さらに前回からの続きです
廣瀬大忌神と龍田風神
『推古紀』には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。
「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」
しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。
「六四七年」大化三年…
是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時所着焉」
これは明らかに「灌仏会」と「盂蘭盆会」の「齋時」の際に着用するということと考えられ、この時点では「灌仏会」も「盂蘭盆会」も「国家的行事」として行っていたものと考えられますが、これ以降明確に「灌仏会」「盂蘭盆会」と理解できる記事は、以下の「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事だけになります。
「(斉明)三年(六五七年)秋七月…辛丑 作須彌山像於飛鳥寺西 且設『盂蘭盆會』」
「(斉明)五年(六五九年)…秋七月…庚寅 詔群臣 於京?諸寺 勸講『盂蘭盆經』 使報七世父母」
ただし、下に見る「白雉三年」の記事は「灌仏会」と時期がほぼ重なっており、可能性があります。
「六五二年」白雉三年…夏四月戊子朔壬寅(十五日)。請沙門惠隱於内裏使講無量壽經。以沙門惠資爲論議者。以沙門一千爲作聽衆。
丁未(二十日)廿。罷講。…」
しかし、その後は見あたらず、その後いきなり「六七五年四月」の「廣瀬」「龍田」記事になるのです。
「(天武)四年(六七五年)…夏四月甲戌朔…癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」
これ以降、特に『持統紀』に入ってこの「廣瀬大忌神」「龍田風神」へ「使者」を派遣し「祭る」という記事が頻繁に見られるようになります。
以下に全記事を挙げます。
六七五年 夏四月甲戌朔…癸未(十日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」 (七月はなし)
六七六年 夏四月戊戌朔辛丑(四日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。 (七月はなし)
六七七年 (四月はなし) 秋七月辛酉朔癸亥(三日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。
六七八年 (四月七月ともになし)
六七九年 (夏四月辛亥朔)己未(九日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月己卯朔)壬辰(十四日)。祭廣瀬龍田神
六八〇年 夏四月乙巳朔甲寅(十日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月甲戌朔)辛巳(八日)。祭廣瀬龍田神。
六八一年 夏四月己亥朔庚子(二日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月戊辰朔)丁丑(十日)。祭廣瀬龍田神。
六八二年 夏四月癸亥朔辛未(九日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月壬辰朔)壬寅(十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八三年 (夏四月戊午朔)戊寅(二十一日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月丙戌朔)乙巳(二十日)。祭廣瀬龍田神。
六八四年 (夏四月壬子朔)甲子(十三日)。祭廣瀬大忌神。龍田風神。 (秋七月庚戌朔)戊午(九日)。祭廣瀬龍田神。
六八五年 夏四月丙子朔己卯(五日)。祭廣瀬龍田神。 秋七月乙巳朔乙丑(二十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八六年 (四月はなし) (秋七月己亥朔)甲寅(十六日)。祭廣瀬龍田神。
六八七年 (四月七月ともになし)
六八八年 (四月七月ともになし)
六八九年 (四月七月ともになし)
六九〇年 夏四月丁未朔己酉(三日)。遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月丙子朔)癸巳(十八日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。
六九一年 (夏四月辛丑朔)辛亥(十一日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (七月はなし)
六九二年 (夏四月丙申朔)甲寅(十九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月甲午朔)甲辰(十一日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
