「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

「夕刊フジ」休刊特別インタビューに森保監督、ドーハの悲劇の頃を語る

2025年02月13日 15時13分20秒 | サッカー日本代表
一昨日、2月11日の産経新聞「スポーツ交差点・森保監督の『同心円増』(執筆・別府育郎氏)」という記事を読みました。

タブロイド版の夕刊紙として長らくビジネスマンの電車の友だった「夕刊フジ」が1月末をもって休刊になったそうで、その特別号インタビューに日本代表・森保監督をお願いして、執筆の方も同席した時の、いわば傍聴記のような内容でした。

記事のタイトルになっている「同心円増」という言葉は森保監督の造語だそうで「同心円を増やし、大きく広げていく様をイメージ」したそうです。そして「W杯で優勝したいと本気で思っています。日本のために勝ちたい。世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたいという思いです。」と付け加えたそうです。

もう一度書きますが「世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたい。」
この気持ちというのは、単なる夢でないことはもちろん、目標ですらもないと感じました。これは「決意」あるいは「強い意思」といったほうがいい思いだと感じました。

日本代表チームが次のW杯に出場する頃には、優勝を狙える戦力が整い、ベストコンディションを整え、戦術的な勝利の方程式も仕上がり優勝できるし、優勝するのだ、という強い意思を感じます。

4年に一度のW杯に、上記の3条件(戦力、コンディション、方程式)がピークに来て、しかも「運」という4つ目の要素が加わらなければ優勝できない、W杯がそういう大会であることは、サッカーを愛する人であればよく知っていることし、誰よりも一番よく知っているのは森保監督自身ではないかと思います。

それでもなお「W杯で優勝したいと本気で思っています」と言い切るのは、サッカー日本代表監督という立場が、単なる1スポーツの監督とはわけが違っていて、とてつもない重大な立場であり、もはやベスト8を突破すれば成功などという、エクスキューズするような気持ち引き受けるのは許されないと覚悟しているからだと感じました。

東京五輪2020ではベスト4に終わり、カタールW杯ではドイツ、スペインを撃破して決勝トーナメントに進んだとはいえ、その先に進めなかった、それでも監督続投を許されている自分に対して強い縛りをかけているのだと感じました。

日本のサッカーファンは、その自分を厳しく律している姿を是として監督をお願いしているとも言えます。

森保監督のことで話が長くなりましたが、今日の書き込みの本題は、この「スポーツ交差点」の記事に2つの発見があったことをお知らせすることです。

それは、いまサッカー文化フォーラムのwebサイト「ようこそ サッカーの世界へ」の中で「ヒストリーパビリオン」のパートの「伝説の年○○年」シリーズを書き続けている内容に関しての発見でした。

一つは「夕刊フジ」紙が1993年10月30日付(実際の販売日は10月29日夕刊)で、W杯アジア最終予選、日本vsイラク戦の結末を「ドーハの悲劇」という大見出しを打って報じた記事のことです。
これが当時の紙面ですので付けておきます。


この見出しが、おそらく、その後もこの試合を「ドーハの悲劇」という代名詞で呼ぶことになった記事だろうと、思ってはいたものの、それを確かめられず「おそらく」と但し書きを付けざるを得なかったのですが、今回、「スポーツ交差点」で「これ(ドーハの悲劇の見出し)が、あの試合の代名詞となり」と書いてありました。
これで、「おそらく」の但し書きをつけなくてもいいことになったのです。

もう一つは、1992年のところで「アジアカップ初制覇」のことを書いていますが、その中で「5月代表初招集の森保一選手、わずか半年で不動のメンバーに」というタイトルをつけて、森保一選手のことを紹介しました。

森保選手が当時のオフト監督に、まだ森保選手が高校を出たばかりの無名の選手だった頃に見出され、その当時の所属チーム・マツダのレギュラーに抜擢、その後、サンフレッチェ広島のプロ選手になる道を拓いてくれた恩師であり、さらに日本代表にも召集してくれた経緯があるわけですが、オフト監督が森保選手のどんなところを評価して抜擢したのか、具体的なことまではわからないでいました。

それが「スポーツ交差点」に、オフト監督が「お前は足は遅いが、考えるスピードは速い」と評価したと書いてあったのです。サッカー選手にとって「判断の速さ」があるというのは何ものにも増してアドバンテージです。その部分を読んで、これも謎が解けた感じがしました。

この話は、1992年のことですから、もはや33年前のことですが、何年たっても埋められないピースはあるもので、こうして少しでもピースが埋まっていくのは「サッカー文化フォーラム夢追い人」冥利に尽きるというものです。







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