古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』(20)

2024年02月10日 | 古代史
引き続き「戸と家」について考察します。

「戸」と「家」(2)

 「韓伝」においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されています。しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。
(以下「魏志東夷伝」から)

「韓伝」
「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」

 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一-五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また「韓伝」の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。
 たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われ、いずれにしろ「家」と「戸」とは「イコール」ではないこととなります。 
 同様なことを同じ「韓伝」の「弁辰」について検討してみます。

「韓伝」
「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」

 ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対2~3」という数字(比)には遠くおよばないこととなるでしょう。
 以上のことは、よく言われるように「戸」と「家」の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものであり、「戸」と「家」の関係は国ごとに異なるということを示すものといえるでしょう。
 以上見てきましたが、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。しかし、『倭人伝』では「夫餘伝」などと違い同じ「国」の人口などを記すのに「戸」と「家」が使い分けられているように見えます。
 この場合考えるヒントとなるものは、「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
 つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものであると考えられるのに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。(無理すれば数えれば分かるものとも言えます)
 これを『倭人伝』に当てはめると「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、その意味するところを考えると、「魏使」が通過した際この両国については「資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「開示しなかった」というような事情があったと考えることができるでしょう。
 彼ら魏使達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
 「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
 (ちなみに「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)
 以上から「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったからと言うことも考えられます。
 この『倭人伝』の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した際の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測すると言うだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
 このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
 上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなります。
 ところで、「投馬国」も「戸数」が表記されており、同様に「担当官僚」から正確な情報を入手したものと考えられ、現地まで実際に赴いたという可能性が高いものと思料しますが(この時も当然「一大率」が魏使をサポートしたものと見られます)、この「投馬国」記事の「官名」は独特なものがあります。これらは「魏使」が実際に現地に行ったということを示しているものと思われ、それは主に案内した「一大率」あるいは「邪馬壹国」首脳にそのような行動の理由(あるいは動機)が存在していたものと思われますが、最も考えられるのは「魏」にとって見逃せない「呉」との関係ではなかったでしょうか。
 つまり「投馬国」は「呉」に対する防衛線を構成していた主要な国の一つではなかったかと考えられるのです。そう考えると「南」という大方向表記からは「肥後」さらにはその南の「薩摩」が西方から侵入してくる外敵に対して要衝の位置にあることは間違いなく、「投馬国」として最も想定可能な領域であると思われます。
 このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは『倭人伝』中の以下の文章からも推定できます。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」

 ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」や「投馬国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けたと言う事を示すものです。
 このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
 「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。(馬韓は他の地域から流入する人が多かったものではないかと推察されます)それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 いずれにしろ「倭」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。
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「倭人伝』シリーズ(19)

2024年02月10日 | 古代史
ここでは『倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について分析します。

「戸」と「家」(1)
 「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)
と理解されているようです。
 また「魏志」の中では「戸」と「家」とが両方見えており、「戸」と「家」の意味が異なるとすると「なぜ」倭人伝の中には「同居」しているのか、その意味の違いが問題になります。
 『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
 これについては「古田氏」は以下のように述べられます。
 『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』(※)
 ここでは、「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
 「狗奴国」との争いが続いてる状態があったとすると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。そのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」の表記には別の意味があるのではないかと考えざるを得ません。
 『倭人伝』だけではなく「夫餘伝」などにも「戸」と「家」が同居している例があります。
(以下魏志東夷伝から)

「夫餘伝」
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句驪、東與〓婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。戸八萬。其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人〓大、性彊勇謹厚、不寇鈔。國有君王、皆以六畜名官。有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。諸加別主四出道、大者主數千家、小者數百家。食飲皆俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。 」

 これを見ると、「夫餘」全体については「戸」で表記されているのに対して、「諸加」の「大者」「小者」についての表記では「家」が使用されています。
 ところで、「魏志」では(『倭人伝』や「扶余伝」など)、「下戸」という存在が書かれています。この「下戸」を一部には「個人」とみなす考え方があるようであり、そこから「戸」と「口」ないし「人」は等しいという議論もあるようです。しかし、文脈上そうは受け取れないと思われます。
 たとえば「扶余」では「下戸」は「奴僕」となるとされ、それは「豪民」に対するものとして書かれています。

「邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。」

 また「諸加」に対応する存在としても書かれています。

「有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。」

 つまり「諸加」は敵が来た場合自ら戦い、「下戸」達と飲食を共にするという意味ですが、この場合の「諸加」という表現は「諸加」に属する、あるいは部類する人達、つまり「階層」を指すものであり、「個人」を指すという訳ではないと考えられます。そもそも「敵」そのものも「個人」に対するものではありません。明らかに「国」あるいは「地域全体」に対する外敵を指すものであり、それに対応する「諸加」や「下戸」が「個人」であるはずがないといえるでしょう。どちらも「層」ないしは「階級」の名称であり、「個人」を指す表現とは考えられないこととなります。さらにこれを「個人」と考えると、彼(ら)の子供はどうなるのかと言うこととなります。彼が「下戸」なら必ず彼の子供も「下戸」でしょう。「夫婦」の場合も同様です。これは要するに「下戸」に限らず、「戸」が「個人」を示す単位としての概念ではないことを示すものです。
 ただし、以下の例では「戸」は「入口(ドア)」の意で使用されていると思われます。
 
