古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』(21)

2024年02月10日 | 古代史
さらに「戸」と「家」から「軍事」について検討します。

「戸」と「家」について(3)

 以前「古田氏」は「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されていました。
 その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。『倭人伝』の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。 
 「倭王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われますから、「戸籍」がなかったというようなことは想定しにくいこととなります。
 つまり、「家」で表記されている国である「一大国」と「不彌国」についても「戸籍」は存在していたと考えられ、『倭人伝』で表記の差が現れているのは、単に「戸籍」に関する情報が「魏使」に提示されたかされなかったかの違いであると考えられます。つまり、「一大国」及び「不彌国」については「魏使」に対して「戸籍」に関する資料、情報を提示しなかったと言うことが推定されることとなるでしょう。そして、その理由については詳細は不明ですが、推測すると「戸籍」というものが多分に「軍事的情報」を含んでいるからではないでしょうか。
 『三國志』(特に魏書)における「家」の出現例を見ていくと、「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。

「三國志/魏書 卷三 魏書三 明帝 曹叡 紀第三/太和元年」
「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」

 『三國志』中では「家」は通常の「家」(いえ)という場合の使用例が圧倒的ですが、「数量」の単位として現れる場合は(ここでは「四千餘家」という表現がされている)特定の場合に限られるようです。
 上の例では「部曲」として書かれていますが、この「部曲」は「部隊」を構成する単位を示す用語であり、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものとして「家」が使用されています。
 また「以下」の例では「流入した」者達が「家」で表され、彼等は「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。

「三國志/魏書 卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬」
「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀彧曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂彊。」

 他にも多数の例がありますが、それらはいずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
 そもそも「魏」の「曹操」は、「屯田」を配置しそこからの収穫物を全て自家のものとしていました。これは「地方統治」の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。そのために配置された軍人は「兵戸」という専用の「戸制」に登録されていたものであり、それらに属する者達は「家」で数えられていたものです。 
 また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。

「三國志/魏書卷九 魏書九 諸夏侯曹傳第九/曹仁」

「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊揚、益州諸軍事,進封陳侯,增邑二千,并前三千五百?。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。?初四年薨,諡曰忠侯。…」

 ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「陵戸」というような人達については「通常」の「戸制」に登録はされませんでした。(後の「隋唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる『大宝令』などにもそれは継承されています)
 これらの例から考えて、「魏」の「通常の戸籍」ではない戸籍に登録されている場合「家」を使用するものと思われ、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や、「魏」とは異なる戸制の場合にも適用されると見られます。(「呉」や「蜀」がこの場合でしょうか)
 「軍団」は兵士の集団であり、その兵士は住民から徴発するわけですから、住民に対する「居住」の状況(年齢、性別などの諸情報)が把握されなければ「兵士」として徴発することができないのは明らかです。
 どこにどれだけ「兵士」になりうる人間がいるのかを把握できなければ「常備軍」も「臨時」の軍編成もできるものではありません。そう考えると、「一大国」と「不彌国」の両方が「家」表示であるのは、その両国の「戸籍」がほとんど「兵戸」であったからではないかということが考えられます。
 ただし、「兵戸」であることを「倭」側の官(これは「一大率」か)が「魏使」に告げたかどうかは不明です。それは即座に「軍事情報」とも言えますから、秘密にしたということも考えられますし、「他国」からの「流民」などについては「家」で表記するというルールらしいものもあったようですから、それを「装った」という可能性もあります。それは上の「一大国」の記事においても、特記すべき事として軍関係の表示が全く無いことからも窺えるものです。
 もし「一大國」「家」が「兵戸」に基づくとしたら、「一大国」には「軍事」に関する何らかの表象があったはずと思われますから、必ず「魏使」はそれを明記したことでしょう。(軍事情報は最優先事項でしょうから)
 それが書かれていないと言うことは、「家」の正体を「倭」の側は明らかにしなかったという可能性が高いと思料します。つまり「倭王権」は「戸籍」の開示をしなかったばかりか、国内(島内)の「軍事情報」を意図的に「隠した」のではないでしょうか。
 「魏使」を案内するにもそのような施設を見せないように迂回させたものと考えられます。(『倭人伝』の距離表示が「壱岐」と「對馬」については「半周読法」である理由もそこにあるのかも知れません。つまり、反対側の「半周」には軍事基地等があったという可能性もあると考えられます)そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきではないでしょうか。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。
 これらのことを考えると、「一大国」には「軍事拠点」があったと推定されることとなり、「一大率」という名称はそれが「一大国」の軍事力の前線基地として機能していたことを示すものであったという「古田氏」の推定が正しいことを示すと思われます。
 (「壱岐」の「原の辻遺跡」からは「鉄・銅・骨」などの各種「鏃」や「短甲」「投弾」「烽火跡」など「軍事」に関係するものが多く出土しています。また「港湾施設」と思われる遺跡が出土し、そこには「堤防」と考えられる遺構に「敷きソダ工法」が使われ、「水城」などと同様の建設手法であることが確認されています。その意味でもこの「壱岐」という島が軍事に特化した地域であったらしいことが推測されています。)
 既に検討したように「一大率」は海外からの使者などについては「対馬国」以降「末廬国」の「唐津」へ誘導しそこで「外交文書」その他貢献物などの確認等の行為を行った後「伊都国」にあった「宿舎」(迎賓館も含むか)へと案内していたものであり、「対馬国」以降「一大率」の監督下に入ったものと見られることとなります。「壱岐」(一大国)はその「対馬」と「末廬国」などの中間地点にあり、それは人員の輸送という点で利便性があったことを示すものであり、それらの事から「一大国」と「一大率」には重要な関係があるのは確実と思われ、「伊都国」に展開している首都防衛のための防衛線として「防人・斥候」的役割をする部隊の「本体」が「一大国」にいたことを示すものであり、これが「一大率」の真の本拠地であったという可能性も考えられるところです。
 また同じ軍事情報でも「伊都国」に「一大率」が存在しているということが「秘密」とされていないのは、「伊都国」に「郡使」が「常駐」するという環境の結果であると考えられます。
 「伊都国」は「千余戸」という少ない戸数が記録されており、そのことからも「一般民家」の少ない「公的エリア」であったことが推定され、「軍団」についてもほぼ「露出」しているような状態であったのではないでしょうか。つまり「隠しようがなかった」というような事情によって「一大率」についての情報が記載されると言うこととなったものと思われます。
 「実際」に「戸」と「家」との間の違い(差)はどれほどであったかというと、それは「戸」が示されない場合に「家」で表示していると言うことの中に既に現れているといえるでしょう。つまり「家」で「戸」数は代替できる場合が多いと「魏使」が考えていた証左であると考えられ、「家」はほぼ「戸」と等しいと考えられていたのではないかと思われます。後の「養老律令」や『令集解』に示されている「古記」がもとづくと思われる「大宝律令」でも「戸」と「家」はほぼ同義で使用されています。たとえば『令集解』の「戸令」の条では「戸謂。一家為一戸也。」とあり、明確に「戸」と「家」が同義であることを示しています。
 このように「大宝律令」でも(多分それ以前の古律令においても)その母体は隋・唐の律令にあるのは明らかですから(この点後に触れます)、「戸」と「家」についての関係も隋・唐に淵源すると思われますが、その隋・唐の律令はその時点で目新しく造られたものではなく、究極的には(秦)漢魏晋時代の律令につながっています。その意味で魏の使者が使用した「戸」と「家」の意義と大きくは異ならないはずであり、基本的な制度あるいは構造として、「戸」の主たる(あるいは全的な)構成要素は父母兄弟(とその婚姻者)という自然発生的な「家」というものであったとおもわれるわけです。
 ただし、この二つが常に等しいということではなかったと思われ、それは『倭人伝』でも「…有屋室、父母兄弟臥息異處。…」とあり、「家」の実態が「父母兄弟」が基本的単位であることを示していますが、同じく『倭人伝』には「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」とあり、これら「四五婦」や「二三婦」が一つ屋根の下に暮らしていたとも考えられませんから、彼等が一つの『家』を形成してはいないと思われ、この時点ですでに「戸」と「家」が異なる場合もあったことが推定できます。さらに「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」と書かれていることから、「妻子」というのが「家」であり、それを含む複数の「家」で構成される「門戸」というものが存在していたことを推定させますが、この「門戸」が『倭人伝』の中に多く見られる「戸」と同義であると見るのは間違いではないでしょう。
 いずれにしても「戸」というものがいわば制度としての形而上的存在であり、外からそれと分かるものではなかったのは確かであり、魏使が「戸」を把握できなかった場合「家」で代用せざるを得なかったというのもまた確かでしょう。
コメント

『倭人伝』(20)

