古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「神話」が国家により造られた時期について(三)

2017年09月12日 | 古代史
 ところで、『平家物語などを見ると「厳島神社」の創建の伝承として「神功皇后」が出てきます。その「厳島神社」の「開祖」とされる人物は「神功皇后」には妹、「龍王」の「八歳の娘」(龍女)にも妹、「淀姫」には姉とされています。(当然「女性」です)またその「創建」の年を『書紀』の「崇峻」年間(「五九三年」)としているのが確認できます。さらにこの「祭神」を「宗像三女神」のひとりである、「市杵島比売大神」とする伝承もあります。
 このように「厳島神社」と「神功皇后」の時代を「年次付き」で現在時点として語られている伝承が存在していると言うことが重要です。このように「創建」の年代に関連して「神功皇后」の時代が設定されている意味は何でしょうか。

 このような「伝承」が『書紀』に書かれた内容を「無視」して成立するとは思えません。それでは何の「威厳」も「説得力」もなくなってしまうからです。
 古代においては「国家」の権威と寄り添うことが自己の権威の確立に必須であったと考えられるものであり、そのような時代において、その「国家」の成立について述べた『書紀』と反する時系列を表明する伝承や説話を生成・存続させることに何の意味もないと思われるものです。
 このことは、この「伝承」が語る事実と整合する国家の「成立事情」というものが「実在」していたことを示すものと推定され、それを反映したものが「神功皇后伝承」であると考えるのが、一番合理的な理解の方法であると思われます。

 西村氏が云うように「天下り神話」の重要な部分は「海幸彦山幸彦神話」であり「潮満瓊潮干瓊伝説」です。「山幸彦」が海へ行って釣り針を捜して「龍神」の宮へ行き、その帰りに「潮満瓊潮干瓊」を貰って帰るというわけです。
 もちろん「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれていると思われますが、一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
 つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが『賢愚経』や『大方便仏報恩経』という仏教の経典に出てくる「説話」です。
 そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「海幸彦山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。つまり、「龍神」と「龍王」、「海幸」「山幸」と「釈迦」「提婆達多品」、「潮満瓊潮干瓊」と「如意寶珠」というように各々の登場人物とモチーフ、鍵を握る「珠」他状況設定等の対応が明確であり、この二つの説話が深い関係にあることは確実です。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五~六世紀)には中国国内でかなり著名であったものです。これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。

 このような「酷似」が発生する要因ないし状況には二つの可能性があると考えられます。一つはこのような「仏教説話」あるいはそれがまとめられた「類聚」の類が「六世紀後半代」に倭国に伝来し、それの影響を受けて「同時代」(あるいは直後)に「海幸彦神話」が形成されたという場合です。この場合は「説話」の伝来に直接リンクして、「リアルタイム」で「神話形成」が行なわれたこととなります。
 もうひとつは「後代」つまり「八世紀以降」の『書紀』の編纂過程において「仏教説話」が利用され、それを「種本」として『書紀』が書かれたという場合です。この場合であれば、全て後代の「改定」と「潤色」で固められていることとなるでしょう。
 いずれの可能性が高いのかと云うことを考えると、『古事記』の内容が「推古」までしかないことの他『隋書俀国伝』に「如意寶珠」記事があるという重要なポイントがあります。

 『隋書俀国伝』には「隋」の「開皇二十年」(六〇〇年)に「倭国」からの「使者」が述べた記事の中に「俗」の信仰として「如意寶珠」があるとされています。(ただし、この記事は実際には「十年」程度の遡上が推定でき、「五九〇年付近」のこととなると考えています。それに関しては     を参照していただきたい)
 このことは実際の問題として「如意寶珠」についての信仰が「六世紀末」の「列島」に存在していたことを示すものであると言えますが、それは「如意寶珠」との関連で「海幸彦山幸彦神話」がこの時点で形成されたと考えても不思議ではないことをも示すものです。
 またそれを示すのが、「宇佐神宮」に「如意寶珠」信仰があったことが資料から判断できることです。「八幡宇佐宮繋三」によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、それらの資料ではかなり古い時代のこととして「如意寶珠」信仰について書かれており、そこに書かれた年次(干支)から考えても「六〇〇年」以前であるのは確実であり、それは『隋書俀国伝』の「如意寶珠」とほぼ重なる意味を持っていると思われます。
 そう考えると、『隋書俀国伝』に言う「巫覡」と「宇佐神宮」の「神官」や「巫女」という存在は「如意寶珠」を媒介としてつながっているといえるでしょう。
 これらのことから「六世紀末」以前に「北朝」から「半島(百済や高句麗)経由」で「如意宝珠」と「釈迦の兄弟」に関する説話の類が伝来していたことを示すと思われ、「俗」(民間)にこの「如意寶珠」に対する信仰が広まり、それは「神話」の構成から考えてまず「海人族」を中心に受容されたことを示すと思われます。それは「宇佐」そのものが「海人族」の信仰の中にあったことからもいえることです。

