ども、こんばんは♪
昨日の剛君の石舞台でのコンサート、すごく素敵なものになったようで☆
セトリも見せていただきましたし、各レポも巡らせていただきましたが、
その成功をうれしく思うとともに、やっぱりその場にいたかったなぁ…という思いでいっぱいになった私です。
唯一、大変だったようなのは、“寒さ”でしょうか。
もちろん通常から夜ともなれば冷え込みやすい土地ながら、
この季節はずれな寒気の入り込みもあって、予想以上に冷え込んだよう。
「会場では愛に包まれていて暖かかったけど、今朝になってみるとばっちり風邪をひいてしまいました」
なんて方もお見受けしたので…。
私も…という方、どうかお大事になさってくださいね☆
曲数としては少なめな印象でもありましたが、そのぶんじっくり、だったんだろうなぁ…なんて
その流れ通りにプレイリストを組みなおして、あらためて聴き入りつつ想像。。。
もちろんその場とは全く異なったものではありますが、流れのチョイスもなかなかに素敵で、
想像しただけでもあの空間にあってそう、まさに響きあってそう…と思いました。
昨日といえば、舞台違い?!ながら、放浪記の代替公演として後輩クンたちがやっている、
シアタークリエの「来て!クリエ」に、光一君がご登場だったとか。
ほぉ~めずらしい(笑)
昨日は場を違えておふたりとも人前に出てたんですね
こちらにいらしていた方も、やっぱりちょっとうらやましいなぁ…なんて、思った次第です。
さて、こちらも時折“かわいすぎる~~”な、お2人ですが、
この“カワイイ”という言葉。
みなさんは今日何回使われましたか?
また、何回目にされたり、耳にされたりしたでしょうか。
ものすごくたくさん使い過ぎて覚えてない、という方も、
自分で口にすることはそれほどないけれど、触れることはやたら多いな…という方も、
ひとそれぞれ、いろいろいらっしゃるかと思いますが、
世間一般として、近年ものすごく多用されている、
大きなひとつの文化現象というか…
ま、多少かたく言ってしまえば、なんですけど、
とてもその用途が増えている、なににでもさかんに使われるようになっている、という感覚は
多くの方に納得いただけるのではないかと思います。
大人カワイイ、ぷちカワ、激カワ、エロカワ、かっこカワイイ…
まぁいろんな“カワイイ”があふれておりますが、そもそも“カワイイ”ってなんなんでしょう??
少なくとももう少し以前、
こうした現在の流れがくる前、
“カワイイ”なんて、小さな子どもや動物に対してや、そうした子どものためのグッズのようなものとか、キャラクター関係、
そうでなければ、「ま、かわいいよね、ははっ」みたいな若干(いや、かなり?かな??)皮肉っぽくバカにした感じとか、
そういうところでくらいしか使っていなかったような気がするし…
すっかり、ポジティブなイメージや目指すべきところ、そこまでいかなくてもとりあえずなんとなく褒めておく、
そんなあらゆる場面で使うものに今やなっていますが、考えてみるとどのあたりから変化してきたのか、
そもそも“カワイイ”ってどういう意味で言葉としてなってきたのか、
けっこう不思議というか、分からなくて興味をそそられるところのように思います。
これだけ“カワイイ”が氾濫しているのですから、それを考えてみれば“今”が見えてきそうな気もしますし…
ということで、ちょっと考えてみた、というわけです。
まず、“カワイイ”について知るために、基本の「かわいい」の語源を調べてみました。
すると、「かわいい」は、もとは「不憫だ」とか「気の毒だ」といった意味を表す語で、「かわいそう」と同じところからきた言葉ということなんです。
歴史としては、「かはゆし(かわゆし)」のかたちで中古から見られて、「かほはゆし(顔映ゆし)」から変化したと考えられているのだとか。
「はゆし」は「まばゆい」なんて言葉からもみえるように、対象に向けられないようなほど、
つまり「顔をむけていられないほどだ」というのが、「かほはゆし」の意味であって、
そこから気の毒とか不憫とかいった意味へと派生していったようなんです。
それが「愛らしい」といった比較的ポジティブな、現在性に近い意味にも使われるように変化したのは中世後半。
理由ははっきりとはしないものの、小さいもの、自分よりも弱いもの、そうしたものに手を差し伸べたくなる感情と、「気の毒」という感情、
