古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

廣瀬大忌神と龍田風神(再度)

2024年02月23日 | 古代史
 さらに前回からの続きです

廣瀬大忌神と龍田風神

『推古紀』には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」

しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。

「六四七年」大化三年…
是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時所着焉」

 これは明らかに「灌仏会」と「盂蘭盆会」の「齋時」の際に着用するということと考えられ、この時点では「灌仏会」も「盂蘭盆会」も「国家的行事」として行っていたものと考えられますが、これ以降明確に「灌仏会」「盂蘭盆会」と理解できる記事は、以下の「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事だけになります。

「(斉明)三年(六五七年)秋七月…辛丑 作須彌山像於飛鳥寺西 且設『盂蘭盆會』」

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月…庚寅 詔群臣 於京?諸寺 勸講『盂蘭盆經』 使報七世父母」

 ただし、下に見る「白雉三年」の記事は「灌仏会」と時期がほぼ重なっており、可能性があります。

「六五二年」白雉三年…夏四月戊子朔壬寅(十五日)。請沙門惠隱於内裏使講無量壽經。以沙門惠資爲論議者。以沙門一千爲作聽衆。
丁未(二十日)廿。罷講。…」

 しかし、その後は見あたらず、その後いきなり「六七五年四月」の「廣瀬」「龍田」記事になるのです。

「(天武)四年(六七五年)…夏四月甲戌朔…癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」

 これ以降、特に『持統紀』に入ってこの「廣瀬大忌神」「龍田風神」へ「使者」を派遣し「祭る」という記事が頻繁に見られるようになります。
 以下に全記事を挙げます。

六七五年 夏四月甲戌朔…癸未(十日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」 (七月はなし)
六七六年 夏四月戊戌朔辛丑(四日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。 (七月はなし)
六七七年 (四月はなし) 秋七月辛酉朔癸亥(三日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。
六七八年 (四月七月ともになし)
六七九年 (夏四月辛亥朔)己未(九日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月己卯朔)壬辰(十四日)。祭廣瀬龍田神
六八〇年 夏四月乙巳朔甲寅(十日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月甲戌朔)辛巳(八日)。祭廣瀬龍田神。
六八一年 夏四月己亥朔庚子(二日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月戊辰朔)丁丑(十日)。祭廣瀬龍田神。
六八二年 夏四月癸亥朔辛未(九日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月壬辰朔)壬寅(十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八三年 (夏四月戊午朔)戊寅(二十一日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月丙戌朔)乙巳(二十日)。祭廣瀬龍田神。
六八四年 (夏四月壬子朔)甲子(十三日)。祭廣瀬大忌神。龍田風神。 (秋七月庚戌朔)戊午(九日)。祭廣瀬龍田神。
六八五年 夏四月丙子朔己卯(五日)。祭廣瀬龍田神。 秋七月乙巳朔乙丑(二十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八六年 (四月はなし) (秋七月己亥朔)甲寅(十六日)。祭廣瀬龍田神。
六八七年 (四月七月ともになし)
六八八年 (四月七月ともになし)
六八九年 (四月七月ともになし)
六九〇年 夏四月丁未朔己酉(三日)。遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月丙子朔)癸巳(十八日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。
六九一年 (夏四月辛丑朔)辛亥(十一日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (七月はなし)
六九二年 (夏四月丙申朔)甲寅(十九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月甲午朔)甲辰(十一日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
六九三年 夏四月庚申朔丙子(十七日)。遣大夫謁者。詣諸社祈雨。又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月戊子朔)己亥(十二日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九四年 (夏四月甲寅朔)丙寅(十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月癸未朔)丁酉(十五日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九五年 夏四月戊寅朔丙戌(九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 秋七月丙午朔戊辰(二十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九六年 夏四月壬申朔辛巳(十日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月辛丑朔)戊申(八日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九七年 (夏四月丙寅朔)己卯(十四日)。遣使者祀廣瀬與龍田。是日。至自吉野 (秋七月乙未朔)丙午(十二日)。遣使者祀廣瀬與龍田。

