ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

「桜の園」 さいたま市 大宮公園 その3止

2012年04月15日 16時27分46秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



さいたま市の桜を語るなら、ソメイヨシノがほとんどだが、約千本のサクラがある「大宮公園」から始めるのが当然だろう。日本さくらの会の「日本さくら名所百選」にも選ばれているのだから。しだれ桜は樹齢120年のもあるとか。

旧浦和市の住民なので、近所から回っただけで、旧大宮市のこの有名な公園が最後になったのには他意はない。

ここは何度訪ねたか分からない。満開の花見に来たのは、今度が初めてだった。

満開時なら、その豪華さはソメイヨシノの右に出るものはない。なにしろクローンなので一斉に咲くのだから。私がソメイヨシノに抱いている偏見は、満開のソメイヨシノをあまり見ていなかったせいかもしれない。さすがに素晴らしかった。(写真はボート池付近)

この公園は、そこらの公園とは違う。大宮駅の開業とともに1885(明治18)年開園だから、すでに130年近い。氷川神社の裏にあるので、当時は「氷川公園」と呼ばれた。

夏にはホタルが飛び、秋にはハギやススキが茂り、虫がすだく。武蔵野の面影の濃いアカマツの雑木林で、東京から30分の風流な奥座敷だった。それに魅かれて、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、永井荷風、国木田独歩、森鴎外、正宗白鳥、与謝野鉄幹らの文人も訪れている。

日本初の林学博士で造園学者、日本の都市公園第一号の日比谷公園などを設計(明治34=1901年)した埼玉県菖蒲町生まれの本多静六が大正10(1921)年、現在の公園の骨格を定めた「氷川公園改良計画案」を作成した。

大正末期ごろからサクラが積極的に植えられた。「サクラとアカマツの風景」が売り物だったのに、1964(昭和39)年の台風で、120本のアカマツが倒れ、代わりにクロマツが植えられた。アカマツには百年を超すものもある。

そのクロマツにもサクラにも衰えが見えてきたので、120周年を契機に、公園では2005年から「大宮公園桜守ボランティア」の協力を得て、「サクラ活性化対策」を始めた。

密生しすぎて 日当たりが悪いきらいがあるので、思い切って伐採したり、サクラの根元の土壌改良作業が進められている。

ソメイヨシノの寿命は短いとされるものの、弘前城のサクラのように手入れが良ければ長持ちすることが分かっているので、楽しみだ。マツも770本あるとか。

サクラだけではない。大宮公園の一角にある野球場では、立替前の球場の竣工試合では、日米親善野球第17戦があった。ベーブルースやルー・ゲーリックなどが10本もの本塁打。23対5で全日本に圧勝したものの、当時北海道旭川中学4年のスタルヒンが8回裏に登板、零封した。

スタルヒンの名はよく覚えている。昔の野球ファンには懐かしい話だ。

1953(昭和28)年の高校野球南関東大会で熊谷高との試合で、佐倉一高の長嶋茂雄がバックスクリーンに特大のホームランを放ったのもこの球場だ。

スタルヒンも長島もこの球場から育っていったのだ。

NACK5スタジアム大宮は、日本初のサッカー専用球場として1960年に誕生し、64年の東京五輪のサッカー会場となった。

この原稿は、ほとんど公園事務所でもらった資料に基づいている。感謝したい。

 


「桜の園」 旧浦和市  戸田市 その2

2012年04月13日 17時41分19秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
「桜の園」 旧浦和市 戸田市 その2

JR武蔵浦和駅近くから、花を眺めながら、荒川の洪水調整池の「彩湖」に向かうには、荒川に流れ込む「笹目川」沿いの遊歩道がお薦めだ。南区の白幡沼を水源としている。

数は少ないけれど、冬鳥が飛来するこの沼の西縁は、遊歩道になっていて、短いけれど新しい桜の名所。(写真)12年はいく夜か、ちょうちんも掲げられた。埼京線とほぼ並行に流れる「笹目川」の両岸の桜もようやく大きくなって、見事な並木になった。

戸田市側の遊歩道は「自然と彫刻のプロムナード」という名前で、素晴らしい散歩道になっている。

川口競艇場のところで、荒川と合流する。その少し手前で、「荒川左岸排水路」が流入する。

荒川と並行して北西に連なる、この排水路の両岸には1978年、2kmにわたってソメイヨシノが約530本植えられた。それが立派に成長して、満開時には両岸から排水路を覆うばかりの勢い。昔の地名「美笹村」にちなんで、「美笹の桜」と呼ばれる。

こんな立派な桜が咲いているのに、「排水路という名ではかわいそう」と、05年には、住民からの発意で「さくら川」と名づけられた。

「桜の名所を作るにはざっと30年かければすむのだ」と教えてくれる場所である。

両岸は車道なので、車の通行に気を使う必要はあるものの、笹目神社近くでは川辺が「親水性遊歩道」になっているところもある。上流に水路上にかけられたコンクリートの広場も2か所あって、格好のお花見会場になっている。

