古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「如意寶珠」と「潮滿瓊及潮涸瓊」(一)

2018年05月30日 | 古代史

 以下は2012年に会報に投稿した論に加筆したものです。(ただし未採用となったもの)

 ここでは『書紀』の神話において「山幸彦」が「海神の宮」で手に入れた「潮満瓊及潮干瓊」と『法華経』の経典に出てくる「如意宝珠」との関連を通じて、「天孫降臨神話」の成立とその構造について述べ、これに関連するものとして「謡曲」「岩船」に出てくる「君」が「利歌彌多仏利」であり、そこで開かれる「市」に関連して使用されたのが「無文銀銭」であるという「仮説」について述べます。

 『書紀』の「神代紀」には「山幸彦」と「海幸彦」の「弓矢」と「釣り針」の交換に関する話に引き続き「山幸彦」が「海神」の「宮」に行って歓待され、その後帰還する際に「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来る「瓊」を、「海神」(の娘)からもらう場面が描かれています。(本文及び「一書の二」及び「三」)
 以下『書紀』当該部分の読み下し文を示します。(以下の書き下し文は「岩波」の「古典文学体系『日本書紀』」に準拠しました)

 已にして彦火火出見尊、因りて海神の女(むすめ)豐玉姫を娶(ま)きたまふ。仍りて海宮に留住(とどま)りへること,已に三年に経りぬ。彼處(ここ)に、復た安らかに樂しと雖も,猶郷を憶ふ情(こころ)有(ま)す。故,時に復た太(はなは)だ息(なげき)ます。豐玉姫聞きて,其の父に謂りて曰はく「天孫悽然みて數(しばしば)歎きたまふ。蓋し土(くに)を懷ひたまふ憂(うれへ)ありてか」という。海神乃ち彦火火出見尊を延(ひ)きて,從容に語(まう)して曰さく「天孫若し郷に還らむとを欲(おもは)さば,吾當(まさ)に送り奉るべし。」便ち得たる所の釣鉤(ちい)を授りて、因りて誨(おし)へまつりて曰さく「此の鉤を以て汝の兄に與(あた)へたまはむ時には,陰(ひそか)に此の鉤を呼(い)ひて、貧鉤(まじち)と曰いて,然して後に與えたまへ。」とまうす。復た「潮滿瓊及潮涸瓊」を授りて、誨へまつりて曰さく「潮滿の瓊を漬けば,潮忽(たちまち)に滿たむ。此を以て汝の兄を溺沒(おぼ)せ。若し兄悔ひて祈(の)まば,還りて潮涸瓊を漬けば,潮自からに涸(ひ)む。此を以て救ひたまへ.如此(かく)逼(せめ)惱まさば,汝の兄自伏(したが)ひなむ。」とまうす。

 また、『古事記』の「上巻」(神代巻)においても同様に「海神」(綿津見大神)より「釣り針」を返してもらう段で、「兄に返すとき『呪い』の言葉と所作(後ろ手に渡すなど)をするよう」教えられるとともに「盬盈珠」と「盬乾珠」を渡されます。
 このようにいずれの神話でも「海神」から「瓊」(珠=赤玉)を受け取ることとなるわけですが、この「瓊」を「海神」が所持していた、という事や、その瓊が「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来るものであったことなどが当然ながら重要です。
 『書紀』の「一書の一」及び「四」では「潮滿瓊及潮涸瓊」は出てこないかわりに「鉤」(釣り針)を兄に返すとき「呪(まじな)い」の言葉と所作(「後ろに投げ捨てる」や「後ろ手」に渡すなど)だけをするように教えることとなっています。このような「呪術的」方法はある意味「原始的」であり、「倭国古来」のものであることを推察させるものです。それに対し「潮滿瓊及潮涸瓊」について言えば「呪い」の言葉もありませんし、所作も必要ないようです。これはある意味「近代的」であり、この「神話」の由来が「新しい」と云うことが知られるものと推察されます。つまり、「一書の一」及び「四」の「潮滿瓊及潮涸瓊」がない形の方が本来型に近いのではないかと考えられ、このようなものは「古いタイプ」の説話に属すると考えられます。
 このような「古いタイプ」の説話(神話)はある意味「普遍的」であり、同じようなタイプの神話・伝承の類は主に「南太平洋」の諸国に残されているとされています。このように日本の「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれているのは確かと思われますが、また一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
 つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが『賢愚経』や『大方便仏報恩経』という仏教の経典(これらはいわゆる「律」の経典であり、「小乗仏教」の経典です)に出てくる「説話」です。
 そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五-六世紀)には「中国国内」でかなり著名であったものです。
 これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。それを示すのが『隋書俀国伝』の記事です。
 そこでは「倭国」の「俗」(民衆)の「風俗」を書いた部分に、「如意寶珠」信仰が「倭国内」で行なわれていたことが示されています。

「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」『隋書俀国伝』

 これを見るとそこには「如意寶珠」があるとされており、またその「前段」では「阿蘇山」について語られています。これらは相互に関連した事物であると考えられ、「如意寶珠」に対する信仰と「阿蘇山」及びそれに対する「畏敬」というものが「関連」した事象として語られていると考えられますが、「阿蘇山」はもちろん「九州」(肥後)に存在するものですから、「如意寶珠」に対する信仰も同様に「肥後」中心のものと推量できます。

