元日本代表監督、イビチャ・オシムさんの訃報が届きました。80歳だったそうです。日本代表監督時代、脳梗塞で倒れ、惜しまれながら辞任されましたが、その後もお元気に日本サッカーへの愛情を注いでいただいた方のようです。
当方などは、就任当時の選手起用や言動などから「この先どうなるのだろう」と思っていましたので、あまりオシム監督のことを知らないのですが、90年イタリアW杯のユーゴ代表を率いてストイコビッチ選手の活躍などもあり準々決勝に導いた名将であることは知っています。
2003年からジェフ市原・千葉の監督、2006年から日本代表監督に就任して、2007年秋病魔に倒れられるまで4年半以上、日本で活動されたのですから、もっとオシム監督の実像を語れるかと思っても、あまり具体的なことが言えません。
ただ、日本のサッカー界では大変高い評価を得ていて「オシム監督が率いていたら2010年南アW杯で日本はもっと勝てたのではないか」という人も多いみたいです。
オシム監督の何が凄いのか、何が日本にとって貴重だったのか、これから、いろいろなジャーナリストがいろいろとレポートしてくれそうな気がしますので、それを待ちたいと思います。
幸い「オシム語録」という書物も当方にありますので、それも読み返しながら、ご冥福をお祈りいたします。
【ここからは5月3日に加筆しました】
・書物名を「オシム語録」としましたが、どうやら「オシムの言葉」(木村元彦氏著)のようでした。
・今朝の産経新聞には、1面コラムとスポーツ面でオシム監督の日本サッカーへの貢献について記事が掲載されていいました。1面コラムでは前回の東京五輪にユーゴ代表FWとして参加、日本代表を自らの2ゴールを含む6-1で破ったが、その時の日本滞在の印象がよかったらしく (日本のチームへの監督就任の話がきた時) 欧州の強豪チームから高額オファーで誘われたにもかかわらず、あえて日本を選んでくれたと紹介されています。
トヨタカップでの来日チームに所属していた選手にも、そういう事例があるようですが短期間の日本滞在でも日本で仕事をしてみたいと思ってくれる、そういう魅力を持っている国は幸せな国だと、あらためて感じさせるエピソードです。
・最初の書き込みで「当方などは・・(中略)あまりオシム監督のことを知らないのですが」と書きましたが、今朝の新聞に掲載されていた「オシム語録」の一端を読んで思い出したのは「この人は質問に対して、往々にして、皮肉を込めた答え方をする人だ」という印象が強かったのを思い出しました。
当方は、その受け答えが正論であることはわかっていても「何もそんな言い方をしなくても」と感じたものです。そのために、あまり親近感を抱けなかったということを思い出しました。
そういう受け答えをするタイプとして、当方は二つのタイプの方を知っています。
一つは、仕事に厳しく、表面的なフレンドリーさなど無用と考える人です。
もう一つのタイプは、称賛されたりすることを好まない方で、いわば照れ隠しのためにそういう受け答えをする方です。
オシム監督は、おそらく、その両方のタイプに該当するので、受け答えの多くが語録になってしまったのだと思います。
オシム監督の訃報を悼み、その業績を称賛する声は、ジェフ市原・千葉、日本サッカー協会はもとより、欧州で指導したオーストリアチーム、ストイコビッチ選手が代表を務めるセルビアサッカー協会からも出されていると産経新聞は伝えています。
あらためて、オシム監督の偉大さに思いをはせ、ご冥福をお祈り申し上げます。
【ここからは5月6日に加筆しました】
5月4日のNHK-BS「サッカーの園」のテーマが「監督」ということで、これまでのクラブ監督、日本代表監督の中から「この監督は素晴らしい」ということで数名の監督さんがエントリーされました。その中にオシム監督も含まれていました。
そして「考えて走るサッカー」というオシム監督が力説していたサッカーの意図するところを、その練習方法を再現してくれて解説してくれました。
数人あるいは10人近くで行なう基本的な「パス回し」練習時に、選手は3色ないし4色のビブスに分かれてパス回しを行ない、パスを受けた時、次に出せる相手は、自分のビブスの色の人に出せない、パスを出してくれた人の色を着ている人にも出せない、それ以外の色を着ている人にだけ出せるというルールになっているので、常にボールの渡る状況に応じて、もし次に自分にパスが来たら出せる色は何色のところかを考え、それが瞬時に変化していっても、考え続けておかないと、その「パス回し」練習にはついていけないという練習です。
