古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『魏志倭人伝』シリーズ(15)

2024年02月09日 | 古代史
前回に引き続き「卑弥呼」本人について分析します。

 後でも述べますが、この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては「社会不安」があったとみられ、それはその時点まではそれほどのものではなかったものが急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものであり、そのため新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとなったものと思われます。その「社会不安」については後ほど触れますが、「祭祀」が重要な要素を占めることとなった時点で「卑弥呼」でなければならないとなったものですが、その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人伝』の表現に現れています。
 このように古代において「霊的能力」の高い存在は、現実世界ではえてして「役に立たない」存在であったという可能性があり、「卑弥呼」も例外ではなかったものではないでしょうか。
 古代においては「不具」であったり「身体能力」の一部が欠如しているような人物はその共同体の中での実生活の役にはほぼ立ちませんが、その代わり(というよりそれだからこそ)霊的能力に長けた存在として一定の尊敬を集めていたという可能性があります。「左手第四指」に対する霊的信仰はそのことを暗示しているといえます。
 後にも触れますが、世界中で「左手第四指」に対して「無名指」という意味の呼称がされている事実があります。現在日本では「薬指」と呼称されますが、これは元々「薬師指」と称されていたものであり、「薬師如来」が薬を調合する際にこの指を使用していたとされることから命名されていたものですが、「薬」を調合する際にこの指を使用するのはその指でなければ薬が効かないからであり、「左手第四指」に「霊的能力」があるからであるとされます。またそれが「無名指」とされるのは「名前」を「鬼神」に知られると「霊的能力」がなくなってしまうからとされ、「名前」と「鬼神」という超現実的存在との間に強いつながりがあることに対する信仰が世界各国であったことが知られるものです。
 このように「左手第四指」が重要視される最大の理由はそれが「役に立たない」からであり、「不器用」の象徴だからです。「第四指」は「第五子」(小指)と「腱」の一部がつながっており、通常は単独で動かすことができません。(訓練すれば別ですが)特にそれが「左手」である場合は特にその指を主体的に使用することはないといって差し支えないでしょう。つまり「左手第四指」は典型的な「役に立たない」存在であるわけですが、それだからこそ、この指に対する「畏怖」と「敬意」があったものではないかと思われ、それは「古代」における「共同体(集落)」の中においても、同様の意味がその存在に対して与えられたものではないでしょうか。(「蛭子」に対する信仰もそれに良く似たものといえるでしょう) 
 「縄文」遺跡からは明らかに「不具」と思われる「人骨」が出ており、それは「成人」に達していることが確認されていますから、その人物は少なくとも周囲の助けを受けて生活していたことを示しており、「縄文」の社会が弱者に寛容であった証拠というような理解がされる場合がありますが、それよりはその人物が「祈祷師」など当時の共同体に必要な存在となっていたのではないかと見るべきことを示唆します。つまりそのような人物は「シャーマン」的位置にいたものではないかと考えられ、重要視されていたものとも考えられるわけです。
 これらのことから考えると「卑弥呼」もどこかに(身体的あるいは精神的かは不明ではあるものの)不具合を抱えていたものであり、それ故に強い「霊的能力」を有していた(少なくとも周囲はそう理解していた)可能性があると思えます。それは「男弟」が現実の政治を補佐していたという中にも現れているものと思われ、「卑弥呼」の能力が「霊的」な部分に特化していたことを示すものであり、実生活ではほとんど「役立たず」というべき状態ではなかったかと推察されることとななります。
 彼女という存在は『書紀』では「神功皇后」に投影されていますが、「神功皇后」の治績は政治的軍事的領域に亘っており、単なる「霊的能力」を持った人物という範疇を超えています。これは明らかに「卑弥呼」とは異なるものです。「卑弥呼」は実生活や実際の政治には関与しなかった、というよりできなかったことを示唆するものですが、それは彼女の身体的能力に何らかの欠陥があったという可能性につながるものと思われます。またそれだからこそ「佐治國」しているという「男弟」の存在が大きかったものと推量されるわけです。
 彼女の「鬼道」はその後「壱与」に受け継がれますが、この「壱与」も「幼少」であり、「共同体」の実生活上ではほとんど「役に立たない」人物ですから、その意味でも「霊的存在」として畏敬の念を持たれていたとも思われます。
 その後も「倭」では「女性」による「祈祷」を中心とした「信仰」が強く遺存することとなったものと考えられます。(仏教においても当初は女性による信仰が先行したと思われ、寺院としては「尼寺」が最初に作られたらしいこともそれに関係しているとも考えられます)
 このことは「実生活」において有用な仕事のできるような人物は「霊的能力」については周囲からその能力を認められていなかったという可能性が考えられ、そのことと「卑弥呼」の死後「男王」が立ったものの周囲の賛同が得られず争乱となったということの間には関係があると思えます。その人物は(その時点では必須であった)「霊的能力」を認められず、「祭祀」の主宰者としての地位に疑問符が付けられたものと思われます。(もちろん「卑弥呼」の男弟による政治の支障になるという点もあったでしょうけれど)そのため「壱与」が選ばれたというわけでしょう。
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『魏志倭人伝』シリーズ(14)

