はじめに
初めてネットワークに参加したのは、HPだった。マンションの管理組合が定めたブロバイダーと契約して光通信を始めた。
既にネットワークに参加していた叔父が、ウェッブリブログと言うのを勧めたので、2006年10月28日に参加してみる事にしたのが、ブログ名 花鳥風月だった。俳句のブログ友達も5人ほど出来たが、それぞれの方も止めて行った。当時はガラケーで写真を撮っていたので、画像が粗く小さい。それでもあちらこちらを撮って歩いている。
2023年1月に閉鎖されると言う事で、急遽引っ越しをしている。1日分を掲載していたが、読む読者も疲れるだろうと以下をまとめて、俳句集「花鳥風月」と名付ける。
送別桜’15 2015年03月27日
この櫻
明日見る人は
別の人
烏丸通 有栖邸桜
萩の寺 2015年09月23日
うき我を訪ね来させる芽子の寺
芽子と書いて、萩と読ませるのは万葉集であり、万葉集で萩と言えば、いくつかの場所とになるが、奈良の寺に違いは無い。
高円山を想像して貰うと有りがたい。
今年は、萩が不調とのこと。家の庭には、雑草として蔓延っているが、月を眺める為には、必須としている。猪が、伏すと大変なことになってしまうが…。
本歌は、芭蕉
憂き我を寂しがらせよ閑古鳥
季語は、萩
落葉と苔 2016年01月11日
朽ちにけり
今はもみぢも苔の友
高雄高山寺にて
酒代 2016年03月20日
七十(こき)までは酒代延ばしこけの下
本文
曲江
杜甫
朝囘日日典春衣 朝より回りて日々春衣を典し、
毎日江頭盡醉歸 毎日江頭に酔ひを尽くして帰る。
酒債尋常行處有 酒債は尋常行く処に有り、
人生七十古來稀 人生七十古来稀なり。
穿花蛺蝶深深見 花を穿つ蛺蝶は深深として見え、
點水蜻蜓款款飛 水に点ずる蜻蜓は款款として飛ぶ。
傳語風光共流轉 伝語す風光、共に流転して、
暫時相賞莫相違 暫時相賞して相違ふこと莫れと。
本歌
まれにくる夜はも悲しき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ(新古今和歌集巻第八 哀傷歌 俊成)
二案
酒代は香典ではらふ春のよひ
落花’16 2016年04月15日
落花百万片
われみちをゆく
初案
落花百万片わがみちをゆく
京都御所にて
ほととぎす 2016年05月28日
雨宿り
鳴きつる方を探しけり
一見、季語無しの無季のようにした。
「なきつるかた」により、
ほととぎすなきつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる(千載集藤原実定)
を本歌取りし、手法で季語でを読める試みで有る。
十輪寺(業平寺)で、雨宿りをしている時にほととぎすが鳴いているのが、聞こえた。伝業平墓の有る寺で聞くのも乙なものである。
崇徳院 2016年07月01日
六月の末、白峯神宮に詣でけるに雨の降りたりければ
五月雨やかかることしも濡れつらむ
ホトトギス派からすると愚作中の愚作。雨で濡れるのは当たり前田のクラッカーだ!と思う。
では、詞書に
六月の末、白峯神宮に詣でけるに雨の降りたりければ
とし、西行の讃岐の崇徳院へ女房を通じて贈った歌
あさましやいかなるゆゑの報いにてかかる今年も有る世なるらむ
の本歌取。
雨、かかる、濡れは縁語。「いかなるゆゑの報いにて」を意に含め、傘を持たなかった俳諧味を出した。
俳句は座の文学的。
詞書き無しでも鑑賞に堪えると言うのは、子規の驕り。
白峯神宮は、崇徳院、淳和天皇を祀る神社で、孝徳天皇の発願で、明治天皇が建立。
近江の秋 2016年10月24日
勝地定主無し
あふみの秋は一人占め
この場所で今日この風景を見ているのは、私だけ。
大津石山の幻住庵の近所に有る聖徳太子堂にて。
遊雲居寺贈穆三十六地主 白居易
乱峯深処雲居路
共蹋花行独惜春、
勝地本来無二定主一
大都山属二愛山人
しょうちていしゅなし。
面白看板 2017年03月04日
西行は
足を止めるか
このさくら
伏見区日野に出掛けた時に見掛けた交通注意の看板。
西行は一旦停止するが、俊恵はそのまま進み、俊成は注意して進むのかも知れない。
全国に、西行見返りの松は有るが、
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ 立ちどまりつれ(新古今夏歌)
に一旦停止の俳諧味を見て。
雨宿楚者゛ 2017年06月26日
晴を待つあいだに楚者゛は
ゆで上がり
梅雨空の今にも雨が降りそうな中、嵐山を散歩すると、やっぱり雨が降ってきた。
蕎麦屋さんに駆け込み、蕎麦を肴に日本酒を引っ掻ける。
モダンな感じの蕎麦屋さんだが、変体仮名の楚者゛が似合う。
雨が長引き、蛸のように顔が赤くなったので、茹で上がった。
座の文学として無季への挑戦。
上御靈神社 2017年08月01日
拍手打つ
ひぐらしの声ひびきをり
上御靈神社に夏越の払いに行ってきたが、夏越は新暦になって終わっていた。
夏越は旧暦でないと梅雨真っ最中になってしまう。
拍手を「かしわで」と読むのを初めて知った。
彼岸花’17 2017年09月24日
阿耨多羅三藐三菩提の
道を照らすや彼岸花
彼の正岡子規は、九たび歌よみに与ふる書において、
阿耨多羅三藐三菩提の佛たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
(傳 教)
いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇気も稱するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なれば左迄口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらにもあらざるべけれど、此所はことさらにも九字位にする必要有之、若し七字句などを以て止めたらんには上の十字句に對して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために後にも字余りの句を置かねばならぬ場合は屡々有之候。若し字余りの句は一句にても少なきが善しなどいふ人は字余りの趣味を解せざるものにや候べき。
とある。
子規の大嫌いな本歌取りの技法で。
帰り花 ’17 2017年12月02日
ひと花と
老ひたるさくら
咲きにけり
当然、俳句には季語が含まれる。
しかし、俳句は座の文学であり、11月に出された俳句に桜が有るからと言って、春の句とは思わない。
敢えて、季語を帰り花として、俳句には入れなかった。
老いたる者として、咲かせたいが、その花は少く実は結ぶ事は無い。未だ未だとは思いつつ、客観的には了りは近い。