 上に見るように「六七五年」の記事以降、多数の(ほぼ毎年)「廣瀬」「龍田」記事が見られるようになります。さらに(六八七-六八九年)の間は全く行われていないようです。そして「六九〇年」以降「六九七年」という『書紀』の最終段階まで見られるものの、『続日本紀』に入ると「突然」、全く見えなくなります。(但し、『養老令』の中の「神祇令」では「神祗官」の祭る定期的な祭祀として、各季節ごとに定めがありますが、その「孟夏」と「孟秋」の祭祀として「大忌祭・風神祭」というものがあり、これが「廣瀬・龍田」であることは間違いなく、重要行事として継承されてはいるようですが)
 このように「廣瀬」「龍田」記事は「天武」「持統」時代に特徴的かつ集中的であるわけですが、これが何を意味する記事なのかという点については、余り多くの議論を聞きません。
 両神は「一見」「水神」と「風神」という自然神であるように受け取られており、単に「天候」に関するものとして「日照り」「大雨」などの自然災害のなきことを祈るという意味以上には受け取られていないようです。しかし、そうであれば、特にこの時期に集中する理由を説明する必要がありますが、それは困難であると思われます。
 調べてみると、これは基本的には「四月」及び『持統紀』の場合は大抵の場合「七月」にも行なわれており、それはあたかも「灌仏会」「盂蘭盆会」の如くであり、この両祭会との関連を推定させるものです。
 その「日付」を見ると、「四月」「七月」ともかなり「ばらつく」ものの、上に見るように「四月」の場合は「平均」すると「10.5日」、「七月」の場合は、同じく平均すると「13.2日」ほどとなり、ともにほぼ「灌仏会」の「七日」及び「盂蘭盆会」の十五日の周辺の日付が選ばれているように見えます。このことは、この「祭廣瀬龍田神」という行事(儀式)が、およそ「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当する行事であったと考えられるものではないでしょうか。
 このことから、「灌仏会」と「盂蘭盆会」という仏式による「国家的行事」がこの時点以降行なわれなくなり、代って「廣瀬大忌神」と「龍田風神」という一種「地方神」が「国家」により祭られるという事が始まったと想定できることとなります。
 それについては、そもそも「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「齋時」が「祖霊(祖先)信仰」の要素が多分にあったことと関係していると考えられるものです。
 この「灌仏会」と「盂蘭盆会」は「中国」の南北朝期に両朝で盛行したものであり、「北魏」以降の北朝では特に盛大に「灌仏会」が「皇帝」に直接関わる宮廷行事として歴代王朝で行なわれたとされています。
 この「灌仏会」や「盂蘭盆会」を行なう際の経典として使用されたものとして推定されているものに「般泥?後灌鑞(にくづき)経」「仏説灌洗仏形像経」「仏説摩訶刹頭経」の三種があるとされ、いずれも「仏」に対する信仰と共に「祖霊(祖先)信仰」がそこに込められているようです。
 そこでは「四月八日及び七月十五日」の両日とも「灌仏」つまり「仏」の像に「香水」を掛けること、および「七月十五日」にも「灌仏」を行なう事は「七世父母五種親族」で苦しむものを救う功徳があると説かれるのです。
 たとえば、「般泥?後灌鑞(にくづき)経」では以下のように書かれています。

「若佛般泥?後。四輩弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷。四月八日七月十五日。灌臘當何所用。…」

 ここでは「佛」が涅槃に入られた後「四月八日」と「七月十五日」には「灌臘」(像にかける水のこと)は何を用いたらいいかと尋ねています。この質問の趣旨から考えて「灌仏」は「七月十五日」にも行う前提であると思われますし、また同じ経典の中の別の部分にも以下のようにあります。

「…七月十五日。自向七世父母五種親屬。有墮惡道勤苦劇者。因佛作禮福。欲令解脱憂苦。名爲灌臘。…」

 つまり、「七月十五日」に「灌仏」を行う事で「七世父母五種親屬」の中で「悪道」で苦しんでいるものを「解脱」させられるとされているのです。
 また中国南朝(南朝劉宋など)においても同様に「皇帝」(孝武帝)自ら関わる形で「内殿」において「灌仏会」を行い、その際には「初代皇帝」である「高祖(武帝)」の供養も併せて行なっていたという事例があります。
 これらのことから、「倭国」において「灌仏会」と「盂蘭盆会」が受容されるにあたっても、「祖霊信仰」がベースにあったものと考えられ、(そのことは「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事において「使報七世父母」とあることからも推察できますが)、そのことが「祭廣瀬龍田神」という現象(儀式)と深くつながることとなった要因であると思われます。
 たとえば、「法隆寺釈迦三尊像」の光背の解析からは、「上宮法皇」という人物(これは「阿毎多利思北孤」と思われます)について「釈迦」と同一化する信仰があったと見られることが明らかになっており、「灌仏会」というものが「釈迦」の誕生日を祝うものですから、同時に「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念を表すには適切なタイミングと考えられたということも有り得ると思われます。
「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたものとされています。この「銘文」の中には「懐愁毒」という用語があり、これが「大方便仏報恩経」という経典に典拠があるものと判明しています。(※)