そこに“助けてあげたい”的な近さがあって、意味として転じていった、
用いられるようになっていった、とおよそみられているようです。
さきに一昔前にはこんなふうに使っていた気がする、と触れた“カワイイ”は、たしかにここに表れている意味に直結している感じですね。
子どもや動物は自分より弱いもの、庇護の対象だし、
皮肉的な用い方にいたっては、ある意味一番もとの語源に近い、
「かわいそうな人だよね」的なニュアンスがこめられていて、“助けてあげたい”にはさらさら至っていない状態ですもんね。
それに対して、今の“カワイイ”はというと、もはやその立ち位置の上下関係などはすっかり消え去って、
最終的に残った「愛らしい」の極限までの拡張、拡大解釈による使用、といったところでしょうか。
それにしても、この“助けてあげたい”がもとにある“カワイイ”が、語源に近い状態にあったときには、自分より下のもの、弱いものに向けられていたのに対し、
むしろ現在では目指すもの、憧れる対象になっているという、大きな変換が起きているというところはかなり重要なポイントのような気がします。
ところで、この“カワイイ”。
さっきから関係性的なことが何度も出てきているように、相手がないと成り立たない、
集団のなかで、群れるなかでしか生じないことである、というところも特徴的なように思います。
一個で凛と美しい、
有無をも言わせぬそれ自体の美しさ、
揺るがぬ輝き、圧倒性…
そういった「美しさ」とはかなり性格を異にしますよね。
そうした個の美しさではなく、他を必要とする、その外の目がなければ成立しないものがなにをおいても大きな価値として評価される…
求めている、自然と目指しているのは、実は“カワイイ”ではなく、
それが成立するための関係性。。。
ないと不安で仕方がない、
いつでもつながっていたいと思う、
携帯メールやツイッタ―の流行、いろいろなところで指摘される、この異常なまでに膨れ上がった関係性への欲求、
集団のなかにいたい、つながりをもとめる、
そんな現代特有の志向からも、“カワイイ”の氾濫はみることができるのかもしれない、と思います。
手を差し伸べたいと思わせたい。
助けられたい。
“カワイイ”を目指すって、考えてみればとても変なことだけれど、
個の美しさよりなにより、他に愛されたい、愛が欲しい、
単純にそういうことなのかもしれません。
でも、本当にそうなりたいのなら、
目指す“カワイイ”を成立させたいのなら、
やっぱり一番の近道は今の氾濫するワードのなかでどうこうするより、
自身が手を差し伸べること、愛を与えることではないかと思います。
与える人がいなければ、そしてそれを受け止めることができなければ、成立しない。
ことばで“カワイイ”を乱発しても、
そううたわれるものを求めて走っても、
そのもともとの欲求は満たされないし、なにも得られないんじゃないかな…
なんて。
“カワイイ”に思うことでした。
今日のレシピです
・豚肉のソテー 玉葱のコンフィソース …①
・胡瓜のトルコ風サラダ …②
・かぼちゃの海苔チーズ焼き …③
①の作り方
1 玉ねぎは薄切りにする
2 1を焦がさないようにじっくりと炒め、あめ色になってきたらビーフブイヨンとバルサミコ酢を加えて煮る
3 塩、蜂蜜、あればトリュフオイルを加え、じっくり煮る
4 玉ねぎがとろりとなってきたら取り出す
5 残った煮汁に生クリームを加えて煮詰め、ソースとして仕上げる。黒胡椒少々を加える
6 豚肉に塩をする
7 弱火でじっくりと6をソテーする
8 玉ねぎ、ソースを盛り、カットした肉を盛り付ける
②の作り方
1 胡瓜を斜め薄切りにし、塩をする
2 ヨーグルト、にんにく、ミントのみじん切り、ディル、ミネラルウォーター、胡椒をあわせる
3 1を2にひたすように和える
4 オリーブオイルをまわしかけ、よく冷やして味をなじませる
③の作り方
1 かぼちゃは大きめに切ってレンジで蒸す
2 1を食べやすくスライスして、耐熱皿に入れ、塩、胡椒をする
3 隠し味程度に醤油を数滴たらす
4 焼き海苔をちぎって散らす
5 パルミジャーノレッジャーノをすりおろしてかける
6 バターを小さくちぎってのせ、オーブンで焼く
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それでは。
