齋院うせさせ給にしまえのとし、百首歌たてまつりしに、
軒端の梅もわれをわするな
と侍しにが、大炊殿の梅の、つぎのとしの春、こヽちよげに咲きたりしに、「ことし斗は」と、ひとりごたれ侍りし。
ひとヽせ、彌生の廿日ごろに、御鞠遊ばせ給ふとて、にはかに御幸侍りしに、庭の花、跡も無きまで積もれるに、松に懸かれる藤、まがきの内の山吹、心もとげなに所々咲きて、みやうごうのかの、花の匂ひに争ひたるさま、御持佛堂のかうのかも、劣らず匂ひ出でヽ、
世を背きけるすみかは、かばかりにてこそは、住みなさめ。
と、心憎く見え侍りき。もの古りたる軒に、しのぶ、忘れ草、緑深く茂りて、あたらしく飾れるよりも、なか/\にぞ見え侍りし。御鞠始まりて、人がちなる庭の氣色を、さこそはあれ、人影のうちして、こヽかしこの立てじとみに立ち掛かり覗く人も見えず。人のするかとだにおぼえて、日の暮るヽほどに奥深く鈴の聲して、打ち鳴らしたるかねの聲も、心細かりき。
いくほどの年月も隔たらで、ぬし無き宿と見るぞ悲しく、涙もとヾまらずおぼゆる。
※軒端の梅
ながめつる今日は昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな
後鳥羽院正治二年初度百首
※ことし斗は
源氏物語 薄雲
二條院の御前の櫻をらんじても、花の宴のをりなど、思し出づ。今年ばかりはとひとりごち給ひて
古今集 哀傷歌
深草の野辺のさくらし心あらば今年ばかりは墨染にさけ
※ひとヽせ、彌生の廿日ごろ
玉葉によると、建久八年三月十六日に大炊御門殿で蹴鞠のために、後鳥羽院が御幸された記事がある。