古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

JAXAの「SLIM」による月面への着陸のこと

2024年02月03日 | 宇宙・天体
 JAXAの月着陸船「SLIM」がなんとか月面に着陸したようです。もともと半分回転しながらランディングする予定であったようですが、逆噴射用のスラスターが脱落してしまって速度が落ちなかったようで結構きつい着陸となったようです。まあ激突し破壊してしまった例も過去に(最近も)あったようですから、その轍を踏まずに済んだことでまあ良しとするべきでしょうか。
小惑星へのランディングも超困難ですが、月ほどの重力があると推力がかなりなければ激突してしまうのでそこの制御と信頼性が重要となるようです。
 ちなみに今回着陸した場所は「神酒の海」の「近く」とされていて、てっきり「海」地域かと思っていたらその至近にある「キルリス」クレーターの内部に降りたらしく、これは「神酒の海」というくくりでは誤解があるでしょう。
 場所の写真を以下に示します。下の写真でおおよその位置がわかるかと思います。



くわしい位置はこの辺りのようです。


 今回のようにクレーターの内部に降りたというのは初めてではないでしょうか。アポロ計画のうち14号が「フラ・マウロ」クレーターに降りたとされますが、どうもその外部丘陵に降りたみたいですから、内部に降りたのはこれが最初ではないですかね。これも着陸地点がピンポイントで選べるということの結果なのでしょうか。
 次に計画されているらしい火星の衛星にタッチアンドゴーするという計画も非常に楽しみです。新しいことにトライするということにしか進歩はないですから。
 なお写真のタイムスタンプのデータからみて、上が2022-06-05 20.23.13で機材が20cmシュミカセに25mmアイピースで拡大したものをビクターのビデオ機器「GZ-MG555」(398万画素)で撮影したものの中から良好なデータを切り出したもの、下は同じく2022-06-07 19.31.54で以下望遠鏡とアイピースは共通ですが、カメラはスマホです。(4800万画素)
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『倭人伝』シリーズ(13)

2024年02月03日 | 古代史
「春耕秋収」と「出挙」(貸稲)

 『倭人伝』によれば「邪馬壹国」には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「三国志東夷伝」より『倭人伝』「…收租賦、有邸閣。…」

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬し収めていたことを示すものです。
 この『倭人伝』の記事の中では他に見られるような「刺史の如く」のように「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが「倭」に存在しているという彼らの認識を示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 「魏晋」の場合(「呉」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから各用途に供出されたりあるいは「貸し付け」られたりということが行われていたようです。(※1)
 この時期は中国でも「班田」つまり「国家」が「祖を負担すべき田畑を付与する」という政策は当然行われていなかったわけですから、それらの「租」は全て「墾田」つまり私的に開いた「田畑」からのものと言う事となるでしょう。そして「魏晋」と同様「倭」においても同様の形で「租賦」を収集していたものと思われ、それは後の「倭国」の『養老令』時代の「薩摩国」とほぼ同様の施策に拠っていたであろうことを推定させるものです。そこでは「正税帳」が作られていたものの、「班田」は行われていなかったことが示されており、この「租」が「墾田」からのものであったことを示すと思われますが、そのようないわば「未開の地」と言うべき場所に対する政治的対応としては「緩い律令制」とも言うべき政策を行い、妥協したことを示すものと思われます。
 『倭人伝』を見ると「邪馬壹国」の統治範囲においては「刑法」(律)の存在や「諸国」に派遣されていたと思われる「官職制度」などの存在から「国郡県制」と思しきものが成立していた可能性が高く、そのことは「律令」というべきものがこの時点で「倭」の内部(邪馬壹国の統治範囲)にも存在していたらしいことが窺えますが、その「律令」は中国では「秦」に始まり「漢」から「魏晋」へと受け継がれていたものであり、これらの王朝と継続的に関係を結んでいた「倭王権」が「律令」に対して「無知」「無関心」であったとは想像しにくいものです。少なくともそれらの部分的導入が図られたものと思われますが、「卑弥呼」の「倭」においても「緩い律令制」とでもいうべきものが行われていたと考えることができるでしょう。
 ところで、「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などには天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは「種籾」を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れませんが(「中国にはそのような実例もあります)、他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。
 その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われ、後の「倭国」における「出挙」と同じ性質のものが当時存在していたと考えることが出来るのではないでしょうか。
 このように「米」や「種籾」の貸し出しに「利息」が伴っていたとすると「期間」が重要であり、それは自然発生的に「種蒔き」から「刈り取り」までと決められたという可能性が高いと思われます。それは貸し付けたものの返済時期としては収穫時期が最も適当だからです。
 このようなことは『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸し出しが行われていたことから推定できるものです。(※2)
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資するはずのものであったものです。
 その後これは「州県」という公的団体が「制度」として貸し付けることが行われるようになりますが、そうなるとその「利息収入」はその「州県」の重要な財政収入となってしまい、いわば「税」という形に変質させられることとなったものと思われ、農民の苦しみはなおいっそう増加することとなったものです。
 ところで『倭人伝』に引用された「魏略」にはいわゆる「二倍年暦」の表現と思われる、「春耕秋収」を「計」って「年紀」とするというものがあるのはご承知の通りです。

「魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」

 これは古田氏などにより「春耕」と「秋収」に二回年の区切りがあると理解されていますが、これはそうではなく「春耕」から「秋収」までを「計って」、それを「一年」という長さ(期間)とするという意味ではないかと考えられます。
 ここに使用されている「計」という語は『三國志』の中では「計画」や「計略」の意で使用されている例も多いのですが、「戸数」などや「戦死者数」などを「計」するという例も確認され、これは明らかに「数える」という意義で使用されていると思われ、文意からもここに使用されている「計」も同様に「計る」あるいは「数える」という意義であると考えられます。

(「三國志/魏書四 三少帝紀第四/高貴?公髦/正元二年 底本:宋紹興本」によります)
「二年八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰?西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。?西之戰,至取負敗,將士死亡,『計以千數』,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰?其門?,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」

(「三國志/魏書六 董二袁劉傳第六/董卓 李? 郭汜 底本:宋紹興本」によります)
「董卓字仲穎,隴西臨?人也。[一]英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉。有三子:長子擢,字孟高,早卒;次即卓;卓弟旻字叔穎。少好?,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與?還,殺耕牛與相宴樂。諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓。[二]?書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊。胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,『斬獲千計』。并州刺史段?薦卓公府,司徒袁隗辟為掾。」

 さらに「年紀」については『三國志』やそれに先行する漢籍である『史記』『漢書』などによれば「編年体」の記録の意義などもありますが、その基礎となっている概念は「一年」という長さであり、それを「単位」として「年数」を数えるあるいは記録するというものと推量されます。

(「史記/晉世家第九 底本:金陵書局本」によります)
「…晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。…唐叔子燮,是為晉侯。晉侯子寧族,是為武侯。武侯之子服人,是為成侯。成侯 子福,是為厲侯。厲侯之子宜臼,是為靖侯。靖侯已來,年紀可推。自唐叔至靖侯五世, 無其年數。」

