古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「那須直韋提の碑文」について(四)

2017年09月10日 | 古代史
 この「永昌」改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「武則天」の「詐欺」のようなものでしたが)
 そして、この「改元」に先だって「六八八年五月」に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられたようです。

「五月戊辰 詔當親拜洛,受寶圖有事南郊告謝昊天。禮畢御明堂朝羣臣。命諸州都督刺史及宗室外戚 以拜洛前十日集神都。」(『資治通鑑』による。)

 同様のことが『旧唐書』にも書かれています。

「其年五月下制 欲親拜洛受寶圖。先有事於南郊告謝昊天上帝。令諸州都督刺史并諸親 並以拜洛前十日集神都。…」

 これによれば「拜洛」の「十日前」には「神都(洛陽)」に集合しなければならないとされています。これは結局同年十二月(二十五日)のことであったものであり、これに合わせ「都督刺史及宗室外戚」が「洛水」に集められ、「武則天」が「圖」を「拝」するのに「内外百官」が陪従したとされています。

「十二月己酉(二十五日) 太后拜洛受圖 皇帝皇太子皆從 内外文武百官蠻夷各依方敍立 珍禽奇獸雜寶列於壇前 文物鹵簿之盛 唐興以來未之有也。」(『資治通鑑』による。)

『旧唐書』にもほぼ同様の記事があります。
「至其年十二月,則天親拜洛受圖 為壇於洛水之北中橋之左。皇太子皆從 内外文武百僚蠻夷酋長各依方位而立。珍禽奇獸並列於壇前。文物鹵簿自有唐已來未有如此之盛者也。」

 ここでは「内外文武百官蠻夷」や「内外文武百僚蠻夷酋長」という表現があり、結局「唐」国内だけではなく、周辺諸国にも「招集」がかかり、かなりの数の「祝賀使」が集められた様子が窺えます。この頃の「唐」の「勢威」はかなり強く、また「武則天」の性格から考えてもこのような祝賀のセレモニーが「大々的」に行われたであろう事は想像できるものであり、「唐興以來未之有也。」つまり、唐が興って以来今まで見たことがないぐらいだ、というわけですから、想像を絶するものであったと思われます。
 このセレモニーの「蠻夷酋長」に「海外諸国」が入っていないと考える理由は見あたらず、前年の五月に「招集使」が内外に派遣された際、「倭国」にも「使者」が来たのではないかと考えられます。そして「倭国」でもそれに対応するため急ぎ使者を派遣したのではないでしょうか。
 この時の使者が派遣されたとすると、これは単なる「祝賀使」であり、「献上物」の持参と儀式への参列のみ行ったものと考えられます。このため、唐側資料にも倭国側資料にも記載されていないのでしょう。(これは他の夷蛮諸国も同様ですが)
 そしてそれから数日後の「六八九年」の「正月」に「永昌」と改元されるわけです。

「永昌元年正月乙卯(朔日),享于萬象神宮,大赦,改元,賜酺七日。」(『新唐書/本紀 第四/則天順聖武皇后 武曌/永昌元年』より)

 「祝賀使」はこの「改元」を見届けたものと思料され、帰国したこの「祝賀使」からは「朝廷」に対して詳細な報告があったものと思われます。その報告の中には「武則天」に招集され「洛水」に集まった各国からの献上物の量とその内容、さらに直後に完成した「明堂」の規模と絢爛豪華さ。(高さは90m程度と推定されています)それらが報告されたものと推察されますが、さらに、「武則天」からは「封国」でない諸外国に対しても、「永昌」という年号を使用せよ、という言葉があったのではないかと推察されます。
 むろん「封国」ならばそうすべきですが、「柵封」されていたわけではない国々に対しても同様の「強い要請」が「武則天」からあったのではないかと思われ、「倭国朝廷」はこの「武則天」の「勢威」に押され、あるいは「怯え」、「永昌年号」を「正式文書」に使用することとしたのではないでしょうか。

 このように「祝賀使」の報告を受け、朝廷内部の公的文書に「唐」の年号を使用することとなり、「評督」任命の公文書に「永昌元年」という年号が書かれることとなったとすると(「碑文」に書かれた「永昌元年四月」はここまで「朝庭」からの文書にあったとみるべきです)、それが記載された文書が彼の元に届いたのは「六八九年四月」以降のこととなるでしょう。いずれにしても「唐」から帰国してすぐに公文書が書かれたこととなり、かなり「慌ただしい」事とは推察されますが、決して不可能ではないと思われます。(倭国内に頒布された暦に「永昌」という年号が記載されていたかは不明ですが、その可能性は否定できないと考えています。)
 そしてこの時「武則天」が「周」の古制に復帰するとして「周正」つまり「十一月」を最首とするという改定をするわけですが、その情報もこの「改元」の時点ですでに関係者には伝えられていたのではないかと考えられ、それも倭国に情報として伝えられたということが想定できます。(続く)
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「那須直韋提の碑文」について(三)