2024年02月09日 | 古代史
『魏志倭人伝』シリーズの続きです。ここでは「卑弥呼」本人について分析します。

 弥生時代の祭器と思われる「銅鐸」は墓域(古墳など)には決して埋納されず、出土する場合は単体であり、遺骨などと共伴することはありません。そのことはいわゆる葬送儀礼には用いられないものであったことを示していると思われます。これはいわゆる「ハレ」の儀式だけに使用されたものと考えられる訳です。
 それに対し銅鏡は弥生時代の王墓である「平原」や「須玖岡本」などの遺跡から出土しますし、後の「古墳時代」にも「三角縁神獣鏡」などは「古墳」から出土します。しかもそれらは「石室」や「棺」の中にさえ入れられていることがあります。逆に単独で埋納されている例が見られません。
 また「漢鏡」は「弥生中期」ぐらいまでの「甕棺」などから出土します。しかも当初の鏡は全て「外国製」です。自分たちの生活に直結していたであろう「祭祀儀礼」に使用される「祭器」が「外国製」であったとはあり得ないことと思われます。つまり「銅鏡」は「葬送儀礼」に使用されることがあることとなり、それは「銅鐸」と違い「神聖性」という点においては欠如していることとなるでしょう。
 どの世界においても「タブー」には二種類有り、「神聖」ゆえのタブーと、「穢れ」があることによる別のタブーです。つまり、「神聖」なものは同時に「穢れ」を嫌うわけであり、「死」が「神聖性」とは遠く隔たっていたことは「イザナギ」「イザナミ」の神話を見ても推定できるものです。そこでは人が亡くなった後「腐敗」していく過程の姿が描かれており、「死」に対する「穢れ」の認識を反映していると思われます。そうであれば「銅鐸」がそうであったように「祭祀」に使用され、「神」と近い距離にあるものは「死」につながるものからは忌避されていたと思われます。しかし「銅鏡」は「墓」から出ますし、それも「高い権力」を持っていたであろう貴人の「墓」からしか出ません。これは「銅鏡」というものには「神聖性」がなく、自らの「権威」の根源を示すものではあっても、所詮俗世界のものであったということを示すものと考えられます。
 「魏」の皇帝は鏡を「卑弥呼」に対して「下賜」したわけですが、「広く皆に見せるように」という指示が「皇帝」の「詔」の中にあり、そうであれば「埋納」してしまったならばその役は果たせないこととなってしまいます。つまり「卑弥呼」がもらった「鏡」は各諸国に「頒布」されたものと思われ、特に「王」の「夫人」などに「化粧用」に渡されたものと思われるわけです。
 この「銅鏡」はこのように「卑弥呼」の「邪馬壹国」が率いる「諸国」の一体関係の醸成には役立ったと思われますが、それは逆に「卑弥呼」の行っていた祭祀に「鏡」(銅鏡)が使用されたと見ることはできないことを示します。「魏」の皇帝からの下賜品というだけでは「神聖性」の保持や確保という面では物足りないからです。(さらには「倭王」としての「卑弥呼」にというだけではなく「卑弥呼」の私的な使用品としても下賜されており、これも「鏡」の「神聖性」を否定するものでしょう)
 あくまでも「鏡」の存在が周知であること、それは「卑弥呼」の「倭王」としての「権威の根源」が「魏」の皇帝にあることを知らしめる意義でしかないことを示すものです。
 そもそも「卑弥呼」の祭祀は『倭人伝』では「鬼道」と呼ばれており、このことから「卑弥呼」は「鬼神」を祀る祭祀を行なっていたのではないかと考えられます。
 『三国志』の中で同様に「鬼道」という名称が使用されているものに、「道教」の一派である「五斗米道」があります。