 ところで「聖徳太子」の撰とされる『法華義疏』には「提婆達多品」がありません。「八歳の龍女説話」はこの『提婆達多品』の中に存在するものですから、このことは彼が依拠した『法華経』には「提婆達多品」が「ない」ことになり、その依拠する資料は「天台大師」以前のものであることが明白であることとなります。少なくとも「五八〇年代前半」以前の流入を想定すべき事となるでしょう。そうであれば、有力なものとしては「五七七年」のこととして「百済」から『法華経』が伝来したという以下の記事が相当すると思われます。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻經論二百餘卷。此論中。法華同來。」(『扶桑略記』より)

「(敏達)六年(五七七年)夏五月癸酉朔丁丑条」「遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。」
「(同年)冬十一月庚午朔条」「百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」

 ここでは「大別王」という人物を百済に派遣して、「仏典」等を招来したというわけですが、その中に『法華経』の経典があった、という事のようです。(『一切経』が招来されたものか)そしてこの『法華経』の中には「提婆達多品」がなかったということとなります。逆に上にみるような「海幸山幸神話」に元となるような経典がそこに含まれていたということは十分考えられます。
 このような経緯があったとすると、その後も「如意寶珠」と「満干の瓊」との類似性が強く意識されることとなったものと思われ、謡曲「鵜羽」では「豊玉姫」を語る際に「八歳の龍女」と「如意宝珠」が引き合いに出されています。

(以下謡曲「鵜羽」の一部)
「鵜の羽葺き合はせずの謂委しく承り候ひぬ。さて干珠満珠の玉のありかは何くの程にて候ふぞ。さん候玉のありかもありげに候。誠は我は人間にあらず。暇申して帰るなり。そも人間にあらずとは。いかなる神の現化ぞと。袖を控へて尋ぬれば。終にはそれと白浪の。龍の都は豊かなる。玉の女と思ふべし。龍の都は龍宮の名。又豊かなる玉の女と聞けば豊玉姫かとよ。あら恥かしや白玉か。何ぞと人の問ひし時。露と答へて消えなまし。なまじひに顕はれて。人の見る目恥かしや。隔てはあらじ芦垣の。よし名を問はずと神までそ。唯頼めとよ頼めとよ。玉姫は我なりと。海上に立つて失せにけり。/\。嬉しきかなやいざさらば。/\。この松蔭に旅居して。風もうそぶく寅の時。神の告げをも待ちて見ん。/\。八歳の龍女は宝珠を捧げて変成就し。我は潮の満干の瓊を捧げ。国の宝となすべきなり。」
 
 『書紀』の「神功皇后紀」の「豊玉比売」の説話と『法華経』の「八歳の竜女」説話とが同一のレベルの話となり、混在して理解されているわけです。

 「娑竭羅龍王」の「八歳の竜女」は「厳島神社」の創建に関わって「神功皇后」の妹として出て来るわけですが、「神話」では「豊玉比売」という人物は「彦火火出見」の妻として出てくるものであり、「竜王」の「娘」とされます。このことは『書紀』の「満干の瓊」と『法華経』の「如意寶珠」が同一視されていた証明でもありますが、またそれが説話の形成時期として「同一」であるという証明でもあると思われます。

 この「龍女説話」が含まれる『法華経』の伝来は「遣隋使」と「隋使」の往還によると考えれば「五八九年付近」のこととみることもでき、そうであれば「厳島神社」の創建が「五九三年」とされていることは、その意味で整合的であり、これらが直接関連していることを示すものです。つまり彼らにより『提婆達多品』が添付された『法華経』が「倭国」にもたらされたものであり、それに啓発されて「八歳の龍女」伝承が「厳島神社」などでみられるようになったものと思われるわけです。それは「神功皇后」の実年代も同様に「六世紀末」であるということを示唆するとものですが、それは別の言い方をするとこの時点付近で「神話」が国家により形成されたと考えることもでき、結局「神話」が「民話」の段階から「国家」としての「建国神話」となる時点の上限は「六世紀の末」付近であることが推測できるというわけです。

