さいたま市中央区。と言ってもすぐに分かる人は少ないだろう。さいたま市と合併する前は与野市。大宮市と浦和市に南北を挟まれた小さな市で、その与野公園はバラ園で有名だ。
公園は全部で約5万平方m。1877(明治10)年開設。埼玉県では3番目の古さだ。バラと桜で有名で、バラ園は約5500平方m。180種類、約3000株のバラがある。
毎年「ばらまつり」が開かれ、5月下旬は大勢の人でにぎわう。私は、住んでいる南区からは自転車でも行ける距離なので、春にも秋にもほとんど毎年出かける。
24のブロックにそれぞれのバラがまとめて植えてあり、名前が書いてあるので、初心者には最適だ。私もバラの名はほとんど、ここで覚えた。だが、ほかのバラ園で見て名前を思い出すかどうかは、おぼつかない。
「花の命は短い」ので、バラの盛りを見るにはタイミングが必要だ。忙しい人には無理で、退職後にしかできないことだとつくづく思う。
ここには、アンネ・フランクにちなんだものを初め、英国女王にちなむ、私が大好きな「エリザベス」、悲運の「ダイアナ」のほか、かの有名な「モナコ王妃」。それに「プリンセス・アイコ」もある。
エリザベス女王に関心があるのは、オーストラア、ニュージーランドなど南太平地域をカバーしていた頃、両国の元首としてはるばる来られ時、二度も競馬場で近くでお目にかかったことがあるからだ。自分の持ち馬があるほど競馬がお好きなのだ。
このバラ園の一角に「プリンセス・チチブ」のコーナーがある。
昭和天皇の弟で、「スポーツの宮さま」として親しまれ、秩父宮ラグビー場に名を残されている秩父宮。そのお妃・勢津子さまにちなんだバラである。
宮家「秩父宮」は、秩父宮の成年式の際に創立された。屋敷の西北に秩父嶺があることからその名が選定された。その意味で埼玉県とも関係の深い方だった。
勢津子さまは、結婚前は松平節子。13年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」で有名になった最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の孫である。結婚の際改名された。
秩父宮は戦後、50歳で肺結核で亡くなられ、流産のため、ご子息はなかった。
1928(昭和3)年のご結婚の際には、「世紀の大恋愛」と話題になったこともあり、バラの「プリンセス・チチブ」は、英国のバラの新品種開発で知られる。
妃は84歳で亡くなられた。
13年に恒例のばらまつりの前日訪ねてみるは、サッカーJリーグの人気チーム「浦和レッドダイヤモンズ」の名を持つ新品種が20株登場していた。
埼玉ゆかりのバラが二つもあって、何となく楽しくなるバラ園である。
秩父で「桜」と言えば、最近ではまず、羊山公園の「芝桜の丘」を思い出す。戦前、県の綿羊種畜場があったのが、その名の由来である。
芝桜の植栽が始まったのは2000年。約17600平方mに9種類、約40万株以上が咲き誇り、今や季節には100万人を超す観光客が訪れる、「秩父夜祭」と並ぶ観光地になった。秩父市の年間観光客は15年度には500万人を超えた。
公園には、ソメイヨシノやヤマザクラもあるので、桜の花見客も多い。芝桜の方が花期が長く5月上旬まで楽しめる。
西武鉄道の御花畑(愛称・芝桜)駅から、徒歩で15~25分と交通の便のよさが売り物だ。
芝桜に押されて、日が当たらなくなっているのが、「美の山公園」である。
秩父市黒谷と皆野町にまたがる広大な公園で、「埼玉県にも吉野に匹敵する桜の名所をつくろう」という壮大な発想から、10年の年月をかけて、約70種類、8千本の桜を植えて、1979年に開園した。
「美の山」は、自称「関東の吉野山」にふさわしかろうと、「蓑山(586.9m)」を美しく読み変えたものだ。二つの展望台からは、秩父市街、秩父盆地、秩父のシンボル武甲山を初めとする秩父連山、さらには赤城山や日光連山も望める。
秩父市内を見下ろす夜景が特に素晴らしい。国民休養地にも指定されている。
だが、アクセスの悪さが致命的。