 また、「如意寶珠」は「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも出てきます。

「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」『八幡宇佐宮御託宣集』

 これによれば「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
 このように「九州島」の中では「如意寶珠信仰」が「倭国」の「俗」として広がっていたと考えられます。では、その「如意寶珠」に関わる「伝承」は何時の時点で「俗」にもたらされたものなのでしょう。

 この「如意寶珠」伝承の「原型」は、インド起源の「ナーガ」神の持つ「珠」に由来するものとされています。この「ナーガ」神というものは本来は「蛇神」であったものですが、「龍王」と「漢訳」されたために中国(特に北方系部族)において、古来からの想像上の動物である「龍」と同一視されることとなり、「仏」を守護する「天龍八部衆」(「八大龍王」)という形で仏教に取り込まれたと考えられています。つまり「龍王」が登場する「説話」の多くは「北魏」など「北朝」に由来するものと考えられ、「如意寶珠」についても「北朝」からの伝来を想定しなければならないものと考えられます。
 『隋書俀国伝』に書かれた当時の倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされていますから、まだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、(「宇佐」にあったという)「如意寶珠」を「俗」として「一般民衆」が信仰しているとする『隋書俀国伝』の伝える事と「合致」することになります。
 この『隋書俀国伝』に書かれた「如意寶珠」に対する信仰は「遣隋使」の「発言中」のものと推察され、これは「六世紀末」付近時点における「倭国」の「俗」における「信仰」の状況を示すものと思われます。しかし『隋書俀国伝』では六〇〇年の派遣が最初とされており、そのことはすでにこれ以前(五九二年か)に「厳島神社」などにおいて「宗像三女神」などをモチーフとして「大菩薩」の「垂迹」が説かれており、これらと同種の現象として「祷祭」の「仏教化」というものも進行していたと見られることと微妙に齟齬します。

 ところで、ここ(阿蘇山)で行われている「祷祭」が「山」の人々の信仰に関わるものであることは明白と考えられますが、一方「如意寶珠」は上で見たように「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰と深い関係があったものと推量されます。この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程を表わすものと考えられます。
 この「如意寶珠」受容のプロセスは「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。つまり、「山幸彦」(彦火火出見尊)が海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが表す「実態」が『隋書俀国伝』に示されていると考えられ、この事は「神話」の祖型というものが『隋書俀国伝』付近で形成されたことを示唆するものと考えられます。 

2012/01/18作成、「会報」へ投稿したもの

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「ハマナス」について

2018年05月28日 | 古代史

「ハマナス」という花(樹木)があります。ネット上の百科事典である「Wikipedia」では「浜梨」(はまなし)が「訛った」とされます。

『「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。』

 同様の説明はネット上のあちらこちらにあるがいずれもほぼ同文であり、Wikipediaを参照しているものと思われます。(以下のようなもの)

「和名の「浜茄子(ハマナス)」は、この植物が海岸の砂地に生え、ナシのような実をつけることから「浜梨(ハマナシ)」という名がつけられ、それが転じたものです。ナス(茄子)に由来するものではありません。」

あるいは「花の後にできる実は偽果(子房以外の部分が加わってできている果実)で赤く熟し、甘酸っぱい梨に似た味がする。このことから「浜梨」と呼ばれていたのが訛って「ハマナス」になったという。」という説明も見られます。

 また「甘酸っぱい味の実を梨にたとえて、「浜の梨」の意で名づけられた「はまなし」が東北弁でなまって「はまなす」になった。」とする記述にも出会いました。

さらに「ハマナスの名前の由来は、果実(偽果)が赤く熟したものを生食すると、甘酸っぱい味がします。 その味から、浜梨(はまなし)と呼ばれ、ハマナシが転訛(てんか)して、ハマナスとなりました。」というものもあり、共通しているのは「東北弁」における「訛り」であるというものです。

 確かに「し」と「す」の交替が顕著なのは「東北弁」ですが、しかし、この記述からは、どの段階で「訛った」のか(あるいは「転じた」のか)が不明です。これについては「牧野富太郎」という学者が東北で採集していたとき、現地の人に名前を訊いたら、ハマナシのつもりが訛ってしまい、ハマナスと答えたのを、そのまま採用したという話があるようです。
 また「梨」そのものについても語源として、新井白石による説として「中心部ほど酸味が強いことから「中酸(なす)」が転じた」というものもあり、その意味で「し」と「す」は元々近い音として意識されていたと思われます。

 これに関して古い時代の史料である『和名類聚抄』(『和名抄』)を見てみると、「果類」にある「梨」の説明として「梨子」と書かれ「和名」を「奈之」つまり「なし」と訓ずると書かれています。ところが同じ『和名抄』の国郡郷部の「山陽道」(備前国)には「磐梨」という地名(郡)があり「読み」として「伊波奈須」と書かれています。この『和名抄』に対する解釈本には、この郡名は元々「岩生」(いはなす)という村名からとったとされ、その命名の際に「磐梨」という字面に変更されたとされます。