オシム監督当時のすべての試合に出場した、ただ一人の選手である元・浦和の鈴木啓太さんが「状況に応じて常に動くことが必要になり、走る疲れより頭の疲れのほうが大変でした」「試合になるとパスを出せるユニフォームの色は相手の色以外1色なので、すごく楽に感じました」「サイドバックの選手も常に空いたスペースに走り込む意識を持つようになり、両サイドを使った攻撃が増えました」「ポジションに囚われず流動的に動くサッカー、現代では当たり前のサッカーを、オシムさんは2006年の時にすでに『これが、これからのサッカーの主流になるよ』と言ってました」
記者会見では皮肉まじりの難解な受け答えが多かったオシム監督、選手たちには難しい課題を与えながら徐々に質を高めてくれて、それをこなせた選手がオシム監督からもらう「ブラボー」の声の数が増えることを楽しみに練習に励んだ様子も見せてもらった番組でした。
その日のテーマ「監督」にあげられた一人が、広島、浦和、札幌と指導を続けている愛称ミシャ、ミハイロ・ペドロビッチ監督でしたが、この人は実はオーストリア、シュトルム・グラーツ時代にオシム監督のアシスタントコーチをしていた方ということも知りました。
2006年に広島の監督を皮切りに浦和、札幌といずれも5年以上の長期にわたって指揮をとり、すでに16シーズン。外国人監督としての歴代勝利数が1位というペドロビッチ監督がオシム監督と深いつながりをもっているというのは素晴らしいことです。
具体的にオシムスタイルと似ているかどうかの議論にはなりませんでしたが「ミシャの練習は毎回楽しいと誰もが言っている」ということとか、Jリーグで指揮をとることになった際、オシム監督から日本人の文化やメンタリティーを教わったことが、とても大きかったとインタビューに答えていました。
番組では「ミシャスタイル」と呼ばれている攻撃サッカーのシステムが図解で紹介されていました。日本での長い監督生活の中で独自のスタイルを確立していることをオシム監督も高く評価していることでしょう。
いろいろと新しいことを教えていただいたオシム監督です。あらためて、ご冥福をお祈り申し上げます。
当方などは、就任当時の選手起用や言動などから「この先どうなるのだろう」と思っていましたので、あまりオシム監督のことを知らないのですが、90年イタリアW杯のユーゴ代表を率いてストイコビッチ選手の活躍などもあり準々決勝に導いた名将であることは知っています。
2003年からジェフ市原・千葉の監督、2006年から日本代表監督に就任して、2007年秋病魔に倒れられるまで4年半以上、日本で活動されたのですから、もっとオシム監督の実像を語れるかと思っても、あまり具体的なことが言えません。
ただ、日本のサッカー界では大変高い評価を得ていて「オシム監督が率いていたら2010年南アW杯で日本はもっと勝てたのではないか」という人も多いみたいです。
オシム監督の何が凄いのか、何が日本にとって貴重だったのか、これから、いろいろなジャーナリストがいろいろとレポートしてくれそうな気がしますので、それを待ちたいと思います。
幸い「オシム語録」という書物も当方にありますので、それも読み返しながら、ご冥福をお祈りいたします。
【ここからは5月3日に加筆しました】
・書物名を「オシム語録」としましたが、どうやら「オシムの言葉」(木村元彦氏著)のようでした。
・今朝の産経新聞には、1面コラムとスポーツ面でオシム監督の日本サッカーへの貢献について記事が掲載されていいました。1面コラムでは前回の東京五輪にユーゴ代表FWとして参加、日本代表を自らの2ゴールを含む6-1で破ったが、その時の日本滞在の印象がよかったらしく (日本のチームへの監督就任の話がきた時) 欧州の強豪チームから高額オファーで誘われたにもかかわらず、あえて日本を選んでくれたと紹介されています。
トヨタカップでの来日チームに所属していた選手にも、そういう事例があるようですが短期間の日本滞在でも日本で仕事をしてみたいと思ってくれる、そういう魅力を持っている国は幸せな国だと、あらためて感じさせるエピソードです。
・最初の書き込みで「当方などは・・(中略)あまりオシム監督のことを知らないのですが」と書きましたが、今朝の新聞に掲載されていた「オシム語録」の一端を読んで思い出したのは「この人は質問に対して、往々にして、皮肉を込めた答え方をする人だ」という印象が強かったのを思い出しました。
