風流の初(はじめ)やおくの田植うた 芭蕉
芭蕉は芦野で「田一枚植えて立去る柳かな」を詠んだ後、白河の関を越え、須賀川に至る。
須賀川の相楽伊左衛門亭に招かれた芭蕉は等窮と挨拶を交わした。等窮は芭蕉に話しかけた。
「白河の関越えの折にどんな句を詠まれましたか」
芭蕉は腰を折り、目を輝かした。
「長旅のせいでしようか。足や腰の痛みに体も心も疲れ果ててしまいました。あー、ここが白河かと思うと風景に心が奪われ、古人が詠んだ歌が思い出されて句を詠むことができませんでした。でも無下にも白川の関を越えることもできませんでしたので一句ひねりました。『風流の初やおくの田植えうた』。陸奥の田植え歌を聞き、風流を知りました。世俗を離れ、自然の中に生きる歓びを知ることが風流だと考えていた私は思い違いをしていました。陸奥の自然の中で生きることに風流はあるのだと気付いたようなことです」
芭蕉に耳を傾けていた等窮はニコニコして芭蕉を見返した。
「それはそれはありがとうございます。何もない田舎でありますが、自然の中で心ゆくまでゆっくりくつろいで下さい」
等窮は「風流の初やおくの田植えうた」を発句に脇をつけた。
「『覆盆子(いちご)を折て我まうけ草』、あぜ道の端にはちょうど今、野イチゴが実りはじめました。野のイチゴを摘む楽しみもまた風流のうちじゃないでしようか」
等窮は端然としていた。曾良は真剣な面持ちでいた。どう俳諧を展開しようか考えていた。等窮の話が終わるのを待ち、さらさらと懐紙に書いた。
「『水せきて昼寝の石やなをすらん』、野イチゴを摘み、傍らで昼寝をしていたら水嵩が増してきた。驚いてまくらにしていた石の位置を直しました」
曾良の句を読んだ芭蕉は微笑みを浮かべた。
「籮(びく)に鮇(かじか)の声生かす也」
川でとったカジカを籠に入れる陸奥の風景を芭蕉は思い浮かべていた。
都での生活があって初めて風流が分かる。室町時代、世阿弥によって普及した美意識、風流を芭蕉は継承している。芭蕉は都・江戸での生活体験があったればこそ、陸奥に赴き、風流を体得したのであろう。芭蕉にとって侘びや寂びが世阿弥から継承した風流であった。