 また同じく『和名抄』の「糟屋郡」の項では「香椎」に対して「加須比」と訓が充てられています。これに対し「注」では「志」を「須」というのは「訛り」であるとされています。確かに「し」の音に充てられる漢字は「之」が最も多く、「須」で「し」の音に充てられているものは皆無です。
 これらの事から当時(十世紀半ば)の備前や筑紫では「志」を「須」と発音することがあったと見られます。そのことから「梨」は「なす」と(これらの地域つまり西日本)では発音されていたらしいことが窺えます。
 少なくともこの「備前」という地域では「なす」の発音に「梨」という語を充てて不自然とは思わなかったということと思われ、「京」とは異なっていたと思われますが、そのことは一概に「東北弁」としての「訛り」とは即断できないことと思われます。
 国内では「ハマナス」は自生種であり、基本的には寒冷な砂地を好むとされ、生息地としては関東以北に加え北陸、鳥取など日本海側地域に限られていますが、それら全ての場所で「はまなす」と発音されており、また表記されていますが、これらの地域性から考えて、いわゆる「浜言葉」として「ハマナス」と表音されていたとみられます。そしてそれは上に見たように『和名抄』段階では「西日本」にもそのような発音傾向があるとすると、「浜梨」を「はまなす」と発音するのは(「訛り」というより)かなり古い時代からのものという可能性もあるのではないでしょうか。

 たとえば「上」や「神」は「加牟」と発音されていましたし、「深溝」は「布加無曾」と発音されているようです。また「菊池」は「久々地」と発音されるなど、これらは少なくとも現在「イ」母音のものであるものの一部は、以前は「ウ」母音であったことを示すものであり、それは西日本におけるある種特異な発音であったと思われるわけです。このような中に「ナシ」が「ナス」と発音される要因があったのではないかと思われるわけです。

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古代の人の「寿命」について

2018年05月20日 | 古代史

 古田史学の会の代表である古賀氏が「二倍年暦」について色々と書かれています。(「古田史学の会」のホームページに連載しているブログなど)その中に『論語』の中に「二倍年暦」があるとされています。その論を見ていて気になるのは当時の平均寿命が著しく短かったことを指摘して、そのような時代的背景の中で「70歳」とか「80歳」というのが「あり得ない」年齢であるとされ、「二倍年暦」の証拠として扱われているようです。しかしこれは「誤解」ではないでしょうか。

 平均寿命は最大年齢(これ以上の年齢の人はいないという年齢)とは異なる概念であり、最大死者数年齢でもありません。現代においては「平均寿命」は85歳付近ですが、最大死者数年齢はそれより2から3年上回ります。また明らかに最大年齢はこれを遙かに上回るわけです。これらの関係はたとえば縄文においては「平均寿命」は統計的には不明ですが、埋葬された骨の検討から15歳時の平均余命を求めると32歳程度となるといわれており、これを「平均寿命」と見ているようです。最大死者数年齢は15-16歳程度とされていますから、多くの人が10代半ばでなくなっていると思われるわけですが、しかしこの時代でも長生きする人が全くいなかったというわけではなく、およそ15歳でなくなる方の数の0.4%程度の人が60歳以上で亡くなっているとされますが、逆に言うと極々少数であっても60歳以上の人はいたわけであり、人々の間に「長寿」という観念はあったこととなります。

 また古代だけではなく中世、江戸時代から昭和中頃までは平均寿命として50歳に満たない時代が続いていました。これは世界的な傾向であり、寿命が延びたのはどの国もこの半世紀ぐらいのことであるようです。しかしそのような時代であっても長寿の人はいくらもいたわけであり(たとえば葛飾北斎は90歳まで生きたとされます)、それが現代と異なるのはそれらの占める割合であり、人数です。現代はそれら長寿の人がかつてないほど多数に上るものであり、それは古代から近代までの期間とは根本的に異なるものです。しかしこれを根拠に古代には長寿の人が全くいなかったと捉えるのは明らかな間違いです。

 古賀氏は「論語」に「二倍年暦」があるとする証拠の中の議論として『その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の50歳)」か「百二十歳(一倍年暦の60歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の70歳)」「百六十歳(一倍年暦の80歳)」とするものが見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は50〜60歳頃が限界のようなのです。』としていますが、これは「自家撞着」とでもいうべきものであり、長寿でも5-60歳以上は居ないとするから120歳以上の記録がないのが「二倍年暦」の証拠としてしまうのです。しかしこれはそもそも5-60歳以上の人がいたかどうかを知ろうとしているのにそれがいなかったことを元に議論している事となってしまいますから、正しい論理とは言えません。 
 「長寿の人がいた」とすると「二倍年暦」ではないとなり、「長寿の人がいなかった」とすると「二倍年暦」で示されていると理解できる事となってしまいます。 
 もっと客観的な史料と検討から導くべきものではないでしょうか。

 ちなみに後代の例となりますが、「養老令」(「戸令」)では「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾。」とされており、66歳以上の年齢の人がいることを前提としていますし、道昭和尚は72歳まで生きたとされます。