「高句麗伝」
「其俗作婚姻、言語已定、女家作小屋於大屋後。名壻屋。壻暮至女家『戸』外、自名跪拜、乞得就女宿。如是者再三、女父母乃聽使就小屋中宿。」

「東沃沮伝」
「其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作『戸』。新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者爲數。又有瓦〓、置米其中、編縣之於槨『戸』邊。」

 「高句麗伝」の記述は「女の家の入口の外」という意味であり、「東沃沮伝」の例では「槨」の「頭」の部分に「入口」(扉状のものか)を作るとされていますし、「槨」の「入口」の所に「米」を入れた「袋状のもの」を置くとされています。
 これらの例は「戸」を現代的な「入口」(「ドア」という意味の「と」という場合に近いか)という意味と判断できます。それは「家」の「戸」の外という表現からも明らかであり、この場合は「口」と意味が通じることとなると思われます。このように「戸」と「口」の意は近い場合もあることが分かります。
 このように「口」が「人」の数ないしは「人」そのものを意味するのは、「捕虜」ないし「奴僕」を意味すると思われる「生口」という表現でも明らかです。
 また、「高句麗伝」でも「口」が「人」の意(人の数の意)で使われているのがわかります。
 
「…建安中、公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口…」
「…其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」(以上「高句麗伝」)

 このように「口」と「人」と「戸」が共通の意味を持って使用されている場合も考えられる訳ですが、「人」の数を表す場合は「口」という表記が多用されるようであり、「戸」で「人」そのものを表す事はないようです。
 ところで、『魏志倭人伝』の「刑罰」の中に「妻子、門戸、宗族」と呼称されるものが出てきます。

「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」

 このように「妻子」とは別に「門戸」と「宗族」というものがあるとされ、各々その意義を考えると、「門戸」とはその字義から考えても、「妻子」の他、同じ「門」や「戸」(「と」つまり「ドア」)を共有する一つ屋根の下に住む「親兄弟」程度の範囲までを言うと考えられます。さらに「宗族」とは「血縁」を同じくする「親族」達(この場合は同居であるかどうかを問わない)を指すと考えられますが、いずれにしても個人がどの「門戸」に属するか、その「門戸」はどの「宗族」に属するかというような情報も「戸籍」として把握されていたと考えられます。
 『旧唐書』の例では「高麗」と戦った際の「唐」の「太宗」の「詔」によれば「家」とは「主人」と「妻子」がいるところという認識であるようです。

「遂受降、獲士女一萬、勝兵二千四百、以其城置巌州、授孫伐音爲巌州刺史。我軍之渡遼也、莫離支遣加尸城七百人戌蓋牟城、李勣盡虜之、其人並請隋軍自効、太宗謂曰 誰不欲爾之力、爾家悉在加尸、爾爲吾戰、彼將爲戮矣、破一家之妻子、求一人之力用、吾不忍也。 悉令放還。」

 つまりここでは「家」とは共に暮らす「夫婦」「親子」を意味するものとして使用されているものです。
 後の「貧窮問答歌」を見ても「父母は 枕の方(かた)に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て」とされ、「夫婦」「親子」が同じ家に暮らしていると見られ、これが一般の「家」の実体ではなかったかと考えられます。
 「戸」は制度としての「戸籍」の存在が前提の語であるわけですが、「戸」の把握の実態は上のように一室屋根の下にいるひとまとまりの人達を一つの「戸」として捉えるのが自然であり、また当然であったはずです。そう考えれば「家」と「戸」とはほぼその内実として異ならないことが予想されるものです。

※『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)
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『倭人伝』シリーズ(18)(17は間違い)