2017年09月10日 | 古代史

 この碑文では冒頭に「永昌元年」と書かれていますが、これは「武則天」時代の「唐」の年号です。なぜ北関東の石碑に「唐」の年号なのでしょう。

 「永昌元年」は西暦で言うと「六八九年」であり、「持統天皇称制三年」に当たります。(また、この年代は「九州年号」によれば「朱鳥」年間に当たります。しかしここでは「朱鳥」年号は使用されていません)
 ここで「唐」の年号が使用されている理由として考えられるものは、「評督」に任命する、という「朝廷」からの文書に「永昌元年四月」という日付表示が書かれていたのではないかというものです。
 「群馬県」にある「多胡の碑」にも「弁官符」という書き出しになっていますが、これは「符」(朝廷からの文書)の丸写しではないか、と考えられ、この「那須直碑」も同様ではないかと考えられるわけです。そもそも自らの「権威」の根源としての「公式文書」であればそれを「引用」した形で「碑文」を構成したとして当然とも思えます。
 しかし、一般にはこの碑文は、この「那須」という地域に「唐」の事情に詳しい人物かあるいは「新羅」に関係ある人物がこの頃(「六八九年」から「七〇〇年の間」)存在していて、彼からの情報により、「唐」の年号が「六八九年」に「永昌」に改元されたことを受けて書き込んだとされていますが、正直言って良く理解できるとは言えません。
 「唐」でいつ改元したとか言う知識と「飛鳥浄御原宮」から「評督」を受号することの間に何らかの関係がある、とは思えません。明らかに「那須」地域の事情と言うより、「朝廷」と「唐」の間に何らかの関係があったとしか考えられないからです。そこに「年号」が書かれている、と言う事はその「年号」の朝廷とそこに書かれた事象との間に関係があることを示すものであり、「永昌」という年号と「飛鳥浄御原宮」との間に何らかのつながりがあることを示唆するものであって、それ以外ではないと思われます。

 ところで、「碑文」で見ると「評督」に任命されたのは「六八九年」の「四月」です。しかし、「永昌」に改元されたのは「六八九年」の「正月」のことです。  「評督」に任命する、という文書に「永昌元年」と書かれていた、とすれば「この間」に「改元」の情報が「倭国」に伝わらなければなりません。そのようなことが「短期間」に可能であったのでしょうか。  もし「不可能」であったと考えると、この「唐」の年号が「石碑」に書かれているのは「石碑」造立事の「造作」であると言う事になるでしょう。

 そもそもこの「石碑」が建てられたのはいつ頃のことでしょうか。それはこの「石碑」が「倒されていた」と言うことからある程度判断できます。そのようなことがされたのはこの「石碑」に書かれたあることが「存在が許容されないこと」だったからであると思われます。それは「評督」という表記と「永昌元年」という年号の二つであったと思われます。  これらはいずれも「新日本国王権」にとって見れば「あってはならないこと」であり、消去したい事実であったと思われます。「評督」は「前王朝」の制度でしたし、「永昌」という年号は「唐」の軍門に下っていたことの証明となってしまいますから、共に隠蔽せざるを得なかったと言うことではないでしょうか。そう考えると、この石碑が倒されたのは「七〇一年」以降その至近の時期であると考えられますから、「石碑」に「永昌元年」という年次が書かれたのはそれ以前のことであることとなります。  しかもこの碑文中には「六月童子」という表現があり、これが「六ヶ月の喪に服す子供」の意という解釈もあり、そうであれば「喪の明けない」内に立てられたということが考えられ、それ以降「追記」したものと考えるということとなるでしょう。つまり、「意提」の死去した年の内にこの碑は建てられ、碑文も書かれたとなるわけですが、その時点で「永昌」という「唐」の年号を「追刻した」こととなります。  「永昌元年」という年号はこの時点での造作であり、「評督」任命の文書には「唐」の年号は「書かれてはいなかった」と言うこととなりますが、その場合本来の「任命」文書には、何と書いてあったのでしょうか。  これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。そうであればこの碑文も同様に「干支」だけが書かれていたと考えるべきこととなり、それを「七〇〇年」の「石碑」造立時点で「唐」の年号を書き加えたこととなるわけです。しかしそのような想定が不審(というより「荒唐無稽」というべきです)なのはいうまでもないでしょう。「前王朝」の影を「隠蔽」するのに「唐」の年号を書き加えるという意味が全く不明です。  また「碑面」には「改削」の跡らしきものも全く見いだせません。つまり、このような「隠蔽」工作をしたという想定は成り立たないと考えられる事となります。  そもそも「評督」という称号をもらったことを「誇るべき経歴」として「韋提」の家族はこの石碑を建立したはずであるのに、その授与した「王朝」の名前は出されていても「唐」の年号を書き加えるのは、全くの「矛盾」と思われます。

 以上の論理進行から推測して、やはり「永昌元年」という年号は「碑」が立てられた段階以前から「韋提」に関することとして記録・記憶されていたものであり、彼に対して「評督」が任命される段階において「倭国中央」からもたらされた「公文書」に書かれてあったものとみられ、「永昌」改元した「六八九年正月」から「任命」月の「四月」までの間に「唐」から「倭国」に「情報」が伝達され、「任命文書」という公文書に書かれることとなったものと考えるしかないこととなります。  「歳次庚子年」とあるように「碑」を建てた時点の日付は通常の「干支」によっていることからも、「永昌」という年号の存在は「韋提」が「称号」を受領し任命されたということと深く関係していることの現れと思われるわけであり、任命文書にその年号が記載されていたことを窺わせるものです。

 「年号」を使用すべしというルールがなかったはずであるのに「唐」の年号だけは書かれたこととなりますが、それは「唐」への畏怖(というより恐怖)によるものではなかったでしょうか。唐により封国となっていたら当然「唐」の年号を使用すべきですから、この「飛鳥浄御原朝廷」の帰属意識が注目されます。  この「永昌」年号を使用することとなった事情とその改元情報はどのようにして「倭国」にもたらされたものでしょうか。(続く)

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「那須直韋提の碑文」について(二)

2017年09月10日 | 古代史
 そもそも「那須国」及び「那須国造」は『書紀』の記載から見てかなり古い時代から存在していたように見受けられます。これが「七世紀」に入っても「倭国王権」の支配が強く及ばず、「クニ」がそのまま存続していたという可能性が高いと思料します。仮にこの「国造」が「国司」(国宰)と同等のものであったとすると、授与されるべきは「下毛野国司」であり「那須」のそれではないと思われます。「那須」はあくまでも「下毛野」という大領域の一端をしめるだけであり、国府もそこには存在していませんでした。
 