荒川の高い堤防の陰になっているせいもあり、近所の住民や戸田市民にしか、あまり知られていない。隠れた花見場所である。

笹目川とさくら川をめぐるこのルートは、毎年、私の花見のお決まりコースだ。

「東京外郭環状道路」を短いトンネルでくぐったら、「彩湖」に出てみよう。「彩湖」は、まだ認識が足りないようだが、埼玉県の偉大な観光資源である。歩くのは大変なら、自転車で走ってみたらよく分かる。

堤防を越えれば、西側に広大な「彩湖・道満グリーンパーク」がある。ここには、古い荒川の面影が残る「道満河岸つり場」がある。

ヘラ鮒釣りで太公望に人気の場所。釣りが趣味でなくても、「こんな所でゆっくり時間が過ごせたら」と思う。昔、本当の河岸だったという。桜もなかなかいける。

彩湖沿いに北上すると、再びさいたま市だ。JR武蔵野線をくぐったら、秋ケ瀬橋近くの「さくら草公園」である。


 わが国は草も桜を咲きにけり 一茶

毎年、見に来るのはこの句のためだ。

「田島ケ原サクラソウ自生地」で、名に魅かれて初めて来ると、ガッカリすること請け合いだ。

トウダイグサのあいだにちょびちょび咲いているように見えるだけだから。だが、何度か来ていると、こんな小さな花が「よくぞ今年も咲いたな」と、いとおしくなる。不思議な花だ。一茶に習って、「草」というべきなのだろうか。

ちょびちょびと言っても、百万株はあるというのだから驚き。

寒冬異変のせいで、例年なら桜のほうが早いのに、この日は、草と一緒に満開だった。ここの桜は実に素晴らしい。弁当を持ってくるならこの河川敷で開きたい。

秋ケ瀬公園を北上すると、桜の下でどうしてもバーベキューを楽しみたい人には、格好の施設もある。

戸田市の首都高速5号線の笹目橋から、さいたま市桜区の所沢に向かう羽根倉橋まで、この河川敷はまさしく荒川の恵みである。

鴨川堤桜通り公園には、堤下に770本余りの桜並木が続く。車道が堤上にあるので、自転車で走れば、目の前で満開の花と対面できる。この公園には里桜も植えてあるので、二度花見が楽しめる。

秋ケ瀬橋近くでJR中浦和駅へ向かう道をとれば、鵠沼排水路(鵠沼川)沿いの「秋ケ瀬緑道」。立派な遊歩道で2.2km。ここも桜並木が続く。

ここまで来ると、目も頭も”桜酔い”で、本当の酔いを求めたくなる。さいたま市の花見2日目はこうして終わった。












「桜の園」 さいたま市 その1

2012年04月11日 16時53分36秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
「桜の園」 さいたま市 その1

4月9日から11日まで、2012年の3日間。埼玉県の“桜きち”にとって最高の日々だった。

前日の強烈な春の嵐と打って変わって、20度超と初夏のような陽気に恵まれ桜が一斉に満開になったからである。

桜狂いだから、全国の有名な桜はたくさん見てきた。しかし、満開の桜を見たのは数えるほどしかない。

この日々の当地の桜は、本当の満開だった。

満開とは何か。七分咲き、八分咲き、いろいろな表現はある。私には、その細かな違いは分からない。

だが、満開は違うのである。感性に訴える何かがある。

この3日間、ほとんど風がなかった。満開の花が、ゆらぎなく咲き誇っているのに、なぜか花びらは落ちない。この自然界の微妙な静かな均衡が満開なのだろう。それに、素面ながら酔いしれた。

もし落ちている花があれば、それはムクドリなどが蜜を吸いたさに花びらの下を食いちぎったのだと、最近知った。

その至福の時間が極めて限られているのを知っているだけに、いっそう、いとおしい。花期の短いソメイヨシノならなおさらのことだ。

「花の命が短い」ことを自ら知っているから、あれほど豪華に咲くのだろう。ボッテリといつまで咲く八重桜との違いだ。

この3日間、ママチャリにまたがり、朝から夕までさいたま市の桜を求めて、ゆっくりとこぎ回った。

長い経験からさいたま市が大変な「桜の園」であることを知り尽くしているからだ。

浦和、大宮、与野の3市に岩槻市が加わり広い政令都市になったので、自転車でも全部は回りきれない。そこで今回は、旧浦和市の浦和、桜、南、大宮区と、南区の南隣の戸田市の荒川の貯水池「彩湖」の周辺に限った。

