承知の通りです。

「魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」

 これは古田氏などにより「春耕」と「秋収」に二回年の区切りがあると理解されていますが、これはそうではなく「春耕」から「秋収」までを「計って」、それを「一年」という長さ(期間)とするという意味ではないかと考えられます。
 ここに使用されている「計」という語は「三国志」の中では「計画」や「計略」の意で使用されている例も多いのですが、以下の史料に見るように「戸数」などや「戦死者数」などを「計」するという例も確認され、これは明らかに「数える」という意義で使用されていると思われます。文意からもここに使用されている「計」も同様に「数える」という意義であるとみるべきでしょう。

「二年八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰?西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。冬十月,詔曰:「朕以寡,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。?西之戰,至取負敗,將士死亡,『計以千數』,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰?其門?,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」 (「三國志/魏書四 三少帝紀第四/高貴?公髦/正元二年」)

「董卓字仲穎,隴西臨?人也。[一]英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉。有三子:長子擢,字孟高,早卒;次即卓;卓弟旻字叔穎。少好?,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與?還,殺耕牛與相宴樂。諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓。[二]?書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊。胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,『斬獲千計』。并州刺史段?薦卓公府,司徒袁隗辟為掾。」(「三國志/魏書六 董二袁劉傳第六/董卓 李? 郭」)

 さらに「年紀」については『三国志』やそれに先行する漢籍である『史記』『漢書』などによれば「編年体」の記録の意義などもありますが、その基礎となっている概念は「一年」という長さであり、それを「単位」として「年数」を数えるあるいは記録するというものと推量されます。

「…晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。…唐叔子燮,是為晉侯。晉侯子寧族,是為武侯。武侯之子服人,是為成侯。成侯 子福,是為侯。侯之子宜臼,是為靖侯。靖侯已來,年紀可推。自唐叔至靖侯五世, 無其年數。」(「史記/晉世家第九」)

 ここでは「年紀」と「年数」とが対応するように書かれていますから、これらは同一の内容を指すと思われ、「年紀」とは「年数」の意であると知られます。
 つまりこれらによれば「春耕」から「秋収」までの長さを「計る」あるいは「数える」ということを行い(これは「結縄」によるか)「一年」の長さを決め、それを「単位」として年数を数えているということと理解できます。
(ただし「種を蒔く」という重要な農事の時期をいつにするかというのは当然別の基準によらなければならないと思われ、考えられるのは「星アテ」が行われていた可能性があります。例えば「昴」あるいは「オリオン」の三つ星など天空で目立つ星の位置が目印としたものと思われ、その特定の位置関係を見て「春耕」としていたと言う事が考えられ、そこからの日数を「結縄」の表現でカウントしていたものと思われます。)
 これは「正歳四節を知らず」と書かれたように「魏晋朝」で使用されていた「暦」(太陰暦)が「倭」では使用されておらず「倭」独自の「暦」が行われていたことを示すものですが(同じ『三國志』内の「韓伝」によれば「馬韓」など半島内各国では「魏晋」と同じ暦を使用していたように書かれています。)、そのような中でも「春耕」から「秋収」までを計っていたということの中に、「春貸秋賦」という表現通り「稲」や「種籾」の「貸し付け」における「貸与」あるいは「利息」をとるべき期間の設定されていたことを示すものと推測します。

 ところで「養老令」の「雑令」に「出挙」に関する規定があり、そこでは「出挙」という制度の有効期間として(つまり利息を取る期間ともいえます)、「一年を以て断(限り)とする」と書かれています。

「雑令二十以稲粟条」「凡以稲粟出挙者。任依私契官不為理。仍以一年為断。…」

 この「一年」について『令義解』では以下のように記されています。

「謂、春時擧(イラヒ)受。以秋冬報。是為一年也。」

 つまり春(種まき時期)から収穫時期である秋や冬までの期間を一年と見なすと解釈しているわけです。
 この「一年」という期間の設定は『倭人伝』と同じ考え方であり、「春耕」から「秋収」までの期間が一般の人々にとって重要であったことを示すものですが、『倭人伝』において「春耕」から「秋収」までの期間を「一年」としている理由の一端はそれがこの後の「出挙」という制度と同様「利息」をとるべき期間として設定されていたからということも考えられるわけです。
 『令義解』において一年という期間としては異例とも思える範囲が設定されているのも古代の「倭国」からの状況を示していると言えるのではないでしょうか。
 「出挙」のような「貸稲」の制度というものについてはそれが「租」に伴うものという考え方も、また「租」に先行するという考え方も双方ありますが、いずれにしろこの『倭人伝』時点では確実に「租」が存在しているわけですから「貸稲」という制度ないし慣習がこの時点で確実にあったものと見なければならないことになります。そしてその慣習はその後の「倭国」に長く残ったものであり、それが「雑令」に残ったと見ることが出来るでしょう。