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が行なった「改革」については、「戸籍」などの研究により、この「改革」を受け入れなかった地方があることが指摘されています。たとえば、「美濃」や「出羽」などです。この事は「東山道」からつながる「東国」において「倭国王権」の権威が届かない、あるいは届きにくい領域がかなりあったことを示していると考えられます。「那須」がある「下毛野」についても同様であった可能性があり、それはここが元々「関東王朝」の領域であり、「独立」的指向の強い領域であったと考えられ、「総領」である「高向大夫」たちの統治・支配に従わず、そのまま「那須」という「クニ」が継続していたと推定されるものです。
 つまり『常陸国風土記』では「我姫」を「八国」に分けたとするわけですが、「常陸」以外の「我姫」の「内部情勢」は不明であり、それらの「国」(下毛野国など)でも「常陸」同様「国造」の「クニ」が「県」(あるいは「評」)に変わったかというとそうではなく、そのまま「国造」が残り、「国宰」も派遣されていなかったという可能性もあると考えられます。それは「東山道」の整備が遅れていたことと関係があるのではないかと推定されるわけです。
 「古代官道」のうち「近畿」から以東は「七世紀」の始めつまり『隋書待国伝』にいう「利歌彌多仏利」の時代以降整備が進められていったと考えられますが、まず「難波」「飛鳥」領域周辺の整備が先行したものであり、「東山道」など東方の「諸国」を連絡するものの整備はかなり遅れたものと考えられ、そのことが「那須」という地方に「改革」が及ばなかった最大の理由ではないかと推察されます。
 東国へは「東海道」の整備が先行したと考えられるものであり、そのことが「常陸」などについて「倭国王権」の統治が強く及ぶこととなった理由と思われます。
 「古代官道」が「倭国中央」の「軍事力」の「展開」に関係していると考えるならば、それが未整備であると言うことと、「制度改定」に従わない地域があると言うこととは直接関連した事柄であると考えられます。つまり「軍事・警察力」が展開できず、「法」と「力」による統制が効かない地域がかなりあったものと思われるわけです。

 またこの碑文には「一世之中重被貳照」という、「一生」のうち「起死回生」とも言える事が二回あった、という意味の文章が書かれています。この二回が官位授与などを指すのかは不明ですが、「評督」を授与されたという顕彰碑の中で述べられているわけですから、少なくとも一回はこの「評督」の授与と関連しているといえるでしょう。
 彼の死去した年次と成長した子供が複数いるらしいことなどを考えると、その生年は「六三〇年」前後ではないかと考えられ、「国造」を「父祖」から「継承」したのは「六六〇-六七〇年頃」と推定されます。このタイミングは「百済」を巡る戦いが勃発した時期でもあり、また「近江朝廷」の創立と滅亡の時期であります。これらの「争乱」に彼が関わったという可能性はあるといえるでしょう。これらの戦いでは「蝦夷」を含む「東国」が参加しているようであり(捕虜として唐に抑留されていた人達の帰国者の中に「陸奥」出身者がいるという記録があります)、「那須」地方からも軍が発せられたと言うことがありうると考えます。この中で彼は九死に一生を得たのかも知れません。これが「第一回」ではなかったでしょうか。さらに「国造」の自称を認定され「評督」を授与されるという晴れがましいことが起きたものであり、これが第二回と言うことでしょう。

 また、「追大壱」という「冠位」を受けたということはその時点(以前)で「倭国王朝」の支配下に「完全に」入ったという事となりますが、それは「六八四年」に起きた「東南海」地震などで、東海以西がかなりの打撃を受けたことと関係していると考えられます。
 この時は関東の内陸地域には余り大きな被害がなかったと見られ、勢力としては健在であったものであり、当時の倭国王権にとって見ると、彼等がこの機を捉えて「反乱」など起こさせないように「臣従」を強いる必要があり、その為改めて「冠位」を授与するという政策が行われたのではないでしょうか。
 この「六八四年」という時期には広く各位に「朝臣」姓を賜与していますが、「下毛野君」に対しても「朝臣」が賜与されており、これらも「東南海地震」による動揺を抑える意味があったのではないかと推量されます。(『二中歴』にも「朱雀」の記事として「兵乱始めて起こる」意味の事が書かれており、国内にかなりの動揺があったことが知られます。)
 また、この時点で「評督」を授与していないのは「駅舎」という軍事拠点が設置されていなかったという可能性が大きいことと、それが「関東」勢力の「軍事的」脅威を警戒し、「譲歩」した結果ともいえるでしょう。ある意味「自治権」を認めたという事とも思われ、そのため王権に直結するような軍事施設などを整備しなかったものではないでしょうか。
 そして、その後「持統朝廷」段階で「東山道」がほぼ完成し、「全国」に対して「軍事展開」が可能となった段階で、「駅家」が「那須」にも設置されたものであり、「評督」という「駅家」の監督官としての職掌が置かれることとなった際、「国造」である「韋提」に白羽の矢が立ったということではないでしょうか。その際に「評督」へ「横滑り」したものであると考えられます。

 また、ここでは「国造」で「追大壹」であった「韋提」が「評督」に任命されていることとなりますが、この「評督」という「称号」(制度)は「利歌彌多仏利」の父である「阿毎多利思北孤」によって造られた制度であると考えられ、当然彼は「九州倭国王朝」の権力者ですから「碑文」に見える「飛鳥浄御原宮」というものが「九州倭国王朝」の系譜につながる存在であることがわかります。(これは「九州」の「筑紫朝庭」のことを意味すると考えられます)
 逆に言えば「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」がこの「評督」を授与したのではないことは明白です。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である『書紀』に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。
 明らかに「評」という制度は「隠されて」います。それほど忌み嫌った制度を、ここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないでしょう。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)に「九州倭国王権」が「筑紫なる」「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
 