 ここでは「年紀」と「年数」とが対比的に書かれていますから、これらは同一の内容を指すと思われ、「年紀」とは「年数」の意であると知られます。
 つまりこれらによれば「春耕」から「秋収」までの長さを「計る」あるいは「数える」ということを行い(これは「結縄」によるか)「一年」の長さを決め、それを「単位」として年数を数えているということと理解できます。
(ただし「種を蒔く」という重要な農事の時期をいつにするかというのは当然別の基準によらなければならないと思われ、考えられるのは「星アテ」が行われていた可能性です。例えば「昴」あるいは「オリオン」の三つ星など天空で目立つ星の位置が目印としたものと思われ、その特定の位置関係を見て「春耕」としていたと言う事が考えられ、そこからの日数を「結縄」の表現でカウントしていたものと思われます。)
 現代の平均的な田植えと収穫時期は地域によってかなり異なりますが、農水省ホームページから参照したデータによると九州の場合は「田植え」が「六月上旬」、収穫はその最盛期が「十月中旬」とみられます。
 「田植え」は現在普通ですが、卑弥呼の時代には「田植え」はまだ行われていなかったと見られ、「種籾」を直接植える「陸稲」であったのではないかと見られ、その場合は時期としてやや早まり、「五月付近」に「春耕」が来ると思われ、旧暦の「春」は「一月から三月まで」であり、そのことから「三月」に行われていたと考えると「新暦」の五月となって整合します。(以下に述べるように「馬韓」など半島では「五月」に種蒔きをしていたように書かれていますから、「倭」に比べかなり遅く、このことから「邪馬壹国」統治範囲においては気候がかなり温暖であることが推定できるものです。)
 この「春耕」から「秋収」までという期間は、旧暦でいうと「三月から八月」までの約「百二十~百四十日」程度と思われ(「八月一日」と書いて「ほづみ」と読む名前の人がいるのは示唆的です)、これを「単位」として年数を数えると通常の太陰暦である「三百五十四日」の半分程度となりますから、年数が倍となることは必然です。
 これは「正歳四節を知らず」と書かれたように「魏晋朝」で使用されていた「暦」(太陰暦)が「倭」では使用されておらず「倭」独自の「暦」が行われていたことを示すものですが(同じ『三國志』内の「韓伝」によれば「馬韓」など半島内各国では「魏晋」と同じ暦を使用していたように書かれています。)、そのような中でも「春耕」から「秋収」までを計っていたということの中に、「春貸秋賦」という表現通り「稲」や「種籾」の「貸し付け」における「貸与」あるいは「利息」をとるべき期間の設定がされており、それが「春」から「秋」までであったということではないかと推測します。
 『養老令』の「雑令」に「出挙」に関する規定があり、そこでは「出挙」という制度の有効期間として(つまり利息を取る期間ともいえます)、「一年を以て断(限り)とする」と書かれています。

「雑令二十以稲粟条」「凡以稲粟出挙者。任依私契官不為理。仍以一年為断。…」

 この「一年」について『令義解』では以下のように記されています。

「謂、春時擧(イラヒ)受。以秋冬報。是為一年也。」

 つまり春(種まき時期)から収穫時期である秋や冬までの期間を一年と見なすと解釈しているわけです。
 この「一年」という期間の設定は『倭人伝』と同じ考え方であり、「春耕」から「秋収」までの期間が一般の人々にとって重要であったことを示すものですが、『倭人伝』において「春耕」から「秋収」までの期間を「一年」としている理由の一端はそれがこの後の「出挙」という制度と同様「利息」をとるべき期間として設定されていたからということも考えられると思われるわけです。
 「令義解」の解釈は「倭国」における伝統が反映していると見られ、一年という期間としては異例とも思える範囲が設定されているのも古代の「倭国」からの状況を示していると言えるのではないでしょうか。
  「出挙」のような「貸稲」の制度というものについてはそれが「租」に伴うものという考え方も、また「租」に先行するという考え方も双方ありますが、いずれにしろこの『倭人伝』時点では確実に「租」が存在しているわけですから「貸稲」という制度ないし慣習がこの時点で確実にあったものと見なければならないことになります。そしてその慣習はその後の「倭国」に長く残ったものであり、それが「雑令」に残ったと見ることが出来るでしょう。
 「稲作」は「邪馬壹国」時代以前から連綿として続けられてきているわけですし、天候不順も必ずあるわけですから、不作となって収穫する稲穀が少なかったり、植えるべき種籾がないというような状況はある期間を通じれば普遍的に存在するわけです。そうであれば「貸稲」という慣習がなくなるようなことはなかったはずです。
 (ただし、いわゆる「公出挙」という「制度」については割と起源が新しいかも知れません。それは「遣隋使」という存在と関係しているという可能性があるでしょう。「隋」からの各種制度の導入という中に「均田制」という「北魏」以来の「租税」の収奪システムがあったと見られ、それを応用した「班田」の制度がこの時点で出来たとも思われ、そうであれば「貸稲」という「慣習」はその時点で「制度」に変質したという可能性もあるでしょう。そしてそれが『養老令』に継承されているという考え方もできると思われます。)
 また『令義解』の「儀制令春時祭田条」が引用する「古記」説によれば、「制度」として設定された「郷里制」とは別に「村」(村落)が存在しており、そこには「官社」(官が設定した「神社」)とは別に「村落」で私的に設定された「社」が存在しており、「神官」とも云うべき「社首」がいたとされます。