「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」

 この銘文はこの「経典」を踏まえたものであり、「太后」が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示していると思われます。このことから「釈迦三尊像」が「法隆寺」の「首座」として入った時点以降「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)は「釈迦」に擬されることとなったと思われますが(それはこの「釈迦像」が「尺寸王身」という表現から「王」そのものを示すものであったことからも分かります)、「釈迦」に対する「敬慕」を表す「灌仏会」を行なうという趣旨からも、この「阿毎多利思北孤」死去という時点以降については「先皇供養」という面も重視されるようになったと見られ、それが変じて「七世紀半ば」になると「利歌彌多仏利」死去という事態を承け、「利歌彌多仏利」を神格化したと思われる「宇加之御魂神」を祭る「廣瀬大忌神」に「使者」を派遣し「祭り」を行なうという儀式が始まったのではないでしょうか。(この時点での創建であったのかも知れません)
 そもそも、「廣瀬大忌神」とは、奈良県北葛城郡河合町に現在も存在する神社であり(現在は「広瀬大社」と名乗っています)、その祭神は社伝では「若宇加能売命 」(わかうかのめのみこと)とされていて、これは「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされています。
 また、この「宇迦之御魂神」は「全国」の「稲荷社」において祭神であるとされる場合が非常に多く(特に「東国」で多いとされる)、このように多数の神社で祭神とされるためには、「国家」による祭祀が行われるなどの事象が無くてはならないと考えられ、「ある時点」で全国に半ば強制的に「創建」されるなどのことがあったと見なければならないと思われます。これを示すと考えられるのが「白雉年間」に創建された「寺社」についての解析です。
 「古田史学」の会のホームページには「九州年号資料」が閲覧可能ですが、それを見ると「白雉」年間に創建された寺社が非常に多いことが判ります。しかもその寺社のうちかなりの数が、その祭神を「宇迦之御魂神」としている「稲荷社」であるようです。
 つまり「白雉年間」(七世紀半ば)に多数の神社(および寺院)が「創建」されたことと、この「廣瀬・龍田祭祀」というものが強く関連していると考えられるわけです。
 またそれは「稲荷台古墳」「稲荷山古墳」という名称の古墳が特に東国に多いと言う事とも関連していると考えられます。これらの古墳は共通して「五世紀」以前のものであり、既にその古墳の主であった人物については「神格化」されて、地場では信仰の対象であったのではないかと考えられますが、それを「宇迦之御魂神」を祀る神社に変更するよう「(政治的)圧力」をかけられたのではないでしょうか。これらのことがあったため、東国に多くの「稲荷社」ができる事となったと考えられるものです。(古墳の墳頂に神社を作るケースが多かったと思われ「山」「台」という呼称が付随する稲荷神社が多く作られたと思われます)
 また「龍田風神」は奈良県生駒郡三郷町にある「龍田神社」の祭神であったものであり、『延喜式』に載る「龍田風神祭祝詞」では、「崇神天皇」の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら「天神地祇」を祀って祈願したところ、「天御柱命」「国御柱命」の二柱の神を「龍田山」に祀るように「夢告」があり、これに基づき創建されたと書かれています。
 『書紀』を見ると、「風神」として「級長戸邊命」「級長津彦命」が「伊弉諾」から生まれています。

(『日本書紀』巻一第五段一書第六)
「一書曰。伊弉諾尊與伊弉冊尊。共生大八洲國。然後伊弉諾尊曰。我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉。乃吹撥之氣化爲神。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生兒號倉稻魂命。…」

 この両者が『延喜式』にいう「龍田風神」を指すと考えられ、「二柱」の神というのがこの両者であると推測できます。
 また、この時点で「倉稻魂命」(宇迦之御魂神)も生まれており、共に「伊弉諾」の吐く息から生まれた事となっていますから、これらの神は非常に近しい関係にあったということがわかります。 
 また「龍田」はその名が示すとおり「龍」に関係しているという伝承もあり、「龍宮」伝説もあるようです。
 謡曲の「逆鉾」ではこの「龍田の神」は「瀧祭の明神」とされ、また「天地開闢」の際の「天瓊矛」を納めてあるともされ、「国生み」に直接関わる神とする伝承があったことが判ります。

「…時に国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。則ち天の御矛を授け給ふ。伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。さしおろし給ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。二神の始より。今の代までの宝なり。その後国土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭の明神。この御矛を預かりて。所もあまねしや。この御山に納めて。宝の山と号すなり。…」

(ただし、これについてはその他の伝承は全て「伊勢神宮」にその「天瓊矛」はあるとされますが、上に見たように「祭神」が共通していることには注意すべきでしょう。)
 このように「龍田風神」は「風神」であるはずにも関わらず、「瀧」「龍宮」など明らかに「水」に関係している部分があり、また「天瓊矛」伝承とも関係していることなど不可思議な点が多々あるように思えます。
 この「広瀬」「龍田」両神が「祖霊信仰」の対象とされていたわけであり、それに対して「国家」として「祭祀」が行なわれたものとすると、これらの神は「倭国王権」と深い関係にあると考えざるを得ないものです。
 その意味では「広瀬」という地が特別な意味を持っていたものと思われますが、この地が「百済」と称される領域の中にあり、そこは「敏達」を初めとする「忍坂王家」の代々の本拠地となっていたことを考え合わせると(「敏達」の「殯宮」も「広瀬」の地に設けられたものであり、そこは「息長氏」から夫人として迎えた「廣姫」との宮の至近の地でもあります)、この「広瀬神社」あるいは「広瀬大忌神」という存在が彼あるいはその太子とされる「忍坂日子人大兄」につながる神社であったということも考えられるところです。
 彼は『書紀』では「皇祖大兄」と称される特別な存在であったわけですし、また『隋書』にいう「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」という人物に該当する可能性も高いと思われますから、以降の王権が彼に対する追慕と畏敬の念を表すために「使者」を派遣していたということも想定できるでしょう。
 またこの「広瀬神社」で祭られていたとされる「宇迦之御魂神」については、「素戔嗚尊」の子供という伝承もあるように「出雲」系の神であり、「医薬」や「武器」などの点で「倭国王権」と深い関係があったものと考えられます。
 さらに風神とされる「級長戸邊命」「級長津彦命」には「級長(しなが)」という「地名」が冠せられていることも重要でしょう。これについては「押坂彦人大兄(忍坂日子人太子)」の陵墓が「磯長(しなが)」にあるとされることが重要であると思われ、「風神」の本性は彼ではなかったかと考えられ、彼が「皇祖」とされることと深く関係していると思われます。

