古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「厳島神社」と「神功皇后」の「妹」(再度)

2024年02月25日 | 古代史
前稿からの関連として以下も再度アップします。

 「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。
 「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
 さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」という多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。
 この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、「法華経」第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き「法華経」を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。この伝承が「厳島神社」の創建伝承に現れるわけであり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなっているのです。
 その「厳島神社」の創建伝承をみてみると、「祭神」は「市杵島比売」とされ、この人物は「(娑竭羅)竜王の娘には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係であると記されています。(女性とされているわけです)
 ここに出てくる「淀姫」という人物は佐賀県に祭神としてまつる神社が数多いのですが、「神功皇后」の「新羅征伐」説話中に現れ、その「神功皇后」の妹として「松浦」の水軍をまとめて加勢したと伝えられています。
 「宗像」「松浦」という地名、「淀姫」を含む「三女神」に対する信仰という点においても、九州地域との在地性が高く、また信仰の内容から言っても「海人族」に関わる信仰であることがわかります。
 これらのことから「厳島神社」創建の人物は「宗像三女神」のうちの「比売大神」(市杵島比売神)に対応する人物と考えられます。
 また「京都」の「八坂神社」の祭神は「薬師如来」が垂迹した「牛頭天皇」とされ、この「牛頭天皇」というのは起源不明ではあるものの、その后は「頗梨采天女」であったとされますが、この「頗梨采天女」は「娑竭羅龍王の娘」とされ、「南方」の「竜宮城」に住んでいたという逸話が残っています。
 つまり各地の神社に伝わる「娑竭羅龍王の娘」は「牛頭天皇」すなわち「素戔嗚尊」の后とされている訳であり、「宗像三女神」と仏教の融合がそのまま「日本神話」につながっていることがわかります。
 これらのことは「娑竭羅龍王」との関連で仏教文化が倭国内に伝搬したことを示すと考えられ、「六世紀末」という時代の「仏教文化」拡大に「海人族」が深く関与していることが推定されます。
 一般には『法華経』に「提婆達多品」が添付されたのは「六〇一年」に造られたとされる『添品妙法蓮華経』が最初であるとされますが、実際には「六世紀末」の「天台大師智顗」によるものであり、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。(光宅寺で講説した記録がある)通説ではそれが「倭国」に伝来したのは一般にははるか後代の「九世紀」とされておりこの「六世紀末」から「七世紀」という時代には「流布」していなかったとされます。しかし「一般への流布」とは別次元のこととして「隋帝」から「倭国王」への「訓令」として直接伝えられたとする仮定はそのような通説と矛盾するものではありません。むしろこう理解した方が「龍女伝説」に対する解釈として適切であるように思います。
 つまりこの『提婆達多品』が補綴された『法華経』の伝来が「隋」との交渉の結果であり「開皇年間」であったとみるべきとすると、上に見るように「厳島神社」などの「創建年次」が「五九三年」とされている事はまさに整合すると言えるでしょう。つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」(ないしは「隋使」)が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち来たったその年であったのではないかとさえ考えられる事となります。もし「伝承」が後代に「造られた」(創作された)とするなら『書紀』の記述を踏まえるのは自然であり、それに沿った形で「伝承」を形作るものと思われ、『書紀』と食い違う、あるいは『書紀』の記述と反する「伝承」が造られたとすると甚だ不自然でしょう。その意味で「端正年間」という表現も含めて「厳島創建伝承」には『書紀』の影は見えないとみるべきであり、その意味で「独自資料」という性格があったとみるべきです。「伝承」だからという理由だけで否定し去ることは出来ないものと思われます。
 また、上に見る「厳島神社」の創建伝承は、仏教(法華経)の伝搬の発信地が「九州」であったことを示していると同時に、「宗像三女神」に対する信仰と関連して語られていることが注目されます。
 「九州」にその本拠とでもいうべきものがある「宗像三女神」の分社、末社やそれに関係した「寺社」が「東方」に増えていくのですから、伝播の経路としては「筑紫側から近畿側へ」というベクトルであることに留意すべきでしょう。(さらにいえばこれは「遣隋使」の帰国の行程と関係があるのかも知れません。帰国の途次「宗像」の海人族に瀬戸内航行の護衛を頼んだことがこの「厳島」や「伊予三島」の創建説話に関係していると言う事も考えられます。)
 ところで、この「厳島神社」創建に関わって「神功皇后」が登場するのは唐突に思えますが、それは「神功皇后の伝説」を含めた「神話」がこの時造られたからという可能性もあると思えます。
 『古事記』を見ても「推古」の時代までしか書かれておらず、それは「記紀」の原資料となった各種の記録や説話をまとめたものがこの「六世紀末」付近あるいはその後継王朝の時代に一旦成立したという可能性が高いことを示すと思われ、『隋書』で「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」か、その後継者が「勅撰事業」として編纂させたものが、後の『書紀』編纂の際の重要な根拠資料になったという可能性があると思われます。ただし『古事記』の「序文」は「唐」の「長孫無忌」等がまとめたという「五経正義」を下敷きとしているとされますから(※)、それ以降に書かれたものであることは間違いないものの、その内容は当然それ以前のこととなります。この時点で諸々の説話がまとめられ、成立したとすると、「神功皇后」説話が元々は「最近」の話(七世紀から遡ることせいぜい百年以内)として書かれたものであったという理解も可能ではないでしょうか。
 「記紀」(特に『書紀』)でこの「神功皇后」の時代がかなり過去のこととされているのは、『三國志』の「卑弥呼」に仮託しようとした「八世紀」の造作と考えられますから、本来の年次に書かれているかははなはだ疑問です。(そもそも『書紀』の「神功皇后」の部分は、「森博達氏」の論によれば「唐人」の手になる部分(α群)ではなく、「日本人」編纂者の手による部分(β群)であり、より後代の成立であって「潤色」「改定」の手がかなり入っている部分であると考えられています)