2024年02月10日 | 古代史
引き続き「戸と家」について考察します。

「戸」と「家」(2)

 「韓伝」においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されています。しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。
(以下「魏志東夷伝」から)

「韓伝」
「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」

 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一-五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また「韓伝」の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。
 たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われ、いずれにしろ「家」と「戸」とは「イコール」ではないこととなります。 
 同様なことを同じ「韓伝」の「弁辰」について検討してみます。

「韓伝」
「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」

 ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対2~3」という数字(比)には遠くおよばないこととなるでしょう。
 以上のことは、よく言われるように「戸」と「家」の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものであり、「戸」と「家」の関係は国ごとに異なるということを示すものといえるでしょう。
 以上見てきましたが、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。しかし、『倭人伝』では「夫餘伝」などと違い同じ「国」の人口などを記すのに「戸」と「家」が使い分けられているように見えます。
 この場合考えるヒントとなるものは、「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
 つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものであると考えられるのに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。(無理すれば数えれば分かるものとも言えます)
 これを『倭人伝』に当てはめると「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、その意味するところを考えると、「魏使」が通過した際この両国については「資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「開示しなかった」というような事情があったと考えることができるでしょう。
 彼ら魏使達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
 「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
 (ちなみに「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)
 以上から「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったからと言うことも考えられます。
 この『倭人伝』の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した際の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測すると言うだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
 このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
 上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなります。
 ところで、「投馬国」も「戸数」が表記されており、同様に「担当官僚」から正確な情報を入手したものと考えられ、現地まで実際に赴いたという可能性が高いものと思料しますが(この時も当然「一大率」が魏使をサポートしたものと見られます)、この「投馬国」記事の「官名」は独特なものがあります。これらは「魏使」が実際に現地に行ったということを示しているものと思われ、それは主に案内した「一大率」あるいは「邪馬壹国」首脳にそのような行動の理由(あるいは動機)が存在していたものと思われますが、最も考えられるのは「魏」にとって見逃せない「呉」との関係ではなかったでしょうか。
 つまり「投馬国」は「呉」に対する防衛線を構成していた主要な国の一つではなかったかと考えられるのです。そう考えると「南」という大方向表記からは「肥後」さらにはその南の「薩摩」が西方から侵入してくる外敵に対して要衝の位置にあることは間違いなく、「投馬国」として最も想定可能な領域であると思われます。
 このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは『倭人伝』中の以下の文章からも推定できます。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」

 ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」や「投馬国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けたと言う事を示すものです。
 このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
 「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。(馬韓は他の地域から流入する人が多かったものではないかと推察されます)それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 いずれにしろ「倭」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。
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「倭人伝』シリーズ(19)

2024年02月10日 | 古代史
ここでは『倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について分析します。

「戸」と「家」(1)
 「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)
と理解されているようです。
 また「魏志」の中では「戸」と「家」とが両方見えており、「戸」と「家」の意味が異なるとすると「なぜ」倭人伝の中には「同居」しているのか、その意味の違いが問題になります。
 『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
 これについては「古田氏」は以下のように述べられます。
 『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』(※)
 ここでは、「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
 「狗奴国」との争いが続いてる状態があったとすると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。そのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」の表記には別の意味があるのではないかと考えざるを得ません。
 『倭人伝』だけではなく「夫餘伝」などにも「戸」と「家」が同居している例があります。
(以下魏志東夷伝から)

「夫餘伝」
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句驪、東與〓婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。戸八萬。其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人〓大、性彊勇謹厚、不寇鈔。國有君王、皆以六畜名官。有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。諸加別主四出道、大者主數千家、小者數百家。食飲皆俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。 」

 これを見ると、「夫餘」全体については「戸」で表記されているのに対して、「諸加」の「大者」「小者」についての表記では「家」が使用されています。
 ところで、「魏志」では(『倭人伝』や「扶余伝」など)、「下戸」という存在が書かれています。この「下戸」を一部には「個人」とみなす考え方があるようであり、そこから「戸」と「口」ないし「人」は等しいという議論もあるようです。しかし、文脈上そうは受け取れないと思われます。
 たとえば「扶余」では「下戸」は「奴僕」となるとされ、それは「豪民」に対するものとして書かれています。

「邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。」

 また「諸加」に対応する存在としても書かれています。

「有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。」

 つまり「諸加」は敵が来た場合自ら戦い、「下戸」達と飲食を共にするという意味ですが、この場合の「諸加」という表現は「諸加」に属する、あるいは部類する人達、つまり「階層」を指すものであり、「個人」を指すという訳ではないと考えられます。そもそも「敵」そのものも「個人」に対するものではありません。明らかに「国」あるいは「地域全体」に対する外敵を指すものであり、それに対応する「諸加」や「下戸」が「個人」であるはずがないといえるでしょう。どちらも「層」ないしは「階級」の名称であり、「個人」を指す表現とは考えられないこととなります。さらにこれを「個人」と考えると、彼(ら)の子供はどうなるのかと言うこととなります。彼が「下戸」なら必ず彼の子供も「下戸」でしょう。「夫婦」の場合も同様です。これは要するに「下戸」に限らず、「戸」が「個人」を示す単位としての概念ではないことを示すものです。
 ただし、以下の例では「戸」は「入口(ドア)」の意で使用されていると思われます。
 
「高句麗伝」
「其俗作婚姻、言語已定、女家作小屋於大屋後。名壻屋。壻暮至女家『戸』外、自名跪拜、乞得就女宿。如是者再三、女父母乃聽使就小屋中宿。」

「東沃沮伝」
「其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作『戸』。新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者爲數。又有瓦〓、置米其中、編縣之於槨『戸』邊。」

 「高句麗伝」の記述は「女の家の入口の外」という意味であり、「東沃沮伝」の例では「槨」の「頭」の部分に「入口」(扉状のものか)を作るとされていますし、「槨」の「入口」の所に「米」を入れた「袋状のもの」を置くとされています。
 これらの例は「戸」を現代的な「入口」(「ドア」という意味の「と」という場合に近いか)という意味と判断できます。それは「家」の「戸」の外という表現からも明らかであり、この場合は「口」と意味が通じることとなると思われます。このように「戸」と「口」の意は近い場合もあることが分かります。
 このように「口」が「人」の数ないしは「人」そのものを意味するのは、「捕虜」ないし「奴僕」を意味すると思われる「生口」という表現でも明らかです。
 また、「高句麗伝」でも「口」が「人」の意(人の数の意)で使われているのがわかります。
 
「…建安中、公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口…」
「…其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」(以上「高句麗伝」)

 このように「口」と「人」と「戸」が共通の意味を持って使用されている場合も考えられる訳ですが、「人」の数を表す場合は「口」という表記が多用されるようであり、「戸」で「人」そのものを表す事はないようです。
 ところで、『魏志倭人伝』の「刑罰」の中に「妻子、門戸、宗族」と呼称されるものが出てきます。

「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」

 このように「妻子」とは別に「門戸」と「宗族」というものがあるとされ、各々その意義を考えると、「門戸」とはその字義から考えても、「妻子」の他、同じ「門」や「戸」(「と」つまり「ドア」)を共有する一つ屋根の下に住む「親兄弟」程度の範囲までを言うと考えられます。さらに「宗族」とは「血縁」を同じくする「親族」達(この場合は同居であるかどうかを問わない)を指すと考えられますが、いずれにしても個人がどの「門戸」に属するか、その「門戸」はどの「宗族」に属するかというような情報も「戸籍」として把握されていたと考えられます。
 『旧唐書』の例では「高麗」と戦った際の「唐」の「太宗」の「詔」によれば「家」とは「主人」と「妻子」がいるところという認識であるようです。

「遂受降、獲士女一萬、勝兵二千四百、以其城置巌州、授孫伐音爲巌州刺史。我軍之渡遼也、莫離支遣加尸城七百人戌蓋牟城、李勣盡虜之、其人並請隋軍自効、太宗謂曰 誰不欲爾之力、爾家悉在加尸、爾爲吾戰、彼將爲戮矣、破一家之妻子、求一人之力用、吾不忍也。 悉令放還。」

 つまりここでは「家」とは共に暮らす「夫婦」「親子」を意味するものとして使用されているものです。
 後の「貧窮問答歌」を見ても「父母は 枕の方(かた)に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て」とされ、「夫婦」「親子」が同じ家に暮らしていると見られ、これが一般の「家」の実体ではなかったかと考えられます。
 「戸」は制度としての「戸籍」の存在が前提の語であるわけですが、「戸」の把握の実態は上のように一室屋根の下にいるひとまとまりの人達を一つの「戸」として捉えるのが自然であり、また当然であったはずです。そう考えれば「家」と「戸」とはほぼその内実として異ならないことが予想されるものです。

※『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)
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