付 六代きられの事
去程に六代御前、やう/\おひしち給ふ程に、十四五にも
成給へば、いとゞみめかたちうつくしく、あたりもてりかゞや
く斗也。母うへ是を見給ひて世の世にて有ましかばたう
時はこんゑつかさにて、有んずる物をと、宣ひけるこそあま
りの事なれ。かまくら殿、びんぎごとに、たかをのひじりの
もとへ扨もあづけ奉つし、小松の三位の中将、これ盛の
卿の子そく、六代御前はいかやうの人にて候やらん。むかし頼
朝をさうし給ひしやうに、てうのをんてきをたいらげ父
のはぢをも、きよむべき程の仁やらんと、申されければ、文覚
ばうの返事に、一かうそこもなき、ふかく仁にて候ぞ。御心
やすく、思し召れ候へと、申されけれ共、かまくら殿、なをも
心ゆかずげにて、むほんおこさば、やがてかた人すべきひじり
の御ばう也。去なからも、頼朝一ごが間は、誰かかたぶくべき。
子そんのすへはしらずと、宣ひけるこそおそろしけれ。母上
此由を聞給ひて、いかにや六代御前、はや/\出家し給へと
ぶんぢ
有しかば、生年十六と申し、文治五年の春の比、さしもう
つくしき御ぐしを、かたのまはりにはさみおろし、かきの衣
かきのはかま、おびなどようゐして、やがてしやう行にこそ
さいとう
出られけれ。斎藤五斎藤六も、同じさまに出立て御供
かうや ぜんちしき
にぞ參りける。先高野へのぼり、父の善知識し給ひける、
たづね
たき口入道に尋あひ、御出家のさま御りんじうの有程、
はしう尋ねとひ、かつうは其あともなつかしとて、くまのへ
はま
こそ參られけれ。濱の宮と申奉る、わうじの御前より、
平家物語巻第十二
付 六代切られの事
付 六代切られの事
去る程に六代御前、やうやう生ひしち給ふ程に、十四五にも成り給へば、いとど見目、姿(かたち)美しく、辺りも照り輝くばかり也。母上、是を見給ひて、
「世の世にて有りましかば、当時は、近衛(こんゑ)司にて、有りんずる物を」と、宣ひけるこそ、余りの事なれ。
鎌倉殿、便宜(びんぎ)ごとに、高雄の聖の許へ、
「さても預け奉りつし、小松の三位の中将、維盛の卿の子息、六代御前は、いかやうの人にて候やらん。昔、頼朝を相し給ひしやうに、朝の怨敵を平らげ父の恥をも、雪(きよ)むべき程の仁やらん」と、申されければ、文覚房の返事に、
「一向底も無き、不覚仁にて候ぞ。御心安く、思し召れ候へ」と、申されけれども、鎌倉殿、猶も心ゆかずげにて、
「謀反起こさば、やがて方人(かたうど)すべき聖の御房也。去なからも、頼朝一期が間は、誰か傾くべき。子孫の末は知らずと、宣ひけるこそ恐ろしけれ。
母上此由を聞給ひて、
「いかにや六代御前、早、早、出家し給へ」と有しかば、生年十六と申し、文治五年の春の比、さしも美しき御髪(ぐし)を、肩の周りに鋏下ろし、柿の衣、柿の袴、帯など用意して、やがて修行にこそ出でられけれ。
斎藤五、斎藤六も、同じ樣に出で立ちて、御供にぞ參りける。先づ高野へ上り、父の善知識し給ひける、滝口入道に尋ね会ひ、御出家の樣、御臨終の有り程、詳しう尋ね問ひ、かつうはその跡も懐かしとて、熊野へこそ參られけれ。濱の宮と申し奉る、王子の御前より、
※文治五年 1189年。この年の秋、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、奥州を制覇。
※滝口入道 斎藤時頼。平重盛の部下で、滝口武者だったが、建礼門院に仕えていた横笛に惚れ、その思いを断ち切るため、出家したと平家物語では伝えられている。維盛の出家に関与したと平家物語維盛の出家に記されている。
※濱の宮と申奉る、わうじ 那智勝浦町浜ノ宮の王子権現