 この時点で「建国神話」が造られたとすると「建国神話」の登場人物は「現実」(「利歌彌多仏利」時点)での実在の人物と強く「リンク」していると考えられます。
 たとえば、「天孫降臨神話」の説話は、「当人」である「瓊瓊杵命」及びその母である「萬幡豊秋津師媛命」、またその父である「高皇産靈尊」(高木神)、「天孫降臨」に随伴する「思兼神」(これも「高皇産靈尊」の子供)、「瓊瓊杵命」の子である「彦火火出見(山幸彦)」、「瓊瓊杵命」の父である「天忍穂耳命」、その更に父である「素戔嗚尊」などで構成されています。
 上で考察したように、この「原・日本紀」とも言うべき史書の成立がこの時代であるとすると、これら「神話」中の人物は『神功皇后紀』の登場人物を「媒介」として「利歌彌多仏利」の周辺の人物に同定可能となると考えられます。
 たとえば、「神功皇后」は「法隆寺釈迦三尊像」の「光背」に書かれた「鬼前太后」に比定されるものと思われますが、彼女は「高皇産靈尊」の子供である「萬幡豊秋津師媛命」に対応していることとなるでしょう。
 また、彼女が抱いていたまだ幼い「瓊瓊杵命」は「胎中天皇」と呼ばれた「応神天皇」を通じて「阿毎多利思北孤」に対応しているものと考えられます。(「胎中」という用語は「隋の文帝」についても使用されており、『書紀』編纂者は『隋書』を見て「応神」について「胎中」という用語を使用していると思われますから、「隋の文帝」のイメージそのものが「応神」に投影されているという可能性があるでしょう。また、その意味でも「六世紀末」という時期が措定されるのは妥当であると思われます。)

 (隋の文帝に関する「胎中」の使用例)
「歴代三寶紀卷第十二譯經大隨開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋録者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視?語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在『胎中』諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己德分與是王。以天護故稱為天子。赤若之??屋馭時。土制水行興廢毀之。佛日火乘木 運?年。號以閏皇。可謂法炬滅而更明。否時還泰者也。…」
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「神話」が国家により造られた時期について(二)

2017年09月11日 | 古代史
 西村秀己氏の研究(※1)では、「応神」と「瓊瓊杵尊」、「仁徳」と「彦火火出見」(山幸彦)というように、『神功皇后紀』と「天孫降臨説話」の各々の人物相関図が酷似しているとされます。ただ、「西村氏」はその「酷似」とも言うべき両者の関係をどう考えるべきか結論は出しておられませんが、私見によれば「神話」に合わせて『神功皇后紀』を造作したとするなら、その意図も目的も不明と言わざるを得ないでしょう。そのような「改定」や「造作」にどのような「現実的」利益があるか全く想像できません。しかし、その逆なら可能性としてはあり得ると思われます。つまり『神功皇后紀』に合わせて「天下り神話」を造作したという場合です。ただし、その場合でも、その造作が実際の『神功皇后紀』付近で行われたとする必要があるでしょう。それは「神話」に現実を投影することにより、現実に「説得力」を持たせるという「神話形成」の常道とも言うべき目的があったと考えるからです。

 「西村氏」は「神功皇后」の時代の現実を「神代」に当てはめたのか、あるいはその逆なのか、と言う問題が提起されているわけですが、実はその結論に関わらず、いずれも「不審」なものとなると思われます。その理由は、いずれの時代も『書紀』が成立したとされる時代からかけ離れているということにあります。
 『書紀』の成立が『続日本紀』に書かれたように「七二〇年」という年次であったとした場合、そこに書かれた内容はその「八世紀時点」の政権にとってどれほどか「有利」となる内容でなければならないはずですし、少なくとも「彼等」の利益に直結する内容でなければならないはずです。しかし『神功皇后紀』と「神代」が酷似していることがどれほど「八世紀」の政権に有利に働くのでしょうか。
 その効果というものは「八世紀」に存在していた誰か或るい誰か達の先祖である「神功皇后」の時代の正統性保持には役だっても、現実の「政権」の中央に位置する彼等には恩恵は少ないと思われます。(八世紀当時の中央には「神功皇后」の末裔と思われる「息長氏」勢力はそれほど強くないように思われます)そのような「隔靴掻痒」ともいえる「まだるこしい」ことをせずに、「八世紀」の「現実」と「神代」が「直接」結びつくような「神話」を構築する方が遙かに簡単で効果的ではないでしょうか。
 「現実」と「神話」の「リンク」は有り得えても、「古代」と「神話」の「リンク」はその動機と目的が「曖昧」というより、「無意味」でさえあると思われます。