路線バスがないので、便数の少ない秩父鉄道の和銅黒谷、皆野、親鼻の三駅からタクシーに乗るか、徒歩しかない。駅から狭い山道を歩けば、2.7から3.7kmで約1時間半かかる。
マイカーなら「美の山公園道路」があるので便利だ。
これほどの桜の名所を見逃す手はないと、13年4月20日(土)、皆野駅から歩いて山道を登った。遅咲きのさくら見物を狙ったのである。(写真)
県立公園なので、埼玉県のホームページにある「美の山公園のサクラ観察日記」は、サクラ好きには興味深い。品種ごとの開花状況が一々分かるからである。
13年は4月8日、ヤマザクラが見頃を迎えた。枝垂桜、寒緋桜も見頃になり、御衣黄(ぎょいこう)、御殿匂(みどのにおい)、白妙、太白、妹背(いもせ)、八重紫桜も咲いて、「花の森」が華やかになった。
4月19日から八重桜が見頃になり、関山(かんざん)、ウコンが盛り。八重桜は5月1日に見頃を過ぎ、7日にシーズンが終わった。
この間、糸括(いとくくり)、天の川、御室有明(おむろありあけ)、梅護寺数珠掛桜(ばいごじじゅずかけざくら)、市原虎の尾、兼六園菊桜の開花が記されている。
私が訪ねたのは八重桜の盛りの時だったわけだ。現状を電話で聞いて出かけたのが成功だった。
3月26日に全部ではないものの、55種類、155本の桜の木に「樹名板」を設置したとかで、花の同定に役立った。桜は見てはいても、素人には一度で花の名を思い出すのは難しいからだ。
山頂には皆野町出身の金子伊昔紅(いせきこう)の銅像と句碑が立っていた。有名な「秩父音頭」の生みの親で、医師兼俳人。金子兜太氏の父親である。
句碑には「一目千本」と題し
万本咲いてかすむ美の山花の山
とあった。
「ネギのまち」として知られる深谷市は、ブロッコリーでも全国2位の生産量を誇り、「道の駅おかべ」で4月下旬、「ふかやブロッコリーまつり」も開かれる。
野菜だけでなく花卉栽培でも知られる。春はチューリップ(切り花出荷量全国2位)、夏はユリ(同1位)、秋はコスモスといずれも全国で覇を競う「花のまち」でもある。
利根川と荒川に挟まれた肥沃な大地の恵みだ。訪ねてみると、どこまでも平らな地に、温室栽培のビニールハウスが並び、裸地栽培のネギの香りが風の中に漂っている。
ネギも深沢栄一も、このブログで書いたことがあるので、今度はチューリップを見ようと、13年4月13日(土)に「深谷グリーンパーク」の花壇を訪ねた。
バスはあまりなさそうなので、深谷駅から歩く。足は遅くても、いくらでも歩けるので気にはならない。
パークでは、チューリップが満開だった。事前に電話して調べておいたからである。満開の花を見るには事前調査が必要なことは、長い経験から身についている。
清掃センターの大きな煙突が見えるから、南欧風の造りの北関東最大という屋内温泉プール「パティオ(中庭)」は、その廃熱利用かと納得する。
パークは東京ドームくらいの広さで、芝生広場など5つの広場に子供用の遊び道具もあり、花壇はパティオに最も近いところにある。
ここには夏にはユリ、秋にはコスモスが植えられる。
チューリップは6品種、3万6千本が咲き誇っていた。
それぞれの区画に品種名が掲示されているのが助かる。「ヤンファネス(黄)」「フレミング・バロット」「レッドシャイン(赤)」「ロザリー」「ハッピージェネレーション」「ハウステンボス(白・ピンク)」とある。
色と花の形の違いは分かっても、初めて聞く名前なので、チンプンカンプン。
なにしろ、本場オランダの「品種の分類リスト」によれば、実に5600種もあるというのだから。
例えば、九州の佐世保にある「ハウステンボス」でなじみのあるこの花「ハウステンボス」の場合。
2000年に迎えた日本とオランダの交流4百周年を記念してできた。チューリップの花はカップ状のものが多いのに、これは花ビラの先に細かな切れ込みがあり、「フリンジ(ふさ飾り)咲き」と呼ばれる。
可愛らしく気品があるので、「森の家」を意味する「ハウステンボス」にふさわしいと、日本で人気が出た。
40年前オランダを訪ねた際、チューリップのせり市を見学したことを思い出した。