※石井公成「聖徳太子研究の最前線」2010年10月31日(https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5e2efa94ebc42700d52f50d043abde2a )
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「伊勢」と「倭姫」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「伊勢」と「倭姫」

 「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
 この「日葉酢媛命」は、その死に際して「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」
「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「古田氏」も指摘していますように「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。
 これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードは整合していると考えられます。
 また『皇太神宮雑記帳』には「倭姫」が多くの「忌詞」を定めたという記述があります。

「…仏《乎》中子《止》云、経《乎》志目加弥《止》云、塔《乎》阿良々支(友?)《止》云、法師《乎》髪長《止》云、優婆塞《乎》角波須《止》云、寺《乎》瓦葺《止》云、斎食《乎》片食《止》云、死《乎》奈保利物《止》云、墓《乎》土村《止》云、病《乎》慰《止》云、如是一切物名忌道定給《支》亦祓法定給《支》」

 この中に記される「忌詞」には「仏教」関連のものがあり、このことは彼女の時代に既に仏教が存在し、しかも「寺院」や「法師」が既に存在していたということを示すものと考えられ、実年代についても「六世紀半ば」以降であることが推察できます。(このことは「瓦」が崇峻年間に初めて倭国に伝えられたという『書紀』の記述が真実を伝えていないことを示すものでもあります)
 これらのことから、この「垂仁紀」の「埴輪」のエピソードも、視点を「筑紫」周辺に移動すると整合する内容であり、この事からその「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に存在していたという可能性が高いと思料します。しかも、『万葉集』に現れる「淡海」では「鯨」が採れるとされています。

「万葉集巻二 一五三番歌」
「<太>后御歌一首 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立」

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ]邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波袮曾 邊津加伊 痛莫波袮曾 若草乃嬬之 念鳥立
(意味) 鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ

 これは「天智」の「后」(大后)と考えられる人物(これがまた「倭姫」です)が、「天智」の「殯」に際して詠ったとされる「淡海」についての歌であるとされます。 
 ここでいう「大后」とは「倭国王」の皇后にあたる人物であると考えられ、これは実際には「利歌彌多仏利」の「正夫人」を指す名称ではないでしょうか。
 「利歌彌多仏利」も「薩夜麻」も共に「淡海」に「拠点」を設けたものであり、また「天智」は「近畿」の「琵琶湖」付近に「淡海」を「移植」したとも考えられるものです。これらに共通しているのは「海」であり「海人族」との関係です。「伊勢の海」を我がものにするためには「海人族」を味方につけなければなりません。
 「利歌彌多仏利」は「親新羅勢力」との対決に「海人族」(宗像氏族か)の力を利用したものであり、「薩夜麻」は「百済を救う役」という一大決戦に「阿曇」「阿部」という海人族の勢力を利用したと考えられ、ともに海人族との関係を強化していたことが推定されています。
 そして、「利歌彌多仏利」と「薩夜麻」は「筑紫」の「淡海」、「天智」は「琵琶湖」の「淡海」であり、双方とも海人族の一大勢力である「安曇氏」の勢力下と考えられる点が共通しているのが注目されます。
 彼らの王権の祭祀の中心が「宇迦之御魂大神」であり、それを祭っていたのが「伊勢神宮」の前身であったと思われるのです。そして「東国」を支配するために「前進基地」を難波に作った際に「伊勢の神」を祭る社も「遷宮」し、現在の「伊勢神宮」後に「鎮座」したものと考えられるわけですが、その際に各諸国に対し「伊勢神宮」つまり「宇迦之御魂大神」を祀るように圧力を加えたものと推量します。
 本来各諸国にはその土地の神様がいたはずですが、それらに代えて倭国に深い関連のある神様(「宇迦之御魂大神」)を祀るよう強制したものであり、中央(倭国王権)への帰属、服従の強制が実施されたものとみられるわけです。
 このあたりのことは『常陸国風土記』の中にも書かれています。それによれば、「夜刀の神」という「蛇」がご神体の神がいて、それまでは「神の場所」と「人の場所」を別にすることで「神」が「祟る」ことがないように、「社」を設けて「祭っていた」ものでしたが、「難波朝廷」の時に「任命」された官人「壬生連麿」が、その神に対しなんの畏敬の念も持たず、文字通り「虫けら」のごとく追い払った、と書かれています。これは明らかに「土着」の神に対する「信仰」の軽視であり、今後はそれらに替えて「倭国中央の」神を「祭る」ことを強制したものと考えられます。そしてその「祭祀」の中心に新たに置かれたものが「宇迦之御魂大神」であり、その後「稲荷」として祀られるようになったものと思われるものです。
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「伊勢」と「神風」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前回からの続きです

「伊勢」と「神風」

 「難波副都」の時代(白雉年間)に(特に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が散見されます。
 このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。

 「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、①「宇迦之御魂神」(倉稲魂神)(保食神)を祭神としている神社は以下の通り
市原稲荷神社(愛知県刈谷市)、岡田神社(長野県松本市)、鵜坂神社(富山県婦負郡)、椿郷祇園社(山口県萩市)、細田神社(兵庫県美嚢郡)、岡神社(滋賀県坂田郡)、笠間胡桃下稲荷神社(茨城県笠間市)