 「神話」は決して「民話」そのものではなく、権力により作られる「政治的」なものという性格が強いと思われ、「建国神話」という類のものは全て同様の性格を有していると言えます。そう考えると、その「権力」の座にあるものが声を大にして主張したいこととは、現実の政権の正統性(正当性)であり、現実の政権の「大義名分」の所在であり、それを「保有」しているという現実が「神話」により裏打ちされていること、また「伝統」に立脚し依拠しているということを主張するためのものであって、「現実」というものが「神話」から帰結された「予定調和」であるということを言わんとして作り上げられたものといえるものです。(これによく似た論理は戦争当時軍部を中心として行われた「八紘一宇」とう思想で現実化しています。そこでは「現実」としての「神国日本」を構築するために「神話」が積極的に利用されています。これによく似た論理が使用されたものではないでしょうか)
 もし、そうであるとすると、「現実」と「神話」は「直接」リンクさせられて当然であり、逆に「古代」と「神話」をリンクさせるとすると、その意味が不明となるでしょう。それでは「現実」と「古代」の間をさらに結びつける必要が出てきてしまい、いわば「二重手間」となってしまうからです。
 これを合理的に理解するためには「時代」の位相をずらす必要があると思われます。つまり、『神功皇后紀』の実年代は『書紀』に書かれたような時間帯ではないと考えられ、これを「古代」から「現実」に引き戻す必要があると思われますが、ではその「現実」とは「いつ」のことなのでしょうか。
 そう考えると、『神功皇后紀』が現実の世界としてアクティブであった時代を想定する必要がありますが、それが『書紀』や『古事記』の示す時代ではないことは明らかです。少なくとも『書紀』と『古事記』で圧倒的に時代が異なるというのはそもそも不審であり、『神功皇后紀』という時代について「七世紀」から「八世紀」にかけての時期に固定的、安定的な理解が当時形成されていなかったこととなります。
 「改定」や「潤色」の内容が『古事記』『書紀』で異なっているというのは、この『神功皇后紀』やその前後関連した『応神記』『仁徳紀』などの時代の事をどう評価すべきなのか「王権」の中で固まっていなかったことを示しているものですが、それは彼等をそのまま評価すべきなのかどれほどの潤色改定を加えるべきなのかが定まっていなかったことを示すものであり、それほど評価がいわば「クリチカル」であったことを物語るものです。このことは「彼等」の業績(治績)がそれほど「画期的」であったことを示すものであり、「毀誉褒貶」の含まれる性質のものであったということではないかと思われますが、それは「対中国」という中でのことではなかったかと考えられます。それを示すのは「神話」など『古事記』『書紀』の中に「卑弥呼」が全く現れないことです。

 「卑弥呼」は「倭王権」にとって欠くべからざる「倭王」であり、「万世一系」を謳うならば必ず「天皇」の一人として描写すべき人物であるはずですが、それは見事に欠落していると同時に「晋の起居注」が『神功皇后紀』に小さく引用されています。これは「晋」や「魏」への「卑弥呼」の対応に対する評価が『書紀』『古事記』編纂時点では高くなかったことの裏返しでしょう。「卑弥呼」や「壹與」は「魏」「晋」に対して「臣従」する意を表し、何度も「朝貢」していたわけであり、それは『古事記』『書紀』編纂担当者(というより当時の王権)からは「屈辱的外交」と受け取られていた可能性があるでしょう。彼等はそのため意図的に「卑弥呼」を記事から外しているのではないでしょうか。同様のことは「卑弥呼」になぞらえられたその『神功皇后紀』そのものにいえるのではないでしょうか。
 「卑弥呼」と関連づけたこと及びその「神功皇后紀」自体に対して「年次移動」その他の「潤色改定」を相当程度加えたと見られることは、「神功皇后」自体に対しても肯定的評価をしきれなかったことが窺えるわけです。とすれば「卑弥呼」同様『応神記』『神功皇后紀』『仁徳紀』などに対しても対中国という点で「倭国王」としてあるべきではない「屈辱的行動」があったと見たものではないでしょうか。ではそれは一体どのようなものであったのでしょうか。

 確かに「倭国」の対中国との関係は常に一方的であり、その意味では常に「屈辱的」であったといえるかもしれませんが、最も可能性があるのは「隋」との関係ではなかったでしょうか。「隋」との間には「天子」自称について「宣諭」されそれを受け入れた(受け入れざるを得なかった)事件(当然謝罪を伴ったものと思われます)やそれに先立つ「訓令」事件があり、それらに対する対応について「否定的」な見解を持っていたものと思われるのです。
 そう考えると、彼等の真の時代としては「六世紀後半」が最も想定されるものであり、そのため『古事記』『書紀』で「四世紀」などへの年次移動を行うこととなったものと思われますが、そのことにより「空白」となってしまった「六世紀末」には本来は「五世紀末」付近である「推古」の時代を持ってきていわば「穴埋め」をしていると思われます。(古賀氏により推古紀に見える「観勒」の上表文についてその本来の年次が120年ほど遡上する可能性が指摘されています。(※2))


