「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」
すでに述べたように「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な品々を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。
「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありません。
当時すでに「漢」の「貨幣」である「五銖銭」がある程度流通していたと考えられ、「貨幣」の機能や価値などについては「王権」でもまた「民間」でも認識していたものと考えられます。(「五銖銭」は「弥生」、「古墳」時代を通じ特に西日本に多く出土することが確認されています)
そして、「倭国王権」がこの「五銖銭」と互換性を持たせるべく使用していたものが「無文銀銭」であったと考えられます。
(ただし「無文銀銭」の原型は「新羅」からの「献上品」ではなかったかと推定しています。「献上」された時点ですでに「貨幣」として使用できる形状をしていたとみられ、それを倭国王権が高額貨幣として使用していたと見ています)
「無文銀銭」とは表面にほとんど文字らしいものが書かれておらず、わずかに模様のようなものが時折確認される程度のもので、平均重量が約十g(弱)であり、これは「唐」時代に制定された重量制度の「一両」の約四分の一に非常に近いものです。
ただし、重量調節用に「銀の小片」がくっついているのがかなり多くあり、別基準で当初製造された後に、修正された形跡があります。この重量調節用と思われる小片を取り除くと重量は平均で「6.7g」ほどとなり、「前漢」、「後漢」を通じて使われた重量単位の「銖」のちょうど十倍ほどとなるため、(つまり「五銖銭」の二倍の重さです)両者の間には密接な関係があるものと考えられます。
つまり「無文銀銭」は元々「五銖銭」との交換とか換算とかを考慮していたものと推察されるものです。
この「無文銀銭」については「貨幣」かどうかで現在も議論があるようです。その形もやや不揃いであり、中央の穴も「無造作」な開け方であって、「中国貨幣」の伝統である「円形方孔」となっていないようですし、銀の塊を「叩いて延ばした」ようにも見えますし、銀の「延べ板」を裁断加工して作られたとも考えられます。これらのことは「鋳型」から造ったものではないように見え、「大量生産」という貨幣の概念から外れていると推測されていたものです。しかも「無文」であり、誰が発行したものか不明という事が「貨幣」の資格を疑わせるものなのでしょう。
しかし、『書紀』には「天武紀」に「銀銭使用禁止令」というのが出ています。
『書紀』には「天武紀」(六八三年の項)に「銀銭使用禁止令」がいったん出され、すぐ(三日後)引っ込めたことが書かれています。
「(天武十二年)夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀錢」
「(同年同月) 乙亥詔曰用銀莫止」
このように明確に「銀銭」の使用停止が書かれています。「銀銭」とあるのですから、「銀」で出来た「貨幣」を指しているわけで、銅銭以前に(この「銅銭」は「富本銭」と思料されますが)「無文銀銭」が貨幣として使用されていた何よりの証拠と言えるでしょう。
ただし、出土する場所と状況から「無文銀銭」からは或る事実が知られています。それは地層などから「ある程度古い」と判定される「無文銀銭」には「小片」が付いているものが多く、「新しい」と判定されるものには「小片」がないものが多い(ただし、「小片」がなくても「10g弱」ある)、というものです。
つまり、このことから「無文銀銭」には「三つ」のバージョンがあるように考えられる事となります。
「一番目」は「小片」が付いているものについて、その「小片」が元々なかったと考えた場合の「6.7g」タイプ。
「二番目」はそれに「小片」がついている「10g」のタイプ。
さらに「三番目」として「小片」なしで「10g」あるタイプ。
これら各タイプの「無文銀銭」の存在は、「五銖銭」から「開元通宝」へ、という「漢代」より「隋」「唐」までの中国の貨幣の変遷に、見事に合致していると考えられます。
「五銖銭」に対しては上の「一番目」のタイプが対応していると考えられますし、「小片」がついたタイプは「開元通宝」の五枚と「無文銀銭」二枚が同重量となり(あるいは十枚と四枚)、「換算」が容易になっています。さらに「三つ目」のタイプはそのままで「開元通宝」と「二対五」の重量比になっています。
いずれも当時流通していた中国の銭貨との互換性、換算性を重視して造られていると考えられ、それはそのまま「無文銀銭」の製造の「時点」を示唆するものではないでしょうか。
つまり「一番目」のタイプについては、「唐初」(六二一年)の「開元通宝」鋳造「以前」の時期(隋代以前)の製造と考えられ、これが「本来」の「無文銀銭」の姿であると思料するものです。「二番目」のタイプはその「開元通宝」鋳造直後の「初唐」の時代であることを示唆するものと考えられます。つまり、「五銖銭」から「開元通寶」へと「互換」対象貨幣を「修正」するために「小片」を貼り付けて「緊急対応した」という風情が感じられるものです。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿という解説が良く見受けられますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とは「正常」な感覚ではとても思えません。
「三番目」はその後「正式」に「開元通宝」に対応したものと推定されるわけであり、これは「初唐」からかなり下った時期が想定されます。