続いて②「宇迦之御魂の神」の近縁である「素戔嗚尊」ないしは「大国主」あるいは「味鋤高日子」を祭神としている神社は以下の通り
山邊神社(島根県江津市)、老松神社(山ロ県防府市)、生石神社(兵庫県高砂市)、石都々古和気神社(福島県石川郡)

 このように「難波」に副都を設けたときに行なわれた「神社改革」の「目玉」(主たる要点)は、「伊勢神宮」の祭神を全国(特に東国)に拡大し、「伊勢神宮」を頂点とする「国家祭祀」体系を形作ることにあったものと考えられます。それを進めたのが「伊勢王」であると思われます。
 「伊勢王」はその名の示すとおり、元々「伊勢神宮」のある「伊勢」の地の王であったと考えられます。
 「伊勢」という地名が「伊勢神宮」という「宗教的」建物・組織と連結して考えられるようになるのは「中世」以降であり、それ以前は通常の感覚としての地名としての「伊勢」というものが「別」にあり、これに対する「美称」ないしは「畏称」としての「神風」がまず存在していたものです。つまり「伊勢」が「伊勢神宮」となるに及んで、「神風」は「神」の「風」となったのです。この事は、論理的帰結として「伊勢」が「ただの」「伊勢」である時代があり、「神風」は単に「風が強い」という以上の意味がない時代があったことを示します。その後「宗教的意義」が「後年」発生したものと考えられるのです。
 ところで現在時点においても全国各地に「伊勢」という地名あるいは「島」「山」「川」などの名称が存在しています。その淵源を詳細に見ていくと特に古い淵源を持つものは殆ど全て「出雲」と深い関係があることが推察できます。
 そもそも既に見たように「倭国」における王権の発生は、「弥生」の原初としての中心が「出雲」にあったと考えられ、この王権を「倭王権」と呼びます。それはこれ以外に「倭王権」と言えるものはないからであり、他の諸国は「遅れて」王権が発生するものであり、通常では決して「倭王権」と言いうる「代表的権力」とはなり得ないのです。
 しかし「紀元前後」の大地震と大津波という天変地異を経て、権力中心は「出雲から「筑紫」へと交代しました。(させられました)
 さらにその後「古墳」の分布と形式の解析からは「古墳」時代が始まってすぐにその発展の中心地は「筑紫」から「肥後」に移るのがわかります。このことは「弥生」時代が終わり「古墳時代」になると「倭」の中心は「肥(後)」に移りそれが継続したと言う事ができるでしょう。
 つまり、古代において「日本全体」が統一されていない時点では、「倭」とは「九州」を指し、「倭の五王」の「根源」は「肥(後)」にあったと考えられますから、この「神風」の吹く場所である「伊勢」も「肥(後)」の中で考えるべきこととなります。
 つまり元々「出雲」と関係していた「伊勢」という地名はその後「筑紫」に移り、更に「肥後」へと移動したと見るべきことを示します。
 いずれにしても「神風」の使用例が確認される最古のものが「記紀歌謡」であり、この「記紀歌謡」というものは「弥生」から続く伝統のあるものと考えられますが、そうであれば「弥生」の中期以降の中心であった「九州」を抜きにしては考えられないこととなります。
 たとえば『古事記』の中には「神武」が「近畿」へ侵入する際に歌われる「久米歌」などの中に以下の歌があります。

「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻おり 撃ちてし止まむ 」

(原文の万葉仮名)
「加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜痲牟」

 この歌は「弥生」以来の伝統を持った「歌謡」であることは間違いないものと思われますが、その中に「伊勢」が出てくるわけです。上の思惟進行によればこの「伊勢」が「三重県」の「伊勢」でないことは確かです。「久米」は「神武」達に追随して九州からやって来た勢力と理解されますから、彼らの「民謡」とでもいうべきものに詠われている「伊勢」が「九州」に関係していると考えるのは当然ともいえるでしょう。
 「現在」の「伊勢」の地は、この時の「神武」の進行ルートとは何の関係もありません。その「周辺」でさえないのです。また「伊勢神宮」とこの歌との間にも何の関連も考えられません。つまり、単純に「神風」と「伊勢」という地名が連結していると言うだけの歌なのです。
 彼が当初出発地とした地は「九州」であり、そこが「倭」であり、またその「中心」は「肥」であったと考えれば、「伊勢」も「肥」にあり、そこには「神風」が吹く、と言う「論理進行」とならざるを得ません。
 つまり、「伊勢」が元々「肥」の地名であるということとなると、「伊勢の海」とは「肥」の対面する海である「八代海」(ないしは「有明海」)の事を指していると考えざるを得ないこととなるでしょう。つまり「枕詞」的用法(美称ないし畏称)としての「神風」が発生・成立したのは「肥」においてである、と考えられることとなります。
(古田氏によれば「伊勢は筑紫にある」とのことですが、上に見たように「神武」の東進段階では「倭国」の中心は「筑紫」から移動して「肥」の国にあったと考えられ、そのことから考えると更にそれ以前は「筑紫」に「伊勢」が存在していたとみられるわけです)
 また、「雄略紀」の中にも同様の「神風」と「伊勢」とが連結された「歌謡」があります。

「神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る懸きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや」