(※1)西村秀己「神代と人代の相似形」(『古田史学会報』60号2004年2月)
(※2)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か 「仏教伝来」戊午年伝承の研究}(『古田史学論集』第一集所収 明石書店 1996年3月)
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「神話」が国家により造られた時期について(一)

2017年09月11日 | 古代史
 「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
 さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」という多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、『法華経』第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き『法華経』を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。この伝承が「厳島神社」の創建伝承に現れるわけであり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなっているのです。
 その「厳島神社」の創建伝承をみてみると、「祭神」は「市杵島比売」とされ、この人物は「(娑竭羅)竜王の娘には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係であると記されています。(女性とされているわけです)
 ここに出てくる「淀姫」という人物は佐賀県に祭神としてまつる神社が数多いのですが、「神功皇后」の「新羅征伐」説話中に現れ、その「神功皇后」の妹として「松浦」の水軍をまとめて加勢したと伝えられています。
 「宗像」「松浦」という地名、「淀姫」を含む「三女神」に対する信仰という点においても、九州地域との在地性が高く、また信仰の内容から言っても「海人族」に関わる信仰であることがわかります。
 これらのことから「厳島神社」創建の人物は「宗像三女神」のうちの「比売大神」(市杵島比売神)に対応する人物と考えられます。

 また「京都」の「八坂神社」の祭神は「薬師如来」が垂迹した「牛頭天皇」とされ、この「牛頭天皇」というのは起源不明ではあるものの、その后は「頗梨采天女」であったとされますが、この「頗梨采天女」は「娑竭羅龍王の娘」とされ、「南方」の「竜宮城」に住んでいたという逸話が残っています。
 つまり各地の神社に伝わる「娑竭羅龍王の娘」は「牛頭天皇」すなわち「素戔嗚尊」の后とされている訳であり、「宗像三女神」と仏教の融合がそのまま「日本神話」につながっていることがわかります。
 これらのことは「娑竭羅龍王」との関連で仏教文化が倭国内に伝搬したことを示すと考えられ、「六世紀末」という時代の「仏教文化」拡大に「海人族」が深く関与していることが推定されます。

 後でも述べますが、一般には『法華経』に「提婆達多品」が添付されたのは「六〇一年」に造られたとされる『添品妙法蓮華経』が最初であるとされますが、実際には「六世紀末」の「天台大師智顗」によるものであり、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。(講説した記録がある)通説ではそれが「倭国」に伝来したのは一般にははるか後代の「九世紀」とされており(※)この「六世紀末」から「七世紀」という時代には「流布」していなかったとされます。しかし「一般への流布」とは別次元のこととして「隋帝」から「倭国王」への「訓令」として直接伝えられたとする仮定はそのような通説と矛盾するものではありません。むしろこう理解した方が「龍女伝説」に対する解釈として適切であるように思います。
 つまりこの『提婆達多品』が補綴された『法華経』の伝来が「隋」との交渉の結果であり「開皇年間」であったとみるべきとすると、上に見るように「厳島神社」などの「創建年次」が「五九三年」とされている事はまさに整合すると言えるでしょう。つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」(ないしは「隋使」)が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち来たったその年であったのではないかとさえ考えられる事となります。もし「伝承」が後代に「造られた」(創作された)とするなら『書紀』の記述を踏まえるのは自然であり、それに沿った形で「伝承」を形作るものと思われ、『書紀』と食い違う、あるいは『書紀』の記述と反する「伝承」が造られたとすると甚だ不自然でしょう。その意味で「端正年間」という表現も含めて「厳島創建伝承」には『書紀』の影は見えないとみるべきであり、その意味で「独自資料」という性格があったとみるべきです。「伝承」だからという理由だけで否定し去ることは出来ないものと思われます。

 また、上に見る「厳島神社」の創建伝承は、仏教(法華経)の伝搬の発信地が「九州」であったことを示していると同時に、「宗像三女神」に対する信仰と関連して語られていることが注目されます。
 「九州」にその本拠とでもいうべきものがある「宗像三女神」の分社、末社やそれに関係した「寺社」が「東方」に増えていくのですから、伝播の経路としては「筑紫側から近畿側へ」というベクトルであることに留意すべきでしょう。(さらにいえばこれは「遣隋使」の帰国の行程と関係があるのかも知れません。帰国の途次「宗像」の海人族に瀬戸内航行の護衛を頼んだことがこの「厳島」や「伊予三島」の創建説話に関係していると言う事も考えられます。)

