JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

花の女子大生♪

2008年01月31日 09時50分00秒 | 受験・学校
 このアタシだって、20年前にはそうだったんだよ。夫曰く、「君の卒業アルバムの写真、あれ正にバブルへGO!!だね」 。失敬な。金ボタンのついた、真っ赤なスーツで悪かったな。(別にワンレン、ボディコンちゃうのよ~)関係ないけど、夫に君と言われる瞬間が好き。私だけ?

 橋下徹弁護士が大阪府知事選に当選だそうで。実は一昨年、卒業してウン十年ぶりに、母校の学祭へ行って参りましたの。「うわぁ~スクールバスの運転手さん変わってへん。」当時運転手さんに、あだ名をつけてましてね、三遊亭楽太郎に似ているから楽ちゃんなんて。ちょいと男前やったんですよ。それでユーモアもあるの。ある時友人が部室の鍵を開けるのに、守衛(警備員)さんを探してまして、運転手さんの詰め所にいらっしゃるという情報を得て、そこへ向かったんですな。「すみませーん。お邪魔しまぁす。」と言ったものの、言葉が出てこない。’ほら、なんちゅうたかあの・・・’守衛さんという言葉が、頭の中からキレイさっぱり消えてしまっていたんです。’門番さんじゃないし、思い出されへん・・・’運転手さんたちは不思議そうな顔で、こちらを見つめています。「えーっと、そのーあ~~~~~~看守さんいらっしゃいますか?」。ドカンと大爆笑が、ひとしきり部屋の中を揺るがした後、楽ちゃんが奥へ向かって言うには、「おーい弁当(差し入れという意でしょう)きたぞ」。これウマイ。中にはコワモテの運転手さんもおられてね、元広島カープの衣笠祥雄(キヌガササチオ)が睨んでるようなお顔なの。私らサチと呼んでまして。浅黒く、腕なんかも太くって、そのシチュエーションに、ぴったりの貫禄でした。あとパンチ。この方は藤竜也に似たシブい顔立ちで、パンチパーマやったんです。友人の「看守さん」に続く「弁当きたぞ」で、詰め所は一気に塀の中。折りしも『塀の中の懲りない面々』という映画が流行っていたりして。設定ハマり過ぎっ。さて、この話をさる友人にした所、ウケまくった後に一言「楽ちゃんに一枚やってくれぃ!」。ったく笑点かっての。

 おっと学祭やった。毎年10月末の土曜・日曜に開催されるのですが、行った日の目玉が橋下徹トークショー。現地でパンフレットをもらって知り、友人から「当日券800円だって。高いよね。」とツッコまれるも、根がミーハーなのと、これも何かの縁という思考回路の為、思い切って聞くことに。子どもたちの分も合わせて2400円の出費なり~。まぁいいよ。どうせ我が町には来ないから。

 トークショーの前にビンゴゲームがありまして。1等の商品は、任天堂DS。いいものから無くなると後半盛り上がらなくなるので、ビンゴになった人がさらにクジを引き、該当商品をもらう趣向。にもかかわらず、最初にビンゴになった人が1等を引き当ててしまい、司会のお笑い芸人に 「空気読めよ!」とツッコまれる始末。しかも在校生やっちゅーねん。「私、在校生なんで。お客様に。」なんて事が言えれば、学校の株も上がるのに。せめて1等は辞退しようよ~。’2等以下の景品に工夫がほしいな’’景品の数が合うてないよ’実行委員の手際を、厳しい目でチェックするおばちゃん、それは私。後で友人にこぼしていたら、「今だから言えるのよ!」と諭された。いや、司会の芸人さんにまで、進行を心配されていたもんやから。さて実行委員賞というのがあり、コンチェルト(神戸港クルーズ)の乗船券と、橋下徹トークショーのチケットと、翌日のプロコンサートのチケットから選択できるのです。で、ほとんどの人が「コンチェルトの乗船券」と言う。かと思えば、若い男性のお客さんが「実行委員さんじゃダメですか?」。持ち帰るなー。この辺のノリはさすが関西♪一般人とはいえ、あなどれません。たまにコンサートチケット。「橋下弁護士、人気ないですねぇ。」と、言われていたのが可笑しかった。やはり当日券も余っており、席は4分の3程度しか埋まりませんでした。学祭は賑わっていたのに、もったいなーい。友人曰く「告知不足やわ」。おかげで?アットホームな雰囲気となりました。