2024年02月09日 | 古代史
「卑弥呼」の年齢について分析します。

 ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

 この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑弥呼」の即位は「一九〇年」付近が措定されることとなりますが、その時点で「年已長大」とすると、「魏」に遣使した時点では「八十歳程度」の老婆となります。彼女がこのぐらいの長寿であったとするとそのことが『倭人伝』の中に特記事項として書かれなかったはずがないと思われます。「年已長大」という表現は子供ではないという程度のものという解釈もあり、いずれにしても八十歳を超えるような「長寿」であったとはいえないこととなります。
 また「魏使」が「金印」等を「仮授」するために「来倭」した時点の「卑弥呼」についての印象として「年已長大」としていると見ることもできるかもしれません。そうであれば「二三八年」付近で「四十歳代」程度となるわけですが、それでは即位した時点を「一九〇年」程度とすると、まだ「0」歳の赤子であったこととなってしまうでしょう。それはあり得ないとして、「壱与」のようにまだ「十三歳」程度の「幼女」のころに即位を想定すると、その即位年次は「二一〇年」付近と推定されることとなりますが、これでは「歴年」が二十年以上の期間を指すこととなってしまいます。これらはいわば相互に矛盾していると見られることとなります。つまり「どこか」がおかしいと思われるわけです。
 これについてはすでに述べたように「帥升」という存在を「男王」の在位期間の起点として考えている点に問題があるといえます。つまり「光武帝」から金印を授けられた「委奴国王」と「帥升」については「倭の奴国王」であって「倭王」でもないし、「倭国王」でもなかった(もちろん「邪馬壹国王」ではない)と考えられるわけであり、そうであれば「男王」という表現の中にこの二人は入らないということとなります。
 「帥升」以降のどこかで「奴国」が没落し「邪馬壹国」が取って代わり、その時点で「男王」が即位し、彼の時点で「倭王」と称すべき程度に統治範囲が広がったという可能性を考えることも必要と思われます。
 「其国」という表現が「邪馬壹国」ではなく「諸国」を含む「倭王権」全体を指すと思われることからも、「倭」のほんの一握りの支配領域しかなかったと思われる「帥升」やそれ以前の「倭の奴国王」は該当しないという可能性が考えられるわけです。
 そして、そこから数えた「男王」の統治期間が「七~八十年」であったとすると、「卑弥呼」の即位は「二〇〇年以降」であった可能性が強くなりますが、そうであれば「魏」へ遣使した「二三八年」付近で「四十歳代」ということも当然有り得ることとなります。
 即位に至る経過から考えて即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」という実績があったからこそ「王」として共立されたと見るべきですから、そうであればその時点で幼少であったとは考えにくく、それは「年已長大」という形容と矛盾しないこととなります。
 さらに言えば「男弟」が「佐治國」していたというのも「卑弥呼」の統治が開始された時点からのものとみるべきではないかと思われ、そのためには「男弟」がそのような事が可能な年令に達している必要があり、これをせいぜい二十代後半程度を下限として考える必要があるでしょう。それもまた「卑弥呼」の年齢として「年已長大」とされることとやはり矛盾しないと思われます。
 このことから「邪馬壹国」が「倭王権」の中心国となったのは少なくとも「魏」に遣使した時点から数えて七~八十年以前のことであり、「歴年」とされる「数年間」を足して考えると「一五〇年」よりは以前のこととなるでしょう。
 「卑弥呼」が即位してすぐに「遣使」したかどうかは不明ですが、「公孫淵」の討伐という外的要因が整った事から「遣使」が行われるようになったと見るべきですから、それは「卑弥呼」の即位と直結した話ではなかったであろうとは思われます。なぜなら「遣使」は「狗奴国」との関係の中でのできごとであるわけですが、「卑弥呼」はそれとは別の理由で「共立」されたと見られるからです。
 そうであれば「卑弥呼」の即位は「遣使」の時期をやや遡る「二一〇~二二〇年」付近が措定され、「邪馬壹国」が「倭」をほぼ制圧したのは「一四〇年付近」であるらしいことが推定できますから、「帥升」の亡き後を襲い、「奴国」から「倭王権」の座を奪取したという可能性が高いこととなります。
 その年次以降「邪馬壹国」が「倭王権」の盟主となり二代あるいは三代「王」が交替したものと思われますが、「後漢末」から「魏代」にかけて「混乱」が発生し、「卑弥呼」が即位するまで数年間「倭王」が不在であったとみられることとなるでしょう。
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『倭人伝』シリーズ(17)(16はf間違い)

2024年02月09日 | 古代史
「卑弥呼」についての分析を続けます。

 既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。
 「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
 そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうちかなりの数が半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。)
 このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「伝染病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。
 「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣(特に牛)がなく、当時の人々は「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。(「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します)
 このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
 このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。
 「宗教」にはいくつかの発展段階があり、「キリスト教」や「浄土教」など「来世」における救済を説くものは発展の後期段階のものであるのに対して、それ以前の宗教は「現世利益」あるいは「現世救済」を説くことが特徴です。社会の構造などが「強力」で不正が改善される気配や徴候が全く見られない時点において、現世ではそれらが決して解決されず救済もされないと多くの人々が考える(いわば「諦める」)時点において「来世救済」という考え方が発生するものです。つまり「来世救済」が説かれるまでは人生は「死」で終わるのであって「来世」という概念そのものがなかったというわけです。(あの世も天国もない)それらは後に仏教によって列島に持ち込まれた概念であり、それ以前には「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。(死とは救済されなかった状態を意味するものともいえます)
 この「後漢」あるいは「倭」において「宗教」が求められたというのも、それは当然「現世利益」つまり「命」が助かることを多くの人々が望んでいたことを示しますが、それは言い換えると多くの人々の「命」が失われつつある現状があったことを示すものです。
 それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務(実務)の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、当時としては宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。
 時代も地域も異なりますが、「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。
 「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、彼女も「宗教的救済」としての「祭祀」を行っていたものであり、それにより「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。
 この「卑弥呼」の行為を「王」として行っていたことから、その行動は「国家行為」という高い次元のものとなったわけであり、「神勅」という形で民衆にそれが伝えられ、彼等にとるべき行動を限定させ、「暴発」が押さえられた民衆を「男弟」が「実務」、つまり実際の統治機構を機能させる役割の中で、彼が「コントロール」するという「兄(姉)弟統治」の体制が構築されたものと思われるわけです。
 ところで『書紀』の『孝徳紀』をみると「薄葬令」の後に旧習を止めるようにと言う「詔」が続いています。そこでは「祓除(祓え)」がキーワードとなっています。