「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」(『三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯』より)

 「五斗米道」とは「後漢」の順帝のころ(一四二年)四川省成都の郊外(蜀の国)で「張陵」という人物が「太上老君」よりお告げを受けた、と言い出したことに始まり、その後「張衡」「張魯」と計親子三代にわたり教団を組織し、強大な軍事力を保持するようになったものであり、これがいわゆる「三張」道教と呼ばれているものです。その後彼らは「魏」の「曹操」に軍事力を剥奪され無力化されたものです。(二一五年)
 この時代に「魏」などでは「儒教」が正統と考えられていました。これは、「前漢」の「武帝」が儒教を国教に定めて以来(紀元前一三六年)、代々儒教を中心とした官吏国家となっていたためであると思われます。「道教」やその一派である「五斗米道」は基本的には「魏」や「西晋」にとって見ると「異端」的なものであり、そのため「鬼道」という用語を使用する動機となっているものと考えられます。そういう意味において卑弥呼の「鬼道」というものが、「原始道教的」意味合いを持っていた可能性は高いでしょう。
 この「五斗米道」や「太平道」などに共通なことは「鬼神」信仰であり、その「鬼神」とは結局「死者」を指すものでした。このような「土俗的信仰」は「江南地方」に淵源を持つものと思われ、南方的であることが推察されます。
 ただしその基本的な部分というのは、初期の「道教」がそうであったように「お祭り」が中心であり、「巫術」つまり「祈祷」などにより、幸運をもたらしたり、病気を治したりしようとするもので、古くから「民間」に根付いていたものであったろうと考えられています。
 また、「倭」の各国は朝鮮半島に勢力を張っていた「公孫氏」が「後漢」に非協力的(「公孫淵」に至って反旗を翻した)であったため多年にわたり朝鮮半島を経由しての「漢」(魏)との交流は閉ざされていて、南方の「蜀」や「呉」との交流に偏っていたものと考えられ、「五斗米道」についてもその方面から直接情報が伝わっていた可能性があるものと考えられています。
 ただし、「卑弥呼」の「鬼道」はより原始的であり、祭儀には「血食祭祀」を行っていたと思われ、「五斗米道」とも違うそれ以前の世界に類するものであったとみられます。それは古田氏が指摘したように「卑弥呼」の「呼」が「生け贄に傷をつける行為」を指す語であるとすることからも言え、「卑弥呼」の儀式の内容が示唆されるものです。それに対し後に「五斗米道」を継承した「天師道」では動物を犠牲とすることを強く批判している事実があります。
 また、ここで言う「鬼神」とは基本的には「死者」のこととされるわけですが、その意味では「卑弥呼」は「巫覡」と呼ばれる立場であったと思われ、彼女は「倭王権」の長として「鬼神」と意志を交通させていたものであり、それは単なる「祖先祭祀」とは異なり、数多くの「先人達」が対象であったと思われ、彼らの「意志」をその時点の「邪馬壹国」以下の諸国の置かれた厳しい状況に反映させることを目的として儀式を執り行っていたものでしょう。(「厳しい状況」とは具体的には「疫病」の蔓延であったと思われます。)そのような重要で古典的な儀礼には「神聖性」が欠けている「鏡」が使用されることはなかったものであり、推測によれば「玉」が使用されていたものと思われるものです。
 「玉」は「周代」以来「中国」で重要な儀礼にしか使用されない「神聖」な祭器であったものであり、「周」の官職(大夫)を名乗っていたと思われる「卑弥呼」の「倭」でも当然「玉」が祭器として使用されていたと考えられるものです。
 これに対し「五斗米道」などでは「鏡」が「祭祀」の際に用いられたという意見もありますが、それが正しいとしても、「魏」の皇帝からの下賜品が「鬼道」の「祭祀用」としてのものではないことは自明でしょう。「卑弥呼」の「鬼道」が「五斗米道」の流れを汲むものであるとすると、それは「魏」では「邪教」と考えられていたわけであり、その様なものを「卑弥呼」が信仰していたとしても、それに対しその「祭祀」のために「皇帝」が器物を贈るということが行われたとは考えられないからです。
 あくまでも「卑弥呼」の私的な好物としての「鏡」を下賜したものであり、それは「化粧」材料と思しき「眞珠、鉛丹各五十斤」が同時に下賜されていることでもわかると思われます。
 また、この当時中国では「銅鏡」はいわば「縁起物」であり、その特徴として「銘文」の存在があります。そこでは「現世利益」「不老長寿」あるいは「神仙世界」への誘いというような文が選ばれ、「鏡」としての実用性の他「実生活」を豊かにする呪術として室内の要所に飾られていたものと思われます。つまり「卑弥呼」への「鏡」にも必ず「銘文」が書かれていたと思われますが、最も可能性のあるものは「不老長寿」を言祝ぐものであり、「延年益寿」「受長命寿萬年」というようなもの(これらは実例があります)が「銘文」として書かれていたと言うことが考えられます。それは「卑弥呼」がこの時点でかなりの高齢ではなかったかと考えられる事からもいえるでしょう。
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JAXAの「SLIM」による月面への着陸のこと

