或人云
宮内卿有賢朝臣、時の殿上人七八人相伴ひて、大和國葛城の方へ遊びにいかれたる事ありけり。其時、或所に、荒れたる堂の大きにやう/\しきが見えければ、怪しくて、其名を逢ふ人毎に問ひけれども、知れる人なかりけり。かゝる間に、ことの外に鬢白き翁ひとり見えけり。是はしも樣あらんとて尋ねければ、
是をば豐等の寺とぞ申す。
と云ふ。人々
いみじき事也。
と返々感じて
さるにては、もし此邊に榎葉井と云ふ井やある。
と問ふ。
皆あせて水も侍らねど、跡は今に侍る。
とて、堂より西いくほども去らぬ程に行きて教えければ、人/\興に入りて、やがてそこに群れ居て、葛城と云ふ哥十返歌ひて、この翁に衣ども脱ぎてかづけたりければ、覺えぬ事に遭ひて悦び畏まりて去りける。とぞ。
近くは、土御門内大臣家に毎月影供せらるゝことの侍し比、忍びて御幸などなる時も侍りき。其會に、古寺月といふ題によみて奉りし、
古りにける豐等の寺の榎葉井になを白玉を殘す月影
(夫木抄 井 歌枕名寄 大和 鴨長明)
五條三位入道是を聞きて、
優しくもつかうまつれる哉。入道がしかるべからん時取り出でんと思う給へつる事を、かなしくも先ぜられたり
とて頻りに感ぜられ侍き。此事催馬樂の詞なれば、誰も知りたりけれど、是より先には哥によめる事見えず。其後こそ冷泉中將定家の哥によまれて侍しか。
○宮内卿有賢朝臣
源有賢(?~1139年)
○土御門内大臣家
源通親(1149~1202年)雅通の子。養女在子を後鳥羽天皇に入内させ、土御門天皇となり、後鳥羽院政の中権力を握る。
○毎月影供せらるゝことの
正治二年十一月八日影供歌合と推察される。
○忍びて御幸
後鳥羽院は、度々影供歌合に御幸された。
○五條三位入道
藤原俊成(1114~1204年)法号は釈阿。千載和歌集の撰者で定家の父。
○冷泉中將定家
藤原定家朝臣(1162~1241)藤原俊成の子。京極中納言とも呼ばれ新古今和歌集新勅撰和歌集の選者。小倉百人一首の撰者。古典の書写校訂にも力を注いだ。
写真 明日香村豊浦