古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『日本書紀』と『日本紀』(続き)4

2015年08月18日 | 古代史
 「鎌倉時代」の僧である「凝然」が書いた『三国仏法傳通縁起』という書物に「道光」という僧についての事績が書かれています。

「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?来所以然者。…」(『三国仏法傳通縁起(下巻)』)

 この記述によると「道光」が「遣唐使」として入唐したのは「天武天皇」の時代のこととされているようであり、一見何の問題もなさそうですが、二つの点で疑問があります。ひとつはこの「道光」という人物が「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が『書紀』にあることです。

「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 『定惠 定惠内大臣之長子也』 安達 安達中臣渠?連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 冰連老人 老人真玉之子 或本以學問僧知弁 義 學生阪合部連磐積而焉并一百二十一人 ?乘一船 以室原首御田為送使 又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人 ?乘一船 以土師連八手為送使。」(『孝徳紀』)

 これによれば彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことと思われ、「天武」の時代ではなかったという可能性が高いと思料されます。しかもその帰国も『三国仏法傳通縁起』の中では「而其帰朝。定慧和尚同時。」と書かれており、「定慧(定惠)」と同時に帰国したとされますが、その「定慧」(定惠)の帰国は『孝徳紀』に引用された「伊吉博徳」の言葉によれば「定惠以乙丑年付劉高等舩歸」とされており、この「乙丑年」は「六六五年」と見られ(※)、それと同時に「道光」も帰国したと見ると大きな食い違いと言えます。(ただし「伊吉博徳」の言葉の中に「道光」の消息が触れられていないのは不明であり、不審といえば不審です。)
 つまり「道光」は「七世紀半ば」に「唐」へと派遣され、「白村江の戦い」が終わった後に帰国したということとなります。しかし『三国仏法伝通縁起』では「戊寅年」に帰国したとされており、整合していません。
 ふたつめの疑問は『三国仏法傳通縁起』に記された滞在年数の短さです。「天武」の初年以降「天武七年」までとするなら当然滞在期間は「七年以内」であったこととなります。しかし、これは「仏教」の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。さらにいえば、通常「遣唐學生」などは「次回」の「遣唐使船」での帰国が原則であり、帰国したとする「六七八年」やその「前年」には「遣唐使」が派遣されていないことと矛盾します。(そもそも「派遣」の記録さえも日本側にも唐側にも存在していません。)
 しかし『書紀』が記すように「白村江の戦い」の後「唐使」の船に便乗したとするならそれほど不審でありませんし、状況も実際的で曖昧ではありません。
 このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、そのため「道光入唐。未詳何年。」としているわけです。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような派遣の記録は『書紀』と整合しないことを知っていたものと思われます。
 『三国仏法傳通縁起』によれば、「道光」が帰国後著した「一巻書」として「依四分律鈔撰録文」という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされています。このことから(「凝然」も含め)一般にこの「浄御原天皇」を「天武天皇」のこととする訳ですが、それでは上に見た『書紀』の記述と整合しないこととなってしまいます。しかしここに「浄御原天皇」とあるのは重要な情報であり、これをむげに「間違い」とすることはできないでしょう。 
 つまり、これらのことは『三国仏法傳通縁起』が云う「浄御原天皇」というのが「天武」ではないことを如実に示すものと思われ、実際には「七世紀半ば」の「倭国王」が「浄御原天皇」と呼称されていたと云うことを示すと思われます。そう考えると『古事記序文』に「太安万侶」が書いた「飛鳥清原大宮」というものも、「七世紀半ば」のものと考える余地があることとなるでしょう。

(※)『天智紀』は「唐」との関係の記事に一年のずれがあると見られ、この「劉徳」の来倭は実際にはこの前年の「六六四年」ではなかったかと思われます。
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『日本書紀』と『日本紀』(続き)3

2015年08月18日 | 古代史
 すでにみた『日本後紀』(逸文)の中に書かれている「藤原継縄」の「桓武天皇」に対する「上表文」の中に以下の表現があります。

「襲山肇基以降浄原御寓之前、神代草昧之功往帝庇民之略」

 この文章は『続日本紀』の前に存在していた「前日本紀」の書かれている範囲としての表現です。そして、これに続く『続日本紀』の「範囲」としては「文武」から以降が書かれているという意味の文章となっていて、このことから「浄原御寓」が「文武」の治世を指す表現と推察されることを述べたわけですが、ここに書かれた「襲山肇基」と「神代草昧之功」、「清原御寓之前」と「往帝庇民之略」という対句表現に注目です。
 この「襲山肇基」というのが「天孫降臨」つまり「ニニギの尊」が「そやま」に天下った故事を指すものであると考えられるわけですから、当然「浄原御寓之前」というのが「持統」の代の事績を表現することとなるものと思われるわけですが、そこには「往帝」とあり、また「庇民」とあります。
 この「庇民」とは「庇」が「かばう」「守る」という意義があることから「民を守護する」という、「為政者」の行なうべき最高のこととされ、『礼記』にも「庇民之大」とも称される先例がある用語です。このような用語が使用される条件を「持統」は備えているのでしょうか。
 「持統」は「伊勢行幸」の際に「農時」の妨げになるという「大神朝臣高市麿」の諫言を振り切って行幸を決行した過去があります。この行為が「農民」にとって大きな負担であったことは間違いなくそれは「庇民」の語の持つ意義と全く反していることとなるでしょう。そのような表現は「持統」にはそぐわないものであり、ふさわしいとはいえないと思われます。その意味では「浄原御寓之前」とされる人物が「持統」であるかは疑問とするところです。