昨日の剛君の石舞台でのコンサート、すごく素敵なものになったようで☆
セトリも見せていただきましたし、各レポも巡らせていただきましたが、
その成功をうれしく思うとともに、やっぱりその場にいたかったなぁ…という思いでいっぱいになった私です。
唯一、大変だったようなのは、“寒さ”でしょうか。
もちろん通常から夜ともなれば冷え込みやすい土地ながら、
この季節はずれな寒気の入り込みもあって、予想以上に冷え込んだよう。
「会場では愛に包まれていて暖かかったけど、今朝になってみるとばっちり風邪をひいてしまいました」
なんて方もお見受けしたので…。
私も…という方、どうかお大事になさってくださいね☆
曲数としては少なめな印象でもありましたが、そのぶんじっくり、だったんだろうなぁ…なんて
その流れ通りにプレイリストを組みなおして、あらためて聴き入りつつ想像。。。
もちろんその場とは全く異なったものではありますが、流れのチョイスもなかなかに素敵で、
想像しただけでもあの空間にあってそう、まさに響きあってそう…と思いました。
昨日といえば、舞台違い?!ながら、放浪記の代替公演として後輩クンたちがやっている、
シアタークリエの「来て!クリエ」に、光一君がご登場だったとか。
ほぉ~めずらしい(笑)
昨日は場を違えておふたりとも人前に出てたんですね
こちらにいらしていた方も、やっぱりちょっとうらやましいなぁ…なんて、思った次第です。
さて、こちらも時折“かわいすぎる~~”な、お2人ですが、
この“カワイイ”という言葉。
みなさんは今日何回使われましたか?
また、何回目にされたり、耳にされたりしたでしょうか。
ものすごくたくさん使い過ぎて覚えてない、という方も、
自分で口にすることはそれほどないけれど、触れることはやたら多いな…という方も、
ひとそれぞれ、いろいろいらっしゃるかと思いますが、
世間一般として、近年ものすごく多用されている、
大きなひとつの文化現象というか…
ま、多少かたく言ってしまえば、なんですけど、
とてもその用途が増えている、なににでもさかんに使われるようになっている、という感覚は
多くの方に納得いただけるのではないかと思います。
大人カワイイ、ぷちカワ、激カワ、エロカワ、かっこカワイイ…
まぁいろんな“カワイイ”があふれておりますが、そもそも“カワイイ”ってなんなんでしょう??
少なくとももう少し以前、
こうした現在の流れがくる前、
“カワイイ”なんて、小さな子どもや動物に対してや、そうした子どものためのグッズのようなものとか、キャラクター関係、
そうでなければ、「ま、かわいいよね、ははっ」みたいな若干(いや、かなり?かな??)皮肉っぽくバカにした感じとか、
そういうところでくらいしか使っていなかったような気がするし…
すっかり、ポジティブなイメージや目指すべきところ、そこまでいかなくてもとりあえずなんとなく褒めておく、
そんなあらゆる場面で使うものに今やなっていますが、考えてみるとどのあたりから変化してきたのか、
そもそも“カワイイ”ってどういう意味で言葉としてなってきたのか、
けっこう不思議というか、分からなくて興味をそそられるところのように思います。
これだけ“カワイイ”が氾濫しているのですから、それを考えてみれば“今”が見えてきそうな気もしますし…
ということで、ちょっと考えてみた、というわけです。
まず、“カワイイ”について知るために、基本の「かわいい」の語源を調べてみました。
すると、「かわいい」は、もとは「不憫だ」とか「気の毒だ」といった意味を表す語で、「かわいそう」と同じところからきた言葉ということなんです。
歴史としては、「かはゆし(かわゆし)」のかたちで中古から見られて、「かほはゆし(顔映ゆし)」から変化したと考えられているのだとか。
「はゆし」は「まばゆい」なんて言葉からもみえるように、対象に向けられないようなほど、
つまり「顔をむけていられないほどだ」というのが、「かほはゆし」の意味であって、
そこから気の毒とか不憫とかいった意味へと派生していったようなんです。
それが「愛らしい」といった比較的ポジティブな、現在性に近い意味にも使われるように変化したのは中世後半。
理由ははっきりとはしないものの、小さいもの、自分よりも弱いもの、そうしたものに手を差し伸べたくなる感情と、「気の毒」という感情、
