猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに 芭蕉
芭蕉にとって旅をすることは俳諧の真実を極める修行であった。旅をすることは芭蕉にとって命を懸けることである。俳諧修行に命を懸けさせた人生観の土台に仏教思想がある。仏教思想に支えられていたからこそ、厳しい旅の生活に喜びを見いだせたのだ。芭蕉の仏教思想を表現した句が「猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに」だと私は考えている。この句は、芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」にある。
「冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣(なく)有(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず。露計(つゆばかり)の命待まと、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとほるに、
猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる欤(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
この文章に芭蕉の仏教観が反映している。仏教は世界を苦の世界とみる。生きることが苦、老いることが苦、病を持つことが苦、死ぬることが苦である。これを四苦八苦の四苦である。この苦を受け入れることなしに人間は生きることができない。生きるとは苦を受け入れることである。「三つばかりなる捨子」にさえ、「汝の性(さが)のつたなきをなけ」と、芭蕉は自分を、苦を受け入れろと言っている。
苦をうけいれるなんて嫌だ。この嫌なことをどうしたら苦を受け入れることができるのか。芭蕉は苦を受け入れて生きた。芭蕉は苦を否定的にではなく肯定的に受け入れて生きた。ここに仏教に帰依して生きた芭蕉の人生があった。
大乗仏教のたくさんある経典の中で仏教の教えの本質を述べた経典の一つが般若心経である。この中の有名な言葉が「色即是空、空即是色」である。色とはこの世の目に見えるも、空とは無いということである。この言葉の意味することは見えるもの、この苦の世界は空だというのだ。無いと言っている。飢えて泣く捨子の苦は無い。この「無い」ということはこの世の真実ではない。真実の世界が飢えて泣く捨子がいるような世界であるはずがない。今、目の前にいる捨子の存在は真実の世界の存在ではない。このようなことを言っている。
この真実の世界にワープすることは現実にはできない。この真実の世界にワープする方法の一つが座禅することであり、念仏を唱えることである。大乗仏教では座禅することも念仏を唱えることも同じ修行である。
人間の心の世界には意識下にある世界と無意識の世界がある。この無意識の世界を経験することを西田幾多郎は純粋経験といった。この純粋経験がこの世を「色即是空、空即是色」と認識する。このような認識を得たときに現実の苦の世界を肯定的に受け入れることができると仏教は教えている。念仏を唱え、座禅を組み、純粋経験によって真実の世界を認識する。
真実の世界は「色即是空、空即是色」である。これは西田幾多郎が言うように「絶対矛盾の自己同一」なのだ。「色」は「空」、」空」は「色」なのだ、と言っているのだから。
「色即是空、空即是色」を実感することは座禅を組み、念仏を唱え、現実世界からワープすることでもある。ワープした世界が西方極楽浄土、阿弥陀様のいる真実の世界なのだ。
猿の鳴き声を聴き、その声に哀れを聴く歌人のみなさん、余命いくばくもない三歳ぐらいにになる捨て子に秋風が吹きつけている。この捨て子をいかが思いますか、と芭蕉は問うています。現実の芭蕉は袂からいくばくかの食い物を投げ与え、すたすたとその場を立ち去っていく。この苦しみを芭蕉は受け入れ、句を詠んだ。芭蕉にとって句を読むことは念仏を唱えることでもあった。