「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。
復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。
復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。
復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」

 以上のように「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」(鍋のようなもの)などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それをたどると「卑弥呼」の「鬼道」にまで行くのではないでしょうか。
 「卑弥呼」(および男弟)は「疫病」(「天然痘」など)を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。(『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われますが、特にそれが「天然痘」などの「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。)
 それが効果があるかは微妙ですが、このように「病原菌」が人の移動にともなうものという見識は持っていたものと思われることとなり、それに対する警戒であると理解できるでしょう。そう考えると「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの施策があったという可能性が出てくると思われます。つまり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることができると思われるわけです。これらを実施すれば「エピデミック」に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。
 この考え方に近いものが「祓」となり、さらに後の時代(平安時代など)には自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」(「木綿」など)を手向ける風習として残ったものと思われます。
 たとえば『延喜式』には「六処界川共御禊」があり(『延喜式齋官式』)「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは一見「宗教的」な部分にとどまるものと思われがちですが、実態としては「伝染病」に対する方策の一つであり、それを「宗教的」に具現化したものであることが了解できるでしょう。
 この時「卑弥呼」が「王」となったこと、その後「壹與」もまた「王」となって政情が安定したことが伝えられていますが、このように「女性」あるいは「幼少」の人間が「祭祀」の主宰者として選ばれたということには二つの理由があったものと思われます。
 一つは「王」の陰から実力者(この場合「男弟」)が実務をやりやすくするためですが、さらに一つは「実務」の能力が高いものは「霊的能力」が低いと思われ民衆の支持を受けられないと判断されたためではなかったでしょうか。
 すでに述べたようにこの時代には成人した五体満足な人には「霊的能力」がない(欠けている)と考えられていたものと推測され、「祭祀」の主宰者には不適格とされていたものと思われます。その意味で「女性」(特に「幼少」あるいは「老齢」の女性)が「巫覡」として尊敬を集めていたものと思われるわけです。
 「卑弥呼」以前には社会不安が少なかったため「王」には霊的能力の多寡は問われなかったものと思われるものの、「疫病」が流行り、天候不順などがあると実務能力が高いというだけでは民衆を律しきれなくなったものではないでしょうか。そのため複数年に亘って紛争が続くこととなったとみられるわけです。
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『倭人伝』シリーズ(16)

2024年02月09日 | 古代史
さらにさらに「卑弥呼」本人についての分析です。

 『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」

 この「歴年」については『三国志』中に多数の使用例がありますが、いずれも複数年に亘ることを示す表現ではあるものの具体的な年数はその後に示すのが普通であり、それがない場合はせいぜい数年間を示す用語と思われます。
 具体的な年数を示す場合を以下に示します。

「遷光祿勳。帝愈增崇宮殿,彫飾觀閣,鑿太行之石英,采穀城之文石,起景陽山於芳林之園,建昭陽殿於太極之北,鑄作?龍鳳皇奇偉之獸,飾金?、陵雲臺、陵霄闕。百役繁興,作者萬數,公卿以下至于學生,莫不展力,帝乃躬自掘土以率之。而遼東不朝。悼皇后崩。天作淫雨,冀州水出,漂沒民物。隆上疏切諫曰:蓋「天地之大德曰生,聖人之大寶曰位;何以守位?曰仁;何以聚人?曰財」。然則士民者,乃國家之鎮也;穀帛者,乃士民之命也。穀帛非造化不育,非人力不成。是以帝耕以勸農,后桑以成服,所以昭事上帝,告虔報施也。昔在伊唐,世?陽九厄運之會,洪水滔天,使鯀治之,績用不成,乃舉文命,隨山刊木,前後『歴年二十二載』。災?之甚,莫過於彼,力役之興,莫久於此,堯、舜君臣,南面而已。禹敷九州,庶士庸勳,各有等差,君子小人,物有服章。今無若時之急,而使公卿大夫並與廝徒共供事役,聞之四夷,非嘉聲也,垂之竹帛,非令名也。是以有國有家者,近取諸身,遠取諸物,嫗煦養育,故稱「愷悌君子,民之父母」。今上下勞役,疾病凶荒,耕稼者寡,饑饉荐臻,無以卒?;宜加愍?,以救其困。」(『三國志/魏書 二十五 辛?楊阜高堂隆傳第二十五/高堂隆』)