2024年02月03日 | 宇宙・天体
 JAXAの月着陸船「SLIM」がなんとか月面に着陸したようです。もともと半分回転しながらランディングする予定であったようですが、逆噴射用のスラスターが脱落してしまって速度が落ちなかったようで結構きつい着陸となったようです。まあ激突し破壊してしまった例も過去に(最近も)あったようですから、その轍を踏まずに済んだことでまあ良しとするべきでしょうか。
小惑星へのランディングも超困難ですが、月ほどの重力があると推力がかなりなければ激突してしまうのでそこの制御と信頼性が重要となるようです。
 ちなみに今回着陸した場所は「神酒の海」の「近く」とされていて、てっきり「海」地域かと思っていたらその至近にある「キルリス」クレーターの内部に降りたらしく、これは「神酒の海」というくくりでは誤解があるでしょう。
 場所の写真を以下に示します。下の写真でおおよその位置がわかるかと思います。



くわしい位置はこの辺りのようです。


 今回のようにクレーターの内部に降りたというのは初めてではないでしょうか。アポロ計画のうち14号が「フラ・マウロ」クレーターに降りたとされますが、どうもその外部丘陵に降りたみたいですから、内部に降りたのはこれが最初ではないですかね。これも着陸地点がピンポイントで選べるということの結果なのでしょうか。
 次に計画されているらしい火星の衛星にタッチアンドゴーするという計画も非常に楽しみです。新しいことにトライするということにしか進歩はないですから。
 なお写真のタイムスタンプのデータからみて、上が2022-06-05 20.23.13で機材が20cmシュミカセに25mmアイピースで拡大したものをビクターのビデオ機器「GZ-MG555」(398万画素)で撮影したものの中から良好なデータを切り出したもの、下は同じく2022-06-07 19.31.54で以下望遠鏡とアイピースは共通ですが、カメラはスマホです。(4800万画素)
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『倭人伝』シリーズ(13)

2024年02月03日 | 古代史
「春耕秋収」と「出挙」(貸稲)

 『倭人伝』によれば「邪馬壹国」には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「三国志東夷伝」より『倭人伝』「…收租賦、有邸閣。…」