トルコ原産のチューリップが、オランダを経て、富山や新潟、さらに深谷市へと伝わってきて、見事に咲いている姿にある種の感慨を覚えた。
深谷市では、13年4月27、8日には「全国花のまちづくり深谷大会」、恒例の第10回ふかや花フェスタ、71軒が参加する自称日本一のオープンガーデンフェスタも29日まで同時に開かれる。
この市にはこのほか、「緑の王国」や、合併した旧花園町には、バラで有名な「花園フォレスト」もある。
12年には第22回全国花のまちづくりコンクールで「花のまちづくり大賞(農林水産大臣賞)を受賞した。
花が咲くたび訪ねてみたくなる所である。
日本一長いバラのトンネル 川島町
「川島」は「かわじま」と読む。長野県の川中島(かわなかじま)の名が思わず浮かんでくる。
川中島同様、川で囲まれているからだ。四方を荒川(東側)、入間川(南側)、越辺川(おっぺがわ)、都幾川(南から西側)、市野川(北側)が流れる。
荒川沿いに軽飛行機用の「ホンダエアポート」があるのを、「さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道」を走った人なら覚えておられるだろう。
川越市の北に隣接しているこの町は、この水のおかげで「川越藩のお蔵米」の産地として知られた。
越辺川には冬、白鳥が飛来する。
「すったて」(別名冷汁うどん、第6回埼玉B級ご当地グルメ王決定戦で優勝)や「かわじま呉汁」(国産大豆と野菜10種類以上と芋がらを入れる)の郷土料理を試した人もおられるだろう。「呉」とは、「豆汁」とも書き、大豆を水に浸し、すりつぶした汁だと辞書にはある。
この町に、日本一長いバラのトンネル「バラの小径」があり、見頃だというので、13年5月31日に出かけてみた。
川越駅東口からのバスの便はあまりないので、「小径」のある「平成の森公園」まで半分以上歩いた。慣れているので歩くのはあまり気にならない。
町のほぼ真ん中にある「平成の森公園」は、日時計としてデザインされたカリヨン(鐘)があり、子ども広場や「ショウブ園」もあって、花ショウブが季節を迎えようとしていた。「ふるさと再生事業」の一つとして1996年にオープンした。
つるバラがアーチ型に連なる「バラの小径」は06年、かわじま誕生50周年を記念して完成した。1954年、中山、伊草などの6村が合併して、川島村が出来たのにちなんだものである。
全長330.5m、53品種427本のバラのトンネルで、完成半年後に「日本一ネット」が「日本一長いバラのトンネル」として認定した。(16年には約61種、474本)
「日本一ネット」は、日本一ネット事務局が日本一の記録として認定したものをネットのホームページに掲載している。
今年の最盛期は、ゴールデンウイークの後だったようだが、種類が多く、それぞれ花期が違うので、十分楽しめた。夜間のライトアップもしている。
鉄道はなく、バスの便もまばらながら、圏央道の川島インターチェンジの供用が08年に始まったので、車ならすぐ行けるようになった。
川島町が「都会に一番近い農村」と名乗っているのも、インターチェンジの存在を意識してのことだろう。
「バラのトンネル」のすぐ近くに、「遠山記念館」がある。この町の出身者で、旧日興証券の創立者の遠山元一氏の生誕の地で、母親のために立てた和風の大邸宅(1936年完成)は、国の登録有形文化財(建造物)に指定されている。
収集した美術品を展示する美術館も併設している。
安行を訪ねる際、立ち寄りたくなるのが、埼玉県の「花と緑の振興センター」である。昔から植物園歩きが好きなので、約2千種5千本の樹木のあるこの展示園は、どの季節に来ても面白い。興禅院のすぐ近くだ。
1953(昭和28)年、「県植物見本園」として開園、2003(平成15)年に「植物振興センター」から現在の名前に変わった。
園内は、「花木園」「コニファー(針葉樹)園」「カラーリーフ(紅葉)園」などに別かれ、最も有名な梅園をはじめ、ツバキ・サザンカ、ツツジ、サクラソウ、ハーブなど各種の花が楽しめる。
ホームページを見ると、ツバキ・サザンカ450種、サクラソウ300種、ハーブ40種とあり、名前と写真がついているので花の名を同定するのに役立つ。サクラも見たこともない珍しいものもある。次々眺めているだけでうれしくなる。