 ここでは「歴年二十二歳」とされ、この「歴年」の具体的年数が「二十二年間」であることが示されています。
 また以下の例では「数百年」であることがわかります。

「…太和中,?上疏曰:「大魏受命,繼蹤虞、夏。孝文革法,不合古道。先帝聖德,固天所縱,墳典之業,一以貫之。是以繼世,仍發明詔,思復古刑,為一代法。連有軍事,遂未施行。陛下遠追二祖遺意,惜斬趾可以禁惡,恨入死之無辜,使明習律令,與羣臣共議。出本當右趾而入大辟者,復行此刑。書云:『皇帝清問下民,鰥寡有辭于苗。』此言堯當除蚩尤、有苗之刑,先審問於下民之有辭者也。若今蔽獄之時,訊問三槐、九棘、羣吏、萬民,使如孝景之令,其當棄?,欲斬右趾者許之。其黥、?、左趾、宮刑者,自如孝文,易以?、笞。能有姦者,率年二十至四五十,雖斬其足,猶任生育。今天下人少于孝文之世,下計所全,?三千人。張蒼除肉刑,所殺?以萬計。臣欲復肉刑,?生三千人。子貢問能濟民可謂仁乎?子曰:『何事於仁,必也聖乎,堯、舜其猶病諸!』又曰:『仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。』若誠行之,斯民永濟。」書奏,詔曰:「太傅學優才高,留心政事,又於刑理深遠。此大事,公卿羣僚善共平議。」司徒王朗議,以為「?欲輕減大辟之條,以增益?刑之數,此即起偃為豎,化屍為人矣。然臣之愚,猶有未合微異之意。夫五刑之屬,著在科律,自有減死一等之法,不死即為減。施行已久,不待遠假斧鑿于彼肉刑然後有罪次也。前世仁者,不忍肉刑之慘酷,是以廢而不用。不用已來,『歴年數百』。今復行之,恐所減之文未彰于萬民之目,而肉刑之問已宣于寇讎之耳,非所以來遠人也。今可按?所欲輕之死罪,使減死之?、?。嫌其輕者,可倍其居作之?數。?有以生易死不?之恩,外無以?易?駭耳之聲。」議者百餘人,與朗同者多。帝以?、蜀未平,且寢。」

 ここでは「大理」(刑官)担当から「肉刑」を復活させるべきという上表がされ検討したとされていますが、その中で「肉刑」が行われなくなってから「数百年」経っているという意味で「歴年数百」と書かれています。この「肉刑」が行われなくなったのは「前漢」の「文帝」の時代ですから、この「魏」の時代までに「四〇〇年」ほど経過していると思われ、確かに「数百」という表現は妥当といえます。
 このように具体的な数字を伴う場合もあるわけですが、他方年数が何も書かれない場合も多く、その場合前後関係からその年数を推定すると、数年である場合がほとんどです。
 以下に「年数」が書かれない場合で推定できる代表的なケースを挙げてみます。

「太祖圍張超于雍丘,超言:「唯恃臧洪,當來救吾。」衆人以為袁、曹方睦,而洪為紹所表用,必不敗好招禍,遠來赴此。超曰:「子源,天下義士,終不背本者,但恐見禁制,不相及逮耳。」洪聞之,果徒跣號泣,並勒所領兵,又從紹請兵馬,求欲救超,而紹終不聽許。超遂族滅。洪由是怨紹,絶不與通。紹興兵圍之,『歴年』不下。紹令洪邑人陳琳書與洪,喩以禍福,責以恩義。」(『三國志/魏書七 呂布臧洪傳第七/臧洪』)