 また『令義解』の「儀制令春時祭田条」が引用する「古記」説によれば、「制度」として設定された「郷里制」とは別に「村」(村落)が存在しており、そこには「官社」(官が設定した「神社」)とは別に「村落」で私的に設定された「社」が存在しており、「神官」とも云うべき「社首」がいたとされます。
 彼は「官」が主宰する「祈年祭」とよく似た内容の祭り(春に行われる豊作を祈る祭り)の他「秋」の収穫祭も主宰し、その際には「収穫物」(主たるものは稲と酒と思われる)の一部を「幣」として納めさせ、それを次回の「春の祭り」の際に「各戸」の状況に応じて分配するとされています。そしてそれからの収穫物の「利稲」(利息としての稲)をまた「幣」として回収するという循環となっているわけです。(※)
 これは言ってみれば「村」単位で行う「出挙」であり、また「互助制度」ともいえるものです。このようなものは「公出挙」つまり「官」が制度として行うものとは異なる次元あるいは起源のものでした。このような体制が「律令体制」構築の以前のものであるのは自明であり、それをはるかに遡上する時点にその淵源を考えるべきと思われますが、その原点ともいうべきものは『倭人伝』にいう「春耕秋収」体制であり、その時点で行われていた「出挙」様の制度にあると思われます。


(※)義江彰夫「律令制下の村落祭祀と公出挙制」(『歴史学研究』№380 1975-01)

コメント

「租賦」と「貸稲」

2015年08月03日 | 古代史
 前回の記事でも触れましたが、『倭人伝』によれば「邪馬壹国」には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「…收租賦、有邸閣。…」

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬し収めていたことを示すものです。
 この『倭人伝』の記事の中では他に見られるような「刺史の如く」のように「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが「倭」に存在しているという彼らの認識を示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 「魏晋」の場合(「呉」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから各用途に供出されたり(それがたとえば軍事用としての「邸閣」への供出と思われるわけです)あるいは「貸し付け」られたりということが行われていたようです。(※1)

 この時期は中国でも「班田」つまり「国家」が「祖を負担すべき田畑を付与する」という政策は当然行われていなかったわけですから、それらの「租」は全て「墾田」つまり私的に開いた「田畑」からのものと言う事となるでしょう。そして「魏晋」と同様「倭」においても同様の形で「租賦」を収集していたものと思われ、それは後の「倭国」の「養老令」時代の「薩摩国」とほぼ同様の施策に拠っていたであろうことを推定させるものです。そこでは「正税帳」が作られていたものの、「班田」は行われていなかったことが示されており、この「租」が「墾田」からのものであったことを示すと思われますが、そのようないわば「未開の地」と言うべき場所に対する政治的対応としては「緩い律令制」とも言うべき政策を行い、妥協したことを示すものと思われます。

 『倭人伝』を見ると「邪馬壹国」の統治範囲においては「刑法」(律)の存在や「諸国」に派遣されていたと思われる「官職制度」などの存在から「国郡県制」と思しきものが成立していた可能性が高く、そのことは「律令」というべきものがこの時点で「倭」の内部(邪馬壹国の統治範囲)にも存在していたらしいことが窺えますが、その「律令」は中国では「秦」に始まり「漢」から「魏晋」へと受け継がれていたものであり、これらの王朝と継続的に関係を結んでいた「倭王権」が「律令」に対して「無知」「無関心」であったとは想像しにくいものです。少なくともそれらの部分的導入が図られたものと思われますが、「卑弥呼」の「倭」においても「緩い律令制」とでもいうべきものが行われていたと考えることができるでしょう。