 さて話の内容ですが、すき好んで今のポジションについた訳ではないと、売れっ子になるまでの経緯を細かく解説。おかげで、大谷昭宏(各ワイドショーのコメンテーターとして活躍中)やデーブスペクターの導きによるという知りたくもない裏話までつまびらかに。他の弁護士の穴埋めで出演したラジオ番組を皮切りに、関西のテレビ→東京進出へと繋がっていくのですが、前述の二人には、この経緯の中で、とてもお世話になったトカ。そういう訳で、『そこまで言って委員会』でデーブと並んでいる時に「僕、デーブさんにトークの手法を教えてもらったんですよ。」と言って、たかじんさんから「教えてもらう相手が間違っとる!!」とツッコまれているのね。が、それが事実であろうと聴衆が聞きたいのは、番組司会者たかじんさんの話であり、紳助の話ではなかろうか。

 残念ながら、トークの技術はそれほどでもでした。テレビで面白く映っているのは、司会者のフリが上手いのでしょう。 『そこまで言って委員会』でコンビを組んでいた?宮崎哲弥(評論家)との掛け合い、若しくは、しっかりしたインタビューアーの質問に答える形式にした方が、よかったかな。面白かったのは、学生でありながら家庭教師派遣で上前をハネたり、使い古しの皮ジャンを再生し高く売りつける胡散臭い活動で、生活の糧を得ていたという話。皮ジャンの一件では借金を背負うハメになり、訴訟を起こした事がきっかけで法律を勉強し始めたと繋がるの。 という事は、法学部ではなかったのね?本人曰く、「これといった目的もなかったのに、流れ流れて今の自分がある。明確な目標がなくたって何とかなるものです。」 とのことでしたが、それはいい方向へ導いてくれる人と、節々で出会っているからこそ。 そういう運を持っている人なのでしょうね。みんなが橋下弁護士と同じようにはいかないよー!

 番組裏話は、『行列のできる法律相談所』の比重が重く、我が家の反応はイマイチでした。それでも仲の悪い弁護士を取り上げ、「あの二人は心の底から憎み合っている」というくだりには笑いました。24時間テレビで走った人(丸山弁護士)と、憎み合いながらも応援に来た人(北村弁護士)ね。息子は、質問コーナーで当ててもらえずがっくり。お給料を聞きたかったらしい。「7人目(子ども)のご予定は?」「どの世代の女性にモテるのがうれしいか?」他愛のない質問を思いっきりふくらませて返すので、たった二人でコーナーが終了。 わかってないなー。それでも今となっては、「やっぱり聞いといてよかったやん!」。 ゲンキンな私です。

 実は、去年も行ってきたんですよ。そうしてビックリ。2~6人くらいの若い男の子たちが校内をウロウロ。あっちゃこっちゃ結構な団体です。あのー君たちが期待しているイケてるお姉さんは、休んでるんですけど~。どうせ彼氏とデートでしょう。 現場にいる女子大生は、模擬店やらイベントやらで忙しい。そこに出会いはあるの?私たちみたいなウン十年前の女子大生、いや私たちなんかまだ若い、おばさまというかおばあさまの年代の方々がゾロゾロ。(卒業生の来校率が高いのだ)わかってないなー。 まぁ私らは、若いお兄ちゃんが目の保養になって嬉しいけどね。あ~トキメクわぁ~。いくつになっても気持ちだけは、花の女子大生やからね♪


Memory 青春の光

2007年08月29日 21時08分00秒 | 受験・学校
 母校は、坂の上にあった。毎日苦労して坂を上り詰め、通学していた。その代わり、高台にあった母校からは、海が見下ろせた。キラキラと輝く、穏やかな瀬戸内の海が。北には山、南には海。さほど広くない空間に広がる、2つの世界。今にして思えば、この上なく贅沢な空間だった。

 KOBE、私が学生時代に過ごした街。

 三宮(さんのみや)と大阪の間、所謂阪神間と呼ばれる場所には、阪急・JR・阪神と3つの鉄道が平行して走っており、その周辺にはいくつかの私立校が点在している。母校も、そんな私立校の一つだった。阪神間でも、阪急沿線の六甲(ろっこう)駅から夙川(しゅくがわ)駅辺りにかけて、一種独特の文化圏が形成されているのだが、その影響を受け、ゆったりとした空気が流れていた。