当方は、その受け答えが正論であることはわかっていても「何もそんな言い方をしなくても」と感じたものです。そのために、あまり親近感を抱けなかったということを思い出しました。
そういう受け答えをするタイプとして、当方は二つのタイプの方を知っています。
一つは、仕事に厳しく、表面的なフレンドリーさなど無用と考える人です。
もう一つのタイプは、称賛されたりすることを好まない方で、いわば照れ隠しのためにそういう受け答えをする方です。
オシム監督は、おそらく、その両方のタイプに該当するので、受け答えの多くが語録になってしまったのだと思います。
オシム監督の訃報を悼み、その業績を称賛する声は、ジェフ市原・千葉、日本サッカー協会はもとより、欧州で指導したオーストリアチーム、ストイコビッチ選手が代表を務めるセルビアサッカー協会からも出されていると産経新聞は伝えています。
あらためて、オシム監督の偉大さに思いをはせ、ご冥福をお祈り申し上げます。
【ここからは5月6日に加筆しました】
5月4日のNHK-BS「サッカーの園」のテーマが「監督」ということで、これまでのクラブ監督、日本代表監督の中から「この監督は素晴らしい」ということで数名の監督さんがエントリーされました。その中にオシム監督も含まれていました。
そして「考えて走るサッカー」というオシム監督が力説していたサッカーの意図するところを、その練習方法を再現してくれて解説してくれました。
数人あるいは10人近くで行なう基本的な「パス回し」練習時に、選手は3色ないし4色のビブスに分かれてパス回しを行ない、パスを受けた時、次に出せる相手は、自分のビブスの色の人に出せない、パスを出してくれた人の色を着ている人にも出せない、それ以外の色を着ている人にだけ出せるというルールになっているので、常にボールの渡る状況に応じて、もし次に自分にパスが来たら出せる色は何色のところかを考え、それが瞬時に変化していっても、考え続けておかないと、その「パス回し」練習にはついていけないという練習です。
オシム監督当時のすべての試合に出場した、ただ一人の選手である元・浦和の鈴木啓太さんが「状況に応じて常に動くことが必要になり、走る疲れより頭の疲れのほうが大変でした」「試合になるとパスを出せるユニフォームの色は相手の色以外1色なので、すごく楽に感じました」「サイドバックの選手も常に空いたスペースに走り込む意識を持つようになり、両サイドを使った攻撃が増えました」「ポジションに囚われず流動的に動くサッカー、現代では当たり前のサッカーを、オシムさんは2006年の時にすでに『これが、これからのサッカーの主流になるよ』と言ってました」
記者会見では皮肉まじりの難解な受け答えが多かったオシム監督、選手たちには難しい課題を与えながら徐々に質を高めてくれて、それをこなせた選手がオシム監督からもらう「ブラボー」の声の数が増えることを楽しみに練習に励んだ様子も見せてもらった番組でした。
その日のテーマ「監督」にあげられた一人が、広島、浦和、札幌と指導を続けている愛称ミシャ、ミハイロ・ペドロビッチ監督でしたが、この人は実はオーストリア、シュトルム・グラーツ時代にオシム監督のアシスタントコーチをしていた方ということも知りました。
2006年に広島の監督を皮切りに浦和、札幌といずれも5年以上の長期にわたって指揮をとり、すでに16シーズン。外国人監督としての歴代勝利数が1位というペドロビッチ監督がオシム監督と深いつながりをもっているというのは素晴らしいことです。
具体的にオシムスタイルと似ているかどうかの議論にはなりませんでしたが「ミシャの練習は毎回楽しいと誰もが言っている」ということとか、Jリーグで指揮をとることになった際、オシム監督から日本人の文化やメンタリティーを教わったことが、とても大きかったとインタビューに答えていました。
番組では「ミシャスタイル」と呼ばれている攻撃サッカーのシステムが図解で紹介されていました。日本での長い監督生活の中で独自のスタイルを確立していることをオシム監督も高く評価していることでしょう。
いろいろと新しいことを教えていただいたオシム監督です。あらためて、ご冥福をお祈り申し上げます。
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