 ところで『古事記序文』に「飛鳥清原大宮」という表現が出てきます。
 以下に「太安万侶」が記したという『古事記』の「序文」の一部を記します。

「…曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位…」

 ここでこの『序文』の主人公は(これは一般に「天武」とされるわけですが)「壬申の乱」とおぼしき戦いの後「清原大宮 昇即天位」というわけです。ここでいう「飛鳥清原大宮」とは、いわゆる「飛鳥浄御原宮」を指すと考えられ、『書紀』では「壬申の乱」の直後の記事に出てくるのが初出です。

「天武天皇元年(六七二年)是歳。營宮室於崗本宮南。即冬遷以居。焉是謂『飛鳥淨御原宮』。」

さらにこの「宮」で「年が明けた冬二月」に「飛鳥淨御原宮」で即位したように書かれています。

「天武天皇二年(六七三)二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於『飛鳥浄御原宮』。…」

 しかし、このような「宮殿」を「壬申の乱」の終結後に造営するのはかなり困難なのではないでしょうか。
 この「飛鳥浄御原宮」は単なる「仮宮」ではないと考えられ、「序文」の中でも「清原『大宮』」という表現がされているように、かなり「大規模」なものであったと思料されます。しかし、下に見るように実際には短期間で造営が完了しているように見えます。
 『書紀』によれば「壬申の乱」の終結が「八月」の末であり、「九月」に入ってから「帰途」に着いています。

「八月庚申朔甲申(二十五日)。命高市皇子宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑。仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日。左大臣蘇我臣赤兄。大納言巨勢臣比等及子孫并中臣連金之子。蘇我臣果安之子悉配流。以餘悉赦之。先是。尾張國司守少子部連鋤鈎匿山自死之。天皇曰。鋤鈎有功者也。無罪何自死。其有隱謀歟。
丙戌(二十八日)。恩勅諸有功勳者而顯寵賞。
九月己丑朔丙申(八日)。車駕還宿伊勢桑名。」

 当然この時点から造営を始めたと理解するしかないわけですが、「即冬遷以居」とされていますから、「年内」に「遷居」したこととなりますが、このような短期間で大規模な「宮」を完成するなどということが可能であったとは思われません。しかもその工事期間は「冬季」を含んでいますから、進捗がはかばかしくなかった可能性も考えられ、ますます「年内」の完成と「遷居」が事実であったとは考えにくいものです。このことは「壬申の乱」の以前から「飛鳥浄御原宮」が存在していたのではないかということを推定させるものです。
 「天武」の前代の「天智」は「近江」に「宮」を築いていたものであり、「飛鳥浄御原宮」というものが「天智」の「主たる統治場所」でなかったことは確かですし、「近江遷都」した以降に築かれたと言う事も考えられませんから、必然的に「近江遷都」以前から「飛鳥浄御原宮」は存在していたこととなります。つまり、「斉明」の代以前からの存在と見られることとなります。そうであれば「序文」中の「飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世」というものは「天智」の「前の時代」を指す言葉と考えることが可能となり、実年代としては「六六〇年」以前を指すと考えられることとなります。
 つまり『古事記序文』の主人公は一般に考える「天武」ではないこととなるでしょう。そう考えれば「往帝」や「庇民」という表現をされている「浄原御寓之前」という人物についても「持統」でも「天武」でもないという可能性を示唆するものです。それを示唆するのが「道光律師」に関する記事です。
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『日本書紀』と『日本紀』(続き)2

2015年08月18日 | 古代史
 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。…修國史之墜業。補帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…」(『日本後紀』巻三逸文)

 この『逸文』の中には「先典」という言い方が出てきます。これは前述の『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原御寓之前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。
 そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。
 『国史大系』本の『日本後紀』(逸文)の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それではそれに続くはずの『持統紀』が『書紀』にも『続日本紀』にも存在しないこととなってしまいます。さらに「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまうでしょう。『書紀』では「天武」は「壬申の乱」の後「浄御原宮」で即位したとされているからです。

「(六七三年)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。」(『天武紀』)

 つまり「天武」も「浄原御寓」と呼称されて当然といえるわけであり、「浄原御寓『之前』」を「天武」とするわけにはいかないと思われ、この解釈には通釈としても問題があることは間違いないと思われます。
 現代ではこの部分については「清原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔に「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」(『続日本紀』(元明紀))

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」(『続日本紀』(聖武紀))

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。「浄原」や「清原」なら「藤原」との錯乱もありそうですが「浄御原」となるとそう簡単にはいかず、「藤原」との錯乱とは安易には言えなくなります。つまり、単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われることとなるでしょう。
 つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。
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