 ここでは「太祖」つまり「曹操」が「臧洪」の立てこもる城を攻めたが「歴年」降伏しなかったとされています。これは「一九四年」からの出来事であり、それが終息したのは「一九七年」とされますから、最大でも四年間と思われます。 
 以上から「歴年」とだけ書かれて、具体的な年数が示されない場合は「数年」以内のことを指すと思われ、この「倭王」をめぐる争いも同様であったものと考えられることとなるでしょう。そうであれば「男王」が統治して国情が安定していた時点から数えて「卑弥呼」の即位まで「八十年強」の年数が想定できることとなります。
 この「七~八十年」という表現から考えて、これは「一代」ではなく「二代」あるいは「三代」にわたる治世と推察されますが、『後漢書』にいう「帥升」がこの『倭人伝』にいう「男王」の一人であるとすると、「帥升」の貢献が「紀元一〇五年」ですから、彼を含めてそれ以降の男王期間が七~八十年であったこととなり、「一八五年」付近にその混乱期間の始まりが想定できると思われます。つまり「卑弥呼」の即位はそこから数年後の「一八〇年から一九〇年」付近と推定されることとなるでしょう。(ただし、これについては「帥升」もそれ以前の「委奴国王」も「倭王」でもなく「倭国王」でもなかったという理解も可能ですから、彼ら以降に「邪馬壹国」の王が「男王」として立って、その時点以降のことを指すとも考えられるわけです。そうなると「卑弥呼」の即位はかなり遅れることとなり、「後漢代」ではなく「魏代」のことと理解する必要があるかもしれません。)
 ここで「倭」において争乱が発生した原因は何だったのかというのが問題となるでしょう。その答えは「卑弥呼」が立って安定したという中に既に現れていると思えます。
 「卑弥呼」は「鬼道」祭祀の主宰者であったわけであり、彼女の登場により政治が安定したということは、当時の社会がそのような霊的能力の高い人物を欲したということになるわけですが、それは即座に「宗教」に頼らなければならなくなった民衆の置かれた状況があったことを意味するものです。
 「宗教」は現実の政治が果たせないあるいは果たせなくなった場合の「救済」が最も主たる使命であり、また効能です。それはこの時点で強烈な「社会不安」が発生していたことを示すものといえます。
 「古代」における「社会不安」は特別なものではなく、実際には現在の私たちが抱くものとほとんど変らないものと思われ、それは「天候不順」や「天変地異」あるいは「伝染病」の蔓延などが根底にあったという可能性があり、それに対して政治が対応できなくなっていたことがあったものと思われます。そのため「宗教」の出番となったというわけです。
 この頃は農業もまだまだ原始的であり、水害や旱害などにより不作となることがしばしばあったのではないかと考えられますが、特にこの時期に「社会不安」が発生するには別に理由があると思われますが、関係が深いと思われるのは「後漢」の政治状況です。  
 上に見たように「卑弥呼」の即位の前夜とでも言うべき時期は「後漢末」という時期が措定され、この時点付近で争乱が発生したというわけですが、「帥升」を「男王」の一人と仮定した場合には「卑弥呼」の即位年次として「後漢」で発生した「黄巾の乱」の時期とほぼ等しい(「一八四年」)というところに注目すべきこととなります。もしそれがもっと遅れるとしても事態は余り変らないと思われ、「後漢」王朝の衰微とそれに対応して争乱が発生したことと、この「倭国乱」との時期及び内容が近似していることに注目すべきこととなるでしょう。
 一般には「後漢」が衰微していく過程は「梁冀」氏のような強力な人物が外戚となり「幼帝」を誕生させそれを陰で操る体制が生まれたことや、彼等を「宦官」と協力して排除したため今度はその「宦官」による専横を止められなくなったなどの理由により「皇帝」の持つ「権威」が大幅に低下したことが衰微の重要な要因とされます。しかし、実際にはそれらはさほど重要な要素ではないと思われます。なぜならそれらは「一般の人々」に直接関係したこととは思われないからです。
 この「後漢」のような強力な王権が倒れるには「民衆」の苦しみが極大に達する状況があったとしなければならず、それに対して王権の側から適切な対応ができなかったことがそこに原因として横たわっていると思われます。
 この時期「太平道」や「五斗米道」など道教系の新興宗教が発生し、多くの民衆の支持を集めそれが「黄巾の乱」など争乱に結びつくということとなったわけですが、その過程には天候不順による農業への被害が大きかったということが重要な要因としてあったものと考えられます。
 『後漢書』など当時の記録を見ると、「旱害」あるいは「大水」「地震」というような自然災害も多かったとみられますが、そのような食糧事情の悪化は当時の衛生状態とも関連して「伝染病」の発生にもつながったものと思われます。
 それを示すように同じく『後漢書』の中には「疫」「大疫」「疫癘」と称されるような「伝染病」とおぼしきものが蔓延していた事を示す記事が数多く見えます。

(以下「順帝」年間の『疫癘』と「考桓帝」と「考霊帝」の治世の中での『疫』『大疫』の例を挙げます。まず、「順帝」の治世期間に現れる『疫癘』の例です。)

「永建元年(一二六年)春正月甲寅,詔曰:先帝聖德,享祚未永,早弃鴻烈。奸慝?間,人庶怨?,上干和氣,『疫癘』為災。朕奉承大業,未能寧濟。蓋至理之本,稽弘德惠,蕩滌宿惡,與人更始。其大赦天下。賜男子爵,人二級,為父後、三老、孝悌、力田人三級,流民欲自占者一級;鰥、寡、孤、獨、篤?、貧不能自存者粟,人五斛;貞婦帛,人三匹。坐法當徙,勿徙;亡徒當傳,勿傳。宗室以罪?,皆復屬籍。其與閻顯、江京等交通者,悉勿考。勉修厥職,以康我民。
…冬十月…甲辰,詔以『疫癘』水潦,令人半輸今年田租;傷害什四以上,勿收責;不滿者,以實除之。」