 ところで、この「厳島神社」創建に関わって「神功皇后」が登場するのは唐突に思えますが、それは「神功皇后の伝説」を含めた「神話」がこの時造られたという可能性もあると思えます。
 『古事記』を見ても「推古」の時代までしか書かれておらず、それは「記紀」の原資料となった各種の記録や説話をまとめたものがこの「六世紀末」付近あるいはその後継王朝の時代に一旦成立したという可能性が高いことを示すと思われ、『隋書』で「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」か、その後継者が「勅撰事業」として編纂させたものが、後の『書紀』編纂の際の重要な根拠資料になったという可能性があると思われます。ただし『古事記』の「序文」は「唐」の「長孫無忌」等がまとめたという「五経正義」を下敷きとしているとされますから(※)、それ以降に書かれたものであることは間違いないものの、その内容は当然それ以前のこととなります。この時点で諸々の説話がまとめられ、成立したとすると、「神功皇后」説話が元々は「最近」の話(七世紀から遡ることせいぜい百年以内)として書かれたものであったという理解も可能ではないでしょうか。

 「記紀」(特に『書紀』)でこの「神功皇后」の時代がかなり過去のこととされているのは、『三國志』の「卑弥呼」に仮託しようとした「八世紀」の造作と考えられますから、本来の年次に書かれているかははなはだ疑問です。(そもそも『書紀』の「神功皇后」の部分は、「森博達氏」の論によれば「唐人」の手になる部分(α群)ではなく、「日本人」編纂者の手による部分(β群)であり、より後代の成立であって「潤色」「改定」の手がかなり入っている部分であると考えられています)


古田武彦「古事記序文と五経正義」(『多元的古代の成立』(下)邪馬壹国の展開 二〇一一年ミネルヴァ書房)
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「那須直韋提の碑文」について(六)

2017年09月10日 | 古代史
 「那須直韋提」の碑文に「永昌元年」という年号があるのは「倭国」が「唐」(武則天)に追随していたと考えたわけですが、この考えは「二〇〇二年」に「石神遺跡」から出土した「具注暦木簡」に「元嘉暦」が使用されていたと考えられていることと一種「矛盾」するといえるでしょう。それは「元嘉暦」が「南朝」の暦であり、「隋」によりとうの昔に滅ぼされた「南朝」の暦を使用しながら「唐」に対し追随姿勢を見せていることは「矛盾」といえるからです。

 「奈文研」などの見解では「木簡」に記された「辛酉破上弦」「戊戌皮三月節」などの文字列から、この「具注歴」の暦として「元嘉暦」が相当すると考えられています。しかし、この「具注歴」に書かれた暦は本当に「元嘉暦」なのでしょうか。
 「奈文研」を始めこの「具注歴木簡」に書かれている暦が「元嘉暦」であるという点では異論を見ませんが、本当にそうかというのが当方の意見です。
 疑問に思う一点は上に見たように「永昌元年」という「唐」の年号との矛盾です。この年号の使用日付と「具注歴木簡」の日付(月)は同じなのです。全く同じ月を表現するのに「暦」は「元嘉暦」で、年号は「唐」の年号というのは甚だしい「矛盾」と言えるのではないでしょうか。「元嘉暦」が「南朝」の暦であり「唐」にとって「忌むべき」ものとも言える性格であることを考えると、「永昌」という年号と共存できるはずがないと言えるでしょう。この年次は「六八九年」とされていますが、「倭国」と「唐」の関係は「六四八年」に一旦国交が回復したわけであり、その時点で「唐」の暦を導入したと見るのが相当と思われ、「戊寅元暦」の使用があったものではないでしょうか。その後確かに「白村江の戦い」などにより「唐」との関係は悪化しますが、この「唐」の年号を使用するという段階で「元嘉暦」に戻っていたとも考えにくいのです。
 
 この「具注暦木簡」に表された日付や十二直などの表記は確かに「元嘉暦」で再現できますが、実は同様に無理なく再現できる他の暦が存在しています。それは上に述べた「戊寅元暦」です。これによってもこの「具注歴木簡」に書かれた干支や十二直は再現できます。但し「戊寅元暦」では「三月」が「小の月」となります。つまり「二十九日」までしかないわけです。
 「奈文研」が発表した復元案(※)によれば暦の冒頭に月名などを表記するために「四行分」の「スペース」を取り、その後に等間隔で三十日分の記事を書いているようになっています。つまり、写真を見ると「三月癸亥」の真裏に「四月戊戌」が来るように見えます。「四月戊戌」というのは「十六日」であるわけであり、三十日側から数えると十五行目となります。この真裏に「三月癸亥」があるわけであり、これが(「元嘉暦」のように)「大の月」なら「十一日」となりますから、先頭に四行スペースを取ると同様に十五行目となって「真裏」に来ることとなって位置の対応は適合するという訳です。しかし、スペースが四行分かどうかは実は不明であり、これが四行としているのは「逆」に「三月」を「大の月」とするためであり、「元嘉暦」が使用されているということを言おうとする為であるともいえます。
 この先頭分のスペースが「五行分」であったとすれば、「十六日」である「四月戊戌」は十五行目で変りませんが、「三月癸亥」が「十日」となっても同様に「十五行目」となって整合します。つまり、「三月」は「小の月」で良いこととなりますから「戊寅暦」であっても構わないこととなります。(スペースが五行あったとする方が月名などをそのスペースの真ん中に書き込むのに都合が良く、またバランスを取りやすいと思われます。)
 そもそもこの時の「暦」そのものが不明なのですから、「三月」が「大の月」と決まっているわけではないのは当然であり、「二十九日」までしかなかったという想定も充分有り得ます。(但し、これは『書紀』の『持統紀』に使用されている暦の種類の問題とは別であり、そこには「元嘉暦」によって記されているとしか考えられない記述が並んでいることは確かです。しかし、『書紀』の記述に使用されている暦が必ずその時点で使用されていた暦であると言えないのは古代の部分の記述に「儀鳳暦」が使用されている例からも当然であると思われます。)

