一昨日、1本のニュースが日本中を駆け巡りました。コンサドーレ札幌に所属している小野伸二選手が自らのサイトを通じて今シーズン限りでの引退を表明したというものでした。
「サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。」という、いかにも小野選手らしい言葉です。
ほぼ40年・・・。さもありなんですよね。
「長い間お疲れ様」の言葉に尽きると思います。
小野伸二選手は、日本のサッカーを愛する人たちの中で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手だったと思います。
彼が高校2年生の頃、まだ全国の舞台に登場していなかった当時「小野伸二という選手のプレーを見たことがあるか?」という会話がサッカー通のあいだで交わされたあたりから、表舞台への登場が待ち焦がれ、られていた選手でした。
ですから、当時の彼の試合の舞台であった静岡県の草薙球技場などて、彼のプレーを見たことがある人は、それだけで貴重な体験をした人として、鼻が高かったものです。
そして、彼がプロの舞台として浦和レッズを選択して、いよいよデビューというあたりになると、彼の一挙手一投足が注目を浴びましたが、それは早く彼のファンタスティックなプレーを見たいというサッカーファンの願望の表れでもありました。
そういう意味で、彼ほど、そのプレーが具体的に期待を集めた選手はいなかったように思います。プロ野球選手にしてもサッカー選手にしても、一挙手一投足が注目を浴びるほどの鳴り物入りでデビューした選手は多いのですが、ほとんどは将来性とかタレント的なスター性にスポットが当たっていました。
小野選手の場合は「すぐにでも試合を動かせるだけのプレーを見せてくれるかも知れない」「それがどんなプレーなのか、わくわくする」といった具体性を伴った期待感でした。
当「夢追い人」も、1998年3月、Jリーグ開幕直前のプレマッチ、大宮アルディージャ戦を見に行きました。いわゆるトップ下のポジションで堂々とプレーする小野選手、どこか歌手の森昌子さんのデビュー当時を思わせる可愛らしい顔立ちとのギャップが印象に残りました。
そのあとのJリーグデビュー、その年のフランスW杯デビュー、そして翌年の99年ワールドユース選手権準優勝と、まさに黄金世代のバンディエラ(旗頭)として、順風満帆でしたが、好事魔多し。
1999年7月5日、シドニー五輪アジア地区一次予選のフィリピン戦で、相手ディフェンダーからのタックルが左足を襲い、左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまいました。小野選手自身がのちに「あれですべてが変わってしまった」と語っているように、それまで何の迷いもなく出来ていたプレーができなくなってしまったそうです。
そう、何の迷いもなく出来ていた時の小野選手のプレーは天才そのものだったのですが、本人も「あれっ、出来ないな」ということが増えて、徐々に見ている人も「天才というほどのプレーではないんじゃないの?」と感じることが増えてしまったように思います。
まさに「あのケガ、なかりせば・・・」です。
よく、ケガに見舞われる選手のことを「ガラスの選手」と評しますが、当「夢追い人」は「サッカー選手はガラスの舞台で舞う人たち」と評しています。実は彼らが表現者として舞っている舞台がガラスで出来ていて、いつ割れてしまうかわからない危険な舞台だと思うからです。
冒頭で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手、と書きましたが、そこには「あのケガ、なかりせば、間違いなく日本サッカー史上最高の選手になった選手」という叶わぬ願望も込められているはずです。
それでも、その後の小野伸二選手はフェイエノールトでのUEFAカップ制覇や、2002年日韓W杯での決勝T進出などに貢献して、日本のサッカー選手として十分成功した選手です。ですから、「あのケガ、なかりせば・・・」どれだけ凄い選手になったのか、想像が無限に膨らむ選手であることも確かなのです。
小野伸二選手が、多くの人たちから称賛される理由のもう一つの要因は、その人柄にあるといっていいでしょう。常にサッカーを愉しもうとする明るいふるまい、チームを組んだら、誰からともなく「チームの中心」と評価される様子は、裏表のない人柄から来るものでしょう。
コンサドーレ札幌が、とうにピークを過ぎたはずの小野伸二選手との契約を通算9年間も更新し続けたことが、それを物語っています。
彼ら黄金世代が世界を驚かせた1999年ワールドユース選手権以降、小野伸二選手、稲本潤一選手、高原直泰選手が、代わる代わる大会やリーグの主役の座をモノにしながら競い合う様(さま)は、まさに切磋琢磨の見本のような関係性でした。フジテレビは、そうした3人を「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年追い続けました。
2006年ドイツW杯には、この3人がどれだけ凄い選手になって日本代表を牽引してくれるか楽しみで楽しみで仕方がないところがありました。現実は、なかなか思い描いたようには運びませんでしたが、その中心に「小野伸二選手」という存在があればこその楽しみでした。