「三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。…和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。或三日一起。或七日一起。倏忽香氣從房出。諸弟子驚怪。就而謁和尚。端坐繩床。无有氣息。時年七十有二。弟子等奉遺教。火葬於粟原。天下火葬從此而始也。…」

 また当時80歳や90歳、あるいは100歳以上の人間もいたらしいことが「詔」から窺えます。

(七〇七年)(慶雲)四年
「秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。…給侍高年百歳以上。賜籾二斛。九十以上一斛五斗。八十以上一斛。…」

(七〇八年)
「和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。…高年百姓。百歳以上。賜籾三斛。九十以上二斛。八十以上一斛。」

(七〇八年)和銅元年…
「秋七月…丙午。有詔。京師僧尼及百姓等。年八十以上賜粟。百年二斛。九十一斛五斗。八十一斛。」

 他同様のものが複数あります。

 ところで、特に古代において死に至る要因として上げられるものは以下のものでしょう。
 ひとつには栄養の不足が上げられるでしょう。特に狩猟生活を送る人々はつねに一定の量と質の食事を摂取することが必ずしも出来なかったものであり、そのため必要な栄養がともすれば不足する状態となっていたものと思われます。さらに良い衛生状態の確保が困難であったことは確実であり、それか原因の感染症や食中毒あるいは寄生虫による健康被害が多かったものと思われます。(ツツガムシ病など)
 また不慮の事故の発生率の高さ(たとえば野生動物による死傷事故に遭う可能性、狩猟の際の事故(転落、負傷、溺れ)等々に遭遇する機会の多さなど)、さらに「破傷風」「虫垂炎」「雑菌」等による化膿とその進行による「敗血症」等々病気や怪我の場合の手当、介護などの点などが古代は不十分であり、これらにより現代人と比べ大幅に長寿を得る機会を奪われていたものと思われるわけであり、それらは「平均寿命」が長くなることを大きく妨げていたと思われる訳です。
 しかし以前記事として上げたように心臓の鼓動と寿命の関係からはもし順調に生を全うできたなら少なくとも55-60年程度は生きることができそうであることを示しており、それよりも短い場合は栄養不足あるいは事故率が異常に高い、あるいは特定の病気に罹患する確率が高いなど何らかの特異な条件があったことを示唆します。それが特に「縄文」の示す様相かもしれませんが、このような条件があっても「ほんの一握り」かもしれませんが、「長寿」を全うする人はいたと思われ、それが史料に「一生」の年齢として書かれたという推定は十分可能と思われます。

 また別の観点から考えられる事は、『論語』の舞台はもっぱら中国北部平原であったということであり、この地域は早期に狩猟採集生活から脱却し「小麦」を中心とする栽培穀物を摂取する生活に移行していたものと思われ、それは「農事暦」の発生を促し、月や太陽の運行をその基準として生活がおこなわれていたことを推定させます。いわゆる「太陰太陽暦」を取り入れていたとすると「二倍年暦」の存在と相容れない状態となっていたと思われる訳です。
 倭国の場合確かに「稲作」と「二倍年暦」が結びついていたと思われるわけですが、それは「稲作」の伝来の起源として中国南方からが考えられており、それは「孔子」などの活躍の舞台である「北部平原」の実情とは異なっていたと思われるわけです。
(古賀氏は「二倍年齢」という問題を持ち出していますが、「推古紀」付近に「二倍年齢」の境界点がある理由について「https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/28b8be915332b86bd097733c315d46ad  https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/28682dead340bbebe6a400387ae1b943 」などですでに検討していますので御覧いただきたい。)

 ちなみにすでに『魏志倭人伝』に出てくる「其人壽考、或百年、或八九十年。」について考察し、これは「戸籍」に基づいたものと思われるので「二倍年暦」ではないと見ていることを表明しています。(「寿考について」https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e2f8417b24817a2e00b784941c29f44d

また氏は「孔子」の言葉として「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)の中に出てくる「四十五十」を二倍年暦としていますが、そのような理解は当の「孔子」の生涯と整合しないという理解を示しています。これが正しければ「孔子」自身も30代で亡くなったこととなりますが、それは大いに不審であるとする論を「https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/876cca3a25b2832fab012e17dcfc5a3d」で示しました。こちらも御覧頂ければと思います。

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「天武」と「薩夜麻」

2018年05月20日 | 古代史

 『書紀』に書かれている「天武」の「天渟中原瀛眞人天皇」という諡号にはいくつかの疑問とヒントが隠されています。まず「天」と書かれており、これは「阿毎多利思北孤」と同様「あめの」あるいは「あまの」と読むべきものでしょう。『旧唐書』には倭国王は歴代「天」を姓としている、と書かれています。このことは「天武」が「倭国王」である、という証明とも言えます。

