新古今和歌集の部屋

伊勢物語 交野の桜狩り3


伊勢物語第八十二段
(続き)
野よりいできたり。このさけをのみてむと
てよき所をもとめゆくにあまの河といふと
ころにいたりぬ。みこにむまのかみおほみ
きまゐる。みこののたまひける「かた野を
かりてあまの河のほとりにいたる」を題に
てうたよみてさかづきはさせとのたまうけ
ればかのむまのかみよみてたてまつりける。
  かりくらしたなばたつめにやどからむ
  あまのかはらに我はきにけり
みこうたをかへす/"\ずんじたまうて返
しえしたまはず。きのありつね御ともにつ
かうまつれり。それが返し
  ひととせにひとたびきます君まてば
  やどかす人もあらじとぞ思ふ


 かへりて宮にいらせ給ひぬ。夜ふくるま
でさけのみ物がたりしてあるじのみこゑひ
ていりたまひなむとす。十一日の月もかく
れなむとすれば、かのむまのかみのよめる。
  あかなくにまだきも月のかくるゝか
  山の端にげていれずもあらなん

写真 大阪府枚方市、交野市

コメント一覧

jikan314
Re:こんにちは!
コメント有難うございます。
850年ころは橋本と水瀬の間には、山崎橋が架かっていたとの事ですから親王一行も橋を渡ったのかも知れませんね。1000年も前の風景を想像するとき、巨椋池や宇治川の太閤堤前、淀の合流などを想定しないといけないので、大変ですよね。
私が付近を散策した感じでは、当時の主要交通である舟で下ったのでは?と思っております。
蛇足で、最近兄から「君が代」とは、惟喬親王を祝ぐ歌と言う荒唐無稽な説を聞き、あながち荒唐無稽とは思えないと思っています。古今集の撰者の紀貫之も紀友則も惟喬親王母も紀氏ですし、たぶん縁者として会った事が有るかと。
sakura
こんにちは!
惟喬親王の一行は水無瀬から対岸の交野へは、山崎橋を通ったのでしょうか。

この橋は洪水や焼失で何度も架け替え工事が行われたようですから、
工事中につき、淀川を船で渡ったのかなとも勝手な想像をしています。

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