六九三年 夏四月庚申朔丙子(十七日)。遣大夫謁者。詣諸社祈雨。又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月戊子朔)己亥(十二日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九四年 (夏四月甲寅朔)丙寅(十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月癸未朔)丁酉(十五日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九五年 夏四月戊寅朔丙戌(九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 秋七月丙午朔戊辰(二十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九六年 夏四月壬申朔辛巳(十日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月辛丑朔)戊申(八日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九七年 (夏四月丙寅朔)己卯(十四日)。遣使者祀廣瀬與龍田。是日。至自吉野 (秋七月乙未朔)丙午(十二日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
上に見るように「六七五年」の記事以降、多数の(ほぼ毎年)「廣瀬」「龍田」記事が見られるようになります。さらに(六八七-六八九年)の間は全く行われていないようです。そして「六九〇年」以降「六九七年」という『書紀』の最終段階まで見られるものの、『続日本紀』に入ると「突然」、全く見えなくなります。(但し、『養老令』の中の「神祇令」では「神祗官」の祭る定期的な祭祀として、各季節ごとに定めがありますが、その「孟夏」と「孟秋」の祭祀として「大忌祭・風神祭」というものがあり、これが「廣瀬・龍田」であることは間違いなく、重要行事として継承されてはいるようですが)
このように「廣瀬」「龍田」記事は「天武」「持統」時代に特徴的かつ集中的であるわけですが、これが何を意味する記事なのかという点については、余り多くの議論を聞きません。
両神は「一見」「水神」と「風神」という自然神であるように受け取られており、単に「天候」に関するものとして「日照り」「大雨」などの自然災害のなきことを祈るという意味以上には受け取られていないようです。しかし、そうであれば、特にこの時期に集中する理由を説明する必要がありますが、それは困難であると思われます。
調べてみると、これは基本的には「四月」及び『持統紀』の場合は大抵の場合「七月」にも行なわれており、それはあたかも「灌仏会」「盂蘭盆会」の如くであり、この両祭会との関連を推定させるものです。
その「日付」を見ると、「四月」「七月」ともかなり「ばらつく」ものの、上に見るように「四月」の場合は「平均」すると「10.5日」、「七月」の場合は、同じく平均すると「13.2日」ほどとなり、ともにほぼ「灌仏会」の「七日」及び「盂蘭盆会」の十五日の周辺の日付が選ばれているように見えます。このことは、この「祭廣瀬龍田神」という行事(儀式)が、およそ「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当する行事であったと考えられるものではないでしょうか。
このことから、「灌仏会」と「盂蘭盆会」という仏式による「国家的行事」がこの時点以降行なわれなくなり、代って「廣瀬大忌神」と「龍田風神」という一種「地方神」が「国家」により祭られるという事が始まったと想定できることとなります。
それについては、そもそも「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「齋時」が「祖霊(祖先)信仰」の要素が多分にあったことと関係していると考えられるものです。
この「灌仏会」と「盂蘭盆会」は「中国」の南北朝期に両朝で盛行したものであり、「北魏」以降の北朝では特に盛大に「灌仏会」が「皇帝」に直接関わる宮廷行事として歴代王朝で行なわれたとされています。
この「灌仏会」や「盂蘭盆会」を行なう際の経典として使用されたものとして推定されているものに「般泥?後灌鑞(にくづき)経」「仏説灌洗仏形像経」「仏説摩訶刹頭経」の三種があるとされ、いずれも「仏」に対する信仰と共に「祖霊(祖先)信仰」がそこに込められているようです。
そこでは「四月八日及び七月十五日」の両日とも「灌仏」つまり「仏」の像に「香水」を掛けること、および「七月十五日」にも「灌仏」を行なう事は「七世父母五種親族」で苦しむものを救う功徳があると説かれるのです。
たとえば、「般泥?後灌鑞(にくづき)経」では以下のように書かれています。
「若佛般泥?後。四輩弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷。四月八日七月十五日。灌臘當何所用。…」