ホームページには、その月の見どころや園内の見頃情報も載っているので、出かける前にチェックできる。
「道の駅 川口・あんぎょう」を併設している「川口緑化センター」も見逃せない。1996(平成8)年に緑化産業の拠点としてオープン、「樹里安(ジュリアン)」というバタくさい名前がついている。(写真)
10月初めの3連休には「安行花植木まつり」が開かれ、庭木、苗木、鉢物、草花などが展示販売される。園芸資材も展示即売するほか、専門家による園芸相談もある。
盆栽展も同時に開かれ、女性や外国人の姿も増えてきた。夏には「アサガオ・ほおずき市」が開かれ、風物詩になろうとしている。
学会も開かれる。08(平成20)年11月のシーズンには、「国際もみじシンポジウムinジャパン」があった。もみじの研究成果の発表や品種展示などが実施され、国内外から多くの関係者が参加した。
安行の植木の伝統技術の一つに「根巻き」がある。樹木を移植する際、根についている土が落ちないようわらや縄で巻く技術である。安行の根巻きは、縄の造形美が特徴で、仕上がりが美しいのが誇り。その根巻き技術の講習会も開かれた。
安行にはこのほか、「安行流」という仕立物の技術、「ふかし」という花の開花を早める技術など長い伝統が培った技術が生きている。
このセンターでは、「樹里安だより」という美しいカラーの広報誌などを出している。技術の話は、その中の一冊「植木の里 川口安行 緑化産業の概要」というパンフレットに書いてあった。
訪ねる度に新しいのが出ていないかと探すのがくせになった。この安行シリーズを書くのにも歴史や数字などいろいろ引用させて頂いた。
このパンフレットの「安行植木の歴史」によると、1982(昭和57)年、オランダのアムステルダムで開催された花の万博フロリアード(国際園芸博物会)に、日本を代表して川口市から植木5千本、苗木、盆栽などを出品、日本庭園が最高賞を獲得、安行の名を世界に知らしめた。
安行の植木のそもそもの起源は、390年前の1618(元和4)年、安行の赤山に城を構えた関東郡代第3代伊奈半十郎忠治が、植木や花の栽培を奨励したのが始まりという。
第二次大戦中は、陸稲や麦、甘藷などの畑に転換され、8件の農家と母樹園5haが残っただけで、壊滅状態になった。
1950(昭和25)年頃、朝鮮戦争の特需景気で、植木の生産が本格的に再開され、1960(同35)~1973(同48)年には、今度は高度経済成長の波に乗り、未曾有の緑化ブームが到来、需要が飛躍的に拡大した。
植木産業が景気に大きく左右されることがよく分かる。
10年から川口市造園協会が中心になって造園業者が作った庭や苗圃(びょうほ=植木の畑)を公開する「安行オープンガーデン」も、「安行花植木まつり」に合わせて始まった。この時に訪れれば、安行の全貌が分かる。
寒冬の影響で13年は、花のスケジュールが大きく狂った。先に安行をじっくり歩いた際、安行にイチリンソウの自生地群落があって、「一輪草まつり」が毎年催され、多くの人が見物に訪れるという話を聞いていた。
里山歩きの途中、ときおり、足元にニリンソウを見かけることはあっても、イチリンソウにお目にかかることはほとんどなかった。まして群落を目にしたことはない。
一度見てみたいものだと思っていたところ、今年は4月20、21の土日曜日とのこと。
念のために川口緑化センター「樹里安(じゅりあん)」に電話して確かめると、案の定、満開は1週間早い13、14日ごろになるという。
20日には、NPOの主催で「イチリンソウの咲く安行を歩こう」というのがあり、これに参加しようかと思っていたのだが、「善は急げ」とママチャリで急行した。
自生地は、川口市安行原にある。「樹里安」から北に向かって突き当たりの赤堀用水沿いの斜面林「ふるさとの森」(川口市保存緑地)の中で、「万葉植物苑」の裏側にある。安行中学校にも近い。
イチリンソウは昔、県内各地で見られたのに、しだいに少なくなり、県の準絶滅危惧種に指定されている。川口市の指定天然記念物になっていて、ここは、県東部の数少ない生息地の一つである。