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬し収めていたことを示すものです。
 この『倭人伝』の記事の中では他に見られるような「刺史の如く」のように「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが「倭」に存在しているという彼らの認識を示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 「魏晋」の場合(「呉」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから各用途に供出されたりあるいは「貸し付け」られたりということが行われていたようです。(※1)
 この時期は中国でも「班田」つまり「国家」が「祖を負担すべき田畑を付与する」という政策は当然行われていなかったわけですから、それらの「租」は全て「墾田」つまり私的に開いた「田畑」からのものと言う事となるでしょう。そして「魏晋」と同様「倭」においても同様の形で「租賦」を収集していたものと思われ、それは後の「倭国」の『養老令』時代の「薩摩国」とほぼ同様の施策に拠っていたであろうことを推定させるものです。そこでは「正税帳」が作られていたものの、「班田」は行われていなかったことが示されており、この「租」が「墾田」からのものであったことを示すと思われますが、そのようないわば「未開の地」と言うべき場所に対する政治的対応としては「緩い律令制」とも言うべき政策を行い、妥協したことを示すものと思われます。
 『倭人伝』を見ると「邪馬壹国」の統治範囲においては「刑法」(律)の存在や「諸国」に派遣されていたと思われる「官職制度」などの存在から「国郡県制」と思しきものが成立していた可能性が高く、そのことは「律令」というべきものがこの時点で「倭」の内部(邪馬壹国の統治範囲)にも存在していたらしいことが窺えますが、その「律令」は中国では「秦」に始まり「漢」から「魏晋」へと受け継がれていたものであり、これらの王朝と継続的に関係を結んでいた「倭王権」が「律令」に対して「無知」「無関心」であったとは想像しにくいものです。少なくともそれらの部分的導入が図られたものと思われますが、「卑弥呼」の「倭」においても「緩い律令制」とでもいうべきものが行われていたと考えることができるでしょう。
 ところで、「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などには天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは「種籾」を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れませんが(「中国にはそのような実例もあります)、他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。
 その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われ、後の「倭国」における「出挙」と同じ性質のものが当時存在していたと考えることが出来るのではないでしょうか。
 このように「米」や「種籾」の貸し出しに「利息」が伴っていたとすると「期間」が重要であり、それは自然発生的に「種蒔き」から「刈り取り」までと決められたという可能性が高いと思われます。それは貸し付けたものの返済時期としては収穫時期が最も適当だからです。
 このようなことは『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸し出しが行われていたことから推定できるものです。(※2)
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資するはずのものであったものです。
 その後これは「州県」という公的団体が「制度」として貸し付けることが行われるようになりますが、そうなるとその「利息収入」はその「州県」の重要な財政収入となってしまい、いわば「税」という形に変質させられることとなったものと思われ、農民の苦しみはなおいっそう増加することとなったものです。
 ところで『倭人伝』に引用された「魏略」にはいわゆる「二倍年暦」の表現と思われる、「春耕秋収」を「計」って「年紀」とするというものがあるのはご承知の通りです。

「魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」

 これは古田氏などにより「春耕」と「秋収」に二回年の区切りがあると理解されていますが、これはそうではなく「春耕」から「秋収」までを「計って」、それを「一年」という長さ(期間)とするという意味ではないかと考えられます。
 ここに使用されている「計」という語は『三國志』の中では「計画」や「計略」の意で使用されている例も多いのですが、「戸数」などや「戦死者数」などを「計」するという例も確認され、これは明らかに「数える」という意義で使用されていると思われ、文意からもここに使用されている「計」も同様に「計る」あるいは「数える」という意義であると考えられます。

(「三國志/魏書四 三少帝紀第四/高貴?公髦/正元二年 底本:宋紹興本」によります)
「二年八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰?西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。?西之戰,至取負敗,將士死亡,『計以千數』,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰?其門?,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」

(「三國志/魏書六 董二袁劉傳第六/董卓 李? 郭汜 底本:宋紹興本」によります)
「董卓字仲穎,隴西臨?人也。[一]英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉。有三子:長子擢,字孟高,早卒;次即卓;卓弟旻字叔穎。少好?,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與?還,殺耕牛與相宴樂。諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓。[二]?書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊。胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,『斬獲千計』。并州刺史段?薦卓公府,司徒袁隗辟為掾。」

 さらに「年紀」については『三國志』やそれに先行する漢籍である『史記』『漢書』などによれば「編年体」の記録の意義などもありますが、その基礎となっている概念は「一年」という長さであり、それを「単位」として「年数」を数えるあるいは記録するというものと推量されます。

(「史記/晉世家第九 底本:金陵書局本」によります)
「…晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。…唐叔子燮,是為晉侯。晉侯子寧族,是為武侯。武侯之子服人,是為成侯。成侯 子福,是為厲侯。厲侯之子宜臼,是為靖侯。靖侯已來,年紀可推。自唐叔至靖侯五世, 無其年數。」