 ところで、「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などには天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは「種籾」を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れませんが(「中国にはそのような実例もあります)、他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。
 その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが(もっとも考えられるのは後にも述べますが「村落共同体」であると思われます)、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われ、後の「倭国」における「出挙」と同じ性質のものが当時存在していたと考えることができるのではないでしょうか。
 このように「米」や「種籾」の貸し出しに「利息」が伴っていたとすると「期間」が重要であり、それは自然発生的に「種蒔き」から「刈り取り」までと決められたという可能性が高いと思われます。それは貸し付けたものの返済時期としては収穫時期が最も適当だからです。
 このようなことは『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸し出しが行われていたことから推定できるものです。(※2)
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資するはずのものであったものです。
 その後これは「州県」という公的団体が「制度」として貸し付けることが行われるようになりますが、そうなるとその「利息収入」はその「州県」の重要な財政収入となってしまい、いわば「税」という形に変質させられることとなったものと思われ、農民の苦しみはなおいっそう増加することとなったものです。


(※1)伊藤敏男「長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係」
(※2)谷口建速「長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種粻」 : 孫呉政権初期における穀物貸与」『史觀』 (162), 43-60, 2010-03-25 早稲田大学史学会
コメント

「邸閣」の意義

2015年08月02日 | 古代史
 「倭人伝」には「租賦」を収めていたという「邸閣」というものが出てきます。

「…其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國…」(『倭人伝』)

 上にあるように「倭」の風俗を記した中に「犯法」記事と「使大倭」記事に挟まれるように「邸閣」が記されています。これについては「古田氏」はすでにこれが「軍事」目的のものであり、それは一般の「倉」とは別個の存在であることと言及されています。(※)
 確かに「三国志」の使用例から帰納するとここでいう「邸閣」は「軍団」の「糧食」保管基地を意味するものであると考えられ、あくまでも軍事に従事している者達への食糧提供がその機能であったと思われます。
 (以下そう判断できる例)

「…酒泉蘇衡反,與羌豪鄰戴及丁令胡萬餘騎攻邊縣。既與夏侯儒擊破之,衡及鄰戴等皆 降。遂上疏請與儒治左城,築鄣塞,置烽候、邸閣以備胡。西羌恐,率眾二萬餘落降。…」(「三國志/魏書十五 劉司馬梁張?賈傳第十五/張既」より)

「…其年為尚書,出為荊州刺史,加揚烈將軍,隨征南王昶擊吳。基別襲步協於夷陵,協閉門自守。基示以攻形,而實分兵取雄父『邸閣』,收米三十餘萬斛,虜安北將軍譚正,納降數千口。於是移其降民,置夷陵縣。…
詔基停駐。基以為:「儉等舉軍足以深入,而久不進者,是其詐偽已露,眾心疑沮也。今不張示威形以副民望,而停軍高壘,有似畏懦,非用兵之勢也。若或虜略民人,又州郡兵家為賊所得者,更 懷離心;儉等所迫脅者,自顧罪重,不敢復還,此為錯兵無用之地,而成姦宄之源。吳寇因之,則淮南非國家之有,譙、沛、汝、豫危而不安,此計之大失也。軍宜速進據南頓,南頓有『大邸閣』,計足軍人四十日糧。保堅城,因積穀,先人有奪人之心,此平賊之要也。」基屢請,乃聽進據[氵+隱]水。」…」(「三國志/魏書二十七 徐胡二王傳第二十七/王基」より)

「…十一年冬,亮使諸軍運米,集於斜谷口,治斜谷邸閣。…」(「三國志/蜀書三 後主 劉禪 傳第三/建興十一年」より)

 これらを見ると「邸閣」とは軍事における後方支援施設の一つであり、単なる「租賦」を収納する「倉」とは異なっていたことが明確です。つまり、「倭」においても同様に「租賦」は一時各国の「倉」に納められた後「邪馬壹国」の「倉」へと運ばれ、その後その一部が「邸閣」へと移送されたと見られることとなります。
 つまり「邸閣」はその「租賦」を収納するというより、それを「軍事」用として供出していたと見られ、その存在意義は「狗奴国」との戦乱という事態に対応して設置されたものと考えられることとなるでしょう。当然その「糧食」は「不彌国」と「一大国」に本拠地を持ち「常治伊都國」とされたように「伊都国」に展開していた「一大率」という「軍事勢力」のためのものであったでしょう。
 また上の例から判断してその「租賦」は「一大率」が管理していたものであり、(「倉」から)「邸閣」へ運んだのは「軍」つまり「一大率」そのものであったという可能性が高いでしょう。つまり、必要になったときに「一大率」から糧米移送担当者がやって来るというわけです。
 (後の「宣化元年」に出された「詔」の中でも、各地の「屯倉」から「筑紫」へ「穀」を運ぶように指示が出されていますが、これも「邸閣」としての「大蔵」への移送であり、「筑紫」に多数の兵力が存在していたことを示すと考えられ、それが元の「一大率」にあたる「筑紫」防衛システムのキーとなる場所への「糧食」の移送であったという可能性が高いと思料します。)