1995年、植物調査を実施した際、生育が確認され、「安行みどりのまちづくり協議会」の会員らの手で保存活動が続けられ、06年には第1回一輪草まつりが開かれた。
NHKなどにも取り上げられ、花愛好者が訪れるようになっていたのに、10年には花泥棒にごっそり盗掘される事件も起きた。
それでも今、木の柵に囲まれた3か所に元気に育っている。約千輪が開花しているとか。イチリンソウがほとんどだが、よく見ると、ニリンソウもちらほら。
ニリンソウと比べるとイチリンソウの5弁の花びらはずっと大きく見栄えがする。サンリンソウもないかと目を凝らしてみたがなかった。
柵の中には、葉の中央に花が咲き、実がなるハナイカダやウラシマソウ、ジュウニヒトエなどもある。花はつけていないものの、ヒトリシズカやフタリシズカの表示もあった。
ここには小さな流れもあり、夏にはホタルも飛ぶ。
イチリンソウは、英語では Spring Ephemeral(スプリング・エフェミラル)と総称される花の一つである。
Ephemeral とは「はかなく短命」という意味。愛好者の多いカタクリと同じ仲間で、落葉樹である雑木林の林の縁に、樹の葉が開く前に早春に花を開き、晩春に葉が茂ると地面に消えてしまう。
見ていると、「美人薄命」という言葉が浮かんでくる美しさである。
安行は公共交通が不便なところだった。埼玉高速鉄道ができたおかげで、戸塚安行駅から徒歩で35分。駅から自生地まで「イチリンソウ」の旗のぼりが立っていた。
安行はどの季節に来ても花が素晴らしいところだが、春では安行寒桜(密蔵院など)に次ぐ第2弾である。安行寒桜は、早咲きで有名な河津桜よりちょっと遅れるようだ。
安行はPR不足のようで、まだ観光客が少ない。高速鉄道とも協力して誘致に力を入れたらどうだろうか。
国内有数の植木産地で、「植木の里」で知られる川口市の安行には、これまで何度も植物観賞で出かけた。
12年9月24日、ちょっと趣向を変えて自転車で安行のお寺めぐりを試みた。これまで訪ねた寺がほとんどだったが、その由緒を説明板で読んで、自称「寺社奉行」も十分に満足した。
突然、信仰心が目覚めたわけではない。22、23の両日、「第5回きらり川口ツーデーマーチ」があり、これに参加したのがきっかけだった。
22日は小雨が降ったものの、日光御成道ルート20kmコースに参加して、23日の安行ルートを楽しみにしていた。
ところが、朝から隣のさいたま市に大雨注意報が出るほどの大雨で、二日目の参加はあきらめた。
「この雨の中1029人が歩いた」と共催の翌日の朝日新聞には書いてあった。ウオーキング愛好者は、かなりの雨にもへこたれないらしい。「雨天決行」の意味がよく分かった。
皮肉なもので、24日は朝から好天。おまけにあの長く暑い夏も突然終わって、秋の気候に変わっていた。「暑さ、寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。
この好天に出かけない手はないと、ママチャリでお寺参りに出かけたというわけである。
まず目指したのは、安行の地名の発祥地として知られる金剛寺。室町時代の1496年、当時この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行(やすゆき)により開創された。
安行(あんぎょう)の地名は、この入道の名にちなむ。群雄割拠の戦乱の世にあって自分の殺傷を悔い改め、禅僧に会ったのがきっかけで仏門に入った。寺名は帰依していた金剛経にあやかった。
金剛寺には、もう一つ、安行にゆかりの深いものがある。
「安行植木の開祖」吉田権之丞の墓と記念碑である。
権之丞は若い時から草花や盆栽に興味を抱き、苗木、植木を栽培、安行村の名主役も務めていた。
江戸で有名な「明暦の大火」(通称振袖火事)が起きたのは、1657(明暦3)年である。
天守閣を含む江戸城本丸が消失、江戸の6割が焼け、10万人以上の焼死者を出した。日本史上最大の大火災で、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つにも数えられる。