 ところで、この段階になって「那須」のような「北関東」(群馬、埼玉、栃木)付近に「評」制が施行されたように見えるのは「奇異」に映るかもしれません。この「六八九年」という段階で「評制」がなぜ施行されたのかと考えると、その翌年の「庚寅年」の改革が「予定」されていたということと関係があると思われます。
 明らかにこの「六八九年」段階では、次年度の予定として「遷都」とそれに伴う「機構改革」が行われる予定であったと思われます。「遷都」するためにはなによりも「統治範囲」の安定化と拡大がその前提と考えられ、たとえば「上毛野」という地域を「評制下」に置くようなことが求められていたと思われます。
 この時の「遷都」の動機ないしは条件というものは、それまで延伸と拡幅が行われていた「古代官道」の整備がほぼ完了したことにあると考えられ、それは(当然)「東方」への支配の強化のためであったものであり、それを現実のものとするように「東山道」の末端に位置する「上野」地域の「有力者」を「倭国王権」の一端に加えるという作業が強く求められていたものと思料されます。
 「近畿」を始めとして「東国」も含む全ての「列島」諸国を「倭国王」が「直接」統治する、という「利歌彌多仏利」以来の「政治改革」を行ったのが「六九〇年」(庚寅年)という時点であり、この「評督」任命はその「趣旨」に則ったものと言え、今まで「統治」の網がかかっていなかった場所に対して「評督」という地域代表者を決めて任命し、「統治」の最下層の構造を確定させることとしたものと思われます。
  
 ところでこの碑が発見されたときこの石碑は「碑文面」を下にして、埋もれていました。これがなぜ倒れていたのかは不明ですが、可能性としては「倒れていた」のではなく「倒されたのではないか」とも考えられます。そして、それは建てた当の本人が自ら行ったのではないでしょうか。
 これが建てられた「七〇〇年」の翌年に「九州倭国王朝」から「新日本国王朝」に「行政府」が切り替わり、制度も切り替えられたとみられます。「七〇一年」に「新日本国王朝」(近畿王権主体)が成立して以降、「評」制が廃止され、替わって「国-郡-里制」となったのです。
 そして「評」に関する事物の「隠蔽」の指示が来たのだと思われます。彼らに対して「碑」の文章を削るように、という指示があったのかもしれません。しかし、彼らは(「韋提」の息子達)は自分の父親の韋業を顕彰するためにせっかく建てた「碑」とその「碑文」を残したかったのではないかと思えます。彼らは「碑文」を疵付けるには忍びなかったので、碑文を「下」にして「倒して」対応したのではないかと思われるのです。(続く)
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「那須直韋提の碑文」について(一)

2017年09月10日 | 古代史
 栃木県大田原市に今も残されている「那須直韋提碑」というのがあります。この「石碑」は江戸時代、水戸領内で「延宝四年(一六七六年)」に発見されたもので、発見当時は表面(碑文のある側)を下にして埋もれていたものです。この時は当時の藩主「水戸光圀」がその価値を認め、この「石碑」の保護策を講じたものであり、その効果あって現代にもしっかり保存されているものです。
 以下は碑文全文です。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓仰/惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照/一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曾/子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子/不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助/坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 この碑文は、実際には八行十九字詰めで書かれており、全部で一五二字です。「六朝風」の書体で書かれており、宮城県の多賀城碑や群馬県の多胡碑と並び、日本三古碑の一つに数えられています。
 従来この「碑文」には問題とする点が複数あるとされます。ひとつは「評督」であったものが「国造」を授与されたのか、その逆なのかと言うことです。
 従来の解釈は「国造」であった「追大壱那須直韋提」が「評督」を賜ったと読むものです。これに対し古田武彦氏はその逆に「評督」であった「韋提」が「那須国造追大壹那須直」を「賜った」として解釈しています。
 これについては古田氏もこの文章が「漢文」とは言えないというように言っていますが、もしこれが「日本語的」な文章であるとすると、「日本語」の標準的読み下し順である「主語」「目的語」「述語」という順に並んでいると解釈すべきではないでしょうか。そうであれば「主語」は「那須国造追大壹那須直韋提」」であり、目的語」は「評督」となり、「述語」(動詞)は「被賜」となると考えられ、碑文のこの部分の解釈としては「『永昌元年』(六八九年)当時、那須国造那須直である葦提が評督を被り賜われた」となるものと考えられます。
 「話し言葉」ならまだしも「碑文」の文章なのですから、後半の「仏典」などからの幅広い引用も含め高い教養を示していると考えられる人物である息子達が一番大事な冒頭のところで「標準的な」(ある意味「正式な」とも言えますが)日本語の文章形式を使用していないとするとはなはだ不審であり、「主語」が先頭に来ないような文章を想定するのは不自然であると思われます。
 また、「名前」の前にある官職・称号は現在時点のものであるというのはある意味「自明」の原則であると思われます。たとえば「授從三位長屋王正三位」というような文章が『続日本紀』にありますが、これと同様の文章構成ではないでしょうか。(但し「授」が最後に付いた形に変化していますが)
 これらのことから、「韋提」は「国造」であったものが「評督」を賜ったと理解すべきと考えられます。ただしこの場合の「国造」は「令制国」のような広域行政体としてのものではなく、「古」の体制である「クニ」の長としてのものであったと推量できるでしょう。
 古田氏はこの国造」の「国」は「評」の上部概念の「国」と捉えているようですが、もしそうなら「国造」ではなく「国司」ないしは「国宰」と表記すべきでしょう。『書紀』などと違い「石碑」つまり「金石文」ですから、ここに「国造」とあるのは軽視できません。(『書紀』が「国宰」を「国司」あるいは「国造」と書き換えているという可能性が考えられるのに対して「金石文」はその可能性が低いと考えられるからです。)