そして、発見される「無文銀銭」の多くに「小片」がついている、という事は「初唐」以降には余り製造されなかったかと考えられるものであり、それは「唐」との関係悪化という時代背景を裏付けるものと思料され、「小片」が付加されたタイプについては、その製造時期の「下限」は遅くとも「六三一年」(唐使「高表仁」との争い以降国交が途絶した時点)の「以前」であることを推察させるものです。少なくとも「銀」の入手ルートの点から考えて、半島の「新羅」と関係が悪化し、また「百済」が滅亡する時点以降は「銀」の入手は明らかに困難となったと考えられ、「六六〇年以前」に倭国に入ったものがほとんどであると考えられます。
そして「小片」がないタイプについては、その出土する地点の状況から見て、「八世紀」に入ってからのものではないかと推量され、「平城京」完成時点付近かと考えられるものです。(これについてはどのような経緯で作製されたのか解明されておりません。今後の課題です)
この「銀」の産地から見た時代背景としても、「国内」には「初唐」時点付近ではこの当時見あたらず、半島からの入手であったと考えられ、「新羅」「百済」を通じて「銀」を入手していたものと考えられます。(「高句麗」に「銀山」という城があったことが「三国史記」にも書かれており、「銀」の産地としては「高句麗」からの入手という考え方も有力であると考えられますが、この点についてはまだ不明の部分があります)
後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されており、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を鋳つぶしたものという可能性が考えられるため、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いことが実証されたものと考えられます。
ちなみに「飛鳥池遺跡」からは「切断された」「無文銀銭」が発見されており、これは「和同銀銭」鋳造の準備のために「加工」をしていたものと見られます。「和同銀銭」の初期タイプで重量がかなり重いグループの場合、その重さは「無文銀銭」の「小片」を取り去った場合の重さに等しい3.0-6.9gの範囲にあり、このことから「和同銀銭」は「無文銀銭」を切断し必要な重量に調整した後「溶解」させて「型」に流し込んで作製していたのではないかと推察されます。
この「無文銀銭」は、「岩船」に書かれたような「商業的」「経済的」イベントに直結する意味での貨幣製造であったものではないかと推察され、「岩船」に書かれている事から推定して、「隋」と「交易」をするという事もその目的の一つとして「遣隋使」を送り、「高額」な品々を入手してそれを国内に売りさばこうとしているわけですが、このとき「唐」に支払うべく製造されたものが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。
「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり(注三)、このような「市」の際の物資購入などがその典型であったと考えられます。
「倭国王権」(利歌彌多仏利)はこの「交易」に際して、「遣隋使」からの知識として「中国」(「隋」)ではまだ「五銖銭」を使用していると知り、「無文銀銭」にそれとの互換性があることを承知して、これを購入に充てたものではないかと思料します。
これらのことから考えて、この「無文銀銭」(上に挙げた一番のバリエ-ション)が「新羅」から献上されたのは「隋代」と思料され、この「岩船」で言う「住吉の浦」に「市」を開く際に利用されたと考えられるわけであり、その後「唐」の時代に移ると「開元通寶」が造られたため、すでに製造していた当初タイプの処理に困った倭国王権は「小片」を貼り付けて「重量調整」したものと推定されます。この事は「無文銀銭」がまさに「秤量貨幣」(重さで価値を決める)であったことを如実に示すものと考えられます。
「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所からであり、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。それ以後も「一九四〇年」になってから「六六八年創建」と伝えられる近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するなど「近畿」とその周辺に「集中的」に出土しています。
もしこれが「近畿」から遠いところで鋳造されたのなら(たとえば「筑紫」など)、「近畿」だけではなく、もっと「九州」を中心に広範囲に発見されてしかるべきでしょう。そうではないのですから、「無文銀銭」は発見地を含む地域である「近畿」で製造されたと考えるのが正しいと思われます。
最初に発見され、また大量であったのが「難波天王寺村」であることは、この地に「鋳銭司」があったことを推定させますが、そもそも「難波宮」には「大蔵」があり、通常「鋳銭司」は「大蔵」の配下にあったものですから、この地に「鋳銭司」があるのも当然といえ、「無文銀銭」の「小片」の付着などの作業がここで行われたことを推定させます。
この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、それ以降「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」製造が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
そもそも、このような「銭貨」の発行は(特に古代においては)「国家統治権」を「象徴する行為」と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
「難波」は前述したように「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、「君」とは「利歌彌多仏利」であり、彼が「隋」などと「交易」を行うために市を開いたものと思料され、その際に利用・加工したものが「無文銀銭」であったと推量します。