(※)古田武彦「古事記序文と五経正義」(『多元的古代の成立』(下)邪馬壹国の展開 二〇一一年ミネルヴァ書房)

(以上は2015/05/25に更新されたものです)
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「大国主」と薬師信仰(再度)

2024年02月25日 | 古代史
これもまた以前の投稿の再アップです。(会報へ投稿したものではありません)

 「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。
 「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれていますが、この「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられています。ただし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。
 しかし「光背」で、特に「用命」という時代設定にされているのは、「仏」の力と共に「薬」などの力によって「病」を直すという事が行なわれるようになったのが「用命」つまり「推古」の兄であり「聖徳太子」の「父」とされる人物の時代であったという「伝承」があった事を示すものとも思われます。(これは「天然痘」に対する救済としてのものであった可能性が高いと思料します)
 そして、それはそのまま「阿毎多利思北孤」の時代に重なるものであり、この年次付近に「薬師信仰」の根源があることを示す為にこの「如来像」は造られ、また「光背銘」が書かれたものと考えられ、この「薬師如来」の「光背銘」や「如来像」の「形式」などが「擬古的」なのは、「天王寺」の「施薬院」の創建時期と重ねることを想定したものと推定します。
 ところで、「薬師如来」と「素戔嗚尊」が同一化されている事例が多いことは注目すべきであり、例えば京都の「八坂神社」は、祭神が「牛頭天王」とされていますが、これは「素戔嗚尊」のことを示すといわれ、また「薬師如来」の化身でもあるとされています。
 つまり「薬師如来」と「素戔嗚尊」が関係づけられているわけですが、「素戔嗚尊」が「出雲」に深く関係した人物であることは言うまでもなく、「出雲」の「薬」に対する知識というものが「薬師」信仰の下敷きにあったと考えるべきことを示唆します。
 例えば「アイヌ」が狩りに使用していた「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果が期待されていました。
 そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。しかし、その「トリカブト」の「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「和名抄」によれば「於宇」と発音されていました)本来「出雲」の特産であったという可能性もあります。(「トリカブト」は東国や北海道だけではなく全国広範囲に自生しており、当然「出雲」にも存在します)
 「トリカブト」は「漢方」の世界では中世以前から「鎮痛」「温熱」「利尿」など有効性の高い治療薬として著名であったものです。また「トリカブト」は日本全国至る所に繁茂していますから、特にそれについての使用法などがアイヌのように「東北・北海道」に居住していた住民などに限定された知識であったというわけではないと思われます。それは「コンブ」が「軍布」と記され、「アイヌ語」をそのまま「漢字」に当てはめていると考えられるのに対して、「トリカブト」や「ブス」あるいは「於宇」(オウ)も「アイヌ語」ではない(アイヌ語では「スルク」(Suruku)と呼称されています)という事からもその関わり合いが直接的ではないか、あるいは関わり合いがあっても、その程度が非常に薄い事を示すと考えられるからです。
 つまり、「於宇」という「和語」で記されていることを考えると、「東国」から伝わったものではなく、それとは全く別の次元(領域)との関連で発生したことを示唆するものと言えるでしょう。