「…古記云。春時祭田之日。謂国郡郷里毎村在社神。人夫集聚祭。若放祈年祭歟也。行郷飲酒礼。謂令其郷家備設也。一云。毎村私置社官。名称社首。村内之人。縁公私事往来他国。令輸神幣。或毎家量状取殴(斂)稲。出挙取利。預造設酒。祭田之日。設備飲食。并人別設食。男女悉集。告国家法令知訖。即以歯居坐。以子弟等充膳部。供給飲食。春秋二時祭也。此称尊長養老之道也。…」(『令義解』「儀制令春時祭田条」)

 上でみるように彼は「官」が主宰する「祈年祭」とよく似た内容の祭り(春に行われる豊作を祈る祭り)の他「秋」の収穫祭も主宰し、その際には「収穫物」(主たるものは稲と酒と思われる)の一部を「幣」として納めさせ、それを次回の「春の祭り」の際に「各戸」の状況に応じて分配するとされています。そしてそれからの収穫物の「利稲」(利息としての稲)をまた「幣」として回収するという循環となっているわけです。(※3)
 これは言ってみれば「村」単位で行う「出挙」であり、また「互助制度」ともいえるものです。このようなものは「公出挙」つまり「官」が制度として行うものとは異なる次元あるいは起源のものでした。
 八世紀の「国家」はこのような末端の「神社」までも「摂津職」などの職掌の範囲としていたものであり、これを支配体制に組み込むことが必須であったことを示しています。(逆に言うと「公出挙」は全国一律に行われていたものではなかったと言うことがいえると思われます。)
 このような体制が「律令体制」構築の以前のものであるのは自明であり、それをはるかに遡上する時点にその淵源を考えるべきと思われますが、その原点ともいうべきものは『倭人伝』にいう「春耕秋収」体制であり、その時点で行われていた「出挙」様の制度にあると思われます。
 『倭人伝』時点でも「神官」のような人物を主宰者としてそれらが行われていたものと推測され、同様に国家の体制とは別の枠組みで存在していたものと思われます。それが「正歳四節を知らず」と表現される中に表れているといえるでしょう。
 この時点では「戸籍」があり、「租賦」の制度もあったにもかかわらず、「太陰暦」について無知であると言うことは不審といえますが、それは「戸籍」がその名の通り「戸」についての動向を「国家」が把握するという段階に止まり「俗」としては敷衍化されていなかったことを示すと思われます。つまり「国家」としては「戸別」に「租賦」の対象を把握していたわけであり、それに基づいて徴集していたものですが、それとは別に「俗」として「出挙」的制度を「互助システム」として従前より機能させていたものと思われ、その実体が「村落」の私的なものであったことを示すものと考えられます。


(※1)伊藤敏男「長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係」
(※2)谷口建速「長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種〓」 : 孫呉政権初期における穀物貸与」『史觀』 (162), 43-60, 2010-03-25 早稲田大学史学会
(※3)義江彰夫「律令制下の村落祭祀と公出挙制」(『歴史学研究』№380 1975-01)
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『倭人伝』シリーズ(12)

