「逆さイチョウ」 さいたま市南区
「灯台もと暗し」――さいたま市在住の筆者がいかに地元のことを知らないか。新座市の平林寺の秋の紅葉の素晴らしさを知らなかったは、「少々距離が離れているので」と言い訳にもなる。ところが、50年近く住んでいる所から、歩いてわずか15分くらいの名木のいわれさえ知らなかったのには、自分でもびっくりしている。
70過ぎて会社通いを止めてから、天気のいい日は、携帯ラジオを聞きながら近所で朝の散歩を始めた。四方八方に足を運んで、どのコースが最適の散歩道かと探した。
その日は北に向かって、南浦和の白幡から別所に至るゆるい坂を登り始めると、すぐ左手の墓地に堂々たるイチョウがそびえているのが見えた。(写真)
この木には見覚えがあった。もう何10年前のことだろうか。大木や古木に興味がある。イチョウには大木が多いので、それほど驚かなかったのか、あまり気にもとめなかった。
この墓地は道路を挟んだ前にある真言宗豊山派の「真福寺」のもので、門前に「逆さいちょうの寺」と書いた小さな石塔がある。
さいたま市の天然記念物に指定されているこの大樹の前に立つと、市教育委員会の立て札に、「台地の先端にあり、高さ18.5m、幹回り5.85m。雄樹で樹齢数百年」とある。
さらに、「昔々、台地の下が海だった頃、船をつなぐ杭としてイチョウの木を逆さに打ち込んでおいたところ、その杭が根付き、枝葉を出した」という「逆さいちょう」の伝説があると書いてある。
いま私が住んでいるところは海の底だったのだ。そういえば、初めて訪れた当時は、一面の美田で「白幡田んぼ」と呼ばれていた。今はその跡形もなく、マンションや団地などの住宅地に変わっている。
「縄文海進」という言葉がある。約6000年前の縄文時代前期、浦和など埼玉県には東京湾が奥深く入っていて、浦和の約3分の2が海中にあった。「奥東京湾」という名がつけられている。
遠浅の内海で魚介類の採集に適していた。この真福寺、白幡、大谷場、太田窪など多くに貝塚が残っているのがその証拠である。
(さいたま市立博物館によると、縄文前期の貝塚が76見つかっている。貝塚というと貝がうずたかく山のようになっているのを連想するのだが、使われなくなった竪穴住居などの窪みに貝を捨てた「地点貝塚」と呼ばれるものだ)
これらの貝塚には、バイガイという二枚貝が見つかる。暖海に住むもので、今の東京湾にはいない。
当時は今より気候が温暖で、海水が増え、海水面が上昇した名残りだ。(『浦和三万年』・浦和市総務課編による)
そう言えば、「浦和」とか「岸町」とかは海と関わりのある地名である。
巨木は物言わず、長い長い間、海が田んぼへ、さらに住宅地に変わるのを見おろしてきたのだ。思わず見上げると、幹に大小の気根のようなものが多数、こぶのようについているのが、印象的。冬なので、葉は丸裸だった。