ここでは「佛」が涅槃に入られた後「四月八日」と「七月十五日」には「灌臘」(像にかける水のこと)は何を用いたらいいかと尋ねています。この質問の趣旨から考えて「灌仏」は「七月十五日」にも行う前提であると思われますし、また同じ経典の中の別の部分にも以下のようにあります。
「…七月十五日。自向七世父母五種親屬。有墮惡道勤苦劇者。因佛作禮福。欲令解脱憂苦。名爲灌臘。…」
つまり、「七月十五日」に「灌仏」を行う事で「七世父母五種親屬」の中で「悪道」で苦しんでいるものを「解脱」させられるとされているのです。
また中国南朝(南朝劉宋など)においても同様に「皇帝」(孝武帝)自ら関わる形で「内殿」において「灌仏会」を行い、その際には「初代皇帝」である「高祖(武帝)」の供養も併せて行なっていたという事例があります。
これらのことから、「倭国」において「灌仏会」と「盂蘭盆会」が受容されるにあたっても、「祖霊信仰」がベースにあったものと考えられ、(そのことは「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事において「使報七世父母」とあることからも推察できますが)、そのことが「祭廣瀬龍田神」という現象(儀式)と深くつながることとなった要因であると思われます。
たとえば、「法隆寺釈迦三尊像」の光背の解析からは、「上宮法皇」という人物(これは「阿毎多利思北孤」と思われます)について「釈迦」と同一化する信仰があったと見られることが明らかになっており、「灌仏会」というものが「釈迦」の誕生日を祝うものですから、同時に「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念を表すには適切なタイミングと考えられたということも有り得ると思われます。
「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたものとされています。この「銘文」の中には「懐愁毒」という用語があり、これが「大方便仏報恩経」という経典に典拠があるものと判明しています。(※)
「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」
この銘文はこの「経典」を踏まえたものであり、「太后」が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示していると思われます。このことから「釈迦三尊像」が「法隆寺」の「首座」として入った時点以降「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)は「釈迦」に擬されることとなったと思われますが(それはこの「釈迦像」が「尺寸王身」という表現から「王」そのものを示すものであったことからも分かります)、「釈迦」に対する「敬慕」を表す「灌仏会」を行なうという趣旨からも、この「阿毎多利思北孤」死去という時点以降については「先皇供養」という面も重視されるようになったと見られ、それが変じて「七世紀半ば」になると「利歌彌多仏利」死去という事態を承け、「利歌彌多仏利」を神格化したと思われる「宇加之御魂神」を祭る「廣瀬大忌神」に「使者」を派遣し「祭り」を行なうという儀式が始まったのではないでしょうか。(この時点での創建であったのかも知れません)
そもそも、「廣瀬大忌神」とは、奈良県北葛城郡河合町に現在も存在する神社であり(現在は「広瀬大社」と名乗っています)、その祭神は社伝では「若宇加能売命 」(わかうかのめのみこと)とされていて、これは「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされています。
また、この「宇迦之御魂神」は「全国」の「稲荷社」において祭神であるとされる場合が非常に多く(特に「東国」で多いとされる)、このように多数の神社で祭神とされるためには、「国家」による祭祀が行われるなどの事象が無くてはならないと考えられ、「ある時点」で全国に半ば強制的に「創建」されるなどのことがあったと見なければならないと思われます。これを示すと考えられるのが「白雉年間」に創建された「寺社」についての解析です。
「古田史学」の会のホームページには「九州年号資料」が閲覧可能ですが、それを見ると「白雉」年間に創建された寺社が非常に多いことが判ります。しかもその寺社のうちかなりの数が、その祭神を「宇迦之御魂神」としている「稲荷社」であるようです。
つまり「白雉年間」(七世紀半ば)に多数の神社(および寺院)が「創建」されたことと、この「廣瀬・龍田祭祀」というものが強く関連していると考えられるわけです。