(以降「桓帝」の『疫』『大疫』の例)

「元嘉元年(一五一年)春正月,京師『疾疫』,使光祿大夫將醫藥案行。癸酉,大赦天下,改元元嘉。
二月,九江、廬江『大疫。』」「後漢書/本紀 凡十卷/卷七 孝桓帝 劉志 紀第七/元嘉元年」

「九年春正月…己酉,詔曰:『比?不登,民多飢窮,又有『水旱疾疫之困』。盜賊?發,南州尤甚。?異日食,譴告累至。政亂在予,仍獲咎?。其令大司農?今?調度?求,及前年所調未畢者,勿復收責。其?旱盜賊之郡,勿收租,餘郡悉半入。』」「同上/延熹九年」

(以降同様に「霊帝」の治世期間の『疫』『大疫』の例)

「(建寧)四年(一七一年)…二月癸卯,地震,海水溢,河水清。
三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太尉聞人襲免 集解引惠棟?,謂案蔡質漢官典職儀載建寧四年七月立宋皇后儀,稱太尉襲使持節奉璽綬。襲於三月罷,不應七月尚與立后之事。何?云蔡氏所載是詔書,不應有誤,當是本紀所書拜罷未審也。按:校補謂袁紀建寧四年三月,太尉劉寵、司空喬玄以災異免,免太尉者不作聞人襲,其他拜罷亦多與范書異,則何?信也。太僕李咸為太尉。[一]字元卓,汝南西平人。
詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。」「後漢書/本紀 凡十卷/卷八 孝靈帝 劉宏 紀第八/建寧四年(一七一年)」

「二年春正月,『大疫』,使使者巡行致醫藥。」「同上/熹平二年(一七四年)」

「二年春,『大疫』,使常侍、中謁者巡行致醫藥。」「同上/光和二年(一七九年)」

「五年春正月辛未,大赦天下。
二月,『大疫。』」「同上/光和五年(一八二年)」

(以下「黄巾の乱」関係記事を挟む)
「中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱「?天」,其部(師)〔帥〕有三十六(萬)〔方〕,其部(師)〔帥〕有三十六(萬)〔方〕 據殿本考證集解引惠棟?改。皆著?巾,同日反叛。[一]續漢書曰:「三十六萬餘人。」安平、甘陵人各執其王以應之。[二]安平王續、甘陵王忠。
三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。[一]都亭在洛陽。八關謂函谷、廣城、伊闕、大谷、?轅、旋門、小平津、孟津也。壬子,大赦天下黨人,還諸徙者,[二]時中常侍呂彊言於帝曰:「黨錮久積,若與?巾合謀,悔之無救。」帝懼,皆赦之。唯張角不赦。詔公卿出馬、弩,舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者,詣公車。遣北中郎將盧植討張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱儁討潁川?巾。庚子,南陽?巾張曼成攻殺郡守?貢。
夏四月,太尉楊賜免,太僕弘農鄧盛為太尉。[一]盛字伯能。司空張濟罷,大司農張?為司空。
朱儁為?巾波才所敗。
侍中向栩、張鈞張鈞 按:集解引惠棟?,謂袁宏紀作「均」。坐言宦者,下獄死。[一]時鈞上書曰:「今斬常侍,懸其首於南郊以謝天下,即兵自消也。」帝以章示常侍,故下獄也。
汝南?巾敗太守趙謙於邵陵。[一]邵陵,縣名,屬汝南郡,故城在今豫州?城縣東。廣陽?巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衞。
五月,皇甫嵩、朱儁復與波才等戰於長社,大破之。[一]長社,今許州縣也,故城在長葛縣西。
六月,南陽太守秦頡?張曼成,斬之。
交阯屯兵執刺史及合浦太守來達,自稱「柱天將軍」,遣交阯刺史賈琮討平之。
皇甫嵩、朱儁大破汝南?巾於西華。[一]西華,縣,屬汝南郡,故城在今陳州項城縣西。詔嵩討東郡,朱儁討南陽。盧植破?巾,圍張角於廣宗。宦官誣奏植,抵罪。[二]植連破張角,垂當拔之,小?門左豐言於帝曰:「盧中郎固壘息軍,以待天誅。」帝怒,遂檻車?植,減死一等。遣中郎將董卓攻張角,不尅。
洛陽女子生兒,兩頭共身。[一]續漢志曰續漢志曰 按:「志」原作「書」,逕據汲本、殿本改。:「上西門外女子生兒,兩頭,異肩共?,以為不祥,墮地弃之。其後政在私門,上下無別,二頭之象。」
秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。[一]劉艾紀曰:「時巴郡巫人張脩療病,愈者雇以米五斗,號為『五斗米師』。」
河南尹徐灌下獄死。
八月,皇甫嵩與?巾戰於倉亭,獲其帥。[一]其帥,卜已也。倉亭在東郡。
乙巳,詔皇甫嵩北討張角。
九月,安平王續有罪誅,國除。
冬十月,皇甫嵩與?巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。[一]發棺斷頭,傳送馬市。以皇甫嵩為左車騎將軍。十一月,皇甫嵩又破?巾于下曲陽,斬張角弟寶。
湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂為軍帥,攻殺護羌校尉伶?、金城太守陳懿。[一]伶,姓也,周有大夫伶州鳩。
癸巳,朱儁拔宛城,斬?巾別帥孫夏。
詔減太官珍羞,御食一肉;?馬非郊祭之用,悉出給軍。
十二月己巳,大赦天下,改元中平。
是?,下?王意薨,無子,國除。下?王意薨無子國除 按:集解引錢大昕?,謂下?王衍傳中平元年意薨,子哀王宜嗣,數月薨,無子,建安十一年國除。是意亦有子。郡國生異草,備龍蛇鳥獸之形。」「同上/中平元年(一八四年)」

