尼君 哥に義なし
笛の音に昔のことも忍ばれてかへりし
文の詞也。孟手習の事也
程も袖ぞぬれにし。あやしう物思しらぬ
にやとまで見え侍ありさまは、おいびとの
孟是まで文の詞也
とはずがたりにもきこしめしけんかしとあり。
細尼君の返事なれば也。草子地也
めづらしからぬもみ所なきこゝちして、
おぎ
うちをかれけんかし。荻のはにおとらぬ
孟手習君心也
程々にをとづれわたる、いとむつかしうも
あるかな。人のこゝろはあながちなる物なり
三匂宮の事などに思ひ知給へし
けりと、みしりにしおり/\もやう/\思出
師手習君の詞也
るまゝに、猶かゝるすぢのこと、ひとにも思ひ
花尼になし給ひてよと也
はなたすべきさまに、とくなし給てよとて、
經ならひてよみ給ふ。こゝろの内にもねんじ
頭注
笛の音に 抄昔のことは尼
君の琴引し心もある歟。
あやしう御物思ひしらぬ
にや 細前に、もはら
かゝるあだわざなどは
したまはずと、大尼君
のいひしこと也。
荻のはにおとらぬほどに
孟細々に音信を中将
よりする也。是より手
習の心をいへる也。
猶かゝるすぢのこと
好色の事なり。
尼君の心手習の君の琴を思ふて
給へり。かくよろづにつけて、世中を思ひす
つれば、わかき人とておかしやかなることも
ことになく、むすぼゝれたる本上゙なめりと
思ふ。かたちのみるかひ有うつくしきに、よろ
づのとが見ゆるして、あけくれの見物にした
孟手習君を尼の心也
り。すこし打わらひ給おりは、めづらしく
めでたきものに思へり。九月になりてこの
あま君゙はつせにまうづ。年ごろいと心
三尼君の女の事也
ぼそきみに、戀しき人のうへも思やまれざ
むすめならぬともおぼえずと也
りしを、かくあらぬ人ともおぼえ給はぬな
くはんをん
ぐさめをえたれば、観音の御しるしうれし
とてかへり申だちてまうで給なりけり。
頭注
九月になりて 孟むす
めのかへに手習の君を
あたへ給ふとてはつせ
に尼公のかへり申にま
いり給ふ也。
かくあらぬ人とも覚えぬ
抄此手習君をわがむすめ
のやうに覚て他人とは
思はれぬと也。
かへり申だちてまうで
三賽カヘリマウシ願はた
しやうに也。必願をはた
頭注
すにはあらず。手習君を
得たる悦び申也。仍かへり
まうしだつといへり。
孟手習君を尼公の誘引也
いざ給へ。人やはしらんとする。おなじ仏なれど、
さやうの所にをこなひたるなん、しるし有
て、よきためしおほかるとそゞのかしたつれ
抄手習君の心也
ど、昔はゝ君゙、めのとなど、かやうにいひしら
せつゝ、たび/"\、まうでさせしを、かひなきに
こそあめれ。命さへ心にかなずは、たぐひなき
いみじきめを、みるいといみじめをみるいと心うき
うちにも、しらぬ人にぐしてさるみちの
ありきをしたらんよと、そらおそろしく覚
抄観音の手習君に利生なき事などはいはぬ也
ゆ。心ごはきさまにはいひもなさで心ち
のいとあしうのみ侍れば、さやうならんみち
の程にも、いかゞなどつゝましうなんとの給。
頭注
たび/"\まうでさせしを
孟はせの観音をたのみ
つるかひもなしといへり。
上ににしるす所也。或は仏
の德を蒙り又かくある
事もあり、可然也。哢
命さへ心に叶はず
細入水せんとせしも心
にかなはずと也。吾身に
は観音の利生もなきを
いへり。又波浪不能没の
誓もあらはれたるなるべし。
しらぬ人にぐして
孟心をしらぬ人に同道
してはと也。但是はしら
ぬ人にぐせられて來つる
頭注
事はと前の事を手習の
思ふ歟。
尼君の心也。物にとられなどしたる人なれば也抄
ものをぢはさもし給ふべき人ぞかしと思て
しゐてもいざなはず。
手習の哥
はかなくてよにふる川のうきせには
すぎ
たづねもゆかじ二もとの杦。と手ならひに
尼君の詞
まじりたるを、尼君みつけて、二本はまたも
あひ聞えんと思給ふ人あるべしと、たはぶ
手習の心也
れごとをいひあてたるに、むねつぶれておも
てあかめ給へるも、いとあいぎやうづきうつく
しげなり。
尼君
ふる川の杦のものだちしらねどもすぎ
にしひとによそへてぞみる。ことなること
長谷へ也
なきいらへをくちとくいふしのびてといへ
頭注
はかなくて 細√はつせ川
ふる河のべに二本ある杦
年をへて又もあひ見
ん二本ある杦。花鳥の
義二本は匂薫をいふ
といへり。此説はあまり
なる歟。心はたゞ年をふる
とも杦の本へは二度行
べからずと也。三かやう
にてながらへてもかひな
きはうき瀬ぞとなり
それならばはつせへまい
りても曲なしと也。
二もとは又もあひきこえん
と思給ふ人あるべし
師手習君の哥にふた
もとの杦とよめるは又も
あひみむとおぼす人あ
るにやとたはぶれたる也。
頭注
にやとたはぶれたる也。本歌によくかなへり。
ふる河の 細手習君誰人にてもあれ我子のごとく思と也。孟尼公の返哥。杦と