 中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されており、それは「五十二病方」と呼称されているものですが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」(「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指すもの)関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われ、このような「医薬」についての知識が「倭国」にかなり早期に伝えられていた事は蓋然性の高い出来事と思えます。この事からも「トリカブト」に関する知識というものが「アイヌ」からと云うよりは「中国」から伝来したものである可能性が高いと考えられ、そうであれば「東国」から「特産」となったのは「後代」のことであり、「東国」に行政制度の網がかぶせられ、「支配地域」として「倭国体制」の中に強力に組み込まれることとなった「七世紀」初め以降のことであろうと考えられるものです。そうであれば「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのはそれ以前のこととなるわけであり、一番契機となった時点は「遣隋使」による「医薬」の伝来ではないでしょうか。
 「六世紀末」に行われた「遣隋使」とその返答使としての「隋使」の往来では、多くの文物が導入されたものと見られますが、医薬の分野においてもその時点の最先端の知識や技術あるいは薬などが倭国へ導入されることとなったと考えて不思議はなく、この時点が画期となったことは間違いないと思われます。
 「史料」から見てその主役は二人おり『元興寺伽藍縁起』に「裴世清」と共にその名が書かれた「遍光高」という人物と、さらに「倭国」から「遣唐使」として送られ、特に「医薬」の知識を持って帰国したため以降「薬師」と呼ばれたという「恵日」という人物が挙げられます。
 「遍光高」は「尚書祠部」という役職であったことが『縁起』に残されていますが、この「尚書祠部」の管轄範囲には「医薬」も含まれており、この時の「来倭」ではそのような「医薬」に関するものも彼との交渉の中に含まれていたのではないかと思われます。
 『隋書』には「倭国」に関して「医薬」に直結する記事はありませんが、「知卜筮尤信巫覡。」という文章があり、そこからは「病気」などに罹ったときに「祈祷」「お呪い」などによって治療行為を行っていたという可能性が示唆されます。このような背景の中で「倭国」から「隋」に対して「最新の医療技術」あるいは「薬」などについての要望があったとしても不思議ではないでしょう。それに対応するように「隋」も「裴世清」という通常の外務官僚以外に、「尚書祠部」という役職の担当官を「副」として随行させたものと見られ、彼の存在意義もそこにあると思われます。
 さらに「恵日(惠日)」は『書紀』が描くような「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったという可能性が高いものと推量され、その「遍光高」の示した医療技術などを実際に「本場」で習得しようとして派遣されたものと見られ、その後の「漢方医療」の祖とも言うべき位置にいると思われます。(ただし、後にその子孫は「医薬」とは違う職掌に就いていたため、「薬師」という「姓」を忌避して新しい「姓」を朝廷から下賜されたことが『続日本紀』に見えています。) 
 これらのことから「薬師如来」と「出雲」さらには「隋」との間には「深い」関係が考えられるものですが、その「実体」としては時代的にも「阿毎多利思北孤」ないしは「利歌彌多仏利」へ投影されていたものと思料され、それはこの「薬師如来」の発祥につながったものとして、「釈迦三尊」の両脇侍である「薬王菩薩」と「薬上菩薩」の存在があったことを想定すべきであるように思われます。
 「薬師如来」は、いわばこの両「菩薩」の「発展形」とも言えるものと思われ、「鬼前太后」と「干食王后」の業績が、年月の経過と共に「美化」「聖化」されていく経過があったと見られるとともに、そこに「阿毎多利思北孤」等の業績も加味されることとなっていったと考えられます。
 このような「美化」「聖化」が行なわれたのは「七世紀なかば」の時代であり、「倭国王」の皇后であった「厩戸勝鬘」によるものと推察され、(これはまだ「利歌彌多仏利」の時代のこと)「鬼前太后」達を崇拝する為と同時に、自分の夫であり「倭国王」である「利歌彌多仏利」の「延命」を祈願して「薬師寺」を創建したと推定されます。

(以上は2015/01/18に更新した文章となります)
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「天王寺」の「施薬院」について ―「出雲」との関連において ―(再度)

