以下は2012年に会報に投稿した論に加筆したものです。(ただし未採用となったもの)
ここでは『書紀』の神話において「山幸彦」が「海神の宮」で手に入れた「潮満瓊及潮干瓊」と『法華経』の経典に出てくる「如意宝珠」との関連を通じて、「天孫降臨神話」の成立とその構造について述べ、これに関連するものとして「謡曲」「岩船」に出てくる「君」が「利歌彌多仏利」であり、そこで開かれる「市」に関連して使用されたのが「無文銀銭」であるという「仮説」について述べます。
『書紀』の「神代紀」には「山幸彦」と「海幸彦」の「弓矢」と「釣り針」の交換に関する話に引き続き「山幸彦」が「海神」の「宮」に行って歓待され、その後帰還する際に「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来る「瓊」を、「海神」(の娘)からもらう場面が描かれています。(本文及び「一書の二」及び「三」)
以下『書紀』当該部分の読み下し文を示します。(以下の書き下し文は「岩波」の「古典文学体系『日本書紀』」に準拠しました)
已にして彦火火出見尊、因りて海神の女(むすめ)豐玉姫を娶(ま)きたまふ。仍りて海宮に留住(とどま)りへること,已に三年に経りぬ。彼處(ここ)に、復た安らかに樂しと雖も,猶郷を憶ふ情(こころ)有(ま)す。故,時に復た太(はなは)だ息(なげき)ます。豐玉姫聞きて,其の父に謂りて曰はく「天孫悽然みて數(しばしば)歎きたまふ。蓋し土(くに)を懷ひたまふ憂(うれへ)ありてか」という。海神乃ち彦火火出見尊を延(ひ)きて,從容に語(まう)して曰さく「天孫若し郷に還らむとを欲(おもは)さば,吾當(まさ)に送り奉るべし。」便ち得たる所の釣鉤(ちい)を授りて、因りて誨(おし)へまつりて曰さく「此の鉤を以て汝の兄に與(あた)へたまはむ時には,陰(ひそか)に此の鉤を呼(い)ひて、貧鉤(まじち)と曰いて,然して後に與えたまへ。」とまうす。復た「潮滿瓊及潮涸瓊」を授りて、誨へまつりて曰さく「潮滿の瓊を漬けば,潮忽(たちまち)に滿たむ。此を以て汝の兄を溺沒(おぼ)せ。若し兄悔ひて祈(の)まば,還りて潮涸瓊を漬けば,潮自からに涸(ひ)む。此を以て救ひたまへ.如此(かく)逼(せめ)惱まさば,汝の兄自伏(したが)ひなむ。」とまうす。
また、『古事記』の「上巻」(神代巻)においても同様に「海神」(綿津見大神)より「釣り針」を返してもらう段で、「兄に返すとき『呪い』の言葉と所作(後ろ手に渡すなど)をするよう」教えられるとともに「盬盈珠」と「盬乾珠」を渡されます。
このようにいずれの神話でも「海神」から「瓊」(珠=赤玉)を受け取ることとなるわけですが、この「瓊」を「海神」が所持していた、という事や、その瓊が「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来るものであったことなどが当然ながら重要です。
『書紀』の「一書の一」及び「四」では「潮滿瓊及潮涸瓊」は出てこないかわりに「鉤」(釣り針)を兄に返すとき「呪(まじな)い」の言葉と所作(「後ろに投げ捨てる」や「後ろ手」に渡すなど)だけをするように教えることとなっています。このような「呪術的」方法はある意味「原始的」であり、「倭国古来」のものであることを推察させるものです。それに対し「潮滿瓊及潮涸瓊」について言えば「呪い」の言葉もありませんし、所作も必要ないようです。これはある意味「近代的」であり、この「神話」の由来が「新しい」と云うことが知られるものと推察されます。つまり、「一書の一」及び「四」の「潮滿瓊及潮涸瓊」がない形の方が本来型に近いのではないかと考えられ、このようなものは「古いタイプ」の説話に属すると考えられます。
このような「古いタイプ」の説話(神話)はある意味「普遍的」であり、同じようなタイプの神話・伝承の類は主に「南太平洋」の諸国に残されているとされています。このように日本の「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれているのは確かと思われますが、また一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが『賢愚経』や『大方便仏報恩経』という仏教の経典(これらはいわゆる「律」の経典であり、「小乗仏教」の経典です)に出てくる「説話」です。
そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五-六世紀)には「中国国内」でかなり著名であったものです。
これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。それを示すのが『隋書俀国伝』の記事です。
そこでは「倭国」の「俗」(民衆)の「風俗」を書いた部分に、「如意寶珠」信仰が「倭国内」で行なわれていたことが示されています。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」『隋書俀国伝』
これを見るとそこには「如意寶珠」があるとされており、またその「前段」では「阿蘇山」について語られています。これらは相互に関連した事物であると考えられ、「如意寶珠」に対する信仰と「阿蘇山」及びそれに対する「畏敬」というものが「関連」した事象として語られていると考えられますが、「阿蘇山」はもちろん「九州」(肥後)に存在するものですから、「如意寶珠」に対する信仰も同様に「肥後」中心のものと推量できます。
また、「如意寶珠」は「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも出てきます。
「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」『八幡宇佐宮御託宣集』
これによれば「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
このように「九州島」の中では「如意寶珠信仰」が「倭国」の「俗」として広がっていたと考えられます。では、その「如意寶珠」に関わる「伝承」は何時の時点で「俗」にもたらされたものなのでしょう。
この「如意寶珠」伝承の「原型」は、インド起源の「ナーガ」神の持つ「珠」に由来するものとされています。この「ナーガ」神というものは本来は「蛇神」であったものですが、「龍王」と「漢訳」されたために中国(特に北方系部族)において、古来からの想像上の動物である「龍」と同一視されることとなり、「仏」を守護する「天龍八部衆」(「八大龍王」)という形で仏教に取り込まれたと考えられています。つまり「龍王」が登場する「説話」の多くは「北魏」など「北朝」に由来するものと考えられ、「如意寶珠」についても「北朝」からの伝来を想定しなければならないものと考えられます。
『隋書俀国伝』に書かれた当時の倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされていますから、まだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、(「宇佐」にあったという)「如意寶珠」を「俗」として「一般民衆」が信仰しているとする『隋書俀国伝』の伝える事と「合致」することになります。
この『隋書俀国伝』に書かれた「如意寶珠」に対する信仰は「遣隋使」の「発言中」のものと推察され、これは「六世紀末」付近時点における「倭国」の「俗」における「信仰」の状況を示すものと思われます。しかし『隋書俀国伝』では六〇〇年の派遣が最初とされており、そのことはすでにこれ以前(五九二年か)に「厳島神社」などにおいて「宗像三女神」などをモチーフとして「大菩薩」の「垂迹」が説かれており、これらと同種の現象として「祷祭」の「仏教化」というものも進行していたと見られることと微妙に齟齬します。
ところで、ここ(阿蘇山)で行われている「祷祭」が「山」の人々の信仰に関わるものであることは明白と考えられますが、一方「如意寶珠」は上で見たように「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰と深い関係があったものと推量されます。この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程を表わすものと考えられます。
この「如意寶珠」受容のプロセスは「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。つまり、「山幸彦」(彦火火出見尊)が海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが表す「実態」が『隋書俀国伝』に示されていると考えられ、この事は「神話」の祖型というものが『隋書俀国伝』付近で形成されたことを示唆するものと考えられます。
2012/01/18作成、「会報」へ投稿したもの