その復興のために必要になったのが、植木である。
江戸の巣鴨や駒込の植木商人を通じて、切り花や植木を取り引きしていた権之丞に、注文が殺到したのは当然だった。
権之丞に刺激されて、村人も苗木作りを始めた。明暦の大火で「植木の里安行」の第一歩が築かれたようだ。
権之丞は「花屋」と呼ばれ、今でも子孫は「花屋」の屋号を使っているという。
金剛寺の墓の中ほどにある権之丞の墓は小さい。説明板がなければ、気がつかないほどだ。
これと対照的に寺の境内に「安行植木の開祖 吉田権之丞翁記念碑」という堂々とした石碑が、没後300年を記念して建てられている(写真)。
川口市史によれば、幕末の頃、安行で植木業を営んでいたのは、吉田家など十余戸で、本格的な展開を見せたのは日露戦争前後だった。
果樹の苗木や江戸時代から出荷されていた、「赤山物」とか「赤山切り花」として知られた観賞用の切花類も著しく発展した。
1930(昭和5)年頃には、栽培戸数千数百戸、面積300haに達し、日本最大の植木産地になっていた。
安行がこれほど植木の里として発展したのは、土壌の赤土(関東ローム層)が樹木の栽培に適しているうえ、台地が起伏に富むことから、地下水の流れがよく、台地、傾斜地、低湿地が交錯、日当たりを好む木から日陰を好む木まで、いろいろな樹木を育てられることが挙げられる。
日本列島の中央部にあることから、寒い地方、暖かい地方、さらには亜熱帯の木も育ち、多種類の木や苗の生育に適している利点もある。
この台地の起伏は自転車で走るとよく分かる。大消費地東京に隣接し、地形と風土に恵まれたのが最大の要因だった。
ラン展の季節である。後楽園で開かれている世界ラン展に出かけようかと思ったが、「ちょっと待て。花の県・埼玉だから近くにランの展覧会があるはず」と思いついたのが、「川口市立グリーンセンター」だ。
ここなら浦和から自転車でも行ける距離だし、天気もいい。10年2月、いつものママチャリにまたがって訪ねると、案の定、観賞温室(ランの温室)で洋蘭展をやっていた。もう9回目になるという。
このグリーンセンターは、埼玉洋蘭会の初代会長で、大正製薬会長だった上原正吉氏がカトレヤのコレクションを寄贈したこともあって、野生種、園芸種合わせて約1200種、3500鉢のカトレヤを育てていることで知られる。その展示はさすがに見ごたえがある。カトレヤは「ランの女王」と呼ばれるのはご承知のとおりだ。
今年の主役は「リカステ」で、特別展示されていた。昨年の世界ラン展で日本大賞を受賞、人気を集めている。もともとはアンデスなどの涼しい高地の木に着生しているもので、その清楚な姿は「森の妖精」にたとえられる。(写真)
ギリシャ神話のトロイ王国最後の王の娘「リュカステ」にちなんで名づけられた。日本はリカステの育種では世界でも抜群の技術を誇るという。いくつかの品種があり、昨年の受賞はショールヘブン種の「ヨーコズデライト」だった。
日本の洋蘭栽培発祥地とされる新宿御苑からもあまり聞きなれない名を持つ珍しいランがいくつか出品されていて、興味をそそった。
温室の外に出ると広大な園内は、蝋梅や紅白の梅はもちろん、黄や赤のマンサクも花をつけ、ネコヤナギのつぼみもふくらんで、春を迎えようとしていた。
ウイークデーに行くなら、幼児づれや老夫婦がほとんどで人ごみもなく、すばらしい別天地だ。
珍しい植物がある「川口市立グリーンセンター」は何度も訪ねている。
大温室のサボテン室には、「奇想天外」というおかしな名を持つ珍しい植物がある。「その花が咲いている」と新聞にあったので、猛暑の12年8月17日に出かけた。開花は数年おきでいつ開くかは分からないという。
仕事でアフリカ諸国を回っていたので、もう30年以上前、アフリカ大陸の南西部ナミビアのナミブ砂漠に出かけた際に目にして「びっくり」したのが、この珍種だ。
前にこのセンターにラン展を見に行った時、あるのを見つけて、また「びっくり」。気になっていた植物だ。