この時期、どこも桜が埋め尽くしているので、とても回りきれないからである。

どこから始めよう。やはり、旧浦和市の中心にある古刹「玉蔵院」に敬意を表すべきだろう。真言宗豊山派に属し、関東真言宗の代表寺院だった。

この寺の枝垂桜は例年、ソメイヨシノより早く咲く。ここの桜が咲いて、浦和市民はいつも、春の到来を知ってきた。毎年、カメラを手に多くの風流の士が詰めかける。

12年の長く厳しい冬は、その生理さえ狂わせた。一緒に咲いたのである(写真)。

いつも不思議に思うのは、桜にはいろんな名前がついているのに、枝垂桜には「紅枝垂桜」など、平凡な名前しかないのが気にかかる。

写真のとおり、ここのは白のシダレである(写真)。

次は当然、近くの「調(つきのみや)神社」である。「つき(槻)」の名のとおり、ケヤキの大木の林立する延喜式の古社。数はそれほど多くはないものの桜の名所である。

次は「別所沼公園」。それほど広くないとはいえ旧浦和市一の公園だ。かつてウナギが取れて、浦和宿の客に食わせたという、その池沿いには中国原産のメタセコイアが林立している。ここの桜も手近で、人でにぎわう。

この伝統の「3点セット」を離れて、埼京線武蔵浦和駅に向かって、「花と緑の遊歩道」をたどろう。「浦和西南桜」と呼ばれる桜の名所だ。今でも記念碑が残る。排水路を暗渠にしたものだ。

この4か所でほんのちょっぴりだ。先を急ごう。


桜区の花見 さいたま市

2012年04月11日 16時52分36秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

桜区の花見 さいたま市

さいたま市には、「桜区」という区がある。木の桜ではなく、草のさくら、つまり荒川の河川敷に国の特別天然記念物「さくら草」が自生していることに由来する。区の最南端に「さくら草公園」があり、さくら草は市の花に指定されている。

ところでこの桜区は、桜の並木が多いところだ。桜区は市の南西部に位置し、荒川の長く広大な河川敷も区域に入る。南北には荒川堤上に「荒川サイクリングコース」があり、鴨川が流れる。東西にも小さな川がいくつかあり、水と緑に恵まれている。

桜の並木でとりわけ素晴らしいのは、埼玉県大久保浄水場に接した「荒川総合運動公園通り」(約1km)の川沿いの桜並木だろう。河川敷内の運動公園に通ずる道だ。市の西端で交通が不便なことから市民でも知らない人が多いが、満開の染井吉野を一目見ると、決まって感嘆の声を上げる。(写真)

この通りは散歩道も整備された親水公園になっていて、染井吉野の反対側に、まだそれほど大きくはないものの、紅しだれが並び、紅白の見事なコントラストをなしている。

鴨川沿いには「鴨川堤桜通り公園」の約770本の桜が約2kmにわたって連なる。ここには染井吉野以外の桜も植えられていて、遅咲きの里桜も楽しめる。埼京線中浦和駅近くから荒川に向かう鴻沼川沿いの約2kmの「秋ヶ瀬緑道」の桜並木も素晴らしい。これらを全部見ようとすると、徒歩では時間がかかり過ぎるので、自転車が必要になる。

この公園の南側にさいたま市桜環境センターの「余熱体験施設」ができ、ジム、大浴場、露天風呂、ウォーキングプールなどがあり、食事もできる。

鴨川堤からは田んぼや堤でセリや野ビルを摘む人の姿も見られ、雲雀が舞い上がる。荒川の堤に立てば、遠く満開の桜が散見された。
花見帰りに一風呂も可能だ。


桜区役所を訪ねると、中庭や周りに染井吉野を中心に11種の桜が植わっている。染井吉野の時期に「十月桜」が咲いているので、よく表示を読むと、「4月頃にも咲く」と書いてあって、納得した。

枝が天に向かってまっすぐ伸び、花も上向きに咲く「天の川」、オシベが変形し旗のように見える「旗桜」、花が淡黄緑色の「鬱金(うこん)」、皇太子妃にちなんだ「雅(みやび)」などもあり、名札がついているので勉強になる。


円乗院のしだれ桜  さいたま市中央区

2012年04月10日 14時40分05秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
円乗院のしだれ桜 さいたま市中央区

この時期、桜キチは極めて忙しい。花を見に東奔西走するからだ。さいたま市に籠ったのだから、今年はさいたま市中の桜を見てみたい。

新聞に中央区本町の「円乗院」の満開の桜が掲載されていたので、気温が22度にもなった11年4月6日、ママチャリに乗って出かけた。中央区というとなじみがないが、旧与野市のことである。

合併で浦和、大宮は区の名として残ったのに、与野市だけはこのような「いかにも合併しました」という代わり映えのしない名に変わった。

昔から神社仏閣には興味があるので、この寺には、何度も出かけたのに、花の時期に出かけたことはない。バラで有名な与野公園に隣接した古刹である。

寺の桜といえば、浦和区の中心部で、埼玉会館や県立図書館に近い「玉蔵院」のしだれ桜が親しまれており、「浦和の桜は玉蔵院の開花から始まる」と言われるほどだ。

初めて見る円乗院の桜は、玉蔵院をしのぐ素晴らしさだった。市の天然記念物で、名は「千代桜」、江戸時代中期に植えられ、樹齢約300年と掲示板にある。エドヒガンの変種で、樹高5.3m。しだれ桜である。

もっとすごいのは、後ろに立つ多宝塔である。高さ30m、間口7.5m。日本三大塔の一つだという。桜の写真だけを撮っていたのを、多宝塔をバックにしたのに切り替えた。(写真)