 ここでは「年紀」と「年数」とが対比的に書かれていますから、これらは同一の内容を指すと思われ、「年紀」とは「年数」の意であると知られます。
 つまりこれらによれば「春耕」から「秋収」までの長さを「計る」あるいは「数える」ということを行い(これは「結縄」によるか)「一年」の長さを決め、それを「単位」として年数を数えているということと理解できます。
(ただし「種を蒔く」という重要な農事の時期をいつにするかというのは当然別の基準によらなければならないと思われ、考えられるのは「星アテ」が行われていた可能性です。例えば「昴」あるいは「オリオン」の三つ星など天空で目立つ星の位置が目印としたものと思われ、その特定の位置関係を見て「春耕」としていたと言う事が考えられ、そこからの日数を「結縄」の表現でカウントしていたものと思われます。)
 現代の平均的な田植えと収穫時期は地域によってかなり異なりますが、農水省ホームページから参照したデータによると九州の場合は「田植え」が「六月上旬」、収穫はその最盛期が「十月中旬」とみられます。
 「田植え」は現在普通ですが、卑弥呼の時代には「田植え」はまだ行われていなかったと見られ、「種籾」を直接植える「陸稲」であったのではないかと見られ、その場合は時期としてやや早まり、「五月付近」に「春耕」が来ると思われ、旧暦の「春」は「一月から三月まで」であり、そのことから「三月」に行われていたと考えると「新暦」の五月となって整合します。(以下に述べるように「馬韓」など半島では「五月」に種蒔きをしていたように書かれていますから、「倭」に比べかなり遅く、このことから「邪馬壹国」統治範囲においては気候がかなり温暖であることが推定できるものです。)
 この「春耕」から「秋収」までという期間は、旧暦でいうと「三月から八月」までの約「百二十~百四十日」程度と思われ(「八月一日」と書いて「ほづみ」と読む名前の人がいるのは示唆的です)、これを「単位」として年数を数えると通常の太陰暦である「三百五十四日」の半分程度となりますから、年数が倍となることは必然です。
 これは「正歳四節を知らず」と書かれたように「魏晋朝」で使用されていた「暦」(太陰暦)が「倭」では使用されておらず「倭」独自の「暦」が行われていたことを示すものですが(同じ『三國志』内の「韓伝」によれば「馬韓」など半島内各国では「魏晋」と同じ暦を使用していたように書かれています。)、そのような中でも「春耕」から「秋収」までを計っていたということの中に、「春貸秋賦」という表現通り「稲」や「種籾」の「貸し付け」における「貸与」あるいは「利息」をとるべき期間の設定がされており、それが「春」から「秋」までであったということではないかと推測します。
 『養老令』の「雑令」に「出挙」に関する規定があり、そこでは「出挙」という制度の有効期間として(つまり利息を取る期間ともいえます)、「一年を以て断(限り)とする」と書かれています。

「雑令二十以稲粟条」「凡以稲粟出挙者。任依私契官不為理。仍以一年為断。…」

 この「一年」について『令義解』では以下のように記されています。

「謂、春時擧(イラヒ)受。以秋冬報。是為一年也。」

 つまり春(種まき時期)から収穫時期である秋や冬までの期間を一年と見なすと解釈しているわけです。
 この「一年」という期間の設定は『倭人伝』と同じ考え方であり、「春耕」から「秋収」までの期間が一般の人々にとって重要であったことを示すものですが、『倭人伝』において「春耕」から「秋収」までの期間を「一年」としている理由の一端はそれがこの後の「出挙」という制度と同様「利息」をとるべき期間として設定されていたからということも考えられると思われるわけです。
 「令義解」の解釈は「倭国」における伝統が反映していると見られ、一年という期間としては異例とも思える範囲が設定されているのも古代の「倭国」からの状況を示していると言えるのではないでしょうか。
  「出挙」のような「貸稲」の制度というものについてはそれが「租」に伴うものという考え方も、また「租」に先行するという考え方も双方ありますが、いずれにしろこの『倭人伝』時点では確実に「租」が存在しているわけですから「貸稲」という制度ないし慣習がこの時点で確実にあったものと見なければならないことになります。そしてその慣習はその後の「倭国」に長く残ったものであり、それが「雑令」に残ったと見ることが出来るでしょう。
 「稲作」は「邪馬壹国」時代以前から連綿として続けられてきているわけですし、天候不順も必ずあるわけですから、不作となって収穫する稲穀が少なかったり、植えるべき種籾がないというような状況はある期間を通じれば普遍的に存在するわけです。そうであれば「貸稲」という慣習がなくなるようなことはなかったはずです。
 (ただし、いわゆる「公出挙」という「制度」については割と起源が新しいかも知れません。それは「遣隋使」という存在と関係しているという可能性があるでしょう。「隋」からの各種制度の導入という中に「均田制」という「北魏」以来の「租税」の収奪システムがあったと見られ、それを応用した「班田」の制度がこの時点で出来たとも思われ、そうであれば「貸稲」という「慣習」はその時点で「制度」に変質したという可能性もあるでしょう。そしてそれが『養老令』に継承されているという考え方もできると思われます。)
 また『令義解』の「儀制令春時祭田条」が引用する「古記」説によれば、「制度」として設定された「郷里制」とは別に「村」(村落)が存在しており、そこには「官社」(官が設定した「神社」)とは別に「村落」で私的に設定された「社」が存在しており、「神官」とも云うべき「社首」がいたとされます。