 また「渟」は「ぬま(沼)」の語幹と同じであり、「水」に関連していますが、「湖沼」のような流れがあまり強くない、緩やかなものを指しているようです。また「瀛」は「沖」と同じであり、「隠岐」と同じ海岸線からかなり離れた(水平線の向こう)場所を指す言葉です。このように「水」に強く関係している諡号ですが、具体的にはどこの海または湖沼を指すものでしょうか。彼の人生の中で、どこかの海や沼などと関連した事績がなければこのような諡号とはならないと考えられます。
 伝えられる天武の「皇子」時代の名前は「大海人」というものであり、ここでも明らかに「海」に強く関連する名前となっています。しかし、彼のどの業績・行動範囲を取ってみても「海」には全く関係がありません。(もっともほとんど業績などが書かれているわけではありませんが)
 
 「薩夜麻」であればどうでしょう。彼は「筑紫の君」と呼ばれています。「筑紫」の本拠地は「博多湾岸」であり、この場所は「玄界灘」に面しています。また私見では彼は「伊勢王」の子供と考えられます。すでに述べたように「伊勢」は元々「肥後」の地名であり「伊勢の海」というのは「有明海」ないしは「八代海」の名称であったと考えられます。
 また「天武」は「水沼」の地に「遷宮」したらしいことが『万葉集』から読み取れます。

壬申の年の乱平定すぬる以後(のち)の歌二首
四千二百六十番
おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり

四千二百六十一番
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ
(作者未詳らかならず)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

右の件の二首は天平勝寶四年二月二日に聞きて 即ち茲(ここ)に載す。

 この「水沼」という地名は「和名抄」など見ても全国でも「筑後」にしか存在していませんでした。『書紀』では「神代紀」に「天照大神」の「三人の娘」(宗像三女神)と共に登場する人物に「水沼の君」がいます。「宗像三女神」も「水沼の君」も「九州」に深く関係した人物です。当時の「水沼」は文字通り、湿地帯であったものであり、大小の「沼」が点在していた場所であった模様です。(海岸線も近くにあった模様)
 以上のことは「天武」の歌と考えられている「二番目」の歌で詠まれている場所は「筑後」であり、その場合対象人物は「薩夜麻」の何代か前の先祖ではないかと考えられますが、当然その子孫と考えられる「薩夜麻」にも深く関係した地名と思われます。
 一番目の歌は「薩夜麻」と「壬申の乱」との関係を歌っているものであり、近江朝廷を滅ぼした後「奈良」の「田井」という地名に都したという記事ですが、この字地名が「藤原宮」至近にあるものであって近畿の地名であることが確実になっています。ただし、すでにそれ以前より「難波京」が存在していたわけですから、「田井」には「離宮」の様なものを造ったものと推察されます。

 また「諡号」の中の「真人」というものは「八色の姓」の中に存在するものであり、これは「難波朝廷」が制定した「制度」と考えられ、「倭国王」と「倭国王家」に一番近い立場の人間に対して「真人」という「姓」を与えたもののようです。「天武」がこの「称号」を与えられたのはまだ「皇子」の時代と考えられ、この時代は「皇子」もこの「制度」に組み込まれていたものではないでしょうか。

 『書紀』によれば「薩夜麻」は「壬申の乱」の前に帰国しています。しかし、以降の消息は『書紀』には書かれていませんが、特に「死去」したというような情報がないところを見ると、「壬申の乱」当時存命していたと考えるのが妥当と思われます。
 特に彼に対して「敗戦」の責任を問うて「死」を賜ったと書かれているわけでもありません。「流罪」になったというわけでもありません。ということは「筑紫の君」として「復帰した」と考えるのか妥当なのではないでしょうか。

 ところで、「壬申の乱」では「大海人」は「吉野」に「隠棲」したとされています。しかし、この「吉野」が「奈良」の「吉野」ではなく、「佐賀」の「吉野ヶ里」である、とすると、「吉野ヶ里」は(現在は「佐賀」ですが)当時「筑後」にあったわけであり、「筑後」は「筑紫の君」の統治下の領域であるわけですから、「大海人」と「薩夜麻」が別人であったとしても、すくなくとも「薩耶麻」の「了解」や「支援」なしに「大海人」が立て籠もったり、軍備を整えたりするというようなことは「不可能」であることとなります。
 しかし、『書紀』の「薩夜麻帰国」という記事の直前が「大海人吉野入り」なのですから、この記事配列には「意味」があると考えられるものです。つまり、『書紀』の上ではこの両者は「同時」には出てこないように配列されており、それはこの両者の間に深い関係があることを示します。
 「薩夜麻」は帰国してまもなく「倭国」の情勢を把握し、軍事的圧力を「近江朝廷」にかける必要があることを理解したために、吉野に軍事力を整える必要を感じ、行動したということではないでしょうか。記事の意図するところはそういうことであると考えられるものです。
 
 また、「壬申の乱」の際に「栗隈王」及び「子息」とされる「三野王」「武家王」が「近江朝廷」からの参戦指令に従わなかったとされています。
 以下『書紀』の「壬申の乱」の記事より抜粋