「二年春正月,『大疫。』」「同上/中平二年(一八五年)」

 このように頻繁に「大疫」と記され、何か強い感染力あるいは伝染力のある病気が蔓延していたことを窺わせるものです。さらに「桓帝」の「延喜九年」の「詔」では「比穀不登,民多飢窮,又有水旱疾疫之困。」とされ、天候不順により食糧不足となっていることが記されていますが、「疫」以外にも「水害」や「旱害」を示す記録や地震あるいは「津波」と思われる記事などが再三にわたり書かれており、うち続く天変地異に多くの人々が悩まされていた実態が明らかとなっています。
 そもそも「疫」とは多くの人がその病気に悩まされていたことを示し、さらに「癘」はその中でも「悪性の病気」を指す語ですから各種考えられるものの、その症状等が書かれていないため推測でしかありませんが、たとえば「天然痘」などもその候補の中に入るでしょう。
 「天然痘」の感染力の強さと致死率の高さは比類がありませんから、この「疫癘」という致死率の高い悪性の流行病が「天然痘」を示すと考えてもそれほど不自然ではないこととなります。
 記録上は「南北朝期」に「南朝」側の記録として「天然痘」と思われる記事が見られるのが最初とされますが、それが「北朝」からもたらされたとみられるわけで、「牧畜」の習慣を持っていた「鮮卑族」など匈奴の出身者が多かった「北朝」との交戦経験が「天然痘」の流行をもたらしたものと思われます。
 たとえば「一六五年」から十五年間にわたってローマ帝国の領域で多くの死者を出した疫病(アントニウスの疫病あるいはアントニウスのペストと呼ばれるもの)と同じものが当時東方へ伝染していたと言うこともありうると思われます。
 当時「ローマ帝国」は「パルティア」(現在の「イラン」「イラク」付近にその中心があった)との戦争のため多くの人員を中近東付近に派遣しており、彼等が疫病をローマ領内へと運んだものと見られます。この疫病は天然痘と見られており、少なくとも350万人(一部には500万人という説もある)が死亡したとされますが、当時「ローマ」は「漢」との間に使者を交換しており、通交があったものです。これらの交流の結果が漢帝国内の疫病となったという可能性もあるでしょう。(パルティアのような「西域」とも「漢」は関係があったとみられますから、その意味でも疫病がそこから直接漢へもたらされたとも考えられます。)
 また、「黄巾の乱」が当初発生した「河南地区」は当時の首都である「洛陽」を含んでおり、「夏」「殷」王朝やそれ以前の石器時代においても文化中心であったとみられており、その当時から「豚」などを家畜として利用していたことが判明しています。この地域から最初に「黄巾の乱」が発生したわけであり、彼等は「水害」「旱害」の他「疫癘」に悩まされていたという可能性は高いものと推量します。つまりここでいう「疫癘」は「家畜」との共通伝染病であったという可能性もあり、その意味では「豚インフルエンザ」などもその候補として考えられるでしょう。
 ただし「疫癘」の正体がどの伝染病であっても「黄巾の乱」の発生した「河南」地区は「大農業地帯」であり、天候に恵まれていれば農民が生活に困ることはそうなかったはずです。それが「新興宗教」に頼らざるを得なくなったわけですが、そのようになった理由の一つは強い社会不安の存在であり、その根底に「病気」(「疫癘」)に対する恐れがあるとともに、生活そのものが破壊されていることに対する不安があったものと思われます。
 「黄巾の乱」を起こした教団である「太平道」では罪を懺悔告白し、「符水」(お札と霊水)を飲み、神に許しを乞う呪文(願文)を唱えると「病が治る」とされ、支持を集めたとされ、いわゆる「現世利益」を目的としているとされますが、「病を治す」というところが主眼であったものであり、それが「疫癘」に対してのものであったことが推定出来ると思われるわけです。
 このような「後漢」の混乱とそれに伴って発生した「宗教結社」の存在とが「卑弥呼」の前代の混乱及び「卑弥呼」の即位という事情に重なっていると思われるのです。
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