「三代実録」には「国造停止」の記事があります。

「三大実録」
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』同族玄蕃頭從五位下佐伯宿祢眞持。正六位上佐伯宿祢正雄等。既貫京兆。賜姓宿祢。而田公之門。猶未得預。謹検案内。眞持。正雄等之興。只由實惠道雄兩大法師。是兩法師等。贈僧正空海大法師所成長也。而田公是大僧正父也。今大僧都傳燈大法師位眞雅。幸屬時來。久侍加護。比彼兩師。忽知高下。豊雄又以彫蟲之小藝。忝學館之末員。顧望往時。悲歎良多。准正雄等之例。特蒙改姓改居。善男等謹検家記。事不憑虚。從之。」
 
 ここで「空海」の父親(佐伯田公)の処遇について嘆願ともいえるものが書かれているようですが、その中に「允恭天皇」の時代に「国造」が置かれたらしいこと、「孝徳天皇」時代にその「国造」が「永從停止」とされたことが書かれています。
 このように「国造」が停止されたというのは、とりもなおさず「評」が成立したことを意味するものと考えられますから、「評督」の成立以前は「国造」であったこととなります。
 上にあるように「評制」が全国に施行された段階以降は「国造」は停止されたとされているわけですから、「七世紀」も末の段階で「国造」を名乗っているとすると、古い制度としてのものの自称であるという可能性が高いものと思われます。

 さらに、この「碑文」に書かれた「追大壹」は(『書紀』によれば)「六八五年」に施行された官位制にあるものであり、この時点以降のどこかで「官位」を受けていることとなります。
 これに関しては、上に見た「評督」が「国造」を賜ったと見るのが無理であるという理由にもなっています。もし「評督」が「国造」を賜ったと理解したとするとその時点でこの「追大壹」も同時に授けられたと理解する必要が出てきます。でなければ「国造」は授けられたが、「官位」はなかったなどという奇妙な結論になりかねません。しかし、この「追大壱」という冠位は、通例辺境ともいえる地方の有力者に与えられるものとして標準的なものであるのに対して、ここに書かれた「国造」が「広域行政体」としての「国」(つまり「評」の上部概念としての国)に対するものとすると、「令制国」の「国司」に与えられるものとしては異例の低さとなってしまいます。
 通常国司は(国のランクによって変るものの)「六位以上」の冠位を有するのが通常です。しかし「追大壱」は「正八位上」程度の位階にしか相当しません。「国司」には「浄御原朝」の冠位で言うと「勤位」以上が必要であり、「追位」では全く低すぎるといえます。このことはここでいう「国造」の「国」が「令制国」のそれではないことを如実に示すものです。
 例えば「伊福部氏」の系図によれば「郡大領」とされる人物が(「外」位ではあるものの)、「正七位下」の位階があったことが記されています。

「因幡国伊福部臣古志 并せて序

散位従六位下伊福部臣冨成撰す

それ前條を観て、はるかに玄古を稽ふるに、国常立尊より以降、素盞嗚尊までは、国史を披き閲して知りぬべし。故、降りて大己貴神を以て、始祖と為す。昔、先考邑美郡の大領外正七位下、諱は公持臣、右馬少允正六位下佐美麻呂臣と宴飲し、酒たけなはに常に古志を論ず。蒙、常に隅に座して、膚に鏤め骨に銘す。恐くは末裔聞かざるが故に、伝を転して之を示す。但し道聞衢説は、蒙の取らざる所なり。時に延暦三年歳次甲子なり。…」
 
 これは「務大肆」クラスに相当しますが、この「郡大領」は以前「評督」であったらしいことが推定されており、そう考えれば「追大壱」から見ると「昇進」となり、このような「官職」を与えられたなら「栄誉」と考えて不思議はないと思えます。

 また彼(「韋提」)は「直」という姓を持っていますが、多くの「直」姓氏族が後に「連」を授与されているのに対して「那須直」は「連姓」を授与されていないようです。それはこの「那須」という地域そのものがそれほど重きを置かれていなかった事を示すともいえますが、また「倭国王権」の統治領域に組み込まれたのがかなり遅れたことの証ともいえるでしょう。それは「評督」授与が遅れたことにも現れているといえます。そしてこの「直」という姓と「追大壱」という冠位の組み合わせは不自然ではないと思われますが、これが「評督」であったものから「追大壱」「国造」を授与されたとすると、「昇進」でもなければ「栄誉」でもないこととなり、それを記念して「石碑」を建てるというようなことが行なわれたかどうかさえ疑わしいと思われます。
 もし「評督」ではなくなったとするなら、「評制」という制度そのものの消滅時期が最もふさわしいものと思われ、七〇〇年まで継続して然るべきではないでしょうか。この六八九年という段階で「評督」ではなくなるということの意味が不明です。
 結局「国造」を自称していたものが「評督」を与えられ、その地位と権利を「追認」されたことが重要であったのではないでしょうか。
 これについては「改新の詔」などでも「元国造」であるという事を主張して権利を認めるようにという圧力が国司(国宰)にかかっていたらしいことが窺え、この「那須直」の場合も同様であったという可能性が考えられるところです。

(以下「東国国司詔」より)
「…若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。…」

 これによれば、元々国造でもなかったにも拘わらず、「詐訴」してその権利を主張する者達が居るので実情を正確に調べるようにという指示が出されています。つまり新しく「統治領域」に入ったところには以前のデータがないため、本人の主張がかなりのウェイトを占めていたらしいことがわかります。そのため「虚偽」を申し出ても判定できないと云うことから正確を期すようにというものであり、「韋提」についてもその自らの主張を証するものが少なく、その権利をなかなか認めてもらえなかったものなのではないでしょうか。

