X軸にプラスが喜マイナスが怒。
Y軸にプラスが楽マイナスが哀。
Z軸にプラスが好きマイナスが嫌いを
配置した空間を想像する。
思考空間には図示してないがここに人間は不安と期待とを持つ。
病気の人の場合は不安の方が期待よりも優位に立ち様々な症状を悪化させる。
期待を抱く人の場合は正の連鎖が生じやすく。不安を抱く人の場合負の連鎖を生じやすい。
また、連鎖は感情空間のプラス局面ではプラスに、マイナス局面ではマイナスに働く場合がある。正の連鎖について極度に素晴らしいことが連続して生じると不安を抱くときがある。
これが正の連鎖を足止めさせるが、この不安を乗り越えた先に何か待っているのかもしれない。
僕にはこの経験がないので記述することは出来ない。
それでもって、時空論の図をXYZの原点を中心に上下に円錐を描く
全プラスから全マイナスの方向に描く。
さらに宗教的概念で地獄から天国までの世界を描き人間の現在が原点になり上下現実にないものは削除していく
生老病死のある現在に生きねばならないので…。また餓鬼や畜生その他の世界も今にあるものだから…。
今を生きる人間にとって座標上に訳のわからない世界は存在しない。知りうることの出来ない世界はわからない。
これもまた無知の知であろう。
そしてこの原点を中心に今に曼荼羅を描き中心に自分が座り自分が自分であるとたらしめる。
曼荼羅の周囲の各人も同じように自分が中心の曼荼羅を描いている。
そして、時空論円錐状の感情とそれぞれの曼荼羅上の人とのかかわり、難しいからどのような感情に自分がなるかを考え
対処していこうと。。。。。。。。普通自然にやってます。
まず感情の絶対空間があり、曼荼羅の中心である自分は相対空間。絶対空間上を相対空間が時空論の図の円錐状に動いていく
舵取りは自分のみではない。曼荼羅がある以上、周りの仲間とも連関する。曼荼羅上の人物は固定ではない。が、影響を受ける。
自分がちゃんと自分の物語の中心にいればそれでよい。まあ病気になるとここの点で自分とは何かとか、自分の物語の中心から外れてしまったりする。理想と現実のギャップで自分を受け入れなかったりするのである。ここにおいて相対空間上に空の自分が生じ、ここから自分を攻撃するという行為が生まれてくる。自分の物語から自分が乖離するのである。
曼荼羅は会社に行けば会社で曼荼羅が生じるし、家庭におれば家庭での曼荼羅が生じる。
それぞれに役割を演じるというかそのように行為する。したがって曼荼羅が固定ではない理由になる。
曼荼羅は相対空間に過ぎなくなる。生きる人間の曼荼羅なんてそんなものである。
もし仮に絶対空間上に曼荼羅が存在するなら、原点が中心の喜怒哀楽のない好きも嫌いもない彼岸へといってしまう。
人間が楽しいのは相対空間上で場所ごとに曼荼羅を形成しそこで感情空間を生きるという点で楽しいのである。
感情のみに支配されて生きるわけではないから、また面白く、いずれにせよ感情がプラス局面にむくように考えるその論理もまた楽しいものである。新しい局面に向かうのに論理を持ってし、または論理も持たず、期待と不安を抱いて、とりあえず進んでいく。面白い。
鏡の理論
相手の行動を自分なりに解釈する過程で人間は自分を投射する。このとき、理解できるものにはシンクロし、理解できないものには拒否反応を示す。好き嫌いの基本的なところは、投射した結果、理解できるか出来ないか、類は友を呼ぶのことわざどおりになっていく。友達は投射する心の鏡であり、様々な感情がシンクロしやすい。シンクロするとどうなるか。よく恋の心理学などで書かれているようなことが起こるのだけれども、このテクニックを使ってやる恋は不自然だから覚えてやるとろくなことではないと付け加えておく。シンクロするとよく似た動作をするもので、感情の伝播も起こりやすい。これが正の段階で起これば素晴らしい連鎖を生じてお互いを高めあうことになるが、負の面に差し掛かることもある。この場合に、相手を見て負の局面から脱すればよいのだけれども、好きさあまって憎さ倍、ってなるようなこともしょうじる。論理的思考法が必ずしも感情の思考をとめることは出来ないから、ここの点で注意が必要である。負の局面を迎えたら気分転換を図る必要がある。もしくは場所を移すなり、局面をかえる話題なども必要かもしれない。人を好きで接することが仲間を増やす基本となるが、感情が移入できない、同調しない人は必ず存在するから、この点を無視してはいけない。すべての人を理解できるほど人間が素晴らしい、神のような人はいない。だからといって敵対するのも問題で、距離を置いておくのがいいのかもしれない。
