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蜷川幸雄が率いる若手の「さいたまネクスト・シアター」は12年2月20日から3月1日まで「彩の国さいたま芸術劇場」で第3回公演に、シェークスピアの「ハムレット」を上演した。
それにこまどり姉妹が登場した。「♪お姉さんのつまびく三味線に 唄ってあわせて今日もゆく ・・・」で始まる「三味線姉妹」で売り出したあの双子姉妹である。
勉強などせずサボッてばかりだったが、英文学をかじっているので、「えっ。ハムレットにこまどり姉妹!」と驚いていると、「NINAGAWA千の目(まなざし)」という「蜷川幸雄公開対談シリーズ」の第24回で、蜷川とこまどり姉妹が対談するというチラシが目に入った。
どちらの方もお目にかかったことはない。好奇心だけは人一倍なので、ハガキで申し込んだら、運よく当たって、1月29日(日)正午から1時間の対談に出かけた。
小ホール定員346人は満員。老人ばかりかと思っていたら、女子高校生らを含め若い人の姿も見られた。
北海道釧路生まれの双子姉妹は1938、蜷川は1935年生まれ。私は1939年生まれで、ほとんど同じ年代だから興味津津だ。
蜷川の短い質問に姉妹が答える形で、姉栄子、妹敏子ともども、まさしく「話すも涙、聞くも涙」の、極限まで貧しくかった、デビューまでの苦労話を本当に涙ながらに語りに語った。この手の話は語り慣れているのだろう・
借金で夜逃げして、小学校5年、11歳で門付け芸人から夜の街の流しへ。仕事の後の深夜、先輩の流しがおごってくれた屋台のラーメンが最高のご馳走だった。貧しくて当時一杯15円のラーメンが食べられなかったのだ。
姉妹には「♪あたたかいラーメン 忘られぬラーメン・・・」と始まる「涙のラーメン」という歌がある。本人も、流しの苦しい経験を持っていた遠藤実の作詞・作曲。涙なくしては聞けない曲だ。
二人は、13歳で上京して山谷に転げ込み、浅草で流しているうちに、偶然、遠藤実に歌を聞いてもらい、世に出た。
芸術劇場の映像ホールでは、この日まで音楽ドキュメンタリー「こまどり姉妹がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」(片岡英子監督)を上映していた。このラーメンの部分は、対談のスクリーンでも上映された。
なぜ蜷川は、このような生い立ちのこまどり姉妹の起用を思い立ったのか。意表を突くというか、奇想天外というべきか、蜷川一流の演出だけではなさそうだ。
「僕らの演劇は、こまどり姉妹の3分間の歌声に匹敵するほど内容が濃いのだろうか。人生の底辺からはい上がってきた人たちのまなざしに、我々の舞台は耐えられるのか、そこをちゃんと点検したい」と蜷川は「千の目」のパンフレットの中で述べている。
蜷川にとって、「置き去りにされたかに見える民衆の姿の象徴」がこまどり姉妹なのだ。
突然思いついたアイデアではないようだ。こまどり姉妹は、本人も亡き父も二代続きのファンで、その起用は演出を始めた頃から考えていた。姉妹が出演を受けてくれたときは感動したという。姉妹も同じ思いだったと答えた。
「私の演出史上最大の事件だ」と蜷川。それは蜷川だけではなく、日本の演劇史上でもそうかもしれない。
ハムレットのどの場面で三味線姉妹が登場するのか。それが知りたくて行ったのに「それは最後まで秘密」。蜷川のうまさである。それを確かめに本物のハムレットを見に行きたくなるではないか。
定年後10年余、PR会社の手伝いをした。そのうちPRの重要性を知り、今でも定期的にPRについての原稿を書いている。
この対談を見て、蜷川は「日本最高のPRマンの一人」だと思った。「千の目」シリーズは次の公演の格好のPR手段だ。小劇場ではなく、商業演劇を担う責任者として当然だろう。日本PR大賞の候補になる資格は十分にある。
世界最高のPRマンだったアップルの故スティーブ・ジョブズに身支度も似ている。