2024年02月03日 | 古代史
「卑弥呼」の年齢

 ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

 この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑弥呼」の即位は「一九〇年」付近が措定されることとなりますが、その時点で「年已長大」とすると、「魏」に遣使した時点では「八十歳程度」の老婆となります。彼女がこのぐらいの長寿であったとするとそのことが『倭人伝』の中に特記事項として書かれなかったはずがないと思われます。「年已長大」という表現は子供ではないという程度のものという解釈もあり、いずれにしても八十歳を超えるような「長寿」であったとはいえないこととなります。
 また「魏使」が「金印」等を「仮授」するために「来倭」した時点の「卑弥呼」についての印象として「年已長大」としていると見ることもできるかもしれません。そうであれば「二三八年」付近で「四十歳代」程度となるわけですが、それでは即位した時点を「一九〇年」程度とすると、まだ「0」歳の赤子であったこととなってしまうでしょう。それはあり得ないとして、「壱与」のようにまだ「十三歳」程度の「幼女」のころに即位を想定すると、その即位年次は「二一〇年」付近と推定されることとなりますが、これでは「歴年」が二十年以上の期間を指すこととなってしまいます。これらはいわば相互に矛盾していると見られることとなります。つまり「どこか」がおかしいと思われるわけです。
 これについてはすでに述べたように「帥升」という存在を「男王」の在位期間の起点として考えている点に問題があるといえます。つまり「光武帝」から金印を授けられた「委奴国王」と「帥升」については「倭の奴国王」であって「倭王」でもないし、「倭国王」でもなかった(もちろん「邪馬壹国王」ではない)と考えられるわけであり、そうであれば「男王」という表現の中にこの二人は入らないということとなります。
 「帥升」以降のどこかで「奴国」が没落し「邪馬壹国」が取って代わり、その時点で「男王」が即位し、彼の時点で「倭王」と称すべき程度に統治範囲が広がったという可能性を考えることも必要と思われます。
 「其国」という表現が「邪馬壹国」ではなく「諸国」を含む「倭王権」全体を指すと思われることからも、「倭」のほんの一握りの支配領域しかなかったと思われる「帥升」やそれ以前の「倭の奴国王」は該当しないという可能性が考えられるわけです。
 そして、そこから数えた「男王」の統治期間が「七~八十年」であったとすると、「卑弥呼」の即位は「二〇〇年以降」であった可能性が強くなりますが、そうであれば「魏」へ遣使した「二三八年」付近で「四十歳代」ということも当然有り得ることとなります。
 即位に至る経過から考えて即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」という実績があったからこそ「王」として共立されたと見るべきですから、そうであればその時点で幼少であったとは考えにくく、それは「年已長大」という形容と矛盾しないこととなります。
 さらに言えば「男弟」が「佐治國」していたというのも「卑弥呼」の統治が開始された時点からのものとみるべきではないかと思われ、そのためには「男弟」がそのような事が可能な年令に達している必要があり、これをせいぜい二十代後半程度を下限として考える必要があるでしょう。それもまた「卑弥呼」の年齢として「年已長大」とされることとやはり矛盾しないと思われます。
 このことから「邪馬壹国」が「倭王権」の中心国となったのは少なくとも「魏」に遣使した時点から数えて七~八十年以前のことであり、「歴年」とされる「数年間」を足して考えると「一五〇年」よりは以前のこととなるでしょう。
 「卑弥呼」が即位してすぐに「遣使」したかどうかは不明ですが、「公孫淵」の討伐という外的要因が整った事から「遣使」が行われるようになったと見るべきですから、それは「卑弥呼」の即位と直結した話ではなかったであろうとは思われます。なぜなら「遣使」は「狗奴国」との関係の中でのできごとであるわけですが、「卑弥呼」はそれとは別の理由で「共立」されたと見られるからです。
 そうであれば「卑弥呼」の即位は「遣使」の時期をやや遡る「二一〇~二二〇年」付近が措定され、「邪馬壹国」が「倭」をほぼ制圧したのは「一四〇年付近」であるらしいことが推定できますから、「帥升」の亡き後を襲い、「奴国」から「倭王権」の座を奪取したという可能性が高いこととなります。
 その年次以降「邪馬壹国」が「倭王権」の盟主となり二代あるいは三代「王」が交替したものと思われますが、「後漢末」から「魏代」にかけて「混乱」が発生し、「卑弥呼」が即位するまで数年間「倭王」が不在であったとみられることとなるでしょう。
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『倭人伝』シリーズ(11)