高野山金剛峰寺、根来寺の多宝塔に次ぐというから驚く。多宝塔とは、写真のように上層が円形、下層が方形の二重の塔だと、調べてみて初めて分かった。内部に釈迦の像などを安置する。

隣の与野公園は、染井吉野が満開で、まだ学校が始まっていないのか子供づれでにぎわっていた。桜には、染井吉野のように群れをなして咲き、迫力で迫る「群桜」と「千代桜」のような「孤桜」があるが、与野では双方が隣り合っているわけだ。

与野公園は中央区の象徴みたいな場所で、5月にはバラまつりが開かれ、また多くの人でにぎわう。







桜の「雅(みやび)」 さいたま市見沼

2012年04月09日 17時35分17秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
桜の「雅(みやび)」 さいたま市見沼

10年4月3日の土曜日、いつもの仲間とさいたま市見沼の花見に出かけた。東京の都心部からほぼ20km北にあるさいたま市の桜も満開に近づいていた。

首都圏ではみられない広大な見沼には芝川を真ん中に、西側に「見沼代用水西縁」と東側の「見沼代用水東縁」の2本の用水路と合わせて、計3本の水路がある。

この時期、桜と言えばもちろん「染井吉野」である。300種を越す桜の品種の中で最も豪華で華やかな染井吉野が、この川沿いの道にそれぞれ延々5km以上も連なっているのだから壮観というほかない。これまではママチャリで走っていたのを今度は初めて歩いてみた。

朝9時、武蔵野線東浦和駅前に集合、西縁沿いに北上した。東縁、芝川沿いの桜を愛でながら南下、午後4時過ぎ駅前に帰り着いた。

「今日は3万歩」と歩数計を持った女性。歩幅は、身長から100cmを引いたら分かると言われる。その女性が150余cmだとすると歩幅は50余cm、これに3万歩を掛けると、ざっと15km歩いた計算。

数多くの桜の名所を訪ねたが、吉野山を除き、これほど長距離の花見をしたことはない。もちろん吉野は山桜で、染井ではない。「こんな素晴らしい所が地元にあるのになぜ都心の混雑の桜を見に行くの」と語り合いながら歩いた。

最大の収穫は、ところどころ畑の中に咲いていた濃紅色の桜だった。(写真) 親のオオシマザクラの血をひいて白色系の染井吉野の中で、強烈なアクセントをつけている。「桃の花かな」と近づいてみると、どう見ても桜である。

初めてなので、帰りに訪ねた古刹で野菜などを売っている女性に尋ねると、「雅と書いて ”みやび”、雅子さまご成婚記念の桜」だとのこと。

帰ってインターネットなどで調べると、「さいたま市大崎の見沼田んぼの畑で発見され、接木で増殖、1993年のご成婚を記念して、プリンセスミヤビ桜(雅桜)と命名」。「耐寒性が強く、一重で濃紅色。カンヒザクラの交雑種らしく、小さな花が下向きにたくさん咲く」とあった。

「全国で栽培可能」とも。人気の桜のようなのだ。その名のとおり、この優雅な桜の普及と雅子さまの完全なご回復をお祈りしたい。



高麗の里 マンジュシャゲ(曼珠沙華) 日高市

2011年09月26日 19時45分12秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

高麗の里 マンジュシャゲ(曼珠沙華) 日高市

朝鮮半島と埼玉県との関係が深いことを知ったのは、大学時代だった。オンボロの学生寮住まいで、まだ埼玉に何のかかわりもなかった頃、金達寿の「日本の中の朝鮮文化」を読んだ時である。

地方勤務を終えて、埼玉に住み始めた時、早々と訪ねたのが、高句麗からの渡来人が開拓した日高市の高麗の里だった。

日本で昔、「高麗」と呼ばれた高句麗は地理上では、旧満州の南部から現在の北朝鮮のすべて、さらに韓国に大きく食い込み、朝鮮半島の大半を支配していた国。668年、唐と新羅に滅ぼされた。

渡来人とは、現在のように、着の身着のままのアフリカなどの難民とは違う。国は敗れても、先進文化と技術を持っていて、国づくりが本格化しようとしていた当時の日本では大歓迎された。

日高市の巾着田(きんちゃくだ)のマンジュシャゲは、500万本と言われ、「日本一の群生地」の触れ込みである。15年10月から「ハギ」と並んで「市の花」になった。

11年の彼岸には、「咲いている」との新聞報道を確認してから訪ねた。前年は、「当然咲いている」と思って出かけたら、数本しか咲いていなかったからだ。

入場料200円(前年は咲いていなかったのでタダ)。入り口には「5分咲き」と書いてあった。早咲きと遅咲きの所が分かれているので、咲き方がずれるようだ。古木の上に咲いているのもあって、カメラが群がっていた。(写真)

全周してみると、あいあい橋(後述)の近くの斜面には白いのもあって満足した。

巾着田の名は、ハイキングコースの近くの日和田山(305m)の頂きから見ると、昔の巾着(財布)の形にみえるからだという。巾着などという言葉を若い人は覚えているのだろうか。