「…古記云。春時祭田之日。謂国郡郷里毎村在社神。人夫集聚祭。若放祈年祭歟也。行郷飲酒礼。謂令其郷家備設也。一云。毎村私置社官。名称社首。村内之人。縁公私事往来他国。令輸神幣。或毎家量状取殴(斂)稲。出挙取利。預造設酒。祭田之日。設備飲食。并人別設食。男女悉集。告国家法令知訖。即以歯居坐。以子弟等充膳部。供給飲食。春秋二時祭也。此称尊長養老之道也。…」(『令義解』「儀制令春時祭田条」)

 上でみるように彼は「官」が主宰する「祈年祭」とよく似た内容の祭り(春に行われる豊作を祈る祭り)の他「秋」の収穫祭も主宰し、その際には「収穫物」(主たるものは稲と酒と思われる)の一部を「幣」として納めさせ、それを次回の「春の祭り」の際に「各戸」の状況に応じて分配するとされています。そしてそれからの収穫物の「利稲」(利息としての稲)をまた「幣」として回収するという循環となっているわけです。(※3)
 これは言ってみれば「村」単位で行う「出挙」であり、また「互助制度」ともいえるものです。このようなものは「公出挙」つまり「官」が制度として行うものとは異なる次元あるいは起源のものでした。
 八世紀の「国家」はこのような末端の「神社」までも「摂津職」などの職掌の範囲としていたものであり、これを支配体制に組み込むことが必須であったことを示しています。(逆に言うと「公出挙」は全国一律に行われていたものではなかったと言うことがいえると思われます。)
 このような体制が「律令体制」構築の以前のものであるのは自明であり、それをはるかに遡上する時点にその淵源を考えるべきと思われますが、その原点ともいうべきものは『倭人伝』にいう「春耕秋収」体制であり、その時点で行われていた「出挙」様の制度にあると思われます。
 『倭人伝』時点でも「神官」のような人物を主宰者としてそれらが行われていたものと推測され、同様に国家の体制とは別の枠組みで存在していたものと思われます。それが「正歳四節を知らず」と表現される中に表れているといえるでしょう。
 この時点では「戸籍」があり、「租賦」の制度もあったにもかかわらず、「太陰暦」について無知であると言うことは不審といえますが、それは「戸籍」がその名の通り「戸」についての動向を「国家」が把握するという段階に止まり「俗」としては敷衍化されていなかったことを示すと思われます。つまり「国家」としては「戸別」に「租賦」の対象を把握していたわけであり、それに基づいて徴集していたものですが、それとは別に「俗」として「出挙」的制度を「互助システム」として従前より機能させていたものと思われ、その実体が「村落」の私的なものであったことを示すものと考えられます。


(※1)伊藤敏男「長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係」
(※2)谷口建速「長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種〓」 : 孫呉政権初期における穀物貸与」『史觀』 (162), 43-60, 2010-03-25 早稲田大学史学会
(※3)義江彰夫「律令制下の村落祭祀と公出挙制」(『歴史学研究』№380 1975-01)
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『倭人伝』シリーズ(12)