すでに述べたように「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な品々を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。
「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありません。
当時すでに「漢」の「貨幣」である「五銖銭」がある程度流通していたと考えられ、「貨幣」の機能や価値などについては「王権」でもまた「民間」でも認識していたものと考えられます。(「五銖銭」は「弥生」、「古墳」時代を通じ特に西日本に多く出土することが確認されています)
そして、「倭国王権」がこの「五銖銭」と互換性を持たせるべく使用していたものが「無文銀銭」であったと考えられます。
(ただし「無文銀銭」の原型は「新羅」からの「献上品」ではなかったかと推定しています。「献上」された時点ですでに「貨幣」として使用できる形状をしていたとみられ、それを倭国王権が高額貨幣として使用していたと見ています)
「無文銀銭」とは表面にほとんど文字らしいものが書かれておらず、わずかに模様のようなものが時折確認される程度のもので、平均重量が約十g(弱)であり、これは「唐」時代に制定された重量制度の「一両」の約四分の一に非常に近いものです。
ただし、重量調節用に「銀の小片」がくっついているのがかなり多くあり、別基準で当初製造された後に、修正された形跡があります。この重量調節用と思われる小片を取り除くと重量は平均で「6.7g」ほどとなり、「前漢」、「後漢」を通じて使われた重量単位の「銖」のちょうど十倍ほどとなるため、(つまり「五銖銭」の二倍の重さです)両者の間には密接な関係があるものと考えられます。
つまり「無文銀銭」は元々「五銖銭」との交換とか換算とかを考慮していたものと推察されるものです。
この「無文銀銭」については「貨幣」かどうかで現在も議論があるようです。その形もやや不揃いであり、中央の穴も「無造作」な開け方であって、「中国貨幣」の伝統である「円形方孔」となっていないようですし、銀の塊を「叩いて延ばした」ようにも見えますし、銀の「延べ板」を裁断加工して作られたとも考えられます。これらのことは「鋳型」から造ったものではないように見え、「大量生産」という貨幣の概念から外れていると推測されていたものです。しかも「無文」であり、誰が発行したものか不明という事が「貨幣」の資格を疑わせるものなのでしょう。
しかし、『書紀』には「天武紀」に「銀銭使用禁止令」というのが出ています。
『書紀』には「天武紀」(六八三年の項)に「銀銭使用禁止令」がいったん出され、すぐ(三日後)引っ込めたことが書かれています。
「(天武十二年)夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀錢」
「(同年同月) 乙亥詔曰用銀莫止」
このように明確に「銀銭」の使用停止が書かれています。「銀銭」とあるのですから、「銀」で出来た「貨幣」を指しているわけで、銅銭以前に(この「銅銭」は「富本銭」と思料されますが)「無文銀銭」が貨幣として使用されていた何よりの証拠と言えるでしょう。
ただし、出土する場所と状況から「無文銀銭」からは或る事実が知られています。それは地層などから「ある程度古い」と判定される「無文銀銭」には「小片」が付いているものが多く、「新しい」と判定されるものには「小片」がないものが多い(ただし、「小片」がなくても「10g弱」ある)、というものです。
つまり、このことから「無文銀銭」には「三つ」のバージョンがあるように考えられる事となります。
「一番目」は「小片」が付いているものについて、その「小片」が元々なかったと考えた場合の「6.7g」タイプ。
「二番目」はそれに「小片」がついている「10g」のタイプ。
さらに「三番目」として「小片」なしで「10g」あるタイプ。
これら各タイプの「無文銀銭」の存在は、「五銖銭」から「開元通宝」へ、という「漢代」より「隋」「唐」までの中国の貨幣の変遷に、見事に合致していると考えられます。
「五銖銭」に対しては上の「一番目」のタイプが対応していると考えられますし、「小片」がついたタイプは「開元通宝」の五枚と「無文銀銭」二枚が同重量となり(あるいは十枚と四枚)、「換算」が容易になっています。さらに「三つ目」のタイプはそのままで「開元通宝」と「二対五」の重量比になっています。
いずれも当時流通していた中国の銭貨との互換性、換算性を重視して造られていると考えられ、それはそのまま「無文銀銭」の製造の「時点」を示唆するものではないでしょうか。
つまり「一番目」のタイプについては、「唐初」(六二一年)の「開元通宝」鋳造「以前」の時期(隋代以前)の製造と考えられ、これが「本来」の「無文銀銭」の姿であると思料するものです。「二番目」のタイプはその「開元通宝」鋳造直後の「初唐」の時代であることを示唆するものと考えられます。つまり、「五銖銭」から「開元通寶」へと「互換」対象貨幣を「修正」するために「小片」を貼り付けて「緊急対応した」という風情が感じられるものです。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿という解説が良く見受けられますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とは「正常」な感覚ではとても思えません。
「三番目」はその後「正式」に「開元通宝」に対応したものと推定されるわけであり、これは「初唐」からかなり下った時期が想定されます。