又もあひ見んと思ふ人をもち給はんともたゞ我むすめと思ふほどに也。
尼君
笛の音に昔のことも偲ばれてかへりし程も袖ぞぬれにし
笛の音に昔のことも偲ばれてかへりし程も袖ぞぬれにし
あやしう物思ひ知らぬにやとまで、見え侍る有樣は、老人の
問はず語りにも聞こし召しけんかし
問はず語りにも聞こし召しけんかし
とあり。珍しからぬも見所なき心地して、打ち置かれけんかし。荻
の葉に劣らぬ程々に音信渡る、いと難しうもあるかな。人の心は、
強ちなる物也けりと、見知りにし折々も、やうやう思ひ出るままに、
「猶かかる筋の事、人にも思ひ離たすべき樣に、疾く無し給ひてよ」
とて、経習ひて読み給ふ。心の内にも念じ給へり。かく万づに付け
て、世の中を思ひ捨つれば、若き人とて、おかしやかなる事も殊に
なく、結ぼほれたる本性なンめりと思ふ。形姿の見る甲斐有り美く
しきに、万づの咎見許して、明け暮の見物にしたり。少し打笑ひ給
ふ折りは、珍しくめでたき物に思へり。
九月になりて、この尼君、長谷に詣づ。年比、いと心細くき身に、
戀しき人の上も思ひ止まれざりしを、かくあらぬ人とも覚え給はぬ
慰めを得たれば、観音の御験、嬉しとてかへり申しだちて、詣で給
ふなりけり。
「いざ給へ。人やは知らんとする。おなじ仏なれど、さやうの所に
行ひたるなん、験有て、良き験し多かる」と、唆し立つれど、昔母
君、乳母など、かやうに言ひ知らせつつ、度々、詣でさせしを、甲
斐無きにこそあンめれ。命さへ心に叶はず、類無きいみじきめを、
見るはと、いと心憂き中にも、知らぬ人に具してさる道の歩きをし
たらんよと、そら恐ろしく覚ゆ。心強はき樣には、言ひもなさで、
「心地の、いと悪しうのみ侍れば、さやうならん道の程にも、如何
がなどつつましうなん」と宣ふ。
物怖ぢは然もし給ふべき人ぞかしと思ひて強ゐても誘なはず。
手習の哥
儚くて世にふる川のうき瀬には尋ねもゆかじ二もとの杉。
物怖ぢは然もし給ふべき人ぞかしと思ひて強ゐても誘なはず。
手習の哥
儚くて世にふる川のうき瀬には尋ねもゆかじ二もとの杉。
と手習ひに混じりたるを、尼君見付けて、
「二本は、またも逢ひ聞えんと思ひ給ふ人あるべし」と、戯ぶれ事
を、言ひ當てたるに、胸潰れて、面赤め給へるも、いと愛敬付き美
しげなり。
尼君
古川の杉のものだち知らねども過ぎにし人によそへてぞみる
尼君
古川の杉のものだち知らねども過ぎにし人によそへてぞみる
異なる事無き答(いらへ)を口疾く言ふ忍びてと言へ
※波浪不能没の誓 妙法蓮華経 観世音菩薩普門品偈 「念彼観音力波浪不能没」
※√はつせ川ふる河のべに~ 引歌、本歌
古今和歌集 雑体 旋頭歌
題しらず よみ人知らず
はつせ河ふる河の辺にふたもとある杉
年をへて又もあひ見むふたもとある杉
※頭注 にやとたはぶれたる也。 重複している誤記。
和歌
尼君
笛の音に昔のことも偲ばれてかへりし程も袖ぞぬれにし
よみ:ふえのねにむかしのこともしのばれてかへりしほどもそでぞぬれにし
意味:貴方樣の吹かれた笛の音に、娘が貴方樣の妻だった頃の事が思い出されて、貴方樣がお帰りなった後も、涙で袖が濡れてしまいました。
備考:中将の手紙の歌に対する返歌。
手習
儚くて世にふる川のうき瀬には尋ねもゆかじ二もとの杉
よみ:はかなくてよにふるかはのうきせにはたづねもゆかじふたもとのすぎ
意味:頼り無く世の中を過ごしている憂き私には、長谷寺の近くを流れる川に有る二本の杉を尋ねる事はしないでしょう。薫と匂宮の思い出の有る宇治を通っては。
備考:浮舟の手習の様に書いた歌のうちの一首。古川は、初瀬川(大和川)と言う説、布留川と言う説、古い川の一般名説など有る。世に経ると古川、浮きと憂きの掛詞。瀬は川の縁語。二本の杉は、薫と匂宮を期せずして暗示する。本歌は、古今和歌集 旋頭歌 よみ人知らず
はつせ河ふる河野辺にふたもとある杉年をへて又もあひ見むふたもとある杉
尼君
古川の杉のものだち知らねども過ぎにし人によそへてぞみる
よみ:ふるかはのすぎのものだちしらねどもすぎにしひとによそへてぞみる
意味:貴女の素性も又逢いたいと言う人も知らないですが、貴女を私の亡くなった娘と思っているのですよ。
備考:浮舟の手習の様に書いた歌に、返す歌として。本歌は、同じ。もとだちは、素性と言う意味で、過ぎの縁語。杉と過ぎ。
略語
※奥入 源氏奥入 藤原伊行
※孟 孟律抄 九条禅閣植通
※河 河海抄 四辻左大臣善成
※細 細流抄 西三条右大臣公条
※花 花鳥余情 一条禅閣兼良
※哢 哢花抄 牡丹花肖柏
※和 和秘抄 一条禅閣兼良
※明 明星抄 西三条右大臣公条
※珉 珉江入楚の一説 西三条実澄の説
※師 師(簑形如庵)の説
※拾 源注拾遺