古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「邸閣」の意義

2015年08月02日 | 古代史
 「倭人伝」には「租賦」を収めていたという「邸閣」というものが出てきます。

「…其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國…」(『倭人伝』)

 上にあるように「倭」の風俗を記した中に「犯法」記事と「使大倭」記事に挟まれるように「邸閣」が記されています。これについては「古田氏」はすでにこれが「軍事」目的のものであり、それは一般の「倉」とは別個の存在であることと言及されています。(※)
 確かに「三国志」の使用例から帰納するとここでいう「邸閣」は「軍団」の「糧食」保管基地を意味するものであると考えられ、あくまでも軍事に従事している者達への食糧提供がその機能であったと思われます。
 (以下そう判断できる例)

「…酒泉蘇衡反,與羌豪鄰戴及丁令胡萬餘騎攻邊縣。既與夏侯儒擊破之,衡及鄰戴等皆 降。遂上疏請與儒治左城,築鄣塞,置烽候、邸閣以備胡。西羌恐,率眾二萬餘落降。…」(「三國志/魏書十五 劉司馬梁張?賈傳第十五/張既」より)

「…其年為尚書,出為荊州刺史,加揚烈將軍,隨征南王昶擊吳。基別襲步協於夷陵,協閉門自守。基示以攻形,而實分兵取雄父『邸閣』,收米三十餘萬斛,虜安北將軍譚正,納降數千口。於是移其降民,置夷陵縣。…
詔基停駐。基以為:「儉等舉軍足以深入,而久不進者,是其詐偽已露,眾心疑沮也。今不張示威形以副民望,而停軍高壘,有似畏懦,非用兵之勢也。若或虜略民人,又州郡兵家為賊所得者,更 懷離心;儉等所迫脅者,自顧罪重,不敢復還,此為錯兵無用之地,而成姦宄之源。吳寇因之,則淮南非國家之有,譙、沛、汝、豫危而不安,此計之大失也。軍宜速進據南頓,南頓有『大邸閣』,計足軍人四十日糧。保堅城,因積穀,先人有奪人之心,此平賊之要也。」基屢請,乃聽進據[氵+隱]水。」…」(「三國志/魏書二十七 徐胡二王傳第二十七/王基」より)

「…十一年冬,亮使諸軍運米,集於斜谷口,治斜谷邸閣。…」(「三國志/蜀書三 後主 劉禪 傳第三/建興十一年」より)

 これらを見ると「邸閣」とは軍事における後方支援施設の一つであり、単なる「租賦」を収納する「倉」とは異なっていたことが明確です。つまり、「倭」においても同様に「租賦」は一時各国の「倉」に納められた後「邪馬壹国」の「倉」へと運ばれ、その後その一部が「邸閣」へと移送されたと見られることとなります。
 つまり「邸閣」はその「租賦」を収納するというより、それを「軍事」用として供出していたと見られ、その存在意義は「狗奴国」との戦乱という事態に対応して設置されたものと考えられることとなるでしょう。当然その「糧食」は「不彌国」と「一大国」に本拠地を持ち「常治伊都國」とされたように「伊都国」に展開していた「一大率」という「軍事勢力」のためのものであったでしょう。
 また上の例から判断してその「租賦」は「一大率」が管理していたものであり、(「倉」から)「邸閣」へ運んだのは「軍」つまり「一大率」そのものであったという可能性が高いでしょう。つまり、必要になったときに「一大率」から糧米移送担当者がやって来るというわけです。
 (後の「宣化元年」に出された「詔」の中でも、各地の「屯倉」から「筑紫」へ「穀」を運ぶように指示が出されていますが、これも「邸閣」としての「大蔵」への移送であり、「筑紫」に多数の兵力が存在していたことを示すと考えられ、それが元の「一大率」にあたる「筑紫」防衛システムのキーとなる場所への「糧食」の移送であったという可能性が高いと思料します。)

 また「邸閣」は戦いに備えるという意味からは、上の『三国志』の例と同様「城塞」や「烽候」(ノロシと斥候)あるいは「水城」などと同時期に構築されたという可能性もあります。そうであれば「邪馬壹国」の内外に「城塞」や「烽候」があったということにもなりますが、それがいわゆる「神籠石」遺跡として現在確認されているものという可能性もあるでしょう。
 「神籠石」遺跡の中には、出土遺物として「卑弥呼」の時代に遡るものもあることが確認されていますから、これが「狗奴国」との戦いに備えたものであるという可能性が考えられ、至近に「邸閣」があったことを示唆するものでもあります。
 「一大率」が後の「大津城」や「鴻臚館」付近にあったとすると、その至近の場所(行程として一日以内)という場所に「補給拠点」としての「邸閣」がなければならないはずであり、その意味でも「伊都国」と「邪馬壹国」の間はそれほど遠距離とは考えられないこととなります。「糧食」を供出すべき存在と余り離れていては支援とは言えませんし、近すぎては火急の際には「邸閣」ごと敵に奪われかねません。つまり「邪馬壹国」に「邸閣」があったとみるのは「補給」という後方支援の観点から見ても妥当なものといえるものです。
 実際に「鬼ノ城」などの「神籠石」遺跡では「礎石」から城内に「高床式倉庫」があったことが推定されており、これが「邸閣」であったことは間違いないと思われています。またここには「烽火」が機能していた形跡も確認されています。(但し全ての「神籠石」が「卑弥呼」の時代まで遡るとは言えないのは当然ですが)