今回は、高麗川の迂回するとおりに歩いてみた。すばらしい清流である。川原に下りて水に触れるのが最高だ。

総面積は22ha。ヒガンバナは湿った場所が好きで、群生するのは、主に巾着の底と山から見て左の部分に当たる川沿いの地5.5ha。2kmの散策路ができている。

巾着の開け口には、平成8年に完成した歩行者専用の歩道橋「あいあい橋」がある。長さ91mの日本で最長の木製トラス(Truss)橋。トラス橋とは、橋下を三角形に組み合わせた梁で支える構造になっている。

なぜここにヒガンバナが群生するようになったか。最初は球根が流れ着いて、それを人手で増殖、日本でも有数の群生地になった。一日一万を超す見物人が押し寄せる(15年は27万人)ので、「巾着田の詩」という歌謡曲も売り出されている。

ところで、ヒガンバナは一般に、田んぼの土手、畦や墓場の周囲に生えていることが多い。根に「リコピン」という毒があるので、モグラや野ネズミが穴をあけないよう、人工的に植えられたのだという。

稲や、土葬だった遺体を損傷から防ぐためだ。その根茎が強いので、畦補強のために植えたという説もある。

地下茎にはデンプンが含まれ、長時間水にさらせば無毒化して食用になるので、昔は飢饉対策に植えられたと、聞いたこともある。薬にもなるそうだ。

奈良の飛鳥を歩いた頃、あぜ道に咲いていたのを思い出す。

全国には30の方言(50超とも)があるようで、咲いている場の連想から「死人花」「幽霊花」「地獄花」とも呼ばれる。日本では不吉な花のイメージが強いのに、外国では観賞花としてリコリスと呼ばれ、いろいろな品種が開発されている。

それにしても曼珠沙華とは難しい名前だ。サンスクリット語の仏教用語。「天上界の花 赤い花」という意味だそうで、おめでたい事が起きる兆しに赤い花が天から降ってくるという法華経などに由来するとか。

「マンジュウシャカ」という読み方もあるようで、山口百恵の「曼珠沙華」では、「恋する女はマンジュウシャカ」と歌われているのを、覚えている方もいるだろうか。私は聞いたことはない。


梅百花園 長瀞町宝登山 

2011年09月24日 08時38分50秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

梅百花園 長瀞町宝登山  

急に春めいた10年3月13日の土曜日、仲間と梅見としゃれこんだ。俳句の「春浅し」の兼題にふさわしいものが何か見つかるかなという下心もある。

宝登山(497m)を「ほとさん」と読むのかと思っていたら「ほどさん」と濁って読むのが正しい。日本武尊が建立したと伝えられるこの神社は、山火事に包まれた尊を山犬が救出した伝説にちなんで「火止山(ほどやま)」と呼ばれていたためという。奥宮は狛犬の代わりに山犬が守っている。

「水戸の偕楽園」「吉野梅郷」「熱海梅林」「小田原梅林」「越生梅林」「秋間梅林」など関東の梅の名所は季節毎に訪ねてきた。しかし、梅の種類となると、紅と白の違いぐらいでほとんど知らず、せいぜいポピュラーな実梅の「白加賀」ぐらい。

1986(昭和61)年から植栽が始まった「梅百花園」は、約170種、470本と関東では最も品種の多い梅園である。水戸の偕楽園は約100品種、3千本という。

名前にびっくりしたので覚えている「見驚」も咲いていた。花弁が大きいので、この名がついたのだろうと実感した。それぞれの梅の木に品種の名がついているので、花を眺めながら見ると、いずれも風流な名前だなと感心する。

梅に限らず、桜も椿も菖蒲もいずれもほれぼれするような名前がついている。日本には古来、俳句の伝統のせいか風流人が多いのだろう。

うなったのは、ロープウエーを降りた所にある不動寺参道のしだれ梅の並木だった。150本あるという。しだれ桜ならよく目にするが、しだれ梅を一度にこんなに見たのは初めてだった。

その中に「しだれ梅緑萼(りょくがく)」というのがあって、これも初めてなので感じ入った。緑色系の桜は、時折目にするのだが、緑の梅の花を見た経験はこれまでなかった。世の中には知らないことが多い。

不動寺周辺には、花期が遅く長い「関山」などの八重桜約31種約500本を集めた「長瀞通り抜けの桜」(約800m)もある。

緑色の「鬱金(うこん)」「御衣黄(ぎょいこう)」も、もちろんある。桜にはいろいろの種類があるのを知るためにも、十分通り抜けてみる価値がある。

厳冬には山頂近くのロウバイ園(約1万5千平方㍍)には、3種類のロウバイ(和ロウバイ、素心ロウバイ、満月ロウバイ)約3千本が咲く。

秋にはこの寺は撫子(なでしこ)寺として知られ、秋の七草寺の一つ。白色のマンジュシャゲも咲く。

厳冬には山頂近くのロウバイ園(約1万5千平方㍍)には、3種類のロウバイ(和ロウバイ、素心ロウバイ、満月ロウバイ)約3千本が咲く。


秋の七草寺 長瀞 

2011年09月23日 16時35分40秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
秋の七草寺 長瀞