Z軸の好き嫌いという局面はまさしく欲求を意味し、はじめに生死の好き嫌いがあり、マズローの理論のように考えてもいい。
Z軸の欲求である好き嫌いは自然に形成されるものもあれば作られるものもある。108の煩悩を知らないが、
昔からそれくらいあるのなら、また喜怒哀楽の空間もその数だけ存在するのかもしれない。
意欲というものはこのZ軸を示していることがわかるだろう。欲求すなわち意欲。Z軸も膨張したり収縮したりする。
喜怒哀楽の局面で障害になるのが感情型の精神障害、感情の障害がひどくなると適応障害になる。
適応障害は好き嫌いの局面で起こるけれどもそれがひどくなると統合失調になる。
感情の空間は欲求によって幾段にも重なっており生死を基本にマイナス軸からプラス軸への円錐形を2つ形成する。時空論の図のような格好になる。しかしながら、各個人間でマイナスに働く力の状態や、例えば忙しさ、責任、これらの解釈が楽観的であるか悲観的であるかでマイナス力が強いかプラス力が強いかなどに分けられる。また、成長過程での幼児期から思春期またそれ以降もそれぞれに成長に応じる各欲求を経験するが、それらのとらえ方の問題が適切ではないバグになって心の病を引き起こす要因にもなるかもしれない。成長段階における欲求、人間が基本的に持つ欲求、経済レベルにおける欲求など、様々な欲求をふる過程で感情の示すものが上手く処理できていなかったら問題が基本的に発生し、欲求に対するストレスがそこに加わるとより問題を複雑にし、変容していき、心の問題となって脳に異常な物質を作り出すと思われる。
病気になる人はたいがい感情の処理がうまい具合に働いていないのではないかと思われます。哀しいときの感情の出し方がへたとか腹が立ったときの感情の出し方がへたとか、喜びを表現するのが下手、楽しみを表現するのが下手、それにプラスしてストレスを感じたときに発散する方法が下手であるとかが重なっていき、感情の処理とストレスに対する処理とか出来なくなり、脳内に変な構造を作るのではないかと思われます。脳内の物質が異常な出方を始めるのです。どの感情の処理の仕方が下手であるか、ストレスの解放の仕方をどうするかというのが問題であろうかと思われます。また、心の病になると感情の処理をしていなかった、またはストレスを感じた時点にフラッシュバックすることがあります。つまりここでの課題を解決していないということなのかもしれません。よく似た新しい課題を提出するというのもよい方法かもしれません。心の傷はいつまでもフラッシュバックという形で夢やふとした瞬間によみがえります。その時点に新しい処理のしかたを考えて作っていくのも重要かも知れません。問題解決に精神科では論理療法を使う場合があります。感情の適切な処理がなされていない。楽観的、悲観的など見ているのでしょうか。私は医者じゃないのでわかりませんが。
また、感情空間にはマイナスからプラスに向かうバネのようなものがあるかもしれません。悲しいときに泣き明かしたら翌朝けろっとしているなんてことがある。我慢して我慢して喜びをえるということもある。またバネが機能しない人もいるかもしれない。
そこのところでもまた障害が発生する可能性が示唆される。
時系列的に見て曼荼羅(感情の空間)が場所によって違うならば、場所に移動する前段階で、感情の変異が生じることになる。その感情の変異の過程でマイナスに作用したりプラスに作用したりすることも考えられる。
時空論円錐を全マイナス方向から全プラス方向に作ったがプラスとマイナスが混在する状況が存在するかもしれない。ここにおいて頭の働きはバグを作るか、プラスマイナスどちらかの感情方向に収斂されると考えられる。
日本的な社会についても鑑みる必要があるのかもしれません。古事記、万葉集、などをへて武士論、甘えの構造など、教材は余りあるほどあります。日本固有のバグがあるのか。発症率が各国で同じレベルということは、社会は一定量の心を病んだ人を作り出しているのかという疑問も感じざるをえません。
体調、自律神経、感情の発生、論理展開、至るところに興味の種はつきません。
しかしながら、私は現在病者である以上、自分の病気を客観的に語ることは出来ないのかもしれません。
(注)
勝手に考えていることですので学術的なことではありませんよ。
僕が入院して思って書いてるだけですよ。
宗教なんか学校で習ったくらいです。
てきとうなええかげんな情報ですから、真に受けないように。