せいちうぎ し でん てらをかへいゑもんのぶゆき
誠 忠 義 士 傅 寺 岡 平 右 衛 門 信 行
寺岡平右エ門は吉田宙左エ門の足軽の小頭なり
親兵右エ門は常陸国五丁村の産にて鎮守祭礼
の時捨子をひろひ養育して幼名を捨吉と呼
后成人して平右エ門と改む故に其素性を
しらず生質柔和にして武藝に達せり
主家滅亡して赤尾離散の序
流浪なかでといへども同役矢野猪助と
志を一にして大星に随身し盟
約の列に入ん事を望ども免さず
其時猪助は變心す大星遊里に
耽り嶋原に通ふ砌上住家よりの
間者良雄を切害せんと出口に待伏
なせしを見咎め平右衛門間者を捕へ悉く
白状させ大星に斯と告彼が首を刎たり
ければ其誠心を感じて密意をあかし誓約を
なさしむ報讐の夜本望を遂て其場より藝州に便せしめ
大星助命なさしめんと謀りけれども飛が如く用弁して馳戻り
義士と共に刑に行はれん事を官吏に訴けれども是を許されず
教諭して黄金を賜ひ誠忠を感賞せらる是非なし剃髪して
永ゞ義士の菩提を弔らひ八十余才の長壽を保ち終焉を遂しと云々
應需 一筆葊誌
一勇齋
國芳画
堀江町 十八
海老林
歌川国芳 画 芳桐印
弘化4年~嘉永5年
一筆庵英泉 文
版元
海老屋林之助
千葉市美術館所蔵品説明
『仮名手本忠臣蔵』でおなじみの赤穂義士四十七人に塩冶判官・高師直等を加えた全51枚のシリーズ。嘉永元年(1848)春の高輪泉岳寺の開帳に当てこんで出版されたもの。『藤岡屋日記』の嘉永元年の条に、
当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、団扇問屋にて、海老屋林之助板元にて、作者一筆庵英泉、画師国芳にて、誠忠義士伝と号、義士四十七人之外に判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が密柑を配り候処迄、出入都合五十一枚続、去未年七月十四日より売出し、当申の三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り擦込也、五十一番にて紙数四十万八千枚売れるなり、是近年の大当たり大評判なり。
誠忠で小金のつるを堀江町 ぎしぎしつめる福はうちはや
と記されているとおり、この企画だけ大ヒットであったようだ。版元の海老林も、最後に出版された「五十 芳田忠左衛門兼両」の中で次のように刻して感謝の辞を述べている。
版元伏禀、此誠忠義士伝、未の七月出版せしに時好に称ひ世評高く、おなじ同十二月十四日迄に四十七士悉く全す、翼は続を発市の外伝も高評を玉はば幸甚。
江戸東京博物館
誠忠義士伝
約37cm×26cm
平成31年2月5日 肆點弐
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