「(佐伯連)男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

 このことはある意味「当然」であると考えられます。「太宰率」であったとされ、また「太宰府」に所在していたとされる彼らは「筑紫の君」の支配下にあったものと考えられるからです。
 そもそも「筑紫の君」という存在と、当時存在していたとされる「太宰府」あるいは当時太宰であった「栗隈王」の間になんの関係もないことはあり得ません。当然「筑紫の君」の統治領域は「太宰府」の存在を包括していると考えざるを得ないからです。
 「壬申の乱」時に「近江朝」から「参戦指示」が出された際にこれを「栗隈王」が拒否するシーンが『書紀』にありますが、この時の情景から考えて彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は実は「筑紫」であったと考えられるものです。
 「近江朝」(大友)は彼について指示に従わない可能性を感じていたわけですが、それは「彼」には「天子」と仰ぐべき存在が「別にいた」という事を示すものであり、彼が「筑紫」の勢力であるとすると「筑紫君」と称された「薩夜麻」の配下の人間であるのは当然であり、いかに「補囚」からの帰国であったとしても「大義名分」の重さはいささかも変わることがなかったと考えられ、「近江」側に援軍するということはあり得なかったものであり、それを「近江朝」では危惧し、また予想していたものと思料します。その彼と「以前から」友好的であったという『書紀』の記述からみても「大海人」は「筑紫」に勢力を張っていたという可能性が強いといえるでしょう。

 さらに、「大海人」が「筑紫」に関係が深かったと考えられるのは「天武」の葬儀において「壬生」として「誄」を奏しているのが「大海氏」であり、彼は「阿曇氏」と同族であったとみられる事からもいえます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。…」

 彼を含む「大海(凡海)氏」は『新撰姓氏録』(右京神別下など)では「阿曇(安曇)氏」と同祖とされており、その「阿曇氏」の本貫が「筑紫」にあったことは常識ですから、当然「大海人皇子」自体も「筑紫」に深い関係を持っていたと見て当然でしょう。

 以下『新撰姓氏録』より
477 右京 神別 地祇 安曇宿祢    海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
479 右京 神別 地祇 凡海連    同神男穂高見命之後也
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

 また「天武」の即位の際の「妃」とその子供達の列挙記事においても彼の出身についてのヒントが窺えます。

「(六七三年)(天武)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。」

 ここに出てくる「天武」の「妃」達についての記事から、彼の出身地、あるいは勢力範囲などについておおよそ推定出来るといえます。
 まず後半に書かれている「初めに娶る」とされるのが「即位」以前の婚姻関係であり、「鏡王」の「女」(娘)「額田姫王」を娶ったのが最初とされますが、これは本拠がどこかやや不明ですが(この「鏡王」が「伊那公高見」であるという可能性があり、その場合は「伊奈地方」ということとなります)、彼女との間には「女子(十市皇女)」しかおらず、ついで娶ったのは「筑紫」に拠点があった「胸形君徳善」の「女」である「尼子娘」であり、「高市皇子」が儲けられています。さらに「完人臣大麻呂」の「女」である「擬媛娘」との間に「忍壁皇子」「磯城皇子」と男子がいますが、この「完人臣」とは「獣肉」を調理する立場の「完人部」(宍人部)の長と思われ、当時「猪」などの肉は輸送された後に解体し調理されるものであり、彼はそのような職掌の長たる立場と理解できます。「磐井」の墓と称される「岩戸山古墳」にあったとされる「別区」には「猪窃盗犯」に対する裁判風景が描写されているなど(『風土記』による)、「屯倉」から運ばれる「猪」の送り先は(「宗像君」同様)「磐井」などの「筑紫」の王権であったと思われ、これらのことから彼が「即位」以前に「筑紫」と深い関係があったことが推測できるものです。(どの地域にでも存在していたというわけではないのです)
 このように考えると「天武」つまり「大海人」が「筑紫君」とされる「薩夜麻」と深い関係があって当然ともいえる事となります。

 同じ事は「白村江の戦い」の「倭国軍」の出発地はどこか、という分析にも言えます。「九州北部」に基地があったという可能性が非常に高いと思われますが、「玄界灘」に面して多量の船が集結したと考えるより、背後の「筑後」に基地があったと考える方が軍事的な常識に沿っているのではないでしょうか。
 であれば、この基地もまた「筑紫君」の統治下にあったと考えられるものであり、このことから倭国軍を指揮していた「指導者」は「筑紫君」であったと推察されるものです。

 「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩耶麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)
 また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)

 「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩耶麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
 この「美濃」という地は「利歌彌多仏利」の時代の「制度改革」の中の「戸籍改定」に応じなかった地域でもあり、またその後の「庚午年籍」による造籍という「天智」の事業に応じた地域でもあったものです。
 そのため、「薩夜麻」が帰国し「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
 
 これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
 「北畠親房」が著した『神皇正統記』には「天武」が「半島」からの「渡来人」である、という証拠があったがそれらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『神皇正統記』の記述はその意味では正しいと言えます。
 そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。


(この項の作成日 2011/07/08、最終更新 2017/02/11)(ホームページ記載記事を転記)

 