 「国造」から「評督」へは「官位」としてはそれほどの上昇ではなかったものの、「倭国体制」に組み込まれると共に、「評」が施行され「評督」に専任されることにより、自称ではなく実際の地方統治が実績として認められたものであり、「評督」としての「特権」も同様に「倭国中央」のお墨付きを得たと言うことが重要であったものと思われます。
 このことは「難波朝廷」から「天下立評」として「諸国」に施行されたはずの「評制」が「那須地方」では施行されていなかったこととなりますが、これはこの「那須」という地方当時まだ「倭国」の支配が不十分な地域であったものであり、それは「古代官道」がまだ整備されていなかったことにその原因があったと思われます。「評制」あるいは「評督」は「官道」及び「駅家」と深く関係した制度であり職掌であったと考えられるものであり、「東山道」の整備が進行し、その末端が「北」へと伸びるにつれ、「下毛野」の北辺とも言うべき「那須」地域にも「駅家」(「屯倉」ではない)、その管理者として「評督」が置かれるというような流れではなかったでしょうか。(続く)
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「数字日付」と「干支日付」-『書紀』と『続日本紀』の「干支」の違いから

2017年09月09日 | 古代史
山田氏のプログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/09/post-aebb.html)で当方と応答がありましたが、その中で当方の論の基礎となっているものはまだブログには載せていなかったものです。(ホームページにはありますが)ここでは同趣旨の「古田史学の会」へ送付した投稿を載せることとします。(2016年5月8日送付分)

「数字日付」と「干支日付」 ―『書紀」成立の前段階について―

「要旨」
 『日本書紀』や『続日本紀』に見られる「年次移動」についてそれが「干支」を温存するという視点で行われていると見られること。しかし当時の王権から頒布された暦には「干支」が書かれていなかったと見られ、それに基づき宮廷内記録などが書かれたと見られること。「数字日付」を「干支日付」に書き換えた最初の記録は『書紀』ではなくそれ以前に別の史料があったと思われること。そこに書かれた「干支日付」が結果的に温存される形でその後「潤色」が行われたと見られること。以上について考察します。

Ⅰ.年次移動と干支日付
 『続日本紀』の「貨幣鋳造」の年次についての解釈という点で画期的な論が添田薫氏により提出されています(註1)。それによれば『続日本紀』編纂の際に「貨幣」鋳造の功績を「新日本王権」のものとするため、年次を移動したというものであり、具体的には「同じ日付干支」を持つ日付へと移動したとされています。
 それによると『筆者の考えでは、『続日本紀』の編纂者は過去に発生した一連の出来事を、それと同じ日付干支の配列を持つ『続日本紀』内の収録年次にひとつひとつ貼り付けていったのであろう。』とされています。『続日本紀』に「年次移動」があるという点についてはその通りと思われ、その点を指摘した論が少ない中では大変貴重と思われます。また、同様の主張は正木裕氏の「三四年遡上」論(註2)にも現われ、それによれば「年次移動」の際の移動先の日付は元々の「干支」を温存する形で選択されたとされます。これらの主張に共通していることは「潤色」される前の「元々の記録」には「日付」に「干支」が併記された形で残っていたということを前提としていますが、それは一見すると疑問が出そうな所です。それは『書紀』の範囲である「七世紀代」には「干支」が併記されない形の「暦」が使用されていたのではないかという疑いがあるからです。それを端的に示すのが「文武」の即位日付です。「文武」の即位は『書紀』と『続日本紀』では日付干支が異なります。

「(六九七年)八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(『持統紀』より)
「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。」(『文武紀』より)

 このように『書紀』では「八月乙丑朔」ですが『続日本紀』では「八月甲子」と書かれています。この差は使用した暦の違いとされ、『書紀』は「元嘉暦」、『続日本紀』は「儀鳳暦」によったためとされますが、そもそも「禅譲」が行われ即位した日付が、この段階の宮廷記録では「八月一日」とだけ記録または記憶されていたために発生している事象と思われ、「日付」に「干支」を伴った記録ではなかったこととなるでしょう。その記録に『書紀』や『続日本紀』編纂時点で「干支」を「当てはめた」ということとなるものと思われますが、そのような解釈が不自然ではないのは『斉明紀』に出てくる『伊吉博徳書』でも「日付」に「干支」が使用されておらず、単に数字だけが使用されていることでも窺えます。
「…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…」(『斉明紀』より)
 しかもその「暦」は閏月とその前月の「大小」を間違えています。上を見ると「潤十月」に「卅(三十)日」があるように書かれていますが、実際にはこの「潤十月」は「小の月」であり、二十九日までしかありませんでした。
 「伊吉博徳」が個人で暦を造っていたとは思われませんから、これは「統治者」から頒布された暦が「間違っている」ということとなるでしょう。そしてそのような間違いのあるものが「唐」から頒布されるはずがなく、これは「倭国」の王権内部で独自に作成された暦であり、そのため誤差あるいは誤解があったとみられることとなります。
 この当時「唐」では「戊寅元暦」を使用していましたが、倭国は「六四八年」になって「唐」との国交回復を果たしています。(『旧唐書』による)それ以降「唐」の暦を使用したものと思われ(相手先の暦に従わなければ外交活動に支障が出る可能性が高いですから)、倭国でも「戊寅元暦」を使用していたはずですが、理解不足から誤った暦が使用されていたものではないでしょうか。それを示すのは「閏月」表記に「潤」という字が使用されていることです。中国側の史書において「潤」という字が「閏月」の表記に使用されたことは「皆無」であり、それは即座に「倭国側」の独自の使用法であることを物語っています。この「潤」表記は「閏月」を表すものとしては『続日本紀』には全く現れず、それは「潤」の使用時期として「儀鳳暦」に先立つ段階であることを明白に示すものです。そしてその時点の暦では日付表記に「干支」は使用されていなかったということとなるでしょう。
 そう考えてみてみると、「金石文」(墓碑など)や「木簡」などで「七世紀段階」では「日付」に「干支」が(数字と共に)併用されている例がほぼ皆無であることに気がつきます。