2006年以降の小野伸二選手の戦歴を見ていきますと、浦和、ボーフム、清水、ウェスタン・シドニー、札幌、琉球、札幌と来て今シーズンに至るわけですが、チーム戦術やケガの影響などによりシーズンを通してコンスタントに試合に出られた年が少ないようです。
それでも、やはり小野伸二選手がピッチに立てば、その日スタジアムに足を運んだサポーターが「今日は小野伸二選手のプレーを見た」「やっぱり、うまくて凄い選手だ」と満足したことと思います。
今シーズンの最終戦は12月3日、札幌ドームでの浦和戦だそうです。いまのところDAZNとNHK札幌ローカルだけの放送予定だそうですが、おそらくNHKか埼玉TVが急遽放映するに違いありません。
小野伸二選手の雄姿を名残惜しく記憶にとどめたいと思います。
「記録より記憶に残る選手」そのものですから。
【11.9追記】
フジテレビが「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人の活躍ぶりを追っていたことを紹介しましたが、2020年3月29日、同名の放送がありました。
サブタイトルには、彼ら3人の現在地を表す意味深なタイトルがついていました。
題して「ワールドカップをめぐる冒険~小野、高原、稲本~黄金世代に居場所はあるのか」
この放送では、小野選手はコンサドーレ札幌からJ2琉球FCに移籍、チームに合流したばかりの状況だがなかなか勝利に結びつかない日々、稲本選手はSC相模原所属、練習試合にはマイカーを運転して移動する日々、高原選手は沖縄で自分が立ち上げた沖縄SVの社長兼監督兼選手、三足の草鞋をこなす日々を紹介していました。
この「ワールドカップをめぐる冒険」は、2002年、日韓W杯イヤーの1月1日、元旦企画としてスタートしてから2007年まで毎年1回、正月番組として放送されてきました。その番組が、突然、13年の時を経て復活したのです。
どうやら、それは、フジテレビが、この企画のために取材を始めたのが1999年で、2019年はそれから20年、折しも彼らが40歳の節目を迎えたことで制作されたようです。
「不惑を迎えた今、彼らはいま、登った山をどう下りるか模索している。冒険はまだ終わっていない」ナレーションを担当したおなじみジョン・カビラ氏が彼らの心境を代弁していました。
「選手は誰もが心に冒険の地図を持っている。どこを旅の終わりとするか、それは自分次第だ」ジョン・カビラ氏は、番組の終わりに近くに、こう語っていました。
制作したフジテレビは、自身のサイトで「他のメディアには話さない本音をフジテレビは聞き出し、日本サッカーの成長の歴史的証人として記録に収めてきた。」と書いています。
まさに彼らは、日本サッカーの成長の歴史の体現者だと思います。
今回の番組でサブタイトルに「黄金世代に居場所はあるのか」とありましたが、40歳を迎えてなお現役を続けていること自体が「立派な居場所を持っている」ことであり、素晴らしいクラブハウスと待遇に恵まれたJ1クラブのようなところだけが居場所ではないことを、この番組がつくづく教えてくれています。
その3人が、今年8月、9月と相次いで選手として現役引退を発表したのです。黄金世代の一人である遠藤保仁選手など、まだ現役生活を続けている選手はいますが、この秋「黄金世代は終焉を迎えた」と言えるでしょう。
当・夢追い人のサッカーを愛する熱量も、1993年のJリーグスタートから熱量をあげていき、考えてみれば彼らが世界の舞台に躍り出た1999年あたりからは、ずっと高原状のピークを保っていたように思います。
それもそのはずです。2000年シドニー五輪ベスト8、2000年アジアカップ制覇、2001年コンフェデ準優勝、2002年W杯決勝トーナメント進出、2004年アジアカップ制覇と栄光を重ねてきたのですから。
しかしながら、2006年W杯で手痛い敗退を喫して、やや熱量が降下しました。それは紛れもない事実です。
ただ、日本サッカーの成長軌道は決して降下することなく、2010年W杯決勝トーナメント進出、2011年アジアカップ制覇、同年、女子W杯制覇、2012年ロンドン五輪、女子銀メダル、男子ベスト4、2014年U-17女子世界選手権制覇、2015年女子W杯準優勝と、留まることのない成果を積み上げています。
もはや、当・夢追い人のサッカーを愛する熱量は、揺るぎないものとなっています。
さる11月4日の書き込みで、2019年12月15日に放送された、テレビ東京の番組「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」のことを書きましたが、まさに当・夢追い人は、黄金世代の中心である3人を描いた「ワールドカップをめぐる冒険」に出会って「人生が変わった。サッカーがくれた未来」といっていいかも知れません。
彼らは、これから、新たな人生を歩むことでしょう。そして折々、彼らのことはメディアが伝えてくれるはずです。3人ともサッカーに関わる人生を続けることでしょうから、これからも、この書き込みで、彼らのことを話題にしていきたいと思っています。
「サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。」という、いかにも小野選手らしい言葉です。
ほぼ40年・・・。さもありなんですよね。
「長い間お疲れ様」の言葉に尽きると思います。
小野伸二選手は、日本のサッカーを愛する人たちの中で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手だったと思います。
彼が高校2年生の頃、まだ全国の舞台に登場していなかった当時「小野伸二という選手のプレーを見たことがあるか?」という会話がサッカー通のあいだで交わされたあたりから、表舞台への登場が待ち焦がれ、られていた選手でした。
ですから、当時の彼の試合の舞台であった静岡県の草薙球技場などて、彼のプレーを見たことがある人は、それだけで貴重な体験をした人として、鼻が高かったものです。
そして、彼がプロの舞台として浦和レッズを選択して、いよいよデビューというあたりになると、彼の一挙手一投足が注目を浴びましたが、それは早く彼のファンタスティックなプレーを見たいというサッカーファンの願望の表れでもありました。
そういう意味で、彼ほど、そのプレーが具体的に期待を集めた選手はいなかったように思います。プロ野球選手にしてもサッカー選手にしても、一挙手一投足が注目を浴びるほどの鳴り物入りでデビューした選手は多いのですが、ほとんどは将来性とかタレント的なスター性にスポットが当たっていました。
小野選手の場合は「すぐにでも試合を動かせるだけのプレーを見せてくれるかも知れない」「それがどんなプレーなのか、わくわくする」といった具体性を伴った期待感でした。
当「夢追い人」も、1998年3月、Jリーグ開幕直前のプレマッチ、大宮アルディージャ戦を見に行きました。いわゆるトップ下のポジションで堂々とプレーする小野選手、どこか歌手の森昌子さんのデビュー当時を思わせる可愛らしい顔立ちとのギャップが印象に残りました。
そのあとのJリーグデビュー、その年のフランスW杯デビュー、そして翌年の99年ワールドユース選手権準優勝と、まさに黄金世代のバンディエラ(旗頭)として、順風満帆でしたが、好事魔多し。
1999年7月5日、シドニー五輪アジア地区一次予選のフィリピン戦で、相手ディフェンダーからのタックルが左足を襲い、左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまいました。小野選手自身がのちに「あれですべてが変わってしまった」と語っているように、それまで何の迷いもなく出来ていたプレーができなくなってしまったそうです。
そう、何の迷いもなく出来ていた時の小野選手のプレーは天才そのものだったのですが、本人も「あれっ、出来ないな」ということが増えて、徐々に見ている人も「天才というほどのプレーではないんじゃないの?」と感じることが増えてしまったように思います。
まさに「あのケガ、なかりせば・・・」です。
よく、ケガに見舞われる選手のことを「ガラスの選手」と評しますが、当「夢追い人」は「サッカー選手はガラスの舞台で舞う人たち」と評しています。実は彼らが表現者として舞っている舞台がガラスで出来ていて、いつ割れてしまうかわからない危険な舞台だと思うからです。
冒頭で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手、と書きましたが、そこには「あのケガ、なかりせば、間違いなく日本サッカー史上最高の選手になった選手」という叶わぬ願望も込められているはずです。
それでも、その後の小野伸二選手はフェイエノールトでのUEFAカップ制覇や、2002年日韓W杯での決勝T進出などに貢献して、日本のサッカー選手として十分成功した選手です。ですから、「あのケガ、なかりせば・・・」どれだけ凄い選手になったのか、想像が無限に膨らむ選手であることも確かなのです。
小野伸二選手が、多くの人たちから称賛される理由のもう一つの要因は、その人柄にあるといっていいでしょう。常にサッカーを愉しもうとする明るいふるまい、チームを組んだら、誰からともなく「チームの中心」と評価される様子は、裏表のない人柄から来るものでしょう。
コンサドーレ札幌が、とうにピークを過ぎたはずの小野伸二選手との契約を通算9年間も更新し続けたことが、それを物語っています。
彼ら黄金世代が世界を驚かせた1999年ワールドユース選手権以降、小野伸二選手、稲本潤一選手、高原直泰選手が、代わる代わる大会やリーグの主役の座をモノにしながら競い合う様(さま)は、まさに切磋琢磨の見本のような関係性でした。フジテレビは、そうした3人を「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年追い続けました。
2006年ドイツW杯には、この3人がどれだけ凄い選手になって日本代表を牽引してくれるか楽しみで楽しみで仕方がないところがありました。現実は、なかなか思い描いたようには運びませんでしたが、その中心に「小野伸二選手」という存在があればこその楽しみでした。