(※)古田武彦「吉野ヶ里遺跡の証言」『市民の古代』第十一集一九八九年
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「奴国」の「奴」は「ぬ」

2015年08月02日 | 古代史
 『倭人伝』には「奴国」という国が出てきます。この「奴国」あるいは「狗奴国」などの国名表記に使用されている「奴」という字については、これは「ぬ」と発音したと考えられ決して「な」あるいは「ど」「と」ではなかったと思われます。たとえば『古事記』の中では「ぬ」の音表記について「奴」「怒」「農」などが使用されていますが、これらはいずれも「呉音」です。(その意味で『古事記』は「呉音」系資料とされます)
 他にも『倭人伝』の中で「其餘之傍国」とされた中にも「奴」の字を含む国が多くあり(「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」「鬼奴國」「烏奴國」「有奴國」)、当時の発音は詳細不明ではあるものの「呉音」系の発音ではなかったかと考えられ、これらについても「ぬ」と発音したものと思われます。
 「一大率」の議論でも書きましたが、「率」という官職名は「魏晋朝」において「そち」と発音した可能性が強いと考えられ、それは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いと見られることが基本となっています。その意味でも「奴」は「ぬ」と発音されたであろうと思われることとなります。

 ただし、この「ぬ」は後代になると「の」と変化したものと思われ、「吉野」が「えし『ぬ』」と呼ばれていたものが「和名抄」などには「よし『の』」と発音される場合もあるなど、一般に「の」へと音韻が変化したものと思われますが、またそれは「原義」として「野」の意義があったことを示す可能性もあることとなるでしょう。そう考える理由の一つはこれらの国名が「奴」が国名の末尾に付く例が全てであるという点にあります。そのことはここで使用される「奴」は「名詞」的に使われるものであることが明かと思われ、このように末尾に「ぬ」が来て、その「ぬ」が後代「の」と呼称されるようになるということを考えると、この「ぬ」は元々「野」の意義があった事を意味すると思われることとなるでしょう。それは「野」を言祝ぐ意味から国名とされたものではないでしょうか。

 「野」は元々「狩猟民」においても「農耕民」においても「収獲物」や「収穫物」を得られる場所であり、それが良い場所であることを言祝いで国名としていたという可能性が高いと思われるわけです。
 言葉には「霊力」があったと思われていたわけですから、国名を名付けるのは重要な作業であり、正しい国名でなければ「神」から祝福されず、良い「収獲物」や「収穫物」は得られないと考えられていたものと思われます。その意味では「野」を「国名」とするのは当然と思われると同時に理解されやすいものであったと思われます。
 一般に「地名説話」というものは「神」や「神聖化」した「先王」などによる命名が一般的であり、その場合でもこの場所がどれほど良い場所であるかを特に主題として命名されている例が非常に多いと思われます。(そのような例は『風土記』などに頻出しています)
 その意味では「野」が末尾に付く例が多いのは自然であると思われることとなるでしょう。ただし、その中では「奴国」は非常に特殊な例であると思われます。それは「美辞麗句」にあたる「形容詞」が前置されていないという点です。単に「野」と命名されたとすると非常に不審ですが、逆に言うと他の「~奴国」という例の淵源がこの「奴国」であって、それらの諸国はこの「奴国」にちなんで名前付けしているか、あるいは「分家」であったという可能性も考えられるでしょう。
 そのように「奴国」が中心的な位置にあったとすると、「奴国」の場所は他のどこよりも「素晴らしく」、肥えた土地があり水利もよく高い生産力がある場所であるはずです。そう考えるならば、その「奴国」の領域が「山地」を包含しているとは考えられないこととなります。
 あくまでもかなり広い平野部にその領域が占められているはずであり、わざわざ山地をその「領域」に含むことはないと思われるわけです。
 当時はあくまでも「山地」は「自然国境」であり、山の向こう側は別の国という概念ではなかったかと考えられます。そう考えると「福岡平野」あるいは「筑後平野」などがその「奴国」の候補地である可能性が最も高いものと推量します。
  また「奴」のつく国が二十一国中「奴国」以外に「七国」あり、全体の三分の一を占めていることを見ると、「邪馬壹国」以前に「奴国」が「倭」の中心権力の座にあった歴史があることを反映しているという可能性が考えられるでしょう。
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