そして、発見される「無文銀銭」の多くに「小片」がついている、という事は「初唐」以降には余り製造されなかったかと考えられるものであり、それは「唐」との関係悪化という時代背景を裏付けるものと思料され、「小片」が付加されたタイプについては、その製造時期の「下限」は遅くとも「六三一年」(唐使「高表仁」との争い以降国交が途絶した時点)の「以前」であることを推察させるものです。少なくとも「銀」の入手ルートの点から考えて、半島の「新羅」と関係が悪化し、また「百済」が滅亡する時点以降は「銀」の入手は明らかに困難となったと考えられ、「六六〇年以前」に倭国に入ったものがほとんどであると考えられます。
そして「小片」がないタイプについては、その出土する地点の状況から見て、「八世紀」に入ってからのものではないかと推量され、「平城京」完成時点付近かと考えられるものです。(これについてはどのような経緯で作製されたのか解明されておりません。今後の課題です)
この「銀」の産地から見た時代背景としても、「国内」には「初唐」時点付近ではこの当時見あたらず、半島からの入手であったと考えられ、「新羅」「百済」を通じて「銀」を入手していたものと考えられます。(「高句麗」に「銀山」という城があったことが「三国史記」にも書かれており、「銀」の産地としては「高句麗」からの入手という考え方も有力であると考えられますが、この点についてはまだ不明の部分があります)
後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されており、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を鋳つぶしたものという可能性が考えられるため、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いことが実証されたものと考えられます。
ちなみに「飛鳥池遺跡」からは「切断された」「無文銀銭」が発見されており、これは「和同銀銭」鋳造の準備のために「加工」をしていたものと見られます。「和同銀銭」の初期タイプで重量がかなり重いグループの場合、その重さは「無文銀銭」の「小片」を取り去った場合の重さに等しい3.0-6.9gの範囲にあり、このことから「和同銀銭」は「無文銀銭」を切断し必要な重量に調整した後「溶解」させて「型」に流し込んで作製していたのではないかと推察されます。
この「無文銀銭」は、「岩船」に書かれたような「商業的」「経済的」イベントに直結する意味での貨幣製造であったものではないかと推察され、「岩船」に書かれている事から推定して、「隋」と「交易」をするという事もその目的の一つとして「遣隋使」を送り、「高額」な品々を入手してそれを国内に売りさばこうとしているわけですが、このとき「唐」に支払うべく製造されたものが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。
「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり(注三)、このような「市」の際の物資購入などがその典型であったと考えられます。
「倭国王権」(利歌彌多仏利)はこの「交易」に際して、「遣隋使」からの知識として「中国」(「隋」)ではまだ「五銖銭」を使用していると知り、「無文銀銭」にそれとの互換性があることを承知して、これを購入に充てたものではないかと思料します。
これらのことから考えて、この「無文銀銭」(上に挙げた一番のバリエ-ション)が「新羅」から献上されたのは「隋代」と思料され、この「岩船」で言う「住吉の浦」に「市」を開く際に利用されたと考えられるわけであり、その後「唐」の時代に移ると「開元通寶」が造られたため、すでに製造していた当初タイプの処理に困った倭国王権は「小片」を貼り付けて「重量調整」したものと推定されます。この事は「無文銀銭」がまさに「秤量貨幣」(重さで価値を決める)であったことを如実に示すものと考えられます。
「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所からであり、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。それ以後も「一九四〇年」になってから「六六八年創建」と伝えられる近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するなど「近畿」とその周辺に「集中的」に出土しています。
もしこれが「近畿」から遠いところで鋳造されたのなら(たとえば「筑紫」など)、「近畿」だけではなく、もっと「九州」を中心に広範囲に発見されてしかるべきでしょう。そうではないのですから、「無文銀銭」は発見地を含む地域である「近畿」で製造されたと考えるのが正しいと思われます。
最初に発見され、また大量であったのが「難波天王寺村」であることは、この地に「鋳銭司」があったことを推定させますが、そもそも「難波宮」には「大蔵」があり、通常「鋳銭司」は「大蔵」の配下にあったものですから、この地に「鋳銭司」があるのも当然といえ、「無文銀銭」の「小片」の付着などの作業がここで行われたことを推定させます。
この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、それ以降「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」製造が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
そもそも、このような「銭貨」の発行は(特に古代においては)「国家統治権」を「象徴する行為」と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
「難波」は前述したように「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、「君」とは「利歌彌多仏利」であり、彼が「隋」などと「交易」を行うために市を開いたものと思料され、その際に利用・加工したものが「無文銀銭」であったと推量します。