 また「邸閣」は戦いに備えるという意味からは、上の『三国志』の例と同様「城塞」や「烽候」(ノロシと斥候)あるいは「水城」などと同時期に構築されたという可能性もあります。そうであれば「邪馬壹国」の内外に「城塞」や「烽候」があったということにもなりますが、それがいわゆる「神籠石」遺跡として現在確認されているものという可能性もあるでしょう。
 「神籠石」遺跡の中には、出土遺物として「卑弥呼」の時代に遡るものもあることが確認されていますから、これが「狗奴国」との戦いに備えたものであるという可能性が考えられ、至近に「邸閣」があったことを示唆するものでもあります。
 「一大率」が後の「大津城」や「鴻臚館」付近にあったとすると、その至近の場所(行程として一日以内)という場所に「補給拠点」としての「邸閣」がなければならないはずであり、その意味でも「伊都国」と「邪馬壹国」の間はそれほど遠距離とは考えられないこととなります。「糧食」を供出すべき存在と余り離れていては支援とは言えませんし、近すぎては火急の際には「邸閣」ごと敵に奪われかねません。つまり「邪馬壹国」に「邸閣」があったとみるのは「補給」という後方支援の観点から見ても妥当なものといえるものです。
 実際に「鬼ノ城」などの「神籠石」遺跡では「礎石」から城内に「高床式倉庫」があったことが推定されており、これが「邸閣」であったことは間違いないと思われています。またここには「烽火」が機能していた形跡も確認されています。(但し全ての「神籠石」が「卑弥呼」の時代まで遡るとは言えないのは当然ですが)

(※)古田武彦「吉野ヶ里遺跡の証言」『市民の古代』第十一集一九八九年
コメント

「奴国」の「奴」は「ぬ」

2015年08月02日 | 古代史
 『倭人伝』には「奴国」という国が出てきます。この「奴国」あるいは「狗奴国」などの国名表記に使用されている「奴」という字については、これは「ぬ」と発音したと考えられ決して「な」あるいは「ど」「と」ではなかったと思われます。たとえば『古事記』の中では「ぬ」の音表記について「奴」「怒」「農」などが使用されていますが、これらはいずれも「呉音」です。(その意味で『古事記』は「呉音」系資料とされます)
 他にも『倭人伝』の中で「其餘之傍国」とされた中にも「奴」の字を含む国が多くあり(「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」「鬼奴國」「烏奴國」「有奴國」)、当時の発音は詳細不明ではあるものの「呉音」系の発音ではなかったかと考えられ、これらについても「ぬ」と発音したものと思われます。
 「一大率」の議論でも書きましたが、「率」という官職名は「魏晋朝」において「そち」と発音した可能性が強いと考えられ、それは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いと見られることが基本となっています。その意味でも「奴」は「ぬ」と発音されたであろうと思われることとなります。

 ただし、この「ぬ」は後代になると「の」と変化したものと思われ、「吉野」が「えし『ぬ』」と呼ばれていたものが「和名抄」などには「よし『の』」と発音される場合もあるなど、一般に「の」へと音韻が変化したものと思われますが、またそれは「原義」として「野」の意義があったことを示す可能性もあることとなるでしょう。そう考える理由の一つはこれらの国名が「奴」が国名の末尾に付く例が全てであるという点にあります。そのことはここで使用される「奴」は「名詞」的に使われるものであることが明かと思われ、このように末尾に「ぬ」が来て、その「ぬ」が後代「の」と呼称されるようになるということを考えると、この「ぬ」は元々「野」の意義があった事を意味すると思われることとなるでしょう。それは「野」を言祝ぐ意味から国名とされたものではないでしょうか。