Ⅱ.金石文と干支日付
 例えば「関東三碑」(「山上碑」「金井沢碑」「多胡碑」)のうち「山上碑」と「金井沢碑」でも数字日付であり、「干支」は書かれていません。

「辛巳歳集月三日記…」(「山上碑」)
「…神亀三年丙寅二月廿九日」(「金井沢碑」)

 ただし「多胡碑」では「干支」も日付に使用されていますが、内容から見てこれはかなり後代のものであってしかもこの碑文は大部分が公式文書の丸写しと思われますから「干支」があるのは当然といえます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」 (「多胡碑」)

 しかし「墓碑」「墓誌」などでは「干支」は「七世紀代」から使用されています。
 「七世紀代」の「墓碑」「墓誌」には「那須直韋提」の「石碑」(これは「顕彰碑」と言うべきかもしれませんが)と「戚奈大村」の墓誌、及び「小野毛人」、さらに「船王後」の墓誌があります。それらのうち「那須直韋提」と「戚奈大村」の「碑文」に共通しているのは「干支」が「碑」を建てた日付や埋葬した日付として使用されていることです。
 「那須直韋提」の碑文には「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘…」(ただし「/」は改行を意味する)とあり、ここには「歳次庚子年正月二/壬子」というように「数字日付」の他に「干支」が書かれています。(その「庚子年」とは「七〇〇年」を指すと思われます)
 また「戚奈大村」の墓誌にも「干支」が日付として現われます。

「…卿諱大村檜,前五百野宮/御宇天皇之四世後崗/本聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也…以大寶元年律令初定/更授從五位下仍兼侍從/…四年正月進爵從五位上/慶雲二年命兼太政官左/小辨越後北疆衝接蝦虜/柔懷鎮撫允屬其人同?/十一月十六日命卿除越/後城司四年二月進爵正/五位下卿臨之以德澤扇/之以仁風化洽刑清令行/禁止所冀享茲景?錫以/長齡豈謂一朝遽成千古/以慶雲四年?在丁未/四月廿四日寢疾終於越/城時年?(四十)六?以其年冬/十一月乙未朔廿一日歸葬於大倭國葛木下/郡山君里犬百井山崗天/…」

 これを見ると「慶雲二年」段階では単に「十一月十六日」とありまた「死去」した日付である「慶雲四年」の「四月廿四日」でも「干支」は書かれていませんが、埋葬されたとする「其年冬十一月乙未朔廿一日乙/卯」には「乙未」「乙卯」とあり、「朔干支」と「当日」の「干支」が共に書かれています。(このような表記法は『書紀』の日付の表記の仕方と類似しているのが注目されます)
 しかし「小野毛人」の墓誌では「干支」は日付としては採用されていないように見えます。

(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」/(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

 ここでは単に「上旬」とだけ記され、日付が確定していません。
 また「船王後」の墓誌では「死去」した日付が「…阿須迦天皇末歳次辛丑十二月三日庚寅殞亡。…」というように「干支」でも表されています。ただし「埋葬」の日付はなく干支が使用されていたかは不明です。
 また「太安万侶」の墓誌においては「干支」が日付として使用されているものの、当時使用されていたと思われる「儀鳳暦」(麟徳暦)の示す干支とは一致していないことが明らかとなっています。

「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥/年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳。…」

 この点については洞田一典氏により「太氏」の出自地域である「呉」の暦が使用されていたという可能性が指摘されており(註3)、「死去」あるいは「埋葬」という重要な日付表記には(渡来氏族の場合には)「干支」の使用も含め出身地の「中国式」を採用することが行われていたことが推定出来ます。
 その他「七世紀代」の木簡をみると、「日付」に「干支」が併記されている例が見あたりません。(以下の例など多数)

「乙丑年(これは六六五年か)十二月十日酒□〔人ヵ〕・「他田舎人」古麻呂」(長野県更埴市雨宮 屋代遺跡群)

 また八世紀初頭の郡符木簡でも干支は日付に使用されていませんし、「大宝元年木簡」にも「日付」は数字だけで「干支」は書かれていません。というより木簡データベース(「奈文研」作成のもの)を検索すると「数字日付」に「干支」を併記した例がほとんど見られないのです。
 つまり「墓碑」などを除けば「七世紀代」の「金石文」あるいは「木簡」には「日付」に「干支」が併記された例が見あたらず、その時点の王権の作成し一般へ「頒布」した「暦」には「日付」としては「干支」が書かれていなかったことが強く示唆されます。ただし「官庁」(公的機関)には「具注暦」つまり日付の他「干支」「十二直」などが書かれたものが各国府には配布されていたと思われ、、誰か死去したときや墓をつくった時などは「国府」など公的機関へ届け出をする必要があったと思われますから、その時点で「日付干支」が示されたと思われます。後の例ですが、「養老令」(「職員令」)には「治部省」において「喪葬」を職掌としているとされます。誰かが死去した場合や葬儀を行う場合など「治部省」がその管轄的役割があったものです。これは「戸籍」に変化があるわけであり、また故人の遺産等について相続その他を伴うものですから、公にしないわけには行かなかったはずです。(国家が徴集する「租庸調」にも影響しますから)
それは「養老令」以前も大差ないと思われます。そうとすれば「日付」の「干支」について「公的機関」から情報が得られないはずはありません。
また「喪葬令」では「凡墓。皆立碑。記具官姓名之墓」とされていますから(これは官人に限るようですが)必然的に墓碑には「日付」に「干支」が併記されることとなったこと思われます。