またそれは「稲荷台古墳」「稲荷山古墳」という名称の古墳が特に東国に多いと言う事とも関連していると考えられます。これらの古墳は共通して「五世紀」以前のものであり、既にその古墳の主であった人物については「神格化」されて、地場では信仰の対象であったのではないかと考えられますが、それを「宇迦之御魂神」を祀る神社に変更するよう「(政治的)圧力」をかけられたのではないでしょうか。これらのことがあったため、東国に多くの「稲荷社」ができる事となったと考えられるものです。(古墳の墳頂に神社を作るケースが多かったと思われ「山」「台」という呼称が付随する稲荷神社が多く作られたと思われます)
また「龍田風神」は奈良県生駒郡三郷町にある「龍田神社」の祭神であったものであり、『延喜式』に載る「龍田風神祭祝詞」では、「崇神天皇」の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら「天神地祇」を祀って祈願したところ、「天御柱命」「国御柱命」の二柱の神を「龍田山」に祀るように「夢告」があり、これに基づき創建されたと書かれています。
『書紀』を見ると、「風神」として「級長戸邊命」「級長津彦命」が「伊弉諾」から生まれています。
(『日本書紀』巻一第五段一書第六)
「一書曰。伊弉諾尊與伊弉冊尊。共生大八洲國。然後伊弉諾尊曰。我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉。乃吹撥之氣化爲神。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生兒號倉稻魂命。…」
この両者が『延喜式』にいう「龍田風神」を指すと考えられ、「二柱」の神というのがこの両者であると推測できます。
また、この時点で「倉稻魂命」(宇迦之御魂神)も生まれており、共に「伊弉諾」の吐く息から生まれた事となっていますから、これらの神は非常に近しい関係にあったということがわかります。
また「龍田」はその名が示すとおり「龍」に関係しているという伝承もあり、「龍宮」伝説もあるようです。
謡曲の「逆鉾」ではこの「龍田の神」は「瀧祭の明神」とされ、また「天地開闢」の際の「天瓊矛」を納めてあるともされ、「国生み」に直接関わる神とする伝承があったことが判ります。
「…時に国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。則ち天の御矛を授け給ふ。伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。さしおろし給ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。二神の始より。今の代までの宝なり。その後国土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭の明神。この御矛を預かりて。所もあまねしや。この御山に納めて。宝の山と号すなり。…」
(ただし、これについてはその他の伝承は全て「伊勢神宮」にその「天瓊矛」はあるとされますが、上に見たように「祭神」が共通していることには注意すべきでしょう。)
このように「龍田風神」は「風神」であるはずにも関わらず、「瀧」「龍宮」など明らかに「水」に関係している部分があり、また「天瓊矛」伝承とも関係していることなど不可思議な点が多々あるように思えます。
この「広瀬」「龍田」両神が「祖霊信仰」の対象とされていたわけであり、それに対して「国家」として「祭祀」が行なわれたものとすると、これらの神は「倭国王権」と深い関係にあると考えざるを得ないものです。
その意味では「広瀬」という地が特別な意味を持っていたものと思われますが、この地が「百済」と称される領域の中にあり、そこは「敏達」を初めとする「忍坂王家」の代々の本拠地となっていたことを考え合わせると(「敏達」の「殯宮」も「広瀬」の地に設けられたものであり、そこは「息長氏」から夫人として迎えた「廣姫」との宮の至近の地でもあります)、この「広瀬神社」あるいは「広瀬大忌神」という存在が彼あるいはその太子とされる「忍坂日子人大兄」につながる神社であったということも考えられるところです。
彼は『書紀』では「皇祖大兄」と称される特別な存在であったわけですし、また『隋書』にいう「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」という人物に該当する可能性も高いと思われますから、以降の王権が彼に対する追慕と畏敬の念を表すために「使者」を派遣していたということも想定できるでしょう。
またこの「広瀬神社」で祭られていたとされる「宇迦之御魂神」については、「素戔嗚尊」の子供という伝承もあるように「出雲」系の神であり、「医薬」や「武器」などの点で「倭国王権」と深い関係があったものと考えられます。
さらに風神とされる「級長戸邊命」「級長津彦命」には「級長(しなが)」という「地名」が冠せられていることも重要でしょう。これについては「押坂彦人大兄(忍坂日子人太子)」の陵墓が「磯長(しなが)」にあるとされることが重要であると思われ、「風神」の本性は彼ではなかったかと考えられ、彼が「皇祖」とされることと深く関係していると思われます。