そこに“助けてあげたい”的な近さがあって、意味として転じていった、
用いられるようになっていった、とおよそみられているようです。
さきに一昔前にはこんなふうに使っていた気がする、と触れた“カワイイ”は、たしかにここに表れている意味に直結している感じですね。
子どもや動物は自分より弱いもの、庇護の対象だし、
皮肉的な用い方にいたっては、ある意味一番もとの語源に近い、
「かわいそうな人だよね」的なニュアンスがこめられていて、“助けてあげたい”にはさらさら至っていない状態ですもんね。
それに対して、今の“カワイイ”はというと、もはやその立ち位置の上下関係などはすっかり消え去って、
最終的に残った「愛らしい」の極限までの拡張、拡大解釈による使用、といったところでしょうか。
それにしても、この“助けてあげたい”がもとにある“カワイイ”が、語源に近い状態にあったときには、自分より下のもの、弱いものに向けられていたのに対し、
むしろ現在では目指すもの、憧れる対象になっているという、大きな変換が起きているというところはかなり重要なポイントのような気がします。
ところで、この“カワイイ”。
さっきから関係性的なことが何度も出てきているように、相手がないと成り立たない、
集団のなかで、群れるなかでしか生じないことである、というところも特徴的なように思います。
一個で凛と美しい、
有無をも言わせぬそれ自体の美しさ、
揺るがぬ輝き、圧倒性…
そういった「美しさ」とはかなり性格を異にしますよね。
そうした個の美しさではなく、他を必要とする、その外の目がなければ成立しないものがなにをおいても大きな価値として評価される…
求めている、自然と目指しているのは、実は“カワイイ”ではなく、
それが成立するための関係性。。。
ないと不安で仕方がない、
いつでもつながっていたいと思う、
携帯メールやツイッタ―の流行、いろいろなところで指摘される、この異常なまでに膨れ上がった関係性への欲求、
集団のなかにいたい、つながりをもとめる、
そんな現代特有の志向からも、“カワイイ”の氾濫はみることができるのかもしれない、と思います。
手を差し伸べたいと思わせたい。
助けられたい。
“カワイイ”を目指すって、考えてみればとても変なことだけれど、
個の美しさよりなにより、他に愛されたい、愛が欲しい、
単純にそういうことなのかもしれません。
でも、本当にそうなりたいのなら、
目指す“カワイイ”を成立させたいのなら、
やっぱり一番の近道は今の氾濫するワードのなかでどうこうするより、
自身が手を差し伸べること、愛を与えることではないかと思います。
与える人がいなければ、そしてそれを受け止めることができなければ、成立しない。
ことばで“カワイイ”を乱発しても、
そううたわれるものを求めて走っても、
そのもともとの欲求は満たされないし、なにも得られないんじゃないかな…
なんて。
“カワイイ”に思うことでした。
今日のレシピです
・豚肉のソテー 玉葱のコンフィソース …①
・胡瓜のトルコ風サラダ …②
・かぼちゃの海苔チーズ焼き …③
①の作り方
1 玉ねぎは薄切りにする
2 1を焦がさないようにじっくりと炒め、あめ色になってきたらビーフブイヨンとバルサミコ酢を加えて煮る
3 塩、蜂蜜、あればトリュフオイルを加え、じっくり煮る
4 玉ねぎがとろりとなってきたら取り出す
5 残った煮汁に生クリームを加えて煮詰め、ソースとして仕上げる。黒胡椒少々を加える
6 豚肉に塩をする
7 弱火でじっくりと6をソテーする
8 玉ねぎ、ソースを盛り、カットした肉を盛り付ける
②の作り方
1 胡瓜を斜め薄切りにし、塩をする
2 ヨーグルト、にんにく、ミントのみじん切り、ディル、ミネラルウォーター、胡椒をあわせる
3 1を2にひたすように和える
4 オリーブオイルをまわしかけ、よく冷やして味をなじませる
③の作り方
1 かぼちゃは大きめに切ってレンジで蒸す
2 1を食べやすくスライスして、耐熱皿に入れ、塩、胡椒をする
3 隠し味程度に醤油を数滴たらす
4 焼き海苔をちぎって散らす
5 パルミジャーノレッジャーノをすりおろしてかける
6 バターを小さくちぎってのせ、オーブンで焼く
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