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吉野と曳之弩

2018年05月20日 | 古代史

 「壬申の乱」の際に「大海人」が当初立て籠もったとされる「吉野」という場所については、元々「えしの」と発音していたものと考えられています。(古語辞典などによる)この「えしの」という言葉の表記として使用されている「万葉仮名」ではいくつか種類があるようです。
 たとえば、『古事記』の「雄略天皇」の記事の中では「延斯怒」として現れます。

「天皇幸行吉野宮之時」と題された「歌謡」の中に現れる例
「…美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登 多禮曾意富揺巫爾揺袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志揺綾登 阿具良爾伊揺志 斯漏多閉能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐綾岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾淤波牟登 蘇良美綾 夜揺登能久爾袁 阿岐豆志揺登布」

 また、『万葉集』では「吉野」を歌った歌は多く、その中では「吉野」か「芳野」が大部分ですが、「能野」とする例(一一三四番歌)及び「与之努」「余思努」と表記する例(これはいずれも「大伴家持」の作で「四〇九八、四〇九九、四一〇〇番歌」)があります。
 また『書紀』では『天智紀』の「天智天皇十年」(六七一年)の十二月条に書かれてある「天智死去」とされる際の「童謡」記事で「曳之弩」という表記があります。

「(天智)十年(六七一年)十二月癸酉条」「殯于新宮。于時童謠曰。美曳之弩能。曳之弩能阿喩。々々擧曾播。施麻倍母曳岐。愛倶流之衞。奈疑能母縢。制利能母縢。阿例播倶流之衞。(其一)於彌能古能。野陛能比母騰倶。比騰陛多爾。伊麻?藤柯泥波。美古能比母騰矩。…」

 これらから見ると『万葉集』では「よしの」ないしは「よしぬ」と発音するものと考えられるのに対して、『古事記』と『書紀』では「えしの」ないしは「えしぬ」と発音されるもののようです。このようにいくつか種類があるわけですが、中でも上で見た『天智紀』の「ぬ」ないし「の」の表記に使用されている「弩」という字が注目されます。
 『書紀』中ではこの「文字」が「ぬ」(ないし「の」)という「音」の表記として使用されているのはこの「一個所」しかありません。また、『書紀』以外でも「努」ないし「怒」は上に見たように数例あるのに比べ、「弩」は『万葉集』でも『古事記』においても全く見かけない文字なのです。そのような文字が「敢えて」使用されていることに注意を払うべきであると思われます。

 この「弩」という文字は「いしゆみ」或いは「おおゆみ」のことであり、大型の弓を意味しています。また、その構造、原理が現代の「ボウガン」によく似ており、殺傷能力、到達距離ともそれまでの弓に比べ飛躍的に大きいものです。
 「曳」は「引く」と同義で「弓を引く」と言うときにはよく使われる書き方です。したがって「曳之弩」とは「おおゆみを引く」という意味の言葉であり、この言葉(万葉仮名)が「吉野」という地域を表す言葉として「名詞」として使われていることは、「吉野」という地域が軍事拠点であったことを示すものではないかと考えられます。
 そこに「弩」がなく、「弩」の引き手がいないにもかかわらず、この万葉仮名が使用される必然性がないことは自明と思われ、「吉野」には「弩」で武装した軍団があったものと推定されます。(後の白川軍団を彷彿とさせるものです)
 例としてあげた『書紀』の年次は「壬申の乱」の前年であり、その「壬申の乱」(六七二年)の際には「瀬田の唐橋」の戦いの際「弩」が使用されています。
 『書紀』ではその情景について以下のように「列なれる弩乱れ発ちて、矢の下ること雨の如し」と表現しており、かなり多数の弩が使われたものと推定されます。

「辛亥。男依等到瀬田。時大友皇子及群臣等共營於橋西而大成陣。不見其後。旗■蔽野埃塵連天。鉦鼓之聲聞數十里。列弩亂發。矢下如雨。其將智尊率精兵以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈。置一長板。設有搨板度者乃引板將墮。是以不得進襲。」

 この「瀬田の唐橋」の戦闘の描写における「弩」がどちらの軍から放たれたものかと考えると、その直後の文章で「矢下如雨。其將智尊率精兵以先鋒距之。」とあり、ここで「智尊」が防いでいる「之」が放たれた「矢」を指すものと考えると、この「智尊」が「近江方」の将軍ですから、「反近江朝廷」軍から放たれたものであることとなります。
 このように「大量」の「弩」を駆使できたのは出発地が「吉野」(「曳之弩」)であり、そこはその表記通り、「弩」を多数擁する軍事基地であったことの証左であると考えられます。
 後の養老律令(「軍防令」)によると「各軍団のうちの一隊(五十名)程度から使い手として屈強のもの二名を当てる」と規定されていることから考えて「弩」は各隊に一台ずつあったわけであり、一軍団について少なくとも二十台程度はあったこととなりますが、この時「弩」に関する描写から考えて、かなりの数の兵士(軍団)が「吉野」に集結していたことを想像させるものです。

 「壬申の乱」の際に「筑紫大宰」であったとされる「栗隈王」の子供に「美奴王」がいます。彼は他にも「美濃王」「三野王」とも書かれますが、死去した際の表記は「美弩王」でした。