※石井公成「聖徳太子研究の最前線」2010年10月31日(https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5e2efa94ebc42700d52f50d043abde2a )
「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」
しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。
「六四七年」大化三年…
是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時所着焉」
これは明らかに「灌仏会」と「盂蘭盆会」の「齋時」の際に着用するということと考えられ、この時点では「灌仏会」も「盂蘭盆会」も「国家的行事」として行っていたものと考えられますが、これ以降明確に「灌仏会」「盂蘭盆会」と理解できる記事は、以下の「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事だけになります。
「(斉明)三年(六五七年)秋七月…辛丑 作須彌山像於飛鳥寺西 且設『盂蘭盆會』」
「(斉明)五年(六五九年)…秋七月…庚寅 詔群臣 於京?諸寺 勸講『盂蘭盆經』 使報七世父母」
ただし、下に見る「白雉三年」の記事は「灌仏会」と時期がほぼ重なっており、可能性があります。
「六五二年」白雉三年…夏四月戊子朔壬寅(十五日)。請沙門惠隱於内裏使講無量壽經。以沙門惠資爲論議者。以沙門一千爲作聽衆。
丁未(二十日)廿。罷講。…」
しかし、その後は見あたらず、その後いきなり「六七五年四月」の「廣瀬」「龍田」記事になるのです。
「(天武)四年(六七五年)…夏四月甲戌朔…癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」
これ以降、特に『持統紀』に入ってこの「廣瀬大忌神」「龍田風神」へ「使者」を派遣し「祭る」という記事が頻繁に見られるようになります。
以下に全記事を挙げます。
六七五年 夏四月甲戌朔…癸未(十日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」 (七月はなし)
六七六年 夏四月戊戌朔辛丑(四日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。 (七月はなし)
六七七年 (四月はなし) 秋七月辛酉朔癸亥(三日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。
六七八年 (四月七月ともになし)
六七九年 (夏四月辛亥朔)己未(九日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月己卯朔)壬辰(十四日)。祭廣瀬龍田神
六八〇年 夏四月乙巳朔甲寅(十日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月甲戌朔)辛巳(八日)。祭廣瀬龍田神。
六八一年 夏四月己亥朔庚子(二日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月戊辰朔)丁丑(十日)。祭廣瀬龍田神。
六八二年 夏四月癸亥朔辛未(九日)祭廣瀬龍田神。 (秋七月壬辰朔)壬寅(十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八三年 (夏四月戊午朔)戊寅(二十一日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月丙戌朔)乙巳(二十日)。祭廣瀬龍田神。
六八四年 (夏四月壬子朔)甲子(十三日)。祭廣瀬大忌神。龍田風神。 (秋七月庚戌朔)戊午(九日)。祭廣瀬龍田神。
六八五年 夏四月丙子朔己卯(五日)。祭廣瀬龍田神。 秋七月乙巳朔乙丑(二十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八六年 (四月はなし) (秋七月己亥朔)甲寅(十六日)。祭廣瀬龍田神。
六八七年 (四月七月ともになし)
六八八年 (四月七月ともになし)
六八九年 (四月七月ともになし)
六九〇年 夏四月丁未朔己酉(三日)。遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月丙子朔)癸巳(十八日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。
六九一年 (夏四月辛丑朔)辛亥(十一日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。 (七月はなし)
六九二年 (夏四月丙申朔)甲寅(十九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月甲午朔)甲辰(十一日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