長瀞の魅力は、宝登山神社や岩畳だけではない。「花の里」でもある。春のロウバイ、ウメ(百花園)にしだれ梅、通り抜けの桜については、少しずつ書いてきた。

秋の七草寺もあるというので、11年、今度はまだ暑いうちに訪ねた。秩父の入り口に近い長瀞は、標高が平地の埼玉県より少し高いので、秋の訪れも早い。

案内のパンフレットを見ると、秩父鉄道の野上駅(長瀞から一つ熊谷寄りの駅)が五つの寺に近いとあるので、この駅で下車すると、女性が多い中高齢の人の長い列が目に入った。

聞けば、西武鉄道と秩父鉄道が主催する「七草寺めぐりハイキング」の参加者で、西武秩父駅経由で樋口駅(野上駅のもう一つ熊谷寄り)下車。尾花(ススキ、カヤ)の道光寺を振り出しに歩いているのだという。

道光寺前には、春には約1万本の「長瀞かたくりの郷」があるので有名。

風流な人は多いものだとつくづく感心する。

葛の遍照寺も見て、萩の洞昌(とうしょう)院(写真)に向かっている途中だった。全部で約13km、約4時間のコースだという。

「道を聞く労が省けるな」と、ちゃっかり便乗することにした。

洞昌院の萩は見ごたえがあった。山萩、白萩、紅萩、夏萩、宮城野萩、屋久島萩・・・。萩についてはよく知らないので、どれがどの萩だとは分からないのに、その種類と、境内からお墓のある裏山にかけて植えられている1万本を超す萩の数に圧倒された。

この後、桔梗の多宝寺、藤袴の法善寺、女郎花(おみなえし)の真性(しんしょう)寺を回った後、約600本の桜並木(北桜通り)を抜けて、長瀞駅へ出て、撫子(なでしこ)の不動寺まで登ってゴールだ。不動寺は、春の花見でも何度か立ち寄った。

法善寺は,春にはしだれ桜で知られる。

初めて気がついたのは、長瀞駅前の長瀞町観光協会で、電動自転車のレンタサイクルを始めたことだ。これを借りれば、道さえ分かっていれば、長瀞駅発着で走るだけなら20km、2時間で7つの寺を回れるという。

長瀞駅前発の七草寺回り定期観光バスもある。

七草の開花状況は、長瀞町観光協会のホームページにアクセスすれば一目で分かる。

秋の七草が終われば、次は紅葉だ。荒川沿いの紅葉は素晴らしい。「月の石もみじ公園」のライトアップが始まるのは11月中旬から。推定樹齢50~80年ぐらいの多くのイロハモミジとオオモミジがある。同時期に宝登山神社の紅葉もライトアップされる。

「月の石」の名の由来は、高浜虚子の

ここに我 句を留むべき 月の石

の石碑があるからという。

ロウバイから紅葉まで、長瀞は一年中花が絶えない。神社に地質に花、紅葉、それに舟下りとマルチな観光地である。13年には約230万人の観光客が訪れた。何か名物になるようなおいしいものがあれば最高なのだが。

トトロの森 所沢、入間、東村山、東大和市

2011年08月06日 10時24分47秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

トトロの森 所沢、入間、東村山、東大和市

「里山」――。分かっているようで、分からない言葉である。「里にある山」。辞書を引くと、「里」とは、山中などで人家が集まった集落。「山」は必ずしも高くなくてもいい。平地の林も含むから、関東流に言えば、昔の武蔵野の雑木林のことだ。

里山は全国どこにでもある。中でも有名なのは、宮崎駿(はやお)監督が、アニメ「となりのトトロ」の構想を練ったと言われる狭山丘陵だろう。

この丘陵は、東西11、南北4km。総面積約3500ha。埼玉県と東京都5市1町にまたがる武蔵野台地の中央にある。植物1千種超、昆虫2千種以上、オオタカなどの鳥類約2百種。大都市近郊に残された貴重な緑の孤島だ。

お決まりの乱開発や、不法投棄、廃棄物処理場、墓地の建設などで失われようとしたこの里山を荒廃から救ったのが、市民からの寄付でまかなうナショナルトラストの土地買い上げだった。

これまで、この森はてっきり東京都に属すると思っていた。最近、近くの狭山湖(山口貯水池)、多摩湖(村山貯水池)などを仲間と訪ねる機会があったので、地図をよく見ると、「トトロの森」の一号地は、西武ドームのすぐ近くの埼玉県側の所沢市にあると分かって、11年7月の暑い日、木蔭を求めて出かけた。

埼玉県では、「県立狭山自然公園」の中にある。一帯は、アクセスが西武狭山線、西武多摩湖線。西武園ゴルフ、西武園ゆうえんち、西武園競輪場・・・と西武資本の牙城である。狭山山不動寺も西武と関係があることは別項で書いた。