2024年02月25日 | 古代史
これも以前アップしたもので、また会報に投稿も未採用となっているものです。

「天王寺」の「施薬院」について ―「出雲」との関連において ―

 「要旨」
「阿毎多利思北孤」は「天王寺」を創建すると共に「施薬院」など医療施設を建て、そこで彼の近親の女性達により「医薬」「医療」などを提供していたと推定できること。その「医」に関する知識と技術は「六世紀後半」以降に「出雲」から導入したと推定できること。これらについて述べます。

一.「施薬院」と「勝鬘院」
 「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば「元亨釈書」によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方が来たときには、その傷口の「膿」を口で吸い取ったとされています。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。
 ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。
 この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(以上「四天王寺縁起」による)
 このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。
 また「四天王寺」には「亀井の霊泉」と呼ばれる「泉」があり、これは古来からのものと考えられ(注一)、創建当時よりこれに対する信仰も篤いものとされます。それもやはり「病」あるいは「怪我」などの治療効果を期待してのものであったと考えられます。
 ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在が注意されます。この「両脇侍」は「聖徳太子傳私記」では以下のように「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると考えられているようです。

「聖徳太子傳私記」
「…次法隆學問寺
先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」

 この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているともされ、それは「法華経薬王本事品」の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているという指摘があります。(注二)
(以下「法華経薬王菩薩本事品」の当該部分を示します)

「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」

 この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」(実は「隋書俀国伝」に「倭国王」として記された「阿毎多利思北孤」を指すと考えられます)をかたどったものとされているとされており、このことの類推から彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされています。(ただし、この「干食」が名前の一部であるとは確実にはいえません)
 そして、この「釈迦如来」の「両脇侍」に「薬王菩薩」と「薬上菩薩」として彼女たちが配されているということは、彼女たちの「医療」に関する「功績」を示唆するものだと思われるのです。
 この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)の病に際して「造像」され始められたものとされています。(注三)その「銘文」からは、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められたと考えられますが、この「両脇侍」はその後、同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」と「畏敬」を表すため造られたものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられますが、それは上記「施薬院」を含む「四箇院」での「怪我や病気で苦しむ人を救う」という事業の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないかと推察され、(注四)この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」である「鬼前太后」など彼の近親の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「総合的福祉施設」であったものではないでしょうか。
 この「施薬院」には「薬草」を栽培する場所が附属しており、そこで数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また「万葉集」にも、「茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振る」という有名な歌があり(額田女王の歌)、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域であったと思われます。
 この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「六六〇年代」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれほど昔のことではないと考えられます。それは「標野」そのもののについても「記紀」には全く現れず、「万葉」においてもこれが「最古」の例と考えられることからも言えると思われ、この歌が詠われたとされる「六六〇年代」をやや遡る「七世紀前半」付近に起源があるものと推定するのが相当と思われ、これらで得た「薬草」なども「施薬院」で人々の治療に役立てていたものと思料されます。(「紫草」については「小野妹子」が隋から持ち帰ったという伝承があるようです。真偽は定かではありませんが、奇しくも時代は一致します。)
 また、『書紀』には「藥獵(薬がり)」が行われていた事が記載されています。

「(推古)十九年(六一一年)夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。…」

 ここでいう「藥獵」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようであり、これは「施薬院」で使用する薬を採集するためのものであったのではないでしょうか。
 この記事は「五月五日」にこの「藥獵」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「夏」の時代の「農事暦」である「夏小正」では「此日蓄採眾藥。以蠲除毒氣。」とされていますし、「六朝時代」の「荊楚」地方(揚子江中流域)の「年中行事」を記した「荊楚記」では「荊楚人。以五月五日並蹋百草。採艾以為人。懸門戶上。以禳毒氣。」などとされています。(以上は「藝文類聚」より引用)
 この「藥獵」の日については「五月五日」という「数字日付」で表されており、「干支」表記ではありません。このような数字日付記事は『書紀』では非常に少なく、(他に三月三日など)月の行事として日付が固定されていたことが窺えます。この「五月五日」という日付そのものが『書紀』ではこれが「初見」であり、この年次付近で「王権」の正式行事として確定したのではないかと考えられます。
 これに関しては『隋書俀国伝』には「毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。」と書かれており、「正月」の他「節」ごとの催しはほぼ中国と同じであると書かれています。
 ここでいう「節」とは「節句」を意味するものと考えられ、それが例えばこの「五月五日」の「薬草」を集めることによる「疾病」を防止する行事等であったと思われ、記事によればこれらは最初の遣隋使が派遣された「六〇〇年時点」では既に「倭国内」ではごく一般的であったこととなるでしょう。その意味では「推古紀」の記事は「遅すぎる」ぐらいではないかと思われますが、「王権」の「行事」として行なうようになったのがこの年次付近であることを示すものかも知れません。
 後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても(字義通り)「蒲(がま)」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」は「古事記」で、「大国主」の処方により「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。
 「推古紀」でも「薬狩り」をした場所として上に見るように「兎田野」と書かれており、「兎」という字が入っているのは「偶然」ではないと思われます。
 