Ⅲ.「潤色」と『日本紀』
 「具注暦」が存在していたとすると、『続日本紀』と『書紀』の間で「貨幣」関連記事の年次を移動したり、『書紀』の中で「三十四年遡上」という潤色が行われた際に「日付干支」が温存されたという考え方に一定の合理性があることとなりそうですが、問題はそのような「具注暦」の存在がどこまで遡上できるかでしょう。現段階では「持統紀」までは確認できるわけですが、それ以前については不明です。この「具注暦」の配布という事業は『書紀』がいう「儀鳳暦」と「元嘉暦」の併用という事態に整合しているといえるかもしれません。それが正しければこの「持統紀」以前には「具注暦」の必要性が低かったあるいはほぼなかったということもいえそうです。そうであれば『書紀』の大部分には「日付」と紐付けられた「干支」が当初存在していなかったことととなります。その場合「数字日付」だけであったものを、わざわざ計算によって「干支」を算出し、同じ「干支」の別の日に貼り付けるという作業を行ったと推定することとなりますが、そのようなことは現実的ではないように思われ、そもそも動機が不審となるでしょう。このように一見不審といえるわけですが、この推定は元々の記録というのが「宮廷内記録」であり、そこからいきなり現行『書紀』あるいは『続日本紀』を作ったと考えると齟齬が発生することを示しています。
 つまり『書紀』や『続日本紀』のように「日付」を「干支」で表わすのは「中国史書」がそうであり、『書紀』などが「参考」にしたと思われる『後漢書』『隋書』などは日付は全て「干支」で表わしていますから、この形式を『書紀』『続日本紀』においても採用したものと思われ、そのために「日付」と共に「干支」が必要となったものですが、それを最初に採用したのは現行『書紀』ではなく、それに先行する「史書」(これを仮に『日本紀』とする(註4))ではなかったかと思われるわけです。
 もし「早い段階」で『書紀』の初期型として別の史料として『日本紀』が書かれていたとすると、その段階で「宮廷内記録」などの既存記録の日付を「干支」へと換算して日付表記として中国史書の体裁に合わせたという可能性があるでしょう。その後『書紀』の編纂が始まり、その際にすでにあった『日本紀』に「年次移動」という潤色を加え現行の『書紀』を成立させたとすると、その際に元となった『日本紀』の「干支」を温存するということは充分あり得ることと思われます。それは「干支日付」となった『日本紀』が「公定」されたものとして周知となっていた可能性が高く、それと齟齬する「日付干支」の違いは避けるべきと考えられたと思われるからです。そしてその事は『日本紀』の成立時期と『書紀』の成立時期にかなり「時間差」があったらしいことが推定できることも意味します。それは「日付」を温存しようとはせず、「干支」を温存しようとするという中にすでに明白といえ、「日付」に対する「記憶」がかなり希薄化していたことを推定させます。そのことから元々の宮廷記録などがすでに失われていたこと、『日本紀』は(当然)まだあったと見られることなどが窺われ、その『日本紀』を利用して『書紀』(それに引き続き『続日本紀』)を編纂したという可能性が強く示唆されるわけです。

「註」
1.添田馨「「和同開珎」再考 ─上古貨幣を支えた社会経済思想」(『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』二〇一二年~二〇一三年)
2.正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる「三四年遡上り現象」について」(『古田史学会報』七十七号 二〇〇六年)他の一連の研究。
3.洞田一典「「太安万侶墓誌」干支の謎を解く」(『新・古代学 古田武彦とともに』第六集二〇〇二年新泉社)によります。
4.ここで仮に名付けた『日本紀』が例えば『万葉集』中に見られる『日本紀』と同じものかは今のところ「不明」と言うべきですが、可能性としてはあると思われます。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『日本古代の墓誌』(一九七九年)
前沢和之『古代東国の石碑』(山川出版社二〇〇八年)
奈良文化財研究所『木簡データベース』(WEB上のもの)

以上が投稿した論ですが、その後『続日本紀』内の日付干支に関して各氏の論を見てみましたが、やはり「数字日付」だけが宮廷内記録にあり、それを「史書」に(あるいは「墓碑」などに)記事として書き込む際に「干支」を「換算」したものとしており、当方の論と考え方としては同じであるようでした。
ただし、山田氏から提起があったように「文武」の即位日付の「干支」が『書紀』と『続日本紀』で異なる理由までは追及していなかったため、良い機会となったと思います。


『旧唐書』によれば「或云日本舊小國、併倭國之地。」とあり、ここでは「日本」は「旧小国」とありますが、これは「遣唐使」が自ら語ったものですから、「小国」意識が彼らにあったとすれば「大国」であった「倭国」に対してかなり複雑な思いを抱いていたことは間違いないでしょう。歴史と伝統に裏打され、「尊貴」の対象であった「倭国」が没落し現在は「卑下」の対象となったとすれば、「旧倭国」に対する意識は「コンプレックス」を伴わなかったはずはなく、『続日本紀』という「新日本国」の史書が「前王朝」の史書である『書紀』に対し「蔑視」を隠していないとして不思議ではありません。その「コンプレックス」が添田氏も言うような前王朝の功績を「なかったこと」にする改変を行っていることにあらわれていると思われ、そのために記事移動などの粉飾が行われているとみているわけです。(それについてはすでにブログ等で触れていますが)
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