(原文の万葉仮名を表示します)
「柯武柯噬能。伊制能。伊制能奴能。娑柯曳鳴。伊褒甫流柯枳底。志我都矩屡麻泥爾。飫褒枳濔爾。柯?倶都柯陪。麻都羅武騰。倭我伊能致謀。那我倶母鵝騰。伊比志■倶彌■夜。阿■羅陀倶彌■夜。」

 ここに出てくる「伊勢」がどこなのかははっきりしませんが、少なくとも「伊勢神宮」と「神風」という言葉が関連づけられているわけではなく、ここでも明らかに「伊勢」という「単純地名」との連結として表現されていると思われます。
 「伊勢王」はその名前からして、倭国の「旧都」である「肥」の地である「伊勢」に自身の「本拠」を構えていたものと考えられ(菊池川上流に存在する「鞠智城」がその痕跡かもしれません)、それは一種の「封国」であったという可能性もあるでしょう。そして、彼が「倭国王」となった時点で「封国名」である「肥」を「倭国」の名称として「日(肥)本」として採用したと言う事も考えられます。
 そして外交の前線であり、首都である「筑紫」が危険地帯になったと判断して「難波副都」を設け「遷都」を実行したものではないでしょうか。それに伴い、旧都の地である「肥」から「伊勢神宮」を移設したものと思われます。  
 「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した同様の「銀象嵌『鍔』」は、「双生児」の如くに酷似していることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などが「瓜二つ」であり、また共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、「同一工房」によるという可能性が示唆されています。つまりこの二つの古墳の主には「深い関係」があることが「強く」示唆されるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
 上に推定したように元々「伊勢」は「肥(後)」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるものです。
 この「六世紀後半」という時期は、「磐井」の後継王者が「物部」から「筑紫」を奪回した時期でもあり、「倭国王」はそれまで「肥(後)」から「国内」を統率・支配していたものと思料しますが、そのような統治構造の中にこの「南山古墳」の主などのような「存在」もあったものと思料します。(ただし「南山古墳」はいわゆる「装飾古墳」ではないようです。この事は「南山古墳」の被葬者は「倭国王」の「血縁縁者」ではないものと考えられるところであり、彼から「負託」を受けた「倭国将軍」の一人であったものと思料します)」
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「伊勢王」とは(2)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前の投稿で「伊勢王」に関する考察を行いましたが、改めて考えてみます。
 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。

 (以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

 輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」となるはずです。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
 つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いと考えられます。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるわけであり、それは「伊勢王」ではなかったかと考えられるものです。
 「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は『書紀』の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いこととなります。
 このことは「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」(天智紀)では「未詳官位」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。
 この『孝徳紀』からおよそ三十年離れた『天武紀』にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この『天武紀』は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は『孝徳紀』からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
 これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。

「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」

 これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
 また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という説もあります。それが正しければ、「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
 そもそも「猪名(伊奈とも)公」は『書紀』では「多治比王」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
 その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、「孝徳朝期」に存在した人物であることは間違いないと考えられます。
 そう考えると、『天武紀』の「伊勢王」関連記事には明らかな「記事移動」があると考えなければなりません。
 また『天武紀』には以下の記事もあります。

「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」

「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」

 いずれの記事でも「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものでしかありません。
 この「冠位制」では「明位二階」が最上位にあり、その後が「浄位四階」となっています。通例では「明位二階」は誰も授与されなかったということになっています。しかし、そんなはずはないと思われます。「冠位(官位)制」は天子の元の最高側近ないし最高重要人物が「最高位」を授与されてしかるべきであると思われるからです。「最高位」の冠位を授与されるべき人物が誰もいないのにも関わらずそのような「冠位」を設定されたということを想定することは不思議に思われます。
 明らかに「諸王」は「最高側近」ではありませんから、「浄位四階」を授かって当然と考えられ、たとえば「親王」以上が「明位二階」を授かったと考えるのが自然です。つまり、『書紀』でだれも「明位二階」を授与されていないのはそこに書かれた人物達が「倭国王権」から見ると「諸王」であって、「親王」などではないためであると理解せざるを得ません。
 しかし既に述べたように「伊勢王」と「弟王」については『天智紀』と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが「明位階」にあったことを示すものと思われ、「諸王」と云うより「親王」であったとも考えられるわけです。
 以上から「時期の矛盾」と「位階の矛盾」を共に解消できる説明は「年次移動」しかないと思われます。
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「伊勢王」とは(再度)

2024年02月23日 | 古代史
 続いて「伊勢」に関する検討です。

「伊勢王」とは

 『書紀』には「伊勢王」という人物が出てきます。彼についてはその出自が明らかではなく、さらに『書紀』の記述に明白な矛盾があるのが判ります。
 以下「伊勢王」に関する記事を『書紀』の出現順に並べてみます。

「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

「(斉明)七年(六六一年)…六月。伊勢王薨。」

「(天智)七年(六六八年)…六月。伊勢王與其弟王接日而薨。未詳官位。」

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔辛巳条」「遣伊勢王等定諸國堺。…。」

「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔己丑条」「伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…」

