安徳天王
二位尼君
実に
二位の
尼君は
安徳天王を
いだきて御側の人々諸とも
海中へとびいりけるこそ哀也。
先帝身投
二位殿はこの有樣を御覧じて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれば、にぶ色の二衣うちかづき、練袴のそばたかくはさみ、神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上をいだき奉って、
「わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。君の御供に參るなり。御心ざし思ひ參らせ給はん人々は、いそぎつゞき給へ」とて、ふなばたへあゆみ出でられけり。主上今年は八歳にならせ給へども、御としの程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。御ぐし黒うゆらゆらとして、御せなか過ぎさせ給へり。あきれたる御樣にて、
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申されけるは、
「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によって、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、 西にむかはせ給ひて御念佛さぶらふべし。この国は栗散辺地とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき處ヘ具し参らせさぶらふぞ」と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念佛あり しかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。
悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め奉る。殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して老せぬとざしとかきたれども、いまだ十歳のうちにして、底の水屑とならせ給ふ。十善帝位の御果報申すもなかなかおろかなり。雲上の竜くだって海底の魚となり給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、いにしへは塊門棘路の間に九族をなびかし、今は舟のうち浪の下に、御命を一時にほろぼし給ふこそ悲しけれ。