六九三年 夏四月庚申朔丙子(十七日)。遣大夫謁者。詣諸社祈雨。又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月戊子朔)己亥(十二日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九四年 (夏四月甲寅朔)丙寅(十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月癸未朔)丁酉(十五日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九五年 夏四月戊寅朔丙戌(九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 秋七月丙午朔戊辰(二十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九六年 夏四月壬申朔辛巳(十日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月辛丑朔)戊申(八日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九七年 (夏四月丙寅朔)己卯(十四日)。遣使者祀廣瀬與龍田。是日。至自吉野 (秋七月乙未朔)丙午(十二日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
上に見るように「六七五年」の記事以降、多数の(ほぼ毎年)「廣瀬」「龍田」記事が見られるようになります。さらに(六八七-六八九年)の間は全く行われていないようです。そして「六九〇年」以降「六九七年」という『書紀』の最終段階まで見られるものの、『続日本紀』に入ると「突然」、全く見えなくなります。(但し、『養老令』の中の「神祇令」では「神祗官」の祭る定期的な祭祀として、各季節ごとに定めがありますが、その「孟夏」と「孟秋」の祭祀として「大忌祭・風神祭」というものがあり、これが「廣瀬・龍田」であることは間違いなく、重要行事として継承されてはいるようですが)
このように「廣瀬」「龍田」記事は「天武」「持統」時代に特徴的かつ集中的であるわけですが、これが何を意味する記事なのかという点については、余り多くの議論を聞きません。
両神は「一見」「水神」と「風神」という自然神であるように受け取られており、単に「天候」に関するものとして「日照り」「大雨」などの自然災害のなきことを祈るという意味以上には受け取られていないようです。しかし、そうであれば、特にこの時期に集中する理由を説明する必要がありますが、それは困難であると思われます。
調べてみると、これは基本的には「四月」及び『持統紀』の場合は大抵の場合「七月」にも行なわれており、それはあたかも「灌仏会」「盂蘭盆会」の如くであり、この両祭会との関連を推定させるものです。
その「日付」を見ると、「四月」「七月」ともかなり「ばらつく」ものの、上に見るように「四月」の場合は「平均」すると「10.5日」、「七月」の場合は、同じく平均すると「13.2日」ほどとなり、ともにほぼ「灌仏会」の「七日」及び「盂蘭盆会」の十五日の周辺の日付が選ばれているように見えます。このことは、この「祭廣瀬龍田神」という行事(儀式)が、およそ「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当する行事であったと考えられるものではないでしょうか。
このことから、「灌仏会」と「盂蘭盆会」という仏式による「国家的行事」がこの時点以降行なわれなくなり、代って「廣瀬大忌神」と「龍田風神」という一種「地方神」が「国家」により祭られるという事が始まったと想定できることとなります。
それについては、そもそも「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「齋時」が「祖霊(祖先)信仰」の要素が多分にあったことと関係していると考えられるものです。
この「灌仏会」と「盂蘭盆会」は「中国」の南北朝期に両朝で盛行したものであり、「北魏」以降の北朝では特に盛大に「灌仏会」が「皇帝」に直接関わる宮廷行事として歴代王朝で行なわれたとされています。
この「灌仏会」や「盂蘭盆会」を行なう際の経典として使用されたものとして推定されているものに「般泥?後灌鑞(にくづき)経」「仏説灌洗仏形像経」「仏説摩訶刹頭経」の三種があるとされ、いずれも「仏」に対する信仰と共に「祖霊(祖先)信仰」がそこに込められているようです。
そこでは「四月八日及び七月十五日」の両日とも「灌仏」つまり「仏」の像に「香水」を掛けること、および「七月十五日」にも「灌仏」を行なう事は「七世父母五種親族」で苦しむものを救う功徳があると説かれるのです。
たとえば、「般泥?後灌鑞(にくづき)経」では以下のように書かれています。
「若佛般泥?後。四輩弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷。四月八日七月十五日。灌臘當何所用。…」