 ここで想定した「戊寅元暦」は「唐」で始めて改暦された記念碑的な「暦」であり、「唐」では「唐初」から「麟徳暦」に取って代わられる「六六五年」まで使用されていたものです。「中国」で作られた「暦」が既にその本国である中国で使用されなくなり、とうの昔に改暦されていても、周辺国では使用が継続しているというのはしばしば確認される事象です。なによりも、「戊寅元暦」がここに使用されているとすると、「永昌」という「唐」の年号との「矛盾」も解消する事が重要であると思われます。
 ただし、倭国ではこの「戊寅元暦」が既に「唐」では使用されていない古いものであったということにこの「六八九年」の「祝賀使」派遣の時点で気がついたということではなかったでしょうか。そのため帰国後「麟徳暦」への改暦が議論され決まったものと思われますが、通常「暦」の製作と頒布は「十一月朔日」に行なわれるものですから、この年はそれができなかった可能性があります(十一月がなくなってしまったため)。そしてその翌年の「十一月」の時点で「改暦」されたものと見られ、「麟徳暦」が使用される事となったと見られますが、またこの「六九〇年十一月」という時点は「庚寅年籍」の造籍が為された時点でもあり、これは「改暦」と同時の出来事であった可能性が高いと思料します。

(※)奈文研ニュース№8「具注暦木簡復元図」
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「那須直韋提の碑文」について(五)

2017年09月10日 | 古代史
 すでに故人となられましたが「岸俊男」さんという古代史学者がいらっしゃいました。彼には多くの業績がありますが、その中で当方が注目するのは「戸籍」に関する事です。彼の研究によれば古代において人名に「動物」の名がつけられている例が多く、それは生まれた年の「干支」を取り入れたためとされます。(※)たとえば、寅年生まれだと、「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだと「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそのような例です。このような命名法が一般化したのは暦法を取り入れて後のことであると考えるのは自然です。

 古代の「戸籍」には「生年」(干支)と「名前」が記録されており、そこから計算すると「庚寅年」以前にはそのような命名法と考えられる例が少なく(つまり「干支」と人名に対応が見出せない)、多くの人々にとっては「干支」というものが身近ではなかった事が窺えます。つまり、「暦法」が導入され、国内に施行されたことによって「干支」というものが日常生活の中に溶け込んでいったことがこの「命名法」からも読み取れるわけです。特に「班田」の制度の施行と「名前」に「生まれ年」の「干支」を関連づけることが行われるようになったことは深く関係していると思われます。それが「庚寅年」であることは重要であり、「庚寅年籍」の存在との関連が重要です。この年次に「戸籍」の調査と登録が行われ、そこで「初めて」干支紀年法を人々は知ったのではないでしょうか。そして「課税」と「班田」の年限の対応をわかりやすくするため名前に生年の干支をとり込むことが始まったと見られるのです。
 ところがこの対応関係が「丙申年」(つまり六九六年)以降一年「ずれる」現象が確認されています。つまり、実際の生年の干支の「翌年」の「干支」を人名に用いることが頻出するのです。