東京都に接し、西武資本の進出地。それは、取りも直さず、雑木林といえど地価の高さを意味する。歩いてみると、西武の保有地の看板が目につく。「トトロの森」の取得は、バブル景気の中で、地価との戦いだったろうことは、容易に想像できる。

“狭山丘陵ナショナルトラスト”公益財団法人「トトロのふるさと基金」が発足したのは、1990年4月。

「トロロの森」1号地は、墓地開発計画のあったクヌギなどの雑木林約1183平方mだった(91年取得)。この基金は全国からの募金で支えられているので、子供たちの小遣いを含め、1万人以上の思いが込められていた。(写真)

所沢市が周辺にその4倍の土地を買い、埼玉県もその周りを買収した。

2号地は5年後の96年、3号地は2年後の98年、4号地は3年後の2001年にやっと取得できた。10号地を取得するまで1号地から19年かかった。

20年3月には、所沢市東狭山ケ丘5丁目の雑木林を取得した。取得地はこれで52か所計約9.7㌶となった。地主が無償で寄付した所もある。

広さはまちまちで1千平方mから5千平方m程度まで(9号地は100平方以下)。税の関係で相続時に取得交渉することが多い。地主が無償で寄付した所もある。

「丘陵の良好な所を残すには全然足荻野豊りない。確保できたのは『点』だけです」と、当時の地元出身の基金事務局長荻野さんは語っている。

1号地から歩き始めると、まさにその実感が強い。飛び飛びで、小さく、断片的、フェンスで囲まれているところもある。牧歌的な「トトロの森」のイメージはがわくところは数えるほど。それを求めるなら、東京都側の東村山市の八国山緑地周辺を散策したほうがいい。

朝日新聞によると、荻野さんには、詩の仲間に宮崎駿監督の妻の朱美さんがいた。朱美さんを通じて、駿さんの許可を得て、「トトロの森」の名前を、基金に使う許可を得た。いつの間にか狭山丘陵全体が「トトロの森」の愛称で呼ばれるようになった。PRの勝利である。

宮崎監督は、所沢市在住。同市と東京都東村山市の境にまたがる、柳瀬川両岸の「淵の森」(約5700平方m)で「となりのトトロ」の構想を練ったと言われる。自ら3億円を投じて、市民団体「淵の森保全協議会」を作り、その会長になり、トトロの森財団の顧問も務めている。

宮崎監督は毎朝林を歩いてごみ拾いをしてからアトリエに向かい、毎週住民と川の掃除をし、年に一度全国から集まったファンとともに下草刈りをする。

2008年には、宮崎監督に敬意と感謝の気持ちから、米国の有名なアニメーション・スタジオが「TOTORO Forest Project」の名で各国のアーティストに絵画や彫刻の無償寄付を呼びかけたところ、約20か国の約190人が計205点を提供、チャリティー・オークションを開き、その売上金約20万ドル(約2千万円超)が全額寄付された。基金ではこれを7、8号地の購入に当てた。

さいたま市見沼などを歩くと、埼玉県にも1984年から「さいたま緑のトラスト基金」がある。第一号取得地のさいたま市見沼の周辺斜面林(90-91年)など合わせて11号地。トトロの森の中にも取得地がある。見沼の斜面林は、訪ねる度に素晴らしい遺産だと思う。

日本のナショナルトラスト運動は1964年、鎌倉市の乱開発について作家大佛次郎が朝日新聞に「破壊される自然」という随筆を掲載したことから始まった。

英国の運動を範として、知床半島の「知床百平方運動」、和歌山県天神岬の「市民地主運動」へと広がり、釧路湿原、柿田川(静岡県清水町)など全国で多くの地が加わった。


トダスゲを見に行く 戸田市

2011年05月27日 16時14分04秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


さいたま市から戸田市にかけての荒川左岸の河川敷にある「彩湖」は、洪水防止と東京都の飲料水確保を目指した人工的な大きな湖だ。

人工的といえ、その周囲は水と緑と鳥のすばらしい自然の宝庫に変わった。天気のいい日にママチャリで出かける散歩には最高のコースである。

その戸田市側はかつて、「戸田ヶ原」と呼ばれ、荒川の水が自由に出入りする広い湿原だった。この近くに「美女木」という地名がある。国道17号線を車で走った人なら覚えておられよう。

「風流な地名だな」と思っていた。江戸の文化・文政の頃に書かれた「新編武蔵風土記稿」に「京都から美しい官女数人が来て住んだ」ことから「美女来」が「美女木」になったと書いてあるとかで、それが定説になっているようだ。

異説もある。濡れて「びしょびしょ」を意味する日本語には豊富な擬態語「びじょびじょ」が語源だというのだ。「びじょびじょ木」が「美女木」になったというわけ。これでは夢もぶち壊し。現実とはいつもこうだ。

実際、荒川を挟んで、対岸の埼玉県朝霞市田島の美女地区には、「美女神社」という小さな祠(ほこら)があるそうだ。三方を川に挟まれた湿地帯で、水害に悩まされたところだったというから、こんど探しに行ってみよう。