2024年02月03日 | 古代史
「卑弥呼」の年齢

 ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

 この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑弥呼」の即位は「一九〇年」付近が措定されることとなりますが、その時点で「年已長大」とすると、「魏」に遣使した時点では「八十歳程度」の老婆となります。彼女がこのぐらいの長寿であったとするとそのことが『倭人伝』の中に特記事項として書かれなかったはずがないと思われます。「年已長大」という表現は子供ではないという程度のものという解釈もあり、いずれにしても八十歳を超えるような「長寿」であったとはいえないこととなります。
 また「魏使」が「金印」等を「仮授」するために「来倭」した時点の「卑弥呼」についての印象として「年已長大」としていると見ることもできるかもしれません。そうであれば「二三八年」付近で「四十歳代」程度となるわけですが、それでは即位した時点を「一九〇年」程度とすると、まだ「0」歳の赤子であったこととなってしまうでしょう。それはあり得ないとして、「壱与」のようにまだ「十三歳」程度の「幼女」のころに即位を想定すると、その即位年次は「二一〇年」付近と推定されることとなりますが、これでは「歴年」が二十年以上の期間を指すこととなってしまいます。これらはいわば相互に矛盾していると見られることとなります。つまり「どこか」がおかしいと思われるわけです。
 これについてはすでに述べたように「帥升」という存在を「男王」の在位期間の起点として考えている点に問題があるといえます。つまり「光武帝」から金印を授けられた「委奴国王」と「帥升」については「倭の奴国王」であって「倭王」でもないし、「倭国王」でもなかった(もちろん「邪馬壹国王」ではない)と考えられるわけであり、そうであれば「男王」という表現の中にこの二人は入らないということとなります。
 「帥升」以降のどこかで「奴国」が没落し「邪馬壹国」が取って代わり、その時点で「男王」が即位し、彼の時点で「倭王」と称すべき程度に統治範囲が広がったという可能性を考えることも必要と思われます。
 「其国」という表現が「邪馬壹国」ではなく「諸国」を含む「倭王権」全体を指すと思われることからも、「倭」のほんの一握りの支配領域しかなかったと思われる「帥升」やそれ以前の「倭の奴国王」は該当しないという可能性が考えられるわけです。
 そして、そこから数えた「男王」の統治期間が「七~八十年」であったとすると、「卑弥呼」の即位は「二〇〇年以降」であった可能性が強くなりますが、そうであれば「魏」へ遣使した「二三八年」付近で「四十歳代」ということも当然有り得ることとなります。
 即位に至る経過から考えて即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」という実績があったからこそ「王」として共立されたと見るべきですから、そうであればその時点で幼少であったとは考えにくく、それは「年已長大」という形容と矛盾しないこととなります。
 さらに言えば「男弟」が「佐治國」していたというのも「卑弥呼」の統治が開始された時点からのものとみるべきではないかと思われ、そのためには「男弟」がそのような事が可能な年令に達している必要があり、これをせいぜい二十代後半程度を下限として考える必要があるでしょう。それもまた「卑弥呼」の年齢として「年已長大」とされることとやはり矛盾しないと思われます。
 このことから「邪馬壹国」が「倭王権」の中心国となったのは少なくとも「魏」に遣使した時点から数えて七~八十年以前のことであり、「歴年」とされる「数年間」を足して考えると「一五〇年」よりは以前のこととなるでしょう。
 「卑弥呼」が即位してすぐに「遣使」したかどうかは不明ですが、「公孫淵」の討伐という外的要因が整った事から「遣使」が行われるようになったと見るべきですから、それは「卑弥呼」の即位と直結した話ではなかったであろうとは思われます。なぜなら「遣使」は「狗奴国」との関係の中でのできごとであるわけですが、「卑弥呼」はそれとは別の理由で「共立」されたと見られるからです。
 そうであれば「卑弥呼」の即位は「遣使」の時期をやや遡る「二一〇~二二〇年」付近が措定され、「邪馬壹国」が「倭」をほぼ制圧したのは「一四〇年付近」であるらしいことが推定できますから、「帥升」の亡き後を襲い、「奴国」から「倭王権」の座を奪取したという可能性が高いこととなります。
 その年次以降「邪馬壹国」が「倭王権」の盟主となり二代あるいは三代「王」が交替したものと思われますが、「後漢末」から「魏代」にかけて「混乱」が発生し、「卑弥呼」が即位するまで数年間「倭王」が不在であったとみられることとなるでしょう。
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