 具体的にいうと「丙申年」まではその年の干支を人名にしているのが多くなっています。たとえばその前年は「未年」ですが、「羊」や「羊売」などと命名されています。しかしこの翌年の「丁酉」になると突然、「酉年」であるのに「翌年」の「干支」である「戌」にちなんだ「犬麻呂」と言う名称が現れ、「酉(鳥)」に関する名称は見えません。以降も同様に生年の「翌年」の干支が名称に使用されており、その翌年は「戌年」ですが「猪手売」、更にその翌年である「己亥」年には「根麻呂」、「庚子」年は子年にも関わらず「牛麻呂」や「牛売」、「七〇一年」は丑年ですが「刀良」、「刀良売」、「七〇二年」は「壬寅」年で「宇麻呂」、「宇提売」などとなっています。そして、その年の干支を使用した例はそこまで「一件」も確認されていません。そして、この「ずれ」はこの「壬寅」つまり「七〇二年」で終了しその翌年からまた正常に戻ります。つまりそのつぎの「造籍」時に修正されたとみられるわけです。
 これについて岸俊男氏は「籍帳」を製作した実年時と提出された年次の相違に帰して考察していますが、そうとは言い切れないのは当然です。その場合その年次付近だけになぜ現れるかを説明しなければなりません。「丙申年」の段階でズレ始めるということは、その時点で「計帳」つまり「戸籍」の変動について調査が行われたと見られ、その際に何らかの「誤解」あるいは「暦」の変更が示されたという可能性があります。
 これについてもっとも可能性が疑われるのは「周正」への変更ではないでしょうか。
 これについては古田史学の会員であった「洞田一典」氏が「会報」等で発表した『持統「周正」仮説』が非常に参考になります。これは「武則天」が権力を握っている段階で、「周」の古制に復帰するという名目で「歳首」つまり一年の始まり(つまり一月)を十一月に変更したというものです。(※2)

「天授元年正月庚辰,大赦,改元曰載初,以十一月為正月,十二月為臘月,來歲正月為一月。…」(『新唐書/本紀第四/則天順聖武皇后 武曌/天授元年』より)

 つまり「周」代においては「冬至」が正月だったわけであり、これを復元したというわけです。そのためその時点の「冬至」の月である「十一月」を歳首と変更したというわけですが、これを倭国王権が採用し同様に「十一月朔日」を「元旦」としたというものであり、これは当時「新羅」が追随していたもので、これを「倭国」でも採用したのではないかと思われるというわけです。
 彼の推定によれば本来の「干支」の一年先の「干支」が当年の年次に採用されたとしますから、上の趣旨にぴったりです。たとえば「文武」の即位と大嘗祭の年次についても、『延喜式』など見ると「七月以前の即位の場合はその年の十一月、八月以降の即位の場合は翌年の十一月」となっていたようであり、その意味では「文武」の即位が「八月」であって大嘗祭がその翌年の「十一月」であるのは一見問題なさそうですが、『皇年代私記』傍注も『歴代皇紀』と『一代要記』の本文も「大嘗祭」を「即位」と同年だとしています。詳細は「洞田氏」の論を見ていただくとして、解析の結果「周正」を導入したために一年ずれていることが明らかであり、それが「干支」を名前にするという中に遺存したと見られます。
このようなことが起きたことを傍証するのが「永昌元年」という「日付」が書かれた「那須国造碑」の存在だと思われます。

 この「永昌元年」という年次は「武則天」が「周正」を導入したその年であり(年末)、そのような年号が「碑文」として書かれているわけですが、この「永昌元年」という年号は「中央」からの「任命文書」様のものに記載されていたものと理解しています。そのようなものに「武則天」の「年号」が書かれている事は時の権力者が「武則天」に追随したことを示し、そうであれば「周正」も受け入れたであろうと考えるわけです。
 この年はその年度初めに「持統」が即位しており、本来ならば「十一月」に大嘗祭が行われるはずでした。しかし、自ら変更した「周正」により「十一月」という月そのものがなくなってしまったため、「大嘗祭」は翌年に実施せざるを得なくなったものです。さらにこれは「文武」の即位と大嘗祭にも影響し、即位の年とされる「丁酉」は実際には「戊戌」として「暦」に記され諸国に頒布されたと見られます。この様な混乱が発生した理由は上の『新唐書』の記載がヒントとなるようです。そこでは「正月」と「一月」が別に書かれており、この「正月」時点で「干支」か余計に一つ進んでしまったと理解したとすると混乱の理由がわかります。そして「計帳」年次である「丙申」の時点以降「誤った暦」に基づき出生したものに名前がつけられたみられます。
 この「周正」は「武周」においては「七〇一年」まで継続したものであり、その翌年「夏正」に復帰しました。(新羅も同様)「倭国」においてもこの時点で復帰したとすると「大宝二年」時点で元に戻ったこととなり、人名に「ずれた」干支が使用されるのが正常に復旧する時期と整合しており、それは「周正仮説」の正しいことを裏書きするものです。(続く)


(※1)岸俊男「十二支と古代人名 -籍帳記載年令考-」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)
(※2)洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う「持統周正仮説」による検証」(『新・古代学』古田武彦とともに 第五集二〇〇一年新泉社)

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