 「野」は元々「狩猟民」においても「農耕民」においても「収獲物」や「収穫物」を得られる場所であり、それが良い場所であることを言祝いで国名としていたという可能性が高いと思われるわけです。
 言葉には「霊力」があったと思われていたわけですから、国名を名付けるのは重要な作業であり、正しい国名でなければ「神」から祝福されず、良い「収獲物」や「収穫物」は得られないと考えられていたものと思われます。その意味では「野」を「国名」とするのは当然と思われると同時に理解されやすいものであったと思われます。
 一般に「地名説話」というものは「神」や「神聖化」した「先王」などによる命名が一般的であり、その場合でもこの場所がどれほど良い場所であるかを特に主題として命名されている例が非常に多いと思われます。(そのような例は『風土記』などに頻出しています)
 その意味では「野」が末尾に付く例が多いのは自然であると思われることとなるでしょう。ただし、その中では「奴国」は非常に特殊な例であると思われます。それは「美辞麗句」にあたる「形容詞」が前置されていないという点です。単に「野」と命名されたとすると非常に不審ですが、逆に言うと他の「~奴国」という例の淵源がこの「奴国」であって、それらの諸国はこの「奴国」にちなんで名前付けしているか、あるいは「分家」であったという可能性も考えられるでしょう。
 そのように「奴国」が中心的な位置にあったとすると、「奴国」の場所は他のどこよりも「素晴らしく」、肥えた土地があり水利もよく高い生産力がある場所であるはずです。そう考えるならば、その「奴国」の領域が「山地」を包含しているとは考えられないこととなります。
 あくまでもかなり広い平野部にその領域が占められているはずであり、わざわざ山地をその「領域」に含むことはないと思われるわけです。
 当時はあくまでも「山地」は「自然国境」であり、山の向こう側は別の国という概念ではなかったかと考えられます。そう考えると「福岡平野」あるいは「筑後平野」などがその「奴国」の候補地である可能性が最も高いものと推量します。
  また「奴」のつく国が二十一国中「奴国」以外に「七国」あり、全体の三分の一を占めていることを見ると、「邪馬壹国」以前に「奴国」が「倭」の中心権力の座にあった歴史があることを反映しているという可能性が考えられるでしょう。
コメント

参議院の意義

2015年08月01日 | 社会・制度
 今回はやや趣向を変えて社会と政治について考えてみます。
 参議院は「良識の府」といわれます。これは「参議院」と「衆議院」の意志が異なる場合が多いことを示すものでもあると思われます。そのようなことがなぜ起きるのか、それには以下の理由が考えられるでしょう。

 そもそも参議院は任期が衆議院に比べ長く、また半数ごとにしか改選されない他、「解散」がないなど衆議院と比べ大きく異なる特徴があります。逆に言うと衆議院という存在は「民意」を正確に反映するという至上命題を与えられているといえるでしょう。時々刻々変化する「民意」と言うものを正確に「トレース」する事が求められているため、それに特化しているのが衆議院であるといえます。
しかし「参議院」は解散がないわけですから、その時点(リアルタイムに変化する)「民意」というものと少しばかり「乖離」している場合が出てきて不思議はないこととなります。
 この事は「衆議院」と「参議院」の存在意義が本来全く異なることを示すものであり、その意味では「ねじれ」は必然的に発生するともいえるでしょう。その可能性を前提として両院が構成されているのが分かります。
もし「民意」がある程度の期間大きく変化しなければ、両院の構成は大差なくなるでしょう。その場合そもそも衆議院も解散ではなく任期満了での選挙となる可能性が高いと思われます。
 しかし、「民意」が短期間に大きく変化するような状況が発生した場合、両院の構成はかなり異なることとなると思われます。そのような短期間に「民意」が大きく変化するための要件としては一つに「対外的要因」が考えられ、国際情勢の変化によって「民意」が「動揺」するということが「衆議院」の構成に大きな変化をもたらすという場合があるでしょう。
 逆に言うと衆議院の存在意義はそのような場合に「民意」を議席構成比の変化という形で具現化するものであり、内閣総理大臣はそのような場合速やかに解散総選挙を行う義務があるといってもいいでしょう。

