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日本解剖学の父 田口和美 加須市

2017年07月21日 18時36分12秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


足尾銅山の公害と戦った田中正造に関心があるので、渡良瀬遊水地(谷中湖)にはよく出かける。県の北東端に位置し、この遊水地を一望できる「道の駅きたかわべ」の構内に一つの胸像が立っている。(写真)

これまで余り興味がなかったが、調べてみると、埼玉県出身の指折りの偉人のものと分かった。県北は塙保己一、深沢栄一、本多静六、荻野吟子ら、けたはずれの大物を輩出している。この胸像は幕末から明治初期、「日本解剖学の父」として知られた田口和美(かずよし)のものなのである。

私同様、知らない人もいるだろうから、輝かしい略歴を挙げてみよう。

1877(明治10)年、東大医学部初代解剖学教授、明治10年から15年にかけて、日本語で書かれた初めての体系的な解剖書「解剖攬要(らんよう)」全13巻14冊を刊行した。1887(明治20)年、47歳でドイツに私費留学、留学中の翌年、日本で初の医学博士の一人となった。

帰国後、1893(明治26)年、日本解剖学会初代会頭、1902(明治35)年、日本連合医学会(現在の日本医学会)初代会頭といった具合。

日本では「腑分け」と呼ばれた人体解剖は8世紀初頭の大宝律令以来かたく禁じられていて、江戸時代まで刑場で刑死者にしかできなかった。明治になって間もなく、病死者の遺体を刑場以外でも解剖できるようになり、その希望による「篤志解剖第1号」になったのが、美幾女という梅毒患者の遊女だった。

日本の近代医学史上特筆すべき出来事で、その解剖者の一人になったのが、和美だった。

和美は1839(天保10)年、現在の加須市北川辺町の漢方医の長男として生まれた。父親の教育もあって、1853(嘉永6)年、蘭方(オランダ医学)を学ぶため上京した。いったん帰郷して、佐野市で開業、30歳でまた上京して、東大医学部の前身「大学東校」に入学、美幾女の解剖に立ち会ったのは、その頃だった。

和美は、小塚原刑場の番人から罪人の死体を得ることに成功していた。明治3年から処刑された死体で身元不明なものはすべて解剖が可能になると、27か月間で49体を解剖するという熱の入れようだった。

明治3年から18年までに和美が解剖した体数は実に1699体を数えたという。「解剖学の鬼」と呼びたくなる人である。教え子には森鴎外や北里柴三郎らがいる。

和美は1904(明治37)年、喘息発作に襲われ、64歳で東大附属病院で死去した。わが国の解剖学を大成させた功績が讃えられ、葬儀には陸軍歩兵2個中隊の儀仗兵も参列した。

生前の意思で病理解剖が行われた。和美らしい最後だった。「道の駅」の胸像はレプリカで、東大解剖学教室から無償で永久貸与された本物は、加須市のライスパークの中にある北川辺郷土資料館に展示されている。

 

参照 「わが国 解剖学の父  田口和義博士」 北川辺町教育委員会