ナミブ砂漠特有のもので、この地と地続きのアンゴラ以外には存在しないという変わり者。多肉植物で、写真で分かるとおり、短い茎から大きな昆布みたいな帯のような葉が二本だけ地面に沿って伸び続け、地面をうねっているのが特徴だ。
陸上植物なのに、葉がコンブ類と同じ型の成長をする。
葉の気孔から大気中の湿気と、3mから最長10mにもなる長い根で地下水を吸い上げ、年間降雨量25mm程度という極限の乾燥地で数百年から2000年以上も生きるというから驚く。
大気中の湿気とは、砂漠の朝露だ。「生きている化石」とも呼ばれる。
1科1属1種の裸子植物で、雌雄異株。雌花序は雄花序より大きい。
学名はWelwitschia Mirabilis。ウェルウィッチアは発見者オーストリアの博物学者の名前、ミラビリスは「驚異の」を意味するという。
和名の「奇想天外」は1936年、種子を輸入して栽培した岡山の石田兼六という園芸商がつけ、園芸誌に発表した。
「サバクオモト(砂漠万年青)」と名づけた人もいるようだが、「奇想天外」の方がぴったりだ。
世界最大の花ラフレシア、人も乗れるオオオニバスと並ぶ「世界三大珍植物」の一つに数えられる。
世界に名高いロンドンのキュー植物園や、日本では京都府立植物園でも栽培されている。
グリーンセンターには、30年ほど前にサボテン愛好家から寄贈され、7,8年前から開花するようになった。今年のように雌株と雄株の花が同時に咲くのは珍しいという。確かに雌株のほうが大きい。(写真は雄株)
イギリス王立公園園芸協会はインターネット投票で「世界で最も醜い植物」10の中の4位に選定している。
腐臭を放つことから、「死体花」の呼び名もある世界最大を競う「スマトラ・オオコンニャク」がトップで、腐臭を持つのが上位を占める。
新聞やテレビの報道のおかげで、老夫婦連れや家族連れが押しかけて、盛んに写真を写していた。
「埼玉県一の巨木とは、どんな木なのだろう? 」。
またまた、好奇心に駆られて、12年6月30日(土)、仲間と季節のアジサイ見物を兼ねて出かけた。
「上谷(かみやつ)の大クス」と読むらしい。東武東上線の坂戸駅から越生線に乗り換え、終点の越生駅で下車。バスで十数分の越生梅林で降り、歩いて小一時間。
幹周り15m、樹高30m、太い幹が何本かに枝分かれしている。幹の中に空洞もなく、樹齢千年を感じさせない元気さだ。横への枝と葉の広がりが圧倒的だ。(写真)
1988(昭和63)年度の緑の国勢調査(環境庁)の巨木ランキングで、県内一位、全国で16位のお墨付きを得た。関東甲信越でも1位だという。県の天然記念物に指定されている。
大クスを一回りできるウッドデッキが腐食していたのを、町が腐食しにくい合成材を使って作り直したので、観光客も増えるだろう。
小学生の頃、鹿児島県姶良(あいら)郡蒲生町の八幡神社で、後に同じ調査で「日本一の巨木」と認定された「蒲生(かもう)のクス」を見に行ったことを思い出す。
樹高は同じだが、幹周り24m余。樹齢は推定約1500年。幹の中に大きな空洞(畳八畳分とか)があったのを覚えている。
クスノキは、台湾や中国、ベトナムなど南方の木だ。日本では暖かい西日本に多く、よく神社に植えられている。関東地方の山間部でこんな大木に成長するのは珍しいという。
全国に4万4千社あるという八幡様の総本宮「宇佐神社(八幡宮)」(大分県宇佐市)にも大きなクスノキがあったのが、頭に浮かんだ。
「葉が防虫剤である樟脳の原料」というのが記憶に残っている。埼玉歩きは、自分の過去の記憶をたどる旅でもある。
このクスノキのような「パワースポット」を訪ねるのは今やブームで、歩き仲間の女性たちも柵の外から根元に触れて、霊力を頂いていた。
ここからさらに坂を上り下りして、麦原地区にある「あじさい街道」と「あじさい山公園」に向かう。
近くの案内板を見ると、この公園はかつて、「面積5万6660平方m 1万5千株」あり、「日本一のアジサイ公園」を自負したこともある。
ところが、10年ぐらい前から、花(がく)が葉のように緑色に変わり、下部が衰弱して枯れる「葉化病」が蔓延し始め、園内の三分の二が感染するほどの深刻さだった。