「(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。御大極殿而賜宴於諸王卿。是日。詔曰。朕問王卿以無端事。仍對言得實必有賜。於是。高市皇子被問以實對。賜蓁指御衣三具。錦袴二具。并■廿疋。絲五十斤。緜■百斤。布一百端。『伊勢王』亦得實。即賜皀御衣三具。紫袴二具。■七疋。絲廿斤。緜册斤。布四十端。是日。攝津國人百濟新與獻白馬瑙。」

「(六八六年)朱鳥元年…六月己巳朔…甲申。遣『伊勢王』。及官人等於飛鳥寺。勅衆僧曰。近者朕身不和。願頼三寶之咸。以以身體欲得安和。是以僧正。僧都。及衆僧應誓願。則奉珍寶於三寶。是日。三綱。律師。及四寺和上。知事。并現有師位僧等。施御衣。御被各一具。」

「九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆』伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。」

「(六八八年)二年春正月庚申朔。皇太子率公卿百寮人等。適殯宮而慟哭焉。
辛酉。梵衆發哀於殯宮。
丁卯。設無遮大會於藥師寺。
壬午。以天皇崩奉宣新羅金霜林等。金霜林等乃三發哭。
二月庚寅朔辛卯。大宰獻新羅調賦。金銀。絹布。皮銅鐵之類十餘物。并別所獻佛像。種々彩絹。鳥馬之類十餘種。及霜林所獻金銀。彩色。種々珍異之物。并八十餘物。
饗霜林等於筑紫舘。賜物各有差。
乙巳。詔曰。自今以後。毎取國忌日要須齋也。
戊午。霜林等罷歸。
三月己未朔己卯。以華縵進于殯宮。藤原朝臣大嶋誄焉。
夏五月戊午朔乙丑。以百濟敬須徳那利移甲斐國。
六月戊子朔戊戌。詔令天下繋囚極刑。減本罪一等。輕繋皆赦除之。其令天下。皆半入今年調賦。
秋七月丁巳朔丁卯。大■。旱也。
丙子。命百濟沙門道藏請雨。不崇朝遍雨天下。
八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命『淨大肆』伊勢王奉宣葬儀。」

 以上の出現例を見て判るように『孝徳紀』で「白雉」が入っている「輿」を担ぐなどの後、死亡記事があり、更にその後『天武紀』に入ると再度登場するという不思議があります。『書紀』の中でこのような例は皆無であり、これは『天武紀』記事と死去記事との間の排列に齟齬があるのは明らかです。当然『天武紀』の記事が「死去記事」以前に遡上すべきであると考えられるわけです。
 ただしこの両方の「伊勢王」を別人と見る立場もあるようですが、それは不審です。確かに『書紀』『続日本紀』には同一の名を持つ「王」が散見されますが、伊勢王の場合『孝徳紀』では「白雉」の御輿を担ぐという(それも「殿」つまり「大極殿」の前まで運ばれた「御輿」を「天皇の至近」まで運ぶ)という大役を担っており(但しこれは潤色とは思われるものの)、さらに『天武紀』『持統紀』では「天武の死去」の際の葬儀などで強力なリーダーシップシップをとっているなどこちらも重要な役所を演じています。もしこれを別人とするならその権威が共通している理由を説明する必要があるでしょう。(「同姓同名」つまり「子供」に代を譲り同じ「王名」を名乗ったと言う事も可能性としては考えられるものの、『書紀』『続日本紀』内にそのような例が見あたらず、通常親子であっても「王名」は異なるものであり、そのことから考えても『書紀』に出てくる「伊勢王」は全て同一人物であると考えるべきでしょう。)
 ただし、時代が異なった場合同名の王は『書紀』『続日本紀』には(「伊勢王」を別とすると)重複して出現する例が散見されます。これを確認してみます。
 たとえば「石川王」「竹田王」「春日王」「難波王」は『書紀』及び『続日本紀』の双方に(時代を超えて)現れます。
 ①「石川王」の場合
「(六七九年)八年…三月辛巳朔…己丑。吉備大宰「石川王」病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

「(神龜)三年(七二六年)春正月
庚子。天皇臨軒。授從四位下鈴鹿王從四位上。无位『石川王』從四位下。…」

②「竹田王」「難波王」の場合
「(五七五年)四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。
是月。立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰『難波皇子。』其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。…」

「(五七六年)五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳。其二曰『竹田皇子。』…」

「(崇峻)二年(五八七年)…秋七月。蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。『竹田皇子。』廐戸皇子。『難波皇子。』春日皇子。蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。倶率軍旅進討大連。」

「(六八一年)十年…三月庚午朔…丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。『竹田王。』桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」

「(六八五年)十四年…九月甲辰朔…甲寅)遣宮處王。廣瀬王。難波王。『竹田王。』彌努王於京及畿内。各令校人夫之兵。」

「(同月)辛酉。天皇御大安殿喚王卿等於殿前。以令博戯。是日。宮處王。難波王。『竹田王。』三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。」

「(六八九年)三年…二月甲申朔…己酉。以『淨廣肆竹田王。』直廣肆土師宿禰根麿。大宅朝臣麿。藤原朝臣史。務大肆當麻眞人櫻井。穂積朝臣山守。中臣朝臣臣麿。巨勢朝臣多益須大三輪朝臣安麿。爲判事。」