二.「施薬院」と「出雲」
 ところで、「古代」において「治療」というと、先にも触れましたが、「大国主」に関連した説話として知られている「因幡の白兎」というものがあります。(「古事記」では「稻羽」)この中では「大国主」は「八十神」に欺された「兎」に「薬」として「蒲」(がま)の穂を与えたとされます。
(以下「古事記上巻」の当該部分を示します)

「…於是大穴牟遲神敎告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之『蒲黄』敷散而輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如敎其身如本也 此稻羽之素菟者也 於今者謂菟神也…」

 ここでは『蒲黄』つまり「蒲」の「穂」の「花粉」を敷きつめた上に身体を横たえ回転させて、皮膚に付着させて治癒させたと云うように書かれています。
 そもそも「出雲風土記」には大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。
 その後も「続日本紀」等の史料には「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めていることなどが書かれ、「出雲」と「医術」の関わりが深いものである事及びその背景に「医」と「薬」に関する長い伝統があることを推定させるものとなっています。
 また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされていますし、『書紀』の「神代第八段一書第六」では「大国主」と共に人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。

「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩賴。」

 また「古事記」では「八十神」にだまされて、大やけどを負った「大国主」自身が「貝」や「蛤」に助けられるというストーリーが語られていますが、それは「貝」の煮汁などによる効能を指すと考えられ、これも「出雲」における「薬」の知識の一端を示すものと推量できます。

「古事記(上巻)」「…於是八上比賣答八十神言 吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲神 故爾八十神忿 欲殺大穴牟遲神共議而 至伯岐國之手間山本云 赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者 汝待取 若不待取者 必將殺汝云而 以火燒似猪大石而轉落 爾追下取時 即於其石所燒著而死 爾其御祖命哭患而 參上于天 請神産巣日之命時 乃遣貝比賣與蛤貝比賣 令作活 爾貝比賣岐佐宜【此三字以音】集而 蛤貝比賣待承而 塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行…」

 さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
 「伊予国風土記」(「釈日本紀」に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
 また「風土記」逸文として「北畠親房」の「准后親房記」という書物(これは正体不明)に「伊豆国風土記」からの引用があるとされます。そこでは「大己貴」(「大国主」)と「少彦名」とが、民が早死にすることを憐れんで、「薬」「温泉」の術を定め、そのような中に「箱根」の湯もあるとされています。
(以下「風土記」に関しての読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)

「准后(じゅごう)親房の記に 伊豆國風土記を引きて曰はく 温泉(ゆ)を稽(かむが)ふるに 玄古(むかし) 天孫(あめみま)未だ降りまさず 大己貴と少彦名と 我が秋津州(しま)に 民の夭折(あからさまにしぬる)ことを憫み、始めて禁薬(くすり)と湯泉(ゆあみ)の術(みち)を制めたまひき。伊津の神の湯も 又其ま数にして 箱根の元湯是也。 …」