 成人してからは、神戸以外の街も多く訪れた。だが、こんなにも恵まれた環境には、出会えなかった。今も帰省の折、電車で近くを通り過ぎる度に、必ず伸びをして母校を目で追う。山の手に広がる白い校舎。 周辺の山並み。見ているだけで、心から癒される。そうして改めて、私は母校をこんなにも愛してたんだーと実感する。

 在学当時は、態度にこそ出さないが、精神的にはいささか反抗していた。自分で志望し、あんなにも努力して入った学校。だが、連綿と続く(在学中に60周年を迎えていた)歴史・伝統がのしかかり、それにまつわる先生方の指導が厳しい事もあって、窮屈な思いをしていた。中学時代は、まだよかった。憧れの学校へ入学した喜びや緊張感が持続していた所為で、そんな呪縛もそれなりに受け入れていたのである。しかし高校へ上がると、次第に息苦しさを覚え「はぁ~いちいちうるさいな。」トカ「何でこんな事やらなくちゃいけないんだよ。理不尽だわ。」トカ心の中で、軽く悪態をつき始めた。ある状態が長く続いている時、そこには一種の淀みが存在する。6年間の中高一貫教育という環境も、そうした印象を後押しした。歴史なんて、伝統なんて、くそくらえだよ。

 学内には、祖母の代から母の代から本校にゆかりがあります・・・といった生徒が、まぁまぁの割合で存在していた。同じ先生に教えていただくのも、特別な環境ではなかった。今なら、そういった事も、歴史ある学校ならではの素晴らしさ(母親以上の年齢の大先輩方と共通の話題ができる幸せ)だと思える。が、当時はそうした歴史や伝統といったものの恩恵が、よくわからなかった。ただただ、自分に窮屈な思いをさせる鬱陶しいもの、そういう位置づけでしかなかった。校内には、ウン十年前から脈々と受け継がれてきた日常的な決まりがあり、中には現代の理にかなわないと思われるものも、存在していたのである。登下校の際に、必ず校門の所で校舎に向かって礼をするというのが、その代表格であろうか。

 週に1度の全校朝礼では、OGからのお叱りの言葉が披露された。外での態度が悪いと、即学校へ電話が入るのである。’本校の生徒が道いっぱいに広がって歩いている’’電車の中での態度が悪い’云々。正直、そんなお叱りを受ける度に、「おっかないオバサンOGだこと!」などと心の中で思っていたのだが、卒業してOGの立場になると、やはり在校生の態度が気になるのだった。あの諸先輩方は、母校に余程の愛着と誇りを抱いていたのだろう。

 教育実習で母校を訪れた友人が、こんな事を言っていた。「校門での礼ね、今やってないんだよ。残念だなぁ。厳しかった先生も、何だか優しくなっちゃってねぇ。」「そっかぁ・・・」あの時に感じた一抹の寂しさは、何だったのか。別に無くなっても、かまへんやん。そう考えていた決まり。だがいざなくなると、清々したとは思えなかった。’襟を正して教育現場へ来なさい’といった礼節の一部だったのだろうなぁと、今になって考える。決して悪い事ではなかったのに。

 学校で培われた習慣で、思いがけず喜ばれた事があった。学内で、先生方や先輩といった年長者とすれ違う時には、必ず礼をする。(まるで宝塚!)6年間毎日のようにやっている間に、体へ染み付いてしまい、卒業後も自然とその習慣は続いていた。すると職場で、ある先輩からこんな言葉をかけていただいた。「僕らいつも客先で仕事してるやろ。たまに部署へ帰ってきても、みんなしれーっとして挨拶もナシや。そんな時、いつも君が’お疲れさまです’って声かけてくれたん、すごく嬉しかったで。あれ、ホンマええよ。」母校で育まれた精神に救われた。自分では特別な事をしたという意識がなかったから、褒められて逆に驚いた。でも、とっても嬉しかった。

 卒業して21年。 母校の教えは、今も私の胸に。あんまり守れてへんけど、私なりの清らかさ、正しさを求めていくね。最後の砦であるやさしさを胸の奥に残しつつ・・・

 がんばろう神戸。あの震災から12年。私こそ、いつも元気をもらっているよ。ありがとう♪母校への愛と共に・・・