尾張廼家苞 五之上
五十首歌奉しに山家月 慈円大僧正
山ざとに月はみるやと人は來ず空行風ぞ木葉をもとふ
二ノ句とはとてなり。此意
なり。空行とは、我をとふにはあらざる
意にていへり。吹とはいはでゆくといへるも其心なり。みなよ
ろし。木
葉をもとふは、木葉をとひもするといふ意なり。我をもとい
木葉をもとふるはあらず。一首の意は、かくの如き山ざとにては、物
のあはれをしる人が、月はみるやとてとひ來
べきに、それはとひもこで、そのかはりに、うはの
空なる風が、心なき木葉をとふとなり。 此歌下句に月のあへしらひ
あらまほし。例のかけ合の事なれど、かくの如きも立まじるか。
此集より上の風也。一々かけあふは、為家卿の愚案也。此まゝにては、
月は何にかへても同じことなれば也。しからばこれを何にかかへん。梅
萩菊雪などにかへてみるに
すべてゐつかず。物には相應といふが有て、みだりにはかへ難し。
月はあはれをそふる物なれば、かならず月なり。
攝政大将に侍し時月の哥五十首よませけるに
有明の月のゆくへをながめてぞ野寺のかねは聞べかりける
月のゆくへは西の方なる故に、よろ
し。世の無常を観じ此心は
なし。
極楽を思ひて暁の鐘を聞べしと也。一首の意は、有明の月をな
がめて、必その方に生れむ
と思ひて、野寺の暁の鐘
はきくべき事ぞとなり。四一二三五と次第してみべし。句の序
よろし。
同家の哥合に山月 藤原業清
山端を出ても枩の木間よりこゝろづくしの有明の月
山端を出やらざりしほおどの心づくしなりしが、出はなれて後も
枩のこのまよりもり來て、やはり心づくしはありと也。 木間より
もりくる月のかげみれば心づくし
の秋は來にけり。 云々の本歌とことなる意も
なければ、詮なき歌なり。本歌には、山端を出てもいふ事なし。
いかにいはるゝならん。四五ノ句も、本哥にはなき
おもむ
き也。出ても心づくしのあるといひかけたるか。さる
事也。
和哥所歌合に深山暁月 長明
夜もすがらひとりみ山の槙の葉にくもるもすめる有明の月
よもすがらは、槙の葉にくもるといふへかゝれり。深山の月は、夜
もすがら槙の木末にさはりてくもりたるが、暁にいたりて其
槙の梢をはなれて、月のひきくなれる故に、晴てす
めると也。此分か。人がらをおもふに、下句は月輪観の事にはあらじか。しからば一
首の意、夜もすがらみ山の月は槙の葉にくもれども、我観ずる真如實相
の心月輪は
すめると也。
※木間よりもりくる月のかげみれば心づくしの秋は來にけり
古今集 秋歌上
題しらず よみ人知らず
このまよりもりくる月の影見れは心づくしの秋はきにけり