2024年02月03日 | 古代史
「卑弥呼」の身体能力

 この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては「社会不安」があったとみられ、それはその時点まではそれほどのものではなかったものが急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものであり、そのため新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとなったものと思われます。その「社会不安」については後ほど触れますが、「祭祀」が重要な要素を占めることとなった時点で「卑弥呼」でなければならないとなったものですが、その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人他』の表現に表れています。
 このように古代において「霊的能力」の高い存在は、現実世界ではえてして「役に立たない」存在であったという可能性があり、「卑弥呼」も例外ではなかったものではないでしょうか。
 古代においては「不具」であったり「身体能力」の一部が欠如しているような人物はその共同体の中での実生活の役にはほぼ立ちませんが、その代わり(というよりそれだからこそ)霊的能力に長けた存在として一定の尊敬を集めていたという可能性があります。「左手第四指」に対する霊的信仰はそのことを暗示しているのではないでしょうか。
 後にも触れますが、世界中で「左手第四指」に対して「無名指」という意味の呼称がされている事実があります。現在日本では「薬指」と呼称されますが、これは元々「薬師指」と称されていたものであり、「薬師如来」が薬を調合する際にこの指を使用していたとされることから命名されていたものですが、「薬」を調合する際にこの指を使用するのはその指でなければ薬が効かないからであり、「左手第四指」に「霊的能力」があるからであるとされます。またそれが「無名指」とされるのは「名前」を「鬼神」に知られると「霊的能力」がなくなってしまうからとされ、「名前」と「鬼神」という超現実的存在との間に強いつながりがあることに対する信仰が世界各国であったことが知られるものです。
 このように「左手第四指」が重要視される最大の理由はそれが「役に立たない」からであり、「不器用」の象徴だからです。
 「第四指」は「第五子」(小指)と「腱」の一部がつながっており、通常は単独で動かすことができません。(訓練すれば別ですが)特にそれが「左手」である場合は特にその指を主体的に使用することはないといって支障ないでしょう。つまり「左手第四指」は典型的な「役に立たない」存在であるわけですが、それだからこそ、この指に対する「畏怖」と「敬意」があったものではないかと思われ、それは「古代」における「共同体(集落)」の中においても、同様の意味がその存在に対して与えられたものではないでしょうか。(「蛭子」に対する信仰もそれに良く似たものといえるでしょう) 
 「縄文」遺跡からは明らかに「不具」と思われる「人骨」が出ており、それは「成人」に達していることが確認されていますから、その人物は少なくとも周囲の助けを受けて生活していたことを示しており、「縄文」の社会が弱者に寛容であった証拠というような理解がされる場合がありますが、それよりはその人物が「祈祷師」など当時の共同体に必要な存在となっていたのではないかと見るべきことを示唆します。つまりそのような人物は「シャーマン」的位置にいたものではないかと考えられ、重要視されていたものとも考えられるわけです。
 これらのことから考えると「卑弥呼」もどこかに(身体的あるいは精神的かは不明ではあるものの)不具合を抱えていたものであり、それ故に強い「霊的能力」を有していた(少なくとも周囲はそう理解していた)可能性があると思えます。それは「男弟」が現実の政治を補佐していたという中にも現れているものと思われ、「卑弥呼」の能力が「霊的」な部分に特化していたことを示すものであり、実生活ではほとんど「役立たず」というべき状態ではなかったかと推察されることとななります。
 彼女という存在は『書紀』では「神功皇后」に投影されていますが、「神功皇后」の治績は政治的軍事的領域に亘っており、単なる「霊的能力」を持った人物という範疇を超えています。これは明らかに「卑弥呼」とは異なるものです。「卑弥呼」は実生活や実際の政治には関与しなかった、というよりできなかったことを示唆するものですが、それは彼女の身体的能力に何らかの欠陥があったという可能性につながるものと思われます。またそれだからこそ「佐治國」しているという「男弟」の存在が大きかったものと推量されるわけです。
 彼女の「鬼道」はその後「壱与」に受け継がれますが、この「壱与」も「幼少」であり、「共同体」の実生活上ではほとんど「役に立たない」人物ですから、その意味でも「霊的存在」として畏敬の念を持たれていたとも思われます。その後も「倭」では「女性」による「祈祷」を中心とした「信仰」が強く遺存することとなったものと考えられます。(仏教においても当初は女性による信仰が先行したと思われ、寺院としては「尼寺」が最初に作られたらしいこともそれに関係しているとも考えられます)
 このことは「実生活」において有用な仕事のできるような人物は「霊的能力」については周囲からその能力を認められていなかったという可能性が考えられ、そのことと「卑弥呼」の死後「男王」が立ったものの周囲の賛同が得られず争乱となったということの間には関係があると思えます。その人物は(その時点では必須であった)「霊的能力」を認められず、「祭祀」の主宰者としての地位に疑問符が付けられたものと思われます。(もちろん「卑弥呼」の男弟による政治の支障になるという点もあったでしょうけれど)そのため「壱与」が選ばれたというわけでしょう。
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『倭人伝』シリーズ(11)