 ただし、一般に国際情勢は複雑であり、「民意」つまり「多くの国民」が情勢を正確に判断することはたいていの場合困難であると考えられますから、そのような「民意」判断に基づく衆議院が何らかの重大な決定、或いは従来の方針の変更などを行なうとすると、それが大きな誤りないしは不適切な国家的行動につながるおそれがあると考えられます。
 このような国家的行動は即座に国際情勢に直結する性格のものであり、現在の日本の置かれた位置を考えると、その影響が周辺諸国はもちろん世界中に波及する可能性があります。
 それを「修正」する事ができるのは参議院しかありません。その時点の参議院の構成は衆議院と異なる可能性が高く、そうなると両院の意志が異なることになると思われ、そうであれば、規定により衆議院に「差し戻す」事となり、再考する「時間」が与えられることとなります。
民主主義の本質は「時間を掛ける」と言うことであり、「手続き」を尽くすことでもあります。
 参議院を「衆議院のカーボンコピー」というような言い方をするのは、実体からして一見正当であるようですが、上のような参議院の存在意義に目を向ければ、情勢の変化にかかわらずいつも衆議院と同じ傾向の意思を表明すること自体がすでに問題であることとなるでしょう。

 「民意」を反映しているなら良いではないかとは言えないのは、第二次大戦時のドイツが如実に証明しています。
ドイツでは当時「普通選挙法」が施行されており、女性にも参政権が認められていました。そのような環境下で「ヒットラー」率いるナチス党は選挙によって絶対多数を占めるに至ったのです。つまり「ヒットラー」という存在は「民意」の正確な反映であったものです。
 当時「ヒットラー」に反対するもの(ただしドイツ人)が多数おり、彼等を弾圧したということもほぼ認められないとされます。つまり国内には「ヒットラー」率いるナチス党を快く思わない勢力はほぼ皆無だったのです。そしてその結果「ヨーロッパ」において「ドイツ」は過去に類のない戦争行為を行ったものであり、大量虐殺行為を行ったものです。

  当時ドイツは第一次世界大戦の結果、ドイツ領土であった地域は一部をフランスに奪われ、またオーストリア独立により更にその領土が減少する結果となっていました。しかも戦後各国に対し賠償金を支払う必要があり、国家財政は破綻状態となっていました。国民は多くが失業し、未来のない生活を送っていたのです。
 「ヒットラー」はこの現状を巧みに旧政権の失政としてアピールし、国民の支持を集めたものであり、その結果ヒットラーは旧政権の実効支配を停止させ、憲法もこれを停止させ、「国民の望む政策」を実行するための体制を造り上げたものです。
 
 今でも当時を知る年代のドイツ人の多くはその当時について「いい時代」という感想を持っているとされます。それは「仕事」があったからです。生きていくことが出来たからなのです。失った「領土」を回復するということにより国民としての「ブライド」も回復すると共に、収入も同時に手に入れることが出来たわけであり、そのような結果をドイツ国民は熱烈に支持していたものです。ヒトラーのプロパガンダが巧妙であったというだけでは理由として薄弱といえるでしょう。

 現在までのドイツ政府が折に触れ「反省」を口にするのは、ドイツが行った各種の行為が「ヒットラー」といういわば一人の「跳ね返り」的存在によるものではなく、このように実際にはドイツ国民の総意であったからです。(大量虐殺が総意とまではいいませんが、少なくとも「ユダヤ人」を憎んでいたのはドイツ国民の多数であったと思われます)国を挙げて反省するに足る理由がドイツにはあるといえるでしょう。
 つまり「民意」を正確に反映するということは民主主義には絶対必要ではあるものの、それだけでは足りないということをドイツという国家が身を以て示したのです。

 それを承け日本国憲法が定められ、その中で「衆議院」「参議院」の両院制が採用されたと見るべきでしょう。このようにして「民意」の暴走を食い止めるハードルとして「参議院」が設けられたと見るべきです。

 巷間では一院制が良いとか大統領制が良いとか、首相を直接選べる方が良いとか各種意見がありますが、その場合「参議院」が失われたことによるデメリットをどのように担保するのかが示されていないように見えます。
 「民意」に基づく、あるいは「民意」を反映するだけでは不完全であるということを各自が自覚する必要があるのではないでしょうか。
コメント