2006年以降の小野伸二選手の戦歴を見ていきますと、浦和、ボーフム、清水、ウェスタン・シドニー、札幌、琉球、札幌と来て今シーズンに至るわけですが、チーム戦術やケガの影響などによりシーズンを通してコンスタントに試合に出られた年が少ないようです。
それでも、やはり小野伸二選手がピッチに立てば、その日スタジアムに足を運んだサポーターが「今日は小野伸二選手のプレーを見た」「やっぱり、うまくて凄い選手だ」と満足したことと思います。
今シーズンの最終戦は12月3日、札幌ドームでの浦和戦だそうです。いまのところDAZNとNHK札幌ローカルだけの放送予定だそうですが、おそらくNHKか埼玉TVが急遽放映するに違いありません。
小野伸二選手の雄姿を名残惜しく記憶にとどめたいと思います。
「記録より記憶に残る選手」そのものですから。
【11.9追記】
フジテレビが「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人の活躍ぶりを追っていたことを紹介しましたが、2020年3月29日、同名の放送がありました。
サブタイトルには、彼ら3人の現在地を表す意味深なタイトルがついていました。
題して「ワールドカップをめぐる冒険~小野、高原、稲本~黄金世代に居場所はあるのか」
この放送では、小野選手はコンサドーレ札幌からJ2琉球FCに移籍、チームに合流したばかりの状況だがなかなか勝利に結びつかない日々、稲本選手はSC相模原所属、練習試合にはマイカーを運転して移動する日々、高原選手は沖縄で自分が立ち上げた沖縄SVの社長兼監督兼選手、三足の草鞋をこなす日々を紹介していました。
この「ワールドカップをめぐる冒険」は、2002年、日韓W杯イヤーの1月1日、元旦企画としてスタートしてから2007年まで毎年1回、正月番組として放送されてきました。その番組が、突然、13年の時を経て復活したのです。
どうやら、それは、フジテレビが、この企画のために取材を始めたのが1999年で、2019年はそれから20年、折しも彼らが40歳の節目を迎えたことで制作されたようです。
「不惑を迎えた今、彼らはいま、登った山をどう下りるか模索している。冒険はまだ終わっていない」ナレーションを担当したおなじみジョン・カビラ氏が彼らの心境を代弁していました。
「選手は誰もが心に冒険の地図を持っている。どこを旅の終わりとするか、それは自分次第だ」ジョン・カビラ氏は、番組の終わりに近くに、こう語っていました。
制作したフジテレビは、自身のサイトで「他のメディアには話さない本音をフジテレビは聞き出し、日本サッカーの成長の歴史的証人として記録に収めてきた。」と書いています。
まさに彼らは、日本サッカーの成長の歴史の体現者だと思います。
今回の番組でサブタイトルに「黄金世代に居場所はあるのか」とありましたが、40歳を迎えてなお現役を続けていること自体が「立派な居場所を持っている」ことであり、素晴らしいクラブハウスと待遇に恵まれたJ1クラブのようなところだけが居場所ではないことを、この番組がつくづく教えてくれています。
その3人が、今年8月、9月と相次いで選手として現役引退を発表したのです。黄金世代の一人である遠藤保仁選手など、まだ現役生活を続けている選手はいますが、この秋「黄金世代は終焉を迎えた」と言えるでしょう。
当・夢追い人のサッカーを愛する熱量も、1993年のJリーグスタートから熱量をあげていき、考えてみれば彼らが世界の舞台に躍り出た1999年あたりからは、ずっと高原状のピークを保っていたように思います。
それもそのはずです。2000年シドニー五輪ベスト8、2000年アジアカップ制覇、2001年コンフェデ準優勝、2002年W杯決勝トーナメント進出、2004年アジアカップ制覇と栄光を重ねてきたのですから。
しかしながら、2006年W杯で手痛い敗退を喫して、やや熱量が降下しました。それは紛れもない事実です。
ただ、日本サッカーの成長軌道は決して降下することなく、2010年W杯決勝トーナメント進出、2011年アジアカップ制覇、同年、女子W杯制覇、2012年ロンドン五輪、女子銀メダル、男子ベスト4、2014年U-17女子世界選手権制覇、2015年女子W杯準優勝と、留まることのない成果を積み上げています。
もはや、当・夢追い人のサッカーを愛する熱量は、揺るぎないものとなっています。
さる11月4日の書き込みで、2019年12月15日に放送された、テレビ東京の番組「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」のことを書きましたが、まさに当・夢追い人は、黄金世代の中心である3人を描いた「ワールドカップをめぐる冒険」に出会って「人生が変わった。サッカーがくれた未来」といっていいかも知れません。
彼らは、これから、新たな人生を歩むことでしょう。そして折々、彼らのことはメディアが伝えてくれるはずです。3人ともサッカーに関わる人生を続けることでしょうから、これからも、この書き込みで、彼らのことを話題にしていきたいと思っています。
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