ここでは「佛」が涅槃に入られた後「四月八日」と「七月十五日」には「灌臘」(像にかける水のこと)は何を用いたらいいかと尋ねています。この質問の趣旨から考えて「灌仏」は「七月十五日」にも行う前提であると思われますし、また同じ経典の中の別の部分にも以下のようにあります。
「…七月十五日。自向七世父母五種親屬。有墮惡道勤苦劇者。因佛作禮福。欲令解脱憂苦。名爲灌臘。…」
つまり、「七月十五日」に「灌仏」を行う事で「七世父母五種親屬」の中で「悪道」で苦しんでいるものを「解脱」させられるとされているのです。
また中国南朝(南朝劉宋など)においても同様に「皇帝」(孝武帝)自ら関わる形で「内殿」において「灌仏会」を行い、その際には「初代皇帝」である「高祖(武帝)」の供養も併せて行なっていたという事例があります。
これらのことから、「倭国」において「灌仏会」と「盂蘭盆会」が受容されるにあたっても、「祖霊信仰」がベースにあったものと考えられ、(そのことは「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事において「使報七世父母」とあることからも推察できますが)、そのことが「祭廣瀬龍田神」という現象(儀式)と深くつながることとなった要因であると思われます。
たとえば、「法隆寺釈迦三尊像」の光背の解析からは、「上宮法皇」という人物(これは「阿毎多利思北孤」と思われます)について「釈迦」と同一化する信仰があったと見られることが明らかになっており、「灌仏会」というものが「釈迦」の誕生日を祝うものですから、同時に「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念を表すには適切なタイミングと考えられたということも有り得ると思われます。
「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたものとされています。この「銘文」の中には「懐愁毒」という用語があり、これが「大方便仏報恩経」という経典に典拠があるものと判明しています。(※)
「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」
この銘文はこの「経典」を踏まえたものであり、「太后」が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示していると思われます。このことから「釈迦三尊像」が「法隆寺」の「首座」として入った時点以降「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)は「釈迦」に擬されることとなったと思われますが(それはこの「釈迦像」が「尺寸王身」という表現から「王」そのものを示すものであったことからも分かります)、「釈迦」に対する「敬慕」を表す「灌仏会」を行なうという趣旨からも、この「阿毎多利思北孤」死去という時点以降については「先皇供養」という面も重視されるようになったと見られ、それが変じて「七世紀半ば」になると「利歌彌多仏利」死去という事態を承け、「利歌彌多仏利」を神格化したと思われる「宇加之御魂神」を祭る「廣瀬大忌神」に「使者」を派遣し「祭り」を行なうという儀式が始まったのではないでしょうか。(この時点での創建であったのかも知れません)
そもそも、「廣瀬大忌神」とは、奈良県北葛城郡河合町に現在も存在する神社であり(現在は「広瀬大社」と名乗っています)、その祭神は社伝では「若宇加能売命 」(わかうかのめのみこと)とされていて、これは「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされています。
また、この「宇迦之御魂神」は「全国」の「稲荷社」において祭神であるとされる場合が非常に多く(特に「東国」で多いとされる)、このように多数の神社で祭神とされるためには、「国家」による祭祀が行われるなどの事象が無くてはならないと考えられ、「ある時点」で全国に半ば強制的に「創建」されるなどのことがあったと見なければならないと思われます。これを示すと考えられるのが「白雉年間」に創建された「寺社」についての解析です。
「古田史学」の会のホームページには「九州年号資料」が閲覧可能ですが、それを見ると「白雉」年間に創建された寺社が非常に多いことが判ります。しかもその寺社のうちかなりの数が、その祭神を「宇迦之御魂神」としている「稲荷社」であるようです。
つまり「白雉年間」(七世紀半ば)に多数の神社(および寺院)が「創建」されたことと、この「廣瀬・龍田祭祀」というものが強く関連していると考えられるわけです。
またそれは「稲荷台古墳」「稲荷山古墳」という名称の古墳が特に東国に多いと言う事とも関連していると考えられます。これらの古墳は共通して「五世紀」以前のものであり、既にその古墳の主であった人物については「神格化」されて、地場では信仰の対象であったのではないかと考えられますが、それを「宇迦之御魂神」を祀る神社に変更するよう「(政治的)圧力」をかけられたのではないでしょうか。これらのことがあったため、東国に多くの「稲荷社」ができる事となったと考えられるものです。(古墳の墳頂に神社を作るケースが多かったと思われ「山」「台」という呼称が付随する稲荷神社が多く作られたと思われます)
