醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   50号   聖海

2015-01-04 12:15:28 | 随筆・小説

 

 芭蕉自筆の「おくのほそ道」に句読点を打つのは解釈である

句郎 いつだったか、辻井伸行さんが弾くショパンの「幻想即興曲」を

    聞いてフジ子ヘミングさんのものと比べて、こんなにも同じ曲で

    ありながら違うのと、華女さん、言っていたことあったよね。

華女 フジ子ヘミングさんの「幻想即興曲」と比べて薄っぺらく感じたの

    かな。そんな気がしたように思ったのよ。

句郎 「薄っぺらく」感じたというのはどういうことかな。

華女 ただそう思ったというだけで、たいした意味はないと思うけれど。

    テレビに出たフジ子さんがインタビューに答えて、「私は音符に

    色を付けて弾いている」と言っていたわ。きっと音符に色のつい

    た演奏をフジ子さんはしているのじゃないかしらね。

句郎 「音符に色を付け」るとは、どんなことなの。

華女、知らないわ。句郎君はどう思うの。

句郎 そうだね。一つの音符にはきっと無限の表現がある。その無限に

    ある表現の中から演奏者は自分の解釈によって一つの表現を選

    ぶ。「音符に色を付け」るとは、その音符についての解釈のことを

    言っているのじゃないかな。

華女 そうかもしれない。だから、音符についての解釈に基づく演奏は表

    現であると同時にクリエイティブな行為でもあるのね。演奏は創造

    なんだ。

句郎 僕たちが芭蕉の言葉を理解し、解釈するということは、同時に創造

    的なことなのかもしれない。

華女 「おくのほそ道」を読むということは、ピアノ演奏者と同じような創造

    的な営みだと言うの。

句郎 それほどでもなくても、解釈するということはそのような面もあると

    は思う。

華女 そうかな。とても創造的だとは思えないけど。

句郎 「ことし元禄二とせにや」と「ことし、元禄…」の違い、「ことし」の後に

   点を打った場合と打たない場合には少し違いが出て来るように思う。

   もともと芭蕉自筆の「おくのほそ道」には一切の句読点がない。句読

   点のない文に読点を打つということは解釈だと思う。読点を打つとい

   うことは、読むときそこで半拍の間を空けて読む。そうした方が文意を

   表現できるのではないかという主張だよ。

華女 朗読するということはピアノ演奏と同じような表現になるのね。

句郎 きっと、そうだと思うよ。徳川夢声がラジオで「宮本武蔵」を朗読して

    いるのを昔、聞いたことがある。聴いているうちに引き込まれてしま

    った。

華女 もしかしたら、芸術の域に徳川夢声の朗読は達していたのかもしれ

    ないわね。そんな話も聞いたように覚えているわ。

句郎 「ことし」と「元禄」の間に半拍の間を空けると「ことし」という言葉を強

    調することにもなる。朗読の聴衆者に「ことし」という言葉を印象付け

    る。そのような働きが読点にはあると思う。

華女 聴衆に「ことし」を強調すると「にや」という言葉が生きてくるというよう

    にも思えるわ。

句郎 確かにそうだと思う。「にや」の「や」に詠嘆する気持ちが出てくるよう

    に感じる。とうとう、元禄二年になっているのだなぁー、わしと曾良は奥

    羽への長旅に出ているのだ。ふっと思い立って出てきてしまったように

    感じているが、長旅の途中に今がある。この今が不思議に感じられて

    しかたがない、とね。