「和銅元年(七〇八年)五月条」「辛酉。從四位下『美弩王』卒。」

 死去した時点で書かれていると言う事から、これは一種の「諱」とも考えられ、この「表記」が彼の「本来」の名前であったという可能性も考えられますが、ここにも「弩」が現れており、それは「美弩」(「美濃」)が「壬申の乱」の際には「高市皇子」が陣取った場所であり、「軍事基地」であったと思われる事につながっています。
 ここは「西」の「吉野」と同様、「弩」とその使い手を多数擁する「軍団」があったものと推量され、ここを本拠としていた彼に強力な軍事力というものが備わっていたことを示していると考えられます。

 この「童謡」の「吉野」が「どこ」を指すかはこれだけでははっきりしませんが、「奈良」の「吉野」ではないと思われます。なぜならここは「平野」が狭く、そのような軍団が集結する為の利便性がないからです。
 明らかに「奈良」の「吉野」は「辺地」であり、他の地域と連絡の良くない場所と考えられます。しかもここには「古代官道」が整備されていなかった可能性が高いと思われます。この「官道」はいわば「軍用道路」ですから、そのようなものがこの場所には整備されていないということからも、この「奈良」の「吉野」という場所は「軍事基地」としては適所であったとは思われないこととなります。
 つまりここで「美曳之弩」と表記されるような「吉野」は、「奈良」とは別の場所に探す必要があるものと考えられ、可能性の高いものは「筑後」の「吉野」であると思われます。ここには「官道」が整備されていたことが判明しています。

 上の「和歌」の例で言うと『万葉集』では「よしの」と発音される例しか見えていません。たとえば「天武」の作と言われる「芳野吉見與良人四来三」などを見ても「同一発音」と思われる「芳」「吉」「良」と並んで「四」があり、これは明らかに「よ」という発音と考えられますから、「吉野」が「よしの」と発音されていたことは明白です。
 これは「成立時期」の違いであると考えられ、古代では「えしの」という発音であったものが「八世紀」以降のどこかで「e」から「o」へと母音変化(母音交替)が起きたものと思料します。
 似たような例として「住吉」があります。こちらは『万葉集』でも「須美乃延」(四四〇八番歌)というような「すみのえ」表記が遺存しており、それは現代まで続いています。「すみよし」という呼称も平行して行なわれていますが、古型である「え」系も未だに残っているわけです。
 「住吉」という地名は「住吉大社」に起源があると考えられるものであり、「住吉三神」は「筑紫」に本来鎮座していたものですから、「筑紫」でも「すみのえ」と発音していたこととなります。
 このことから「えしの」と発音される「吉野」は同様に「九州」の中に求めるべきこととなり、「筑後」の「吉野」(吉野ヶ里)もその候補であることとなるでしょう。
 この場所であれば「太宰府」(筑紫宮殿)からも交通の便が良いことは確かです。また、このことは逆に考えると「吉野」を拠点として行動すること自体「筑紫宮殿」にそれと知られずには不可能であることとなります。
 つまり、この時の「吉野」からの軍事的行動については「筑紫宮殿」の主は正確に把握していたと言うより、それに対し「全面的協力」ないしは「本人」がその行動の「主体」であった可能性を示していると考えられます。

 また、この「弩」という武器は『書紀』によれば「推古天皇」の時代「六一八年」(推古二十六年八月の条)に「高麗(高句麗)から伝わった」という記事があり、「高麗」から「対隋戦」の「戦利品」として「弩」の他、「鼓吹」、「抛石(投石器か)」などももたらされたと書かれています。
 この「六一八年」という年次は「隋」が対「高麗」征服戦の失敗などから、滅亡に至った年でもあります。このときになって推古王朝は「高麗」から多数の武器を入手したことになっているのですが、しかし、それをさかのぼること十八年前の「六〇〇年」に、倭国から送られた「遣隋使」が「隋」の皇帝(高祖)から「風俗」を問われて答えた文章中に「弓」、「矢」、「刀」などと並び「弩」があると書かれています。(この「遣隋使」の真の時期は前述したように「隋初」であると思われます。)
 つり、倭国では「阿毎多利思北孤」の時代にすでに「弩」という武器が存在していることとなるわけです。
 この「弩」という武器の存在が『隋書』に書かれていることから、これが「隋」にとって新しい情報であり、それはこの「弩」が「隋」から流入したものではないこととなり、「隋王朝」成立以前にすでに倭国内にもたらされていたこととなるものと考えられます。その場合想定されるのは「百済」からか或いは直接「南朝」からでしょう。

 現代でもそうですが、有力な武器に関する情報は「軍事機密」であり、その武器本体も含め基本的には門外不出と考えられ、「南朝」などから倭国に武器がもたらされたとしてもそれが直ちに倭国内の各地域に普及することはなかったものと考えられます。それは『隋書俀国伝』にも「兵はあるが征服戦はない」、と言う記事からも推測できます。戦闘を行えば山野に武器が散逸する可能性もありますが、戦わない限りは武器庫からは出ることがなくなり、秘密の保持も容易です。


(この項の作成日 2010/10/06、最終更新 2016/08/11)(ホームページ記載記事を転記)

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