 この「温泉」記事に関連したものとしては「出雲風土記」にも後の「玉造温泉」へとつながる記事があります。そこに出てくる「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が言葉が話せずにいたものが「快癒」した事とつながっているものであり、「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られていることとなります。
 これらの「出雲」と「薬」あるいは「治療法」というものの間に深い関係があることや、「大国主」という存在が「力」だけを背景にした統治者ではなく「医療」など文化的側面においても傑出した存在であったことなどについては既にある程度認知されているようです。しかし、それらは一般には「弥生時代」のことであるとして、いわば「過去」の出来事というような扱いをされています。
 しかし、そうとばかりは云えないと思われるのです。それは、『書紀』で「医」「薬」について具体的な記事が見られ始めるのが「六世紀」半ばのことであり「温湯」に至っては「舒明紀」の「幸干攝津國有間温湯。」(舒明三年(六三一年)秋九月丁巳朔乙亥条)という段階まで記事が見られません。それまでも「湯」という単語に関連する記事は各種あるものの「温湯」ないし「温泉」という記事はこれが初出なのです。
 このように各種の資料等が示す「出雲」と「薬」また「温湯」というものの間に他の地域より緊密な関係が存在している事と、「六世紀」から「七世紀」というかなり「新しい」年代にそれらの記事が『書紀』に現れること、また既に見たように同時期に「施薬院」が設置され、病と傷の治療に「薬草」などの知識が導入されるようになることの間には深い「関係」があるように考えられるのです。
 例えば、「アイヌ」が狩りに使用していたことで有名な「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果があるものとされ、実用されていたようです。
 そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから「七世紀末」当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。

「无耶志国薬烏…」(藤原宮跡西面南門地区出土木簡)

 ここでは「鳥…」とあるだけですが、「薬」とあること、同じ場所から出土した木簡に「无耶志国薬桔梗卅斤」とあり、「桔梗」は後の「延喜式」でも「薬草」として扱われていましたから、この「鳥…」も「薬草」と考えられ、該当するものは「鳥頭」と表記されることの多い「トリカブト」であると思料されます。
 この「鳥頭」や同じく「トリカブト」を意味する「付子」「木勇」については、いずれもその「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「於宇」と発音されていたものです)本来「出雲」の特産であったという可能性があるでしょう。「出雲風土記」には「薬草」等の記載がぬきんでて多いことは既に述べましたが、中でも「意宇郡」が最多です。このことから、「トリカブト」も「意宇郡」の特産であった可能性が高いというのは、無理な想定ではないと思われます。
 当時も今も「薬」に期待する一番のものは「痛み」の解消であると思われ、それが「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられます。そのための「特効的」なものとして「トリカブト」が用いられたものではないでしょうか。
 「鳥頭」については「藤原京」木簡段階以降「東国」から「貢上」されていますが、「それ以前」はどうであったかというと、そもそも「東国」が「倭国」の直接統治範囲に入ったのが「七世紀初め」のことと考えられますから(注五)、それ以前から「トリカブト」が「武蔵」等東国から「貢上」されていたとは考えにくいこととなるでしょう。その場合「出雲」の「意宇郡」がその主要な貢上地域であったと推定できます。
 このことから、「トリカブト」を初めとする「薬草」に関する知識は、「出雲」につながるものであり、「施薬院」等の「四箇院」が造られる時点(「六世紀後半」から「七世紀初め」か)で、「王権」の内部に「出雲」の「薬」に関する知識あるいは「医療技術」のようなものが導入されたことを示すものと考えられます。また、それは「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」あるいは「鬼前太后」などという「王権中枢」の人物達と「出雲」の間に何らかの関係があった事を推定させるものといえるでしょう。(そのことについての詳細は別稿に譲ることとします)

(注)
一.「浪華百事談」等によると「人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、上古図の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり」とされ、この「浪華百事談」は明治時代の記録ですが、「亀井の霊泉」は「創建」の当初から存在していたものという伝承があり、「寺」が「移転」後も元の場所に「明治」においても「泉」は涸れることなく残っていたもののようです。
二.亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」仏教芸術一三二号 一九八〇年
三.「釈迦三尊像」の「光背」銘文のうち「関係部分」は以下の通りです。(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)(「/」は改行を表します)
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/…」
四.「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「施薬院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。
五.拙稿『「国県制」と「六十六国分国」 ―「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において』古田史学会報一〇八号及び一〇九号


他参考資料
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
中村元「現代語訳大乗仏典三『勝鬘経』『維摩経』」東京書籍
間壁葭子「古代出雲の医薬と鳥人」学生社一九九九年
中野聰「法隆寺釈迦三尊像の所依経典と美術表象」龍谷大学仏教文化研究所所報第三十四号
「延喜式」「聖徳太子傳私記」「元享釈書」については「国立国会図書館デジタル化資料」より閲覧
「芸文類聚」は「台湾中央研究院漢籍電子文献」サイトによって検索し閲覧。
『四天王寺縁起』は「奈良女子大学附属図書館坂本龍門文庫善本電子画像集」を閲覧。
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