全国的にも「美女」と言う地名は、じめついた湿地帯に多いというから、ロマンこそないが説得力はある。

「戸田ヶ原」は、そのような湿地を好むサクラソウの名所で、春には一面に赤い敷物を敷いたようだったと伝えられる。

江戸から花見に来るほどで、

 春先は戸田も吉野の桜草

などといった句も残されている。

しかし、明治時代に採りつくされ、大正末には見る影もなくなった。第二次大戦後の開発や開墾で草原自体が姿を消した。国の特別天然記念物に指定され、さいたま市桜区に「田島ヶ原サクラソウ自生地」として柵に囲まれて保護されている。

サクラソウと同様、びしょびしょしたところが好きで、同じ運命をたどった戸田ヶ原の草に「トダスゲ」がある。

「トダシバ」という戸田ヶ原にちなむシバもあるので、最近まで混同していた。彩湖の「幸魂大橋」近くにある「彩湖自然学習センター」を何度か訪れるうちに、戸田市が「戸田ヶ原自然再生エリア」を設け、保護に乗り出しているという話を知った。「トダスゲ保存地」もあると聞いた。

いつか見に行こうと思いながら、無精者だから行きそびれて、やっと11年のゴールデンウイークに探しに出かけた。

戸田市の彩湖周辺に「彩湖・道満グリーンパーク」がある。荒川の旧河川の一部を利用した道満河岸釣り場があり、ヘラブナ釣りで知られる。その彩湖側に「自然再生エリア」があり、トダスゲが保存されている。

漢字で書けば「戸田菅」。スゲについて知っていることと言えば、菅笠や蓑細工の素材ということぐらいだ。

カヤツリグサ科スゲ属。属の下に世界で2千種、日本で二百以上の種がある。もっとも多くの種を含む属だとスゲの解説にあった。

1916(大正5)年、牧野富太郎博士が発見、1950年には絶滅したと思われていたのに、1992年に対岸の朝霞市の新河岸川で、「朝霞の自然を観る会」によって再発見された。

自生地も株も大変少なくなっているため、もっとも絶滅の惧れが強い「環境省絶滅危惧ⅠA類」に指定されている。

サクラソウのように花が咲くわけではないが、季節がピッタリだったので、穂も膨らんで、けなげに生きているのがいとおしかった。(写真)

このエリアには、昔、湿地に生えるハンノキの葉を食べて育つ、緑色に輝く美しく小さいチョウ「ミドリシジミ」(県のチョウに指定されている)やトウキョウダルマガエル(トノサマガエル)などが生息していた。トダスゲの間をミドリシジミが飛び交い、トノサマガエルがうごめく日を期待したい。

三菱UFJリサーチ&コンサルティングが16年12月に公表した調査によると、戸田市は生物多様性を保全する取り組みで全国1位だった。


長勝院旗桜 志木市

2010年04月12日 10時39分47秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

 追ふごとく追はれるごとく桜狩

朝日俳壇でこんな句を見た。桜キチの気持ちをズバリ表現している。「追はれるごとく」という中七が見事だ。この数日、まさに追われるような気持ちで、さいたま県の桜を追いかけた。

「三寒四温」とはこんな気候を言うのだろうか。一日暖かいと次の日は真冬並みの寒さの繰り返しで、満開の桜が未練がましく枝にしがみついている。

さいたま市の近辺では、2010年の桜まつりは4月4日の日曜日に終わったというのに、1週間後の11日にも満開が続いていた。

東上線柳瀬川駅から徒歩で行ける「長勝院ハタザクラ」は、昔から気になっていた。なにしろ「世界に一本」との触れ込みだから、桜キチとして見たい見たいと思いながら、毎年チャンスを逃していた。やっと見られたのは、この度重なる寒の戻りのおかげで、運良く満開だった。

桜は花弁が5枚。ところが、一重咲きの大きな花に目を近づけてよく見ると、花の中にもう一、二枚花弁のようなものが見える。雄しべの一部が花弁のように変化したもので、旗のように見えるので「旗弁」と呼ばれる。

よく観察すると、どの花にも旗弁があるわけではなく、のぞきこんで旗弁を見つけるのも楽しい。ハタザクラの名前のいわれである。

隣に満開の染井吉野があるので、比べてみると、花つきは似ているが、ハタザクラの方が白っぽい感じだ。1998年、新種と認められ、市民の木に指定されている。樹齢は400年以上、樹高11.2m、目通り3.07mでヤマザクラの変種だという。

今は一本ではなく、近くにも植わっているし、志木市の市役所前にもある。さいたま市桜区の区役所の構内でも開花前のを見かけた。

長勝院と言っても、寺は解体されて無い。城だったというこの地の昔を偲ばせるのはこの老桜だけである。寺には源頼朝の妻政子、桜には在原業平にちなむ話も伝わる。

柳瀬川に近いが、その堤の約1.8kmにわたる190本の染井吉野も満開で壮観だった。