2024年02月03日 | 古代史
「大疫」と「倭王権」 
 
 既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。
 「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
 そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうち相当多くのものが半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。)
 このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「伝染病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。
 「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣(特に牛)がなく、当時の人々は「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。(「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します)
 このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
 このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。
 「宗教」にはいくつかの発展段階があり、「キリスト教」や「浄土教」など「来世」における救済を説くものは発展の後期段階のものであるのに対して、それ以前の宗教は「現世利益」あるいは「現世救済」を説くことが特徴です。社会の構造などが「強力」で不正が改善される気配や徴候が全く見られない時点において、現世ではそれらが決して解決されず救済もされないと多くの人々が考える(いわば「諦める」)時点において「来世救済」という考え方が発生するものです。つまり「来世救済」が説かれるまでは人生は「死」で終わるのであって「来世」という概念そのものがなかったというわけです。(あの世も天国もない)それらは後に仏教によって列島に持ち込まれた概念であり、それ以前には「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。(死とは救済されなかった状態を意味するものともいえます)
 この「後漢」あるいは「倭」において「宗教」が求められたというのも、それは当然「現世利益」つまり「命」が助かることを多くの人々が望んでいたことを示しますが、それは言い換えると多くの人々の「命」が失われつつある現状があったことを示すものです。
 それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務(実務)の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、当時としては宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。
 時代も地域も異なりますが、「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。
 「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、彼女も「宗教的救済」としての「祭祀」を行っていたものであり、それにより「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。
 この「卑弥呼」の行為を「王」として行っていたことから、その行動は「国家行為」という高い次元のものとなったわけであり、「神勅」という形で民衆にそれが伝えられ、彼等にとるべき行動を限定させ、「暴発」が押さえられた民衆を「男弟」が「実務」、つまり実際の統治機構を機能させる役割の中で、彼が「コントロール」するという「兄(姉)弟統治」の体制が構築されたものと思われるわけです。
 ところで『書紀』の『孝徳紀』をみると「薄葬令」の後に旧習を止めるようにと言う「詔」が続いています。そこでは「祓除(祓え)」がキーワードとなっています。

「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。
復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。
復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。
復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」

 以上のように「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」(鍋のようなもの)などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それをたどると「卑弥呼」の「鬼道」にまで行くのではないでしょうか。
 「卑弥呼」(および男弟)は「疫病」(「天然痘」など)を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。(『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われますが、特にそれが「天然痘」などの「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。)
 それが効果があるかは微妙ですが、このように「病原菌」が人の移動にともなうものという見識は持っていたものと思われることとなり、それに対する警戒であると理解できるでしょう。そう考えると「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの施策があったという可能性が出てくると思われます。つまり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることができると思われるわけです。これらを実施すれば「エピデミック」に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。
 この考え方に近いものが「祓」となり、さらに後の時代(平安時代など)には自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」(「木綿」など)を手向ける風習として残ったものと思われます。
 たとえば『延喜式』には「六処界川共御禊」があり(『延喜式齋官式』)「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは一見「宗教的」な部分にとどまるものと思われがちですが、実態としては「伝染病」に対する方策の一つであり、それを「宗教的」に具現化したものであることが了解できるでしょう。
 この時「卑弥呼」が「王」となったこと、その後「壹與」もまた「王」となって政情が安定したことが伝えられていますが、このように「女性」あるいは「幼少」の人間が「祭祀」の主宰者として選ばれたということには二つの理由があったものと思われます。
 一つは「王」の陰から実力者(この場合「男弟」)が実務をやりやすくするためですが、さらに一つは「実務」の能力が高いものは「霊的能力」が低いと思われ民衆の支持を受けられないと判断されたためではなかったでしょうか。
 この時代には成人した五体満足な人には「霊的能力」がない(欠けている)と考えられていたものと推測され、「祭祀」の主宰者には不適格とされていたものと思われます。その意味で「女性」(特に「幼少」の女性)が「巫覡」として尊敬を集めていたものと思われるわけです。
 「卑弥呼」以前には社会不安が少なかったため「王」には霊的能力の多寡は問われなかったものと思われるものの、「疫病」が流行り、天候不順などがあると実務能力が高いというだけでは民衆を律しきれなくなったものではないでしょうか。そのため複数年に亘って紛争が続くこととなったとみられるわけです。
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