(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。『從四位上竹田王爲刑部卿。』…」

「靈龜元年(七一五年)…三月…丙申。散位『從四位上竹田王』卒。」

 『推古紀』に出てくる「竹田皇子」は「推古」が亡くなった際に「竹田皇子」の墓に葬って欲しいと遺言していますから、彼女の死去以前にすでに死去していたこととなります。それに対し「天武紀」に出てくる「竹田王」は「三野王」とほぼ同年齢と思われ『書紀』には書かれていませんが、天武の皇子を除けば「難波王」の次に出てくる人物であり、その順位から考えて「壬申の乱」の時に大海人側に加勢して戦ったのではないでしょうか。ところでそこに出てくる「難波王」ですが、これも『推古紀』に出てくる人物であり、「竹田皇子」とほぼ同年齢の人物です。
 これらの例からもある程度時代が離れると(50-100年程度)同名の人物の存在もありうるようですが、「伊勢王」の場合その死去記事と「天武紀」の葬儀の記事とは「二十数年程度」しか離れておらず、葬儀全般を仕切っているその記事内容から考えてもかなりの年齢であることを考えると、この両者が同一の時代に生きていたことは疑えず、別人とは言えなくなると思われます。
 これらの事からこの双方の『紀』に出現する「伊勢王」は同一人物と見るべきであり、そうであるなら『斉明紀』『天智紀』に死亡記事があることを軽視すべきではないでしょう。
 「死去」の記事、つまり「何歳なのか」あるいはそもそも「存命かどうか」というような情報は国家にとって見れば非常に重要度の高いものであり、それが「王」という高位の人物であればなお「行政」や「軍事」などについても深く関係してくる情報でもありますから、それが「数年」の誤差をはるかに超えるなどということは、はなはだ考えにくいものです。
 そのように記事が重複している場合「原則」は「最初」の記事が「真実」のものであり、「後」の記事は何らかの誤解ないしは混乱によるものと思われます。つまり彼の死去記事としては『斉明紀』付近で正しいものと思われるわけですから、実働時期としては『孝徳紀』つまり「難波副都」時代でみるのは当然のことです。 
 また彼とその弟王についてはその死去したという記事に(『天智紀』『斉明紀』の双方で)「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、(唯一の例外は「四位栗隈王」ですが、彼についても「四位」という位階には疑問があるのは既に述べたとおりです。『続日本紀』には「贈従二位という表記がありますが、いつ加増されたかが記録にないことは不審です)「伊勢王」については他の記事において「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。さらに「弟王」についてはその名前も全く明らかではないにもかかわらず「三位以上」という高位にあったこととなり、その様な事もまた不審といえるでしょう。しかもそれにも関わらず「未詳官位」という記載がされているのも更に不審を増加させるものです。これは明らかに「隠蔽」する意図があったものと見られます。
 また「天武」の葬儀で「勅」を「奉宣」するなど重要な位置にいたにも関わらず「死去」記事がありません。さらに『公卿補任』などを見ても彼のについて全く記述がありません。「天武紀」の「伊勢王」が「孝徳紀」の「伊勢王」の(襲名した)子供ならば『続日本紀』や『公卿補任』に何も書かれていないことは大きな不審といえるでしょう。
 彼についての「死亡時期」が上に見たように「斉明」の時代で正しいとすると、活躍時期は少なくともそこから二十年程度遡上するとした場合「六五〇年」付近(あるいはそれ以前)が推定されることとなりますが、それは『孝徳紀』に彼の名が出てくることと整合するものです。
 以上から「伊勢王」の活動時期としては「六五〇年付近」つまり「孝徳朝」が正しいと考えられる訳ですが、その場合『天武紀』の「伊勢王記事」は揃って「三十年以上」遡上しなければならないこととなります。その場合正木氏の云うように「三十四年遡上」なのかどうかがここでは問題となるわけですが、それが正しいかどうかは「白雉献上」の儀式に「輿」を担いでいるのが真実かどうかと云うこととなります。なぜなら「三十四年遡上」とした場合、その「白雉献上」の前年の暮れに「東国」に派遣されているからであり、この「儀式」に参加可能であったか考える必要があります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
 
 この派遣日付は元々の日付干支が保存されていたものと仮定すると、白雉改元儀式直前の「十二月十三日」となります。それに対し「白雉」献上の儀式の日付は明けた翌年の「三月記事」となり(二月」記事の「白雉」が捕獲されたという記事の後単に「甲寅」という日付が書かれており、これは「二月」ではなく翌「三月」の「十五日」となります)、東国への派遣から約三ヶ月後のこととなりますが、この場合日程的に参加可能かは微妙ではあるものの、「六八五年」の時には「東国」に行くのに際して「袴」が支給されていますからこの時も同様に「袴」が支給されたとするとこれは「馬」に乗るという前提のものであったと思われますので、移動には馬が使用されたとみられるわけであり、その場合往還にはそれほど時間がかからなかったという可能性もあります。そう考えれば「白雉」の儀式に参加できたともいえるでしょう。
 正木氏によればこの「移動」の手口は「九州年号」の紀年に合せたものであるとされ、そのことはかなり高い証明能力を有するものであるのは確かと思われます。しかし、中にはそれが適用できないもの、あるいは「干支一巡」の遡上を想定する方が整合するものなど年次移動の手口も一様ではないようであり、記事内容に即して考えるのが正しいといえるでしょう。
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