昆虫が媒介するファイトプラズマという細菌が病原で、焼却して、土壌を調整するしか手がないという恐ろしい病気だ。
県の助成を得てここ数年、伐採して新たに植え替える再生事業に取り組んでいるものの、ホンアジサイやガクアジサイなど約8千株しか回復していない。
ちょうど「あじさい祭り」が開かれていた。アジサイが元気を取り戻していないので、なんとなく寂しい。
この公園から越生駅に向かうバス停の麦原入り口までの約3kmは「あじさい街道」と呼ばれる。ここには道の左右に約5千株、地元の人たちの手で植えられてきた。このアジサイは病気の影響を受けず、目を楽しませてくれる。
首都圏でアジサイというと、テレビのおかげで反射的に鎌倉の寺や、箱根登山鉄道を思い出す。それも素晴らしいのだが、「花のまち」越生の山の中にも名所があるのだ。
再生事業の進捗に期待したい。
「さいたま市報」13年4月号に、清水勇人市長のコラム「絆をつなぐ」に「日本一の桜回廊づくり」と題する原稿が掲載された。
「桜はさいたま市の花木で、見沼代用水西縁・東縁(べり)の桜並木は見事。平成25年度から両用水を桜並木で結び、5年程度で延長20kmを超す『日本一の桜回廊』をつくる運動を実施しよう」というのである。
「見沼田んぼを歩く『さいたマーチ』とも連動させ、政令指定都市移行10周年を機に始める運動に参加してほしい」とある。
市見沼田圃政策推進室によれば、桜並木はすでに西縁に11.1km(993本)、東縁に6.3km(693本)、通船堀に0.8km(127本)植わっており、総延長は18.2km(1813本)。(用水は、利根川から水を引き、綾瀬川と交差する上尾市瓦葺で東西に分かれる)
東武アーバンパークライン七里駅からほど近い代用水沿いの締切橋から丼橋にかけての桜並木約1kmは「平成桜」と呼ばれる。平成元年の1989年から有志の呼びかけで植樹された。
青森県弘前市の岩木山南麓に約20kmオオヤマザクラが植わっていて、「世界一の桜並木」と誇っているというから、距離で追い越すならあと2km(200本)植えればよい。
市長の提唱を受けて、さいたま市、市民団体、事業者など33団体からなる実行委員会が立ち上がり、「目指せ日本一! サクラサク見沼田んぼプロジェクト」というキャッチフレーズも決まった。
見沼代用水土地改良区、さいたま市造園業協会、大宮アルディージャ、武蔵野銀行なども参加している。
桜で日本一なら世界一と同じだから、弘前同様「世界一」を名乗ったらどうか。安直な発想ながら、ギネス登録を狙う手もある。
そのプロジェクの植樹祭が14年3月29日朝、見沼区の七里公園の西北端、遊具広場であった。さいたま記念病院の前と言った方が分かりやすいだろう。この日は、「第2回さいたマーチ~見沼ツーデーウォーク~」の初日で、式場の隣には中継所が設けられていた。
広場に隣接する病院寄りの県所有の空き地に、雅(みやび)、江戸彼岸、寒緋桜、山桜、大島桜の7,8年ものが40本植えられていて、式は土をかけるだけ。ここから西縁に移植されるのではなく、「サクラの杜」として残されるという。
新しいサクラの名所になるだろう。
市長がさいたま大使と一緒に土をかけた皇太子妃・雅子さまゆかりの雅には、小さいながら花がいくつかついていたから、桜林になるのもそれほど遠いことではあるまい。(写真)
今回のプロジェクトでは、浦和区の大原中学校付近から大宮区の大宮第3公園付近まで、桜並木が途切れている見沼代用水西縁を重点整備区間として、植樹が予定されている。
一般の寄付も大歓迎で、個人なら5百円以上、企業なら5千円以上、自分のネームプレートをつけるなら5万円。さいたま市公園緑地協会で受け付けている。
日本一を目指す桜回廊には、開花時期を長く楽しめるよう、エドヒガンザクラ、ミヤビザクラ、ヤマザクラなど8種の桜165本を植え、17年3月には、既存の桜から2km長い20.2kmと青森県弘前市の岩木山の桜並木を超した。
ところが、岐阜県各務原市に総延長31kmの桜回廊があり、日本一を称していることが分かり、「実際に桜並木の下を歩ける桜回廊では日本一」とPRすることにしたという。(日経新聞)