鴨長明方丈記之抄 全
鴨長明方丈記之抄
鴨里之名也。昔城北出雲路有小女浣衣鴨
河一箭流來鴨羽加筈女取歸家挾之檐牙
已而女娠産男父母問其夫女曰無父母以為匿而
不言兒三歳時父母議以為世豈有無父之兒哉
思此里人乎冝具酒膳宴里夫令兒持杯試告言
以此杯置汝父所其得杯之人乃兒父也。於是大
會郷人數爵後令兒送杯兒取杯穿稠人出
堂置簷上鴨箭所父母及諸人怪焉僉曰此矢
鴨羽宜姓此兒為賀茂氏於是兒化為雷上
天母又同時登天
長明 吾妻鑑第十九云 建暦辛未十
月十三日辛夘鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)依
雅經朝臣之擧此間下向奉謁將軍家實朝
及度々云云而今日當幕下將軍御忌参彼
法花堂念誦讀經之間懐舊之涙相催註
一首歌於堂柱
くさも木もなびきし秋の霜消て
むなしきこけをはらふ山かぜ
千載集をえらばれしとき長明此集に
一首入たるをよろこびしをもむき即
長明無名抄に見えたり。其うた隔海
路恋といへるこゝろをよめる 鴨長明
思ひあまりうちぬる宵のまぼろしも波路を分て行返けり
新古今和歌集 鴨長明
秌風のいたりいたらぬ袖はあらじたゞわれからの露の夕ぐれ
ながむれば千々に物思ふ月にまた我身ひとつのみねの松かぜ
松嶋やしほくむあまの秌の袖月は物おもふならひのみかは
此ほかなんしゆも有◯之
長明筆作無名抄四季物語道之記などいへる物
有。長明此方丈之記をかきし建暦二年今上の明
暦三年まで年数合四百四十五になる也。道之
記といへるはかまくらのさねとも公の御前へ出し時の東
路の記也。また方丈の記はかまくらよりかへりしまた
の年の作也。またある説に長明は後白河院の保元
時分より二條六條高倉安徳後鳥羽土御門順
徳の都を經たり。保元の軍平家の乱◯てのち
源氏の世となりて実朝の時に関東へ下れり。
方丈の起りは維摩詰妙喜国にをゐてつねに一
丈四方の室に入給其時維摩病にふし給ふ時に
如來文殊師利菩薩をして摩詰の病をとふこひ
つかはし給ふとかや。維摩經曰、爾時長者維摩
詰問文殊師利、言仁者遊於無量千萬億
阿僧祇国何等佛土有好上妙功德成就
師子之座。文殊師利言、居士東方度三十六
恒河沙国、有世界名須弥相、其佛號須弥燈
王、今現在。彼佛身長八萬四千由旬、其師子座
高八萬四千由旬嚴飾第一。於是長者維摩
詰現神通力、即時彼佛遣三萬二千師子之
座、高廣嚴淨、來入維摩詰室云云。下略之
記は丈の一躰程かきやうのしなちりとぞ。
明暦三丁酉歳十一月 日
明暦四戊戌正月吉日
長谷川
市良兵衛開板
明暦四年:1658年。明暦三年正月、明暦の大火が江戸で発生して3万〜10万人が焼死した。