また「龍田風神」は奈良県生駒郡三郷町にある「龍田神社」の祭神であったものであり、『延喜式』に載る「龍田風神祭祝詞」では、「崇神天皇」の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら「天神地祇」を祀って祈願したところ、「天御柱命」「国御柱命」の二柱の神を「龍田山」に祀るように「夢告」があり、これに基づき創建されたと書かれています。
『書紀』を見ると、「風神」として「級長戸邊命」「級長津彦命」が「伊弉諾」から生まれています。
(『日本書紀』巻一第五段一書第六)
「一書曰。伊弉諾尊與伊弉冊尊。共生大八洲國。然後伊弉諾尊曰。我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉。乃吹撥之氣化爲神。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生兒號倉稻魂命。…」
この両者が『延喜式』にいう「龍田風神」を指すと考えられ、「二柱」の神というのがこの両者であると推測できます。
また、この時点で「倉稻魂命」(宇迦之御魂神)も生まれており、共に「伊弉諾」の吐く息から生まれた事となっていますから、これらの神は非常に近しい関係にあったということがわかります。
また「龍田」はその名が示すとおり「龍」に関係しているという伝承もあり、「龍宮」伝説もあるようです。
謡曲の「逆鉾」ではこの「龍田の神」は「瀧祭の明神」とされ、また「天地開闢」の際の「天瓊矛」を納めてあるともされ、「国生み」に直接関わる神とする伝承があったことが判ります。
「…時に国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。則ち天の御矛を授け給ふ。伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。さしおろし給ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。二神の始より。今の代までの宝なり。その後国土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭の明神。この御矛を預かりて。所もあまねしや。この御山に納めて。宝の山と号すなり。…」
(ただし、これについてはその他の伝承は全て「伊勢神宮」にその「天瓊矛」はあるとされますが、上に見たように「祭神」が共通していることには注意すべきでしょう。)
このように「龍田風神」は「風神」であるはずにも関わらず、「瀧」「龍宮」など明らかに「水」に関係している部分があり、また「天瓊矛」伝承とも関係していることなど不可思議な点が多々あるように思えます。
この「広瀬」「龍田」両神が「祖霊信仰」の対象とされていたわけであり、それに対して「国家」として「祭祀」が行なわれたものとすると、これらの神は「倭国王権」と深い関係にあると考えざるを得ないものです。
その意味では「広瀬」という地が特別な意味を持っていたものと思われますが、この地が「百済」と称される領域の中にあり、そこは「敏達」を初めとする「忍坂王家」の代々の本拠地となっていたことを考え合わせると(「敏達」の「殯宮」も「広瀬」の地に設けられたものであり、そこは「息長氏」から夫人として迎えた「廣姫」との宮の至近の地でもあります)、この「広瀬神社」あるいは「広瀬大忌神」という存在が彼あるいはその太子とされる「忍坂日子人大兄」につながる神社であったということも考えられるところです。
彼は『書紀』では「皇祖大兄」と称される特別な存在であったわけですし、また『隋書』にいう「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」という人物に該当する可能性も高いと思われますから、以降の王権が彼に対する追慕と畏敬の念を表すために「使者」を派遣していたということも想定できるでしょう。
またこの「広瀬神社」で祭られていたとされる「宇迦之御魂神」については、「素戔嗚尊」の子供という伝承もあるように「出雲」系の神であり、「医薬」や「武器」などの点で「倭国王権」と深い関係があったものと考えられます。
さらに風神とされる「級長戸邊命」「級長津彦命」には「級長(しなが)」という「地名」が冠せられていることも重要でしょう。これについては「押坂彦人大兄(忍坂日子人太子)」の陵墓が「磯長(しなが)」にあるとされることが重要であると思われ、「風神」の本性は彼ではなかったかと考えられ、彼が「皇祖」とされることと深く関係していると思われます。
※石井公成「聖徳太子研究の最前線」2010